ドラゴンボールがハリウッド映画化される。
続々とキャストも発表になっている。
僕にとってドラゴンボールは、物語の原風景ともいってもいいほどなじみ深い。
最初に買ったコミックスも、ドラゴンボール第三巻だった。
それからあっという間に漫画にはまり、漫画家を目指そうとしたこともあった。
(いや~、つたなくて見せられないっすよ)
僕にとってあまりにも身近にあった「物語」であり、それだから、問い直すということを考えたこともなかった。
だが、改めて考えてみると、ドラゴンボールがここまで売れた(支持された)
理由は、きっとあったはずだと確信する。
そして、考えていくと、オーソドックスな物語パターンに支配されていることに気づくのだ。
今から書くことは、僕が考えたことなのだけれど、きっともう誰かが指摘していることだろうから、大声では言わない。
でも、もし聞いたことがない指摘だったとしたら、してやったりというところだ。
ドラゴンボールは長い作品なので、すべてをぺろっと言い切ることは難しい。
そこで僕は前期ドラゴンボールと後期ドラゴンボールとに分けたい。
「前期」は悟空が死ぬところまで。
つまりセル編が終わるところまで。後期はブウ編を指す。
前後期というにはいびつだが、物語を考える上では大きな変換がここにあるので、ここで区切らざるを得ない。
前期はさらにいくつかにわけることができる。それについては後に述べよう。
前後期での一番のポイントは、後期になって急に物語がつまらなくなるということだ。
これは個人差があるからなんとも言い難いが、僕の評価はブウ編は、「蛇足」という扱いだ。
『落窪物語』でいうなら第四巻にあたる扱いだ。
これには、物語としての軸の変更がきわめて大きい意味を持っている。
前期の物語は、一言でいうならば、「父殺し」の物語である。
いわゆるエディプス・コンプレックスを底に敷く物語だ。
父殺しの物語はこのサイトでも再三書いたので、長い説明は省く。
要するに、子どもから大人へと成長する際に、子どもは父親を乗り越える儀式を要する。
父親を乗り越えることで子どもは「世帯」から脱出し、自分の人生を生きることになるのだ。
エディプス・コンプレックスは母を求めるという部分も忘れてはならないが、ドラゴンボールに関してはそれは無視していいだろう。
つまり、悟空の成長を描いた作品のように見えるドラゴンボールは、悟空の父殺しの物語であると考えられるのだ。
厳密に言うと、前期の終盤で、悟空から御飯へとその父殺しの物語はバトンを渡されることになる。
いずれにしても、前期のドラゴンボールには明確に「父殺し」というテーマが一貫して流れている。
細かく指摘していこう。
まず、重要なことは悟空が登場した時の設定だ。
悟空はブルマと遭遇したとき、すでに祖父である悟飯を亡くしている。
形見である四星球を持っているだけであって、出生の秘密も明らかにされない。
つまり、悟空がずっと旅に出なければ、祖父の死の真相もわからないし、出生の秘密も隠されたままということになる。
形見である四星球がどのような意味を持つのかも、知ることがない。
悟空は、田舎者というよりは、もはや人間としての社会性も歴史性もない、「動物」にすぎないのだ。
ブルマと出会うことで、人として生きるための旅をすることになる。
そのために、重要だったのが、父親である悟飯を乗り越えることである。
つまり、悟飯を殺した相手を倒すこと、そして、形見として象徴化されたドラゴンボールに別の意味を見いだすことである。
悟飯が殺されてしまったために、父殺しができない。
父殺しをするためには、その真相を知り、その相手を殺すことしかない。
そのために旅に出るのである。
また、形見として遺されたボールは、悟飯の象徴である。
ただ持っているだけでは形見として存在し、乗り越えることはできない。
祖父でも気づかなかったボールの新たな意味を知り、活用することで、祖父にできなかったことを成し遂げ、父殺しを成立させるのだ。
