評価点:78点/2016年/アメリカ/137分
監督:ケネス・ロナーガン
簡単には泣けない。だってそれが現実だから。
ボストンに住むマンション管理人のリー(ケイシー・アフレック)は、仕事中突然電話で故郷のマンチェスターに呼び出される。
持病をかかえていた兄ジョーが倒れて、容態が厳しいということだった。
一時間以上かけて向かった病院では、すでに死んだことを聞かされ、遺言を弁護士に伝えていたことを聞かされる。
ジョーの息子、ティーンのパトリックとともに弁護士のもとに向かったリーは、そこでパトリックの後見人になるようにという遺言の中身を初めて知らされる。
昨年日本で公開されて、話題になっていたのだが、見ることができなかった一本。
アマゾンに出ていたので、風邪をおしてみた。
予備知識なしで見たので、状況がつかみにくかった部分はあるが、良い映画だった。
あまり映画に慣れていない人は、とりあえず上のストーリーくらいは頭に入れてみたほうがいいだろう。
私はプライムで見たのに、エンドロールが終わるまでしばらく動けなかった。
ああ、映画館で見るべき映画だったと痛感した。
集中できる環境を作ることをお勧めする。
▼以下はネタバレあり▼
「あのときさんざん責めて申し訳ないと思っているの」
「あなたはもう十分傷ついたわ」
「ごめんなさい、わたしはあの時ひどく混乱していて……愛してる」
ランディ、違うんだ。
違うんだよ。
俺がこんなふうにこの街を後にしたのは、君のせいではないんだ。
今夜もビールを飲んだ。
ビールを飲むとあの夜のことを思い出さずにはいられない。
だからひどくいらいらしてしまう。
特に理由もなく喧嘩をふっかけていることは、自分でもわかっている。
けれども、止めることはできない。
だれも恨んではいない。
恨むべきなのは自分自身であることはよくわかっているから。
もしあのとき、俺がビールなんて買いに行かなければ、あるいは戻っていれば。
もし薪をくべなければ。
もし暖炉にスクリーンをつけていれば。
いや、あのとき仲間内の、意味のない飲み会なんて開かなければ。
すべてを失って初めてそのあり得たはずの温かみの、その重さに耐え切れない。
俺が幸せになる必要なんてない。
俺は一人で構わない。
俺はあの時から一歩も動けないし、動くべきではない。
それは俺の罪だから。
リーはずっと悩まされている。
それは、自分が起こしてしまった、家の火事によって三人の子どもを失ってしまったその過去に。
その彼にひとつのメッセージが残される。
死んだ兄から、パトリックの面倒をみてほしい、と。
それはリーにこの忌々しいマンチェスターに戻って生きろ、ということを意味していた。
それは、リーにとってあの記憶を乗り越えろ、という意味だった。
はじめそれは単なる嫌がらせのように感じていた。
だが、そうではないことに気づいていく。
いや、そうではないメッセージを、リーは受け取っていく。
パトリックにとっての父親、リーにとっての息子を引き合わせることで、家族を、リーの再生を目指そうとしたのだ。
奇天烈で自由な行動をふるまうパトリックは、リーにとって目障りな存在でありながら、次第にそれが「当たり前のティーン」であることに気づいていく。
ジョーは、リーに息子を託すことによって、弟の再生も考えていたのだ。
だが、リーにとってはそれは重すぎた。
それは「乗り越えられない」ことだった。
それでもこの映画には救いがある。
乗り越えられないとわかっていても、そのうえで、「お前がボストンに来た時に泊まれるように、もしかしたらボストン大学に通うかもしれないし」という想像をリーはしている。
それは、父親が普通に子どもと離れて暮らすときに感じる、寂寥感と期待感だろう。
彼らはすでに親子になっていた。
兄の考え通りではなかったにしても、親子のようにつながっていて、同じように疎ましく思い、同じように温かく思う。
この映画が秀逸なのは、おそらくストーリーではない。
その描き方にある。
ストーリーだけなら、もっとわかりやすく、そしてもっと「泣ける」ように描くことはできたかもしれない。
だが、リーがおかれている状況は、簡単には泣けないものだ。
泣いてカタルシスを得ることを許さない、厳しい現実がある。
その現実を突きつけるのも思い出だし、そしてその現実から温かい記憶を与えてくれるのも思い出だ。
冒頭釣りをする兄弟と甥っ子で始まり、叔父と甥っ子で釣りをして終わる。
それは、あり得たかもしれない未来、消すことができない重い過去を乗り越える以外の受け止め方を、示唆しているのだろう。
監督:ケネス・ロナーガン