ドラゴンボールはドラゴンボールを探して願いを叶えるためにはない。
少なくとも悟空には、父殺しをして一個の自分として生きるための道しるべだったのだ。
そして第一次神龍は、その両者を満たす形で決着する。
すなわち、出生の秘密である祖父の死の真相が、実は自分だったことを知り(本人は知らなかったが、ほかの者が知ればそれは物語上知ったと同じことだ)、ボールには願いを叶える力があることを知るのだ。
これによって、いったん父殺しは成立したように見える。
だが、本当に悟空にとっての父殺し = 祖父殺しの完成は、占いババが登場する場面まで待たなければならない。
占いババが登場する場面で、なぜかいきなり悟飯が幽霊として登場する。
かなり唐突な印象を誰もが持つはずだ。
物語上、悟飯の登場は欠かせないものだった。
悟飯がここで登場し、悟空を「許す」ことによって、それまで求めていた父殺しの犯人捜しから、解放されたのだ。
結局その自分自身への血への克服はベジータ編まで待たなければならない。
だが、ここで祖父と和解しなければ、悟空はずっと父殺しの犯人を求め続けなければならなかったはずだ。
一度和解することによって、父殺しの物語を終わらせることができたのだ。
いや、正確には父殺しの物語の終焉ではない。
父殺しの対象が祖父ではなく、師へとスライドさせることに成功するのだ。
悟空はこの第二次神龍への旅以降、きんとうんを捨てる。
これも物語的な記号としては重要な意味を持つだろう。
これによって、自分の意志で、自分のために、強くなることを目指すのだ。
ドラゴンボールが格闘系漫画の走りになるのは、この時点からだ。
これ以降、ドラゴンボールは「ボール探しの旅」ではなく、「悟空が強くなるための旅」となるのだ。
しかし、鳥山明がすごいのは、物語の目的を変えたとしても、父殺しの物語は維持され続けることだ。
二回目の天下一武道会以降で展開される物語は、師を乗り越える物語となる。
亀仙人、カリン様、神様、界王様と、悟空は様々な師の教えを乞うが、彼らと出会うたびに、その師を乗り越えていく。
悟飯と和解した悟空は「師」を父と見立てることによって、父殺しの物語を続けるのだ。
ライバルに勝つごとに強くなっていく印象があるが、それは表層的な敵であって、実際には父殺しの物語が維持されつづける。
少なくともフリーザ編までは基本的には維持され続けるのである。
その師殺しの物語が貫かれる一方で、ラディッツが登場することで、新たな展開を見せる。
ラディッツが「兄」であることがわかると、今度は父殺し、師殺しの構造を維持しながら、壮大な「兄弟げんか」の構造が持ち込まれる。
この兄弟げんかは、もちろん血縁から自由になるためのけんかである。
すなわち、自分が惑星ベジータの「トップ」であることを決めるための戦いである。
だが、これもフリーザと戦う権利を得るけんかに過ぎない。
悟空にとってフリーザと戦う意味は、ベジータと戦うよりも遙かに大きい。
なぜなら、テレビアニメで補完的に示される「惑星ベジータの消滅」の物語で、バーダックという悟空の実の父親がフリーザに挑み、殺されるという話があるからだ。
つまり、フリーザは悟空にとっても、カカロットにとっても父親殺しの最終目的となっているのだ。
悟空はこのフリーザをスパーサイヤ人となって、名実ともにサイヤ人最強の長(おさ)となるのだ。
これで悟空の父親殺しの物語は終幕する。
おそらく「週刊少年ジャンプ」側が要請しなければ、「ドラゴンボール」はここで終わってしまうはずだったのだろう。
だが、物語は続けられることになる。
ここでおもしろさを失わなかった理由は、父親殺しというテーマが、悟飯という息子に継承されるからに他ならない。
悟飯は父親を超えるために、修行する。
奇妙な言い方だが、父親を乗り越えることで、息子の悟飯は息子として一人前になり、それが完遂することによってようやく悟空は父親として「死ねる」のだ。
そして、父親になり父親として乗り越えられることで、バーダックや悟飯というこれまで自分を育ててくれた父親をを本当の意味で殺すことができるのだ。
だから、物語の主題は変化することなく継承され、そしてそこそこおもしろいという作品になりえたのだ。
だが、セル編では、かなりの無理を感じる。
たとえば、セルじたいの設定が、これまでの強敵などを吸収することによって強くなると言う、ヘーゲル的な発想のもとにある。
つまり、新しいものではなく、これまでの物語(敵)を集大成させた物語(敵)であるということだ。
レッドリボン軍という誰もが忘れただろう子供の頃の敵を再び登場させたのも、そのためだ。
本当の意味で、ドラゴンボールという物語はここで完成されて、終わってしまうのだ。
そのための準備が整ったと言ってもいい。
「バイバイ」というコミックスの表紙は、鳥山明の開放感に満ちた表情に見えるのは、僕だけだろうか。
残念ながら、物語は続いてしまう。
ブウ編は、これまでの前期ドラゴンボールとは一線を画している。
ブウ編は、社会的な物語へと変化しているのだ。
その端的なのは、「フュージョン」という新必殺技だ。
この技は、両者の力をまったく同じにすることで、合体し、合体することで力を何倍にも増す、という技だ。
これはこの後期ドラゴンボールのテーマを象徴している。
つまり、他者とつながりあうことが、このブウ編、後期ドラゴンボールのテーマなのである。
世界チャンピオンのミスターサタンとブウとの友情や、悟空がよみがえったときに地球全員の気を集めて元気玉を作ることも、やはり社会的な認知、社会的なつながりがテーマなのだ。
だが、ドラゴンボールはこれまで個人的な「父殺し」がテーマだった。
そのテーマががらりと変わり、いきなりつながりをもってきても、物語がおもしろくなるはずがない。
悟空は父親となり間接的に悟飯に殺されることで、完全に乗り越えてしまったのだ。
「週刊少年ジャンプ」が発行部数を稼ぎ続けるためなのか、本人の意向なのか、後味の悪い作品になったことは確かだ。
続々とキャストも発表になっている。
僕にとってドラゴンボールは、物語の原風景ともいってもいいほどなじみ深い。
最初に買ったコミックスも、ドラゴンボール第三巻だった。
それからあっという間に漫画にはまり、漫画家を目指そうとしたこともあった。
(いや~、つたなくて見せられないっすよ)
僕にとってあまりにも身近にあった「物語」であり、それだから、問い直すということを考えたこともなかった。
だが、改めて考えてみると、ドラゴンボールがここまで売れた(支持された)
理由は、きっとあったはずだと確信する。
そして、考えていくと、オーソドックスな物語パターンに支配されていることに気づくのだ。
今から書くことは、僕が考えたことなのだけれど、きっともう誰かが指摘していることだろうから、大声では言わない。
でも、もし聞いたことがない指摘だったとしたら、してやったりというところだ。
ドラゴンボールは長い作品なので、すべてをぺろっと言い切ることは難しい。
そこで僕は前期ドラゴンボールと後期ドラゴンボールとに分けたい。
「前期」は悟空が死ぬところまで。
つまりセル編が終わるところまで。後期はブウ編を指す。
前後期というにはいびつだが、物語を考える上では大きな変換がここにあるので、ここで区切らざるを得ない。
前期はさらにいくつかにわけることができる。それについては後に述べよう。
前後期での一番のポイントは、後期になって急に物語がつまらなくなるということだ。
これは個人差があるからなんとも言い難いが、僕の評価はブウ編は、「蛇足」という扱いだ。
『落窪物語』でいうなら第四巻にあたる扱いだ。
これには、物語としての軸の変更がきわめて大きい意味を持っている。
前期の物語は、一言でいうならば、「父殺し」の物語である。
いわゆるエディプス・コンプレックスを底に敷く物語だ。
父殺しの物語はこのサイトでも再三書いたので、長い説明は省く。
要するに、子どもから大人へと成長する際に、子どもは父親を乗り越える儀式を要する。