簡単には泣けない。だってそれが現実だから。
ボストンに住むマンション管理人のリー(ケイシー・アフレック)は、仕事中突然電話で故郷のマンチェスターに呼び出される。
持病をかかえていた兄ジョーが倒れて、容態が厳しいということだった。
一時間以上かけて向かった病院では、すでに死んだことを聞かされ、遺言を弁護士に伝えていたことを聞かされる。
ジョーの息子、ティーンのパトリックとともに弁護士のもとに向かったリーは、そこでパトリックの後見人になるようにという遺言の中身を初めて知らされる。
昨年日本で公開されて、話題になっていたのだが、見ることができなかった一本。
アマゾンに出ていたので、風邪をおしてみた。
予備知識なしで見たので、状況がつかみにくかった部分はあるが、良い映画だった。
あまり映画に慣れていない人は、とりあえず上のストーリーくらいは頭に入れてみたほうがいいだろう。
私はプライムで見たのに、エンドロールが終わるまでしばらく動けなかった。
ああ、映画館で見るべき映画だったと痛感した。
集中できる環境を作ることをお勧めする。
▼以下はネタバレあり▼
「あのときさんざん責めて申し訳ないと思っているの」
「あなたはもう十分傷ついたわ」
「ごめんなさい、わたしはあの時ひどく混乱していて……愛してる」
ランディ、違うんだ。
違うんだよ。
俺がこんなふうにこの街を後にしたのは、君のせいではないんだ。
今夜もビールを飲んだ。
ビールを飲むとあの夜のことを思い出さずにはいられない。
だからひどくいらいらしてしまう。
特に理由もなく喧嘩をふっかけていることは、自分でもわかっている。
けれども、止めることはできない。
だれも恨んではいない。
恨むべきなのは自分自身であることはよくわかっているから。
もしあのとき、俺がビールなんて買いに行かなければ、あるいは戻っていれば。
もし薪をくべなければ。
もし暖炉にスクリーンをつけていれば。
いや、あのとき仲間内の、意味のない飲み会なんて開かなければ。
すべてを失って初めてそのあり得たはずの温かみの、その重さに耐え切れない。
俺が幸せになる必要なんてない。
俺は一人で構わない。
俺はあの時から一歩も動けないし、動くべきではない。
それは俺の罪だから。
リーはずっと悩まされている。
それは、自分が起こしてしまった、家の火事によって三人の子どもを失ってしまったその過去に。
その彼にひとつのメッセージが残される。
死んだ兄から、パトリックの面倒をみてほしい、と。
それはリーにこの忌々しいマンチェスターに戻って生きろ、ということを意味していた。
それは、リーにとってあの記憶を乗り越えろ、という意味だった。
はじめそれは単なる嫌がらせのように感じていた。
だが、そうではないことに気づいていく。
いや、そうではないメッセージを、リーは受け取っていく。
パトリックにとっての父親、リーにとっての息子を引き合わせることで、家族を、リーの再生を目指そうとしたのだ。
奇天烈で自由な行動をふるまうパトリックは、リーにとって目障りな存在でありながら、次第にそれが「当たり前のティーン」であることに気づいていく。
ジョーは、リーに息子を託すことによって、弟の再生も考えていたのだ。
だが、リーにとってはそれは重すぎた。
それは「乗り越えられない」ことだった。
それでもこの映画には救いがある。
乗り越えられないとわかっていても、そのうえで、「お前がボストンに来た時に泊まれるように、もしかしたらボストン大学に通うかもしれないし」という想像をリーはしている。
それは、父親が普通に子どもと離れて暮らすときに感じる、寂寥感と期待感だろう。
彼らはすでに親子になっていた。
兄の考え通りではなかったにしても、親子のようにつながっていて、同じように疎ましく思い、同じように温かく思う。
この映画が秀逸なのは、おそらくストーリーではない。
その描き方にある。
ストーリーだけなら、もっとわかりやすく、そしてもっと「泣ける」ように描くことはできたかもしれない。
だが、リーがおかれている状況は、簡単には泣けないものだ。
泣いてカタルシスを得ることを許さない、厳しい現実がある。
その現実を突きつけるのも思い出だし、そしてその現実から温かい記憶を与えてくれるのも思い出だ。
冒頭釣りをする兄弟と甥っ子で始まり、叔父と甥っ子で釣りをして終わる。
それは、あり得たかもしれない未来、消すことができない重い過去を乗り越える以外の受け止め方を、示唆しているのだろう。
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