父親を乗り越えることで子どもは「世帯」から脱出し、自分の人生を生きることになるのだ。
エディプス・コンプレックスは母を求めるという部分も忘れてはならないが、ドラゴンボールに関してはそれは無視していいだろう。
つまり、悟空の成長を描いた作品のように見えるドラゴンボールは、悟空の父殺しの物語であると考えられるのだ。
厳密に言うと、前期の終盤で、悟空から御飯へとその父殺しの物語はバトンを渡されることになる。
いずれにしても、前期のドラゴンボールには明確に「父殺し」というテーマが一貫して流れている。
細かく指摘していこう。
まず、重要なことは悟空が登場した時の設定だ。
悟空はブルマと遭遇したとき、すでに祖父である悟飯を亡くしている。
形見である四星球を持っているだけであって、出生の秘密も明らかにされない。
つまり、悟空がずっと旅に出なければ、祖父の死の真相もわからないし、出生の秘密も隠されたままということになる。
形見である四星球がどのような意味を持つのかも、知ることがない。
悟空は、田舎者というよりは、もはや人間としての社会性も歴史性もない、「動物」にすぎないのだ。
ブルマと出会うことで、人として生きるための旅をすることになる。
そのために、重要だったのが、父親である悟飯を乗り越えることである。
つまり、悟飯を殺した相手を倒すこと、そして、形見として象徴化されたドラゴンボールに別の意味を見いだすことである。
悟飯が殺されてしまったために、父殺しができない。
父殺しをするためには、その真相を知り、その相手を殺すことしかない。
そのために旅に出るのである。
また、形見として遺されたボールは、悟飯の象徴である。
ただ持っているだけでは形見として存在し、乗り越えることはできない。
祖父でも気づかなかったボールの新たな意味を知り、活用することで、祖父にできなかったことを成し遂げ、父殺しを成立させるのだ。
ドラゴンボールはドラゴンボールを探して願いを叶えるためにはない。
少なくとも悟空には、父殺しをして一個の自分として生きるための道しるべだったのだ。
そして第一次神龍は、その両者を満たす形で決着する。
すなわち、出生の秘密である祖父の死の真相が、実は自分だったことを知り(本人は知らなかったが、ほかの者が知ればそれは物語上知ったと同じことだ)、ボールには願いを叶える力があることを知るのだ。
これによって、いったん父殺しは成立したように見える。
だが、本当に悟空にとっての父殺し = 祖父殺しの完成は、占いババが登場する場面まで待たなければならない。
占いババが登場する場面で、なぜかいきなり悟飯が幽霊として登場する。
かなり唐突な印象を誰もが持つはずだ。
物語上、悟飯の登場は欠かせないものだった。
悟飯がここで登場し、悟空を「許す」ことによって、それまで求めていた父殺しの犯人捜しから、解放されたのだ。
結局その自分自身への血への克服はベジータ編まで待たなければならない。
だが、ここで祖父と和解しなければ、悟空はずっと父殺しの犯人を求め続けなければならなかったはずだ。
一度和解することによって、父殺しの物語を終わらせることができたのだ。
いや、正確には父殺しの物語の終焉ではない。
父殺しの対象が祖父ではなく、師へとスライドさせることに成功するのだ。
悟空はこの第二次神龍への旅以降、きんとうんを捨てる。
これも物語的な記号としては重要な意味を持つだろう。
これによって、自分の意志で、自分のために、強くなることを目指すのだ。
ドラゴンボールが格闘系漫画の走りになるのは、この時点からだ。
これ以降、ドラゴンボールは「ボール探しの旅」ではなく、「悟空が強くなるための旅」となるのだ。
しかし、鳥山明がすごいのは、物語の目的を変えたとしても、父殺しの物語は維持され続けることだ。
二回目の天下一武道会以降で展開される物語は、師を乗り越える物語となる。
亀仙人、カリン様、神様、界王様と、悟空は様々な師の教えを乞うが、彼らと出会うたびに、その師を乗り越えていく。
悟飯と和解した悟空は「師」を父と見立てることによって、父殺しの物語を続けるのだ。
ライバルに勝つごとに強くなっていく印象があるが、それは表層的な敵であって、実際には父殺しの物語が維持されつづける。
少なくともフリーザ編までは基本的には維持され続けるのである。
その師殺しの物語が貫かれる一方で、ラディッツが登場することで、新たな展開を見せる。
ラディッツが「兄」であることがわかると、今度は父殺し、師殺しの構造を維持しながら、壮大な「兄弟げんか」の構造が持ち込まれる。
この兄弟げんかは、もちろん血縁から自由になるためのけんかである。
すなわち、自分が惑星ベジータの「トップ」であることを決めるための戦いである。
だが、これもフリーザと戦う権利を得るけんかに過ぎない。
悟空にとってフリーザと戦う意味は、ベジータと戦うよりも遙かに大きい。
なぜなら、テレビアニメで補完的に示される「惑星ベジータの消滅」の物語で、バーダックという悟空の実の父親がフリーザに挑み、殺されるという話があるからだ。
つまり、フリーザは悟空にとっても、カカロットにとっても父親殺しの最終目的となっているのだ。
悟空はこのフリーザをスパーサイヤ人となって、名実ともにサイヤ人最強の長(おさ)となるのだ。
これで悟空の父親殺しの物語は終幕する。
おそらく「週刊少年ジャンプ」側が要請しなければ、「ドラゴンボール」はここで終わってしまうはずだったのだろう。
だが、物語は続けられることになる。
ここでおもしろさを失わなかった理由は、父親殺しというテーマが、悟飯という息子に継承されるからに他ならない。
悟飯は父親を超えるために、修行する。
奇妙な言い方だが、父親を乗り越えることで、息子の悟飯は息子として一人前になり、それが完遂することによってようやく悟空は父親として「死ねる」のだ。
そして、父親になり父親として乗り越えられることで、バーダックや悟飯というこれまで自分を育ててくれた父親をを本当の意味で殺すことができるのだ。
だから、物語の主題は変化することなく継承され、そしてそこそこおもしろいという作品になりえたのだ。
だが、セル編では、かなりの無理を感じる。
たとえば、セルじたいの設定が、これまでの強敵などを吸収することによって強くなると言う、ヘーゲル的な発想のもとにある。
つまり、新しいものではなく、これまでの物語(敵)を集大成させた物語(敵)であるということだ。
レッドリボン軍という誰もが忘れただろう子供の頃の敵を再び登場させたのも、そのためだ。
本当の意味で、ドラゴンボールという物語はここで完成されて、終わってしまうのだ。
そのための準備が整ったと言ってもいい。
「バイバイ」というコミックスの表紙は、鳥山明の開放感に満ちた表情に見えるのは、僕だけだろうか。
残念ながら、物語は続いてしまう。
ブウ編は、これまでの前期ドラゴンボールとは一線を画している。
ブウ編は、社会的な物語へと変化しているのだ。
その端的なのは、「フュージョン」という新必殺技だ。
この技は、両者の力をまったく同じにすることで、合体し、合体することで力を何倍にも増す、という技だ。
これはこの後期ドラゴンボールのテーマを象徴している。
つまり、他者とつながりあうことが、このブウ編、後期ドラゴンボールのテーマなのである。
世界チャンピオンのミスターサタンとブウとの友情や、悟空がよみがえったときに地球全員の気を集めて元気玉を作ることも、やはり社会的な認知、社会的なつながりがテーマなのだ。
だが、ドラゴンボールはこれまで個人的な「父殺し」がテーマだった。
そのテーマががらりと変わり、いきなりつながりをもってきても、物語がおもしろくなるはずがない。
悟空は父親となり間接的に悟飯に殺されることで、完全に乗り越えてしまったのだ。
「週刊少年ジャンプ」が発行部数を稼ぎ続けるためなのか、本人の意向なのか、後味の悪い作品になったことは確かだ。
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