「ドラゴンボール」のなかで、ベジータはフリーザを倒すために、ドラゴンボールで不老不死を手に入れられたとしたら、フリーザを倒すことができただろうか。
この問いは、不老不死をモティーフや目的にした作中人物が登場する、どんな漫画、小説、映画にも当てはまる問いであるが、ここでは、おそらく認知度が高いであろうドラゴンボールを例にとって考えたい。
ベジータは、戦闘民族サイヤ人の王であり、かなりの強さを持っていた。
しかし、宇宙一の強さを誇るのは、フリーザであった。
結果的には、トランクスが後始末をつける形で、一連の戦いに終止符が打たれるのであるが、それまでのベジータ―フリーザの争いは、どんな願いでもかなえられる「ドラゴンボール」で、永遠の命と若さを手に入れることが、お互いの目的であったと総括することができる。
その当時のベジータの理論で言えば、次のようになるだろう。
戦闘民族である自分は、死のふちをさまよったあと、復活すると、さらなるパワーアップをはかることができる。
しかし、強力なフリーザの前では、殺されてしまう危険性が高い。
それならば、「ドラゴンボール」によって不老不死を手に入れ、何度かフリーザや他の強敵と戦うことで、行く行くはフリーザに勝てるはずだ。
と、平たく言えば、こういったものであるといえる。
しかし、僕はこの理論は成立しない(しえなかった)と思うのである。
そんなことどうでもいいじゃん、とは言わないでくれ。むなしくなるから。
成立しない理由は、至ってシンプルである。
「進化の過程から切り離されてしまった物(生物)は、それ以上進化することを要求されないため、“強く”はならない」からである。
宗教によっては、生物は進化しない、という考えを持つ人もいるので、その場合は軽く聞き流してほしいのだけれど、生物は「死」があるから子孫を残す。
そしてその死をできるだけ回避できるように、子孫に強さを求めてきたのである。
もっとわかりやすく言えば、弱い(死ぬ)から、強くなろうとするのである。
死なないのなら、子孫を残す必要はない。
そして死なないという保障があるなら、強弱は殆んど意味を失う。
ミジンコのような生物でも、「生」には変わりないのだから。
おそらく、この考えに立てば、ベジータは単細胞化、つまり退化していくことになるだろう。
生物は楽をしたがる。
宇宙空間で、重力をなくした人間は、地球に帰ってきたとき、立てないほど骨や筋肉が落ちるという。
実際、運動していない(=運動が必要ない)人は、どんどん運動できない体になっていく。
死なないベジータは、もはやフリーザに勝つ、という目的さえ不必要になるのである。
フリーザは老化などによってやがて死が訪れる。
しかし、不老不死を得たベジータは、フリーザが死んだ後も生き続ける。
戦いによる、生死の決着は、何の意味もない。
むしろ、やがて老化して死を考えるようになると、フリーザは、そのベジータの死なない姿に、崇め始めるかもしれない。
この「ベジータが永遠の命を手に入れられたとしたら、フリーザを倒せたか」という問いの答えは、「NO」ではない。
「YES」か「NO」で言えば「NO」だが、厳密には、「戦わない」のである。
決着をつけるという行為自体が、ほとんど意味をなさないからである。
それはフリーザが不老不死になったとしても同じことである。
永遠に支配できるか、といったら、そんなことはない。
死を恐れなくなった、死の恐れのない者に、支配などという表層的な望みは、無意味なのである(他を掌握しなくてもその生存は保障される)。
このあたりで、このコラムの本当の主題をわかっていただけただろうか。
そのとおり。
それは人間にも当てはまることなのである。
即ち、「真の完璧さを手に入れた者は、それ以降は退化していくしかない」ということである。
もっと言ってしまおう。
人は危うさを持つから、向上できるのである。
んん~~、なんといいお話だろうか。
作者・鳥山明はフリーザ、ベジータともに不老不死は与えなかった。
それどころか、主人公の孫悟空を終盤、殺してしまった。
彼は知っていたのだ。
進化は、死から始まったということを。(決して話が進まないからではない!)
(2004/2/4執筆)
この問いは、不老不死をモティーフや目的にした作中人物が登場する、どんな漫画、小説、映画にも当てはまる問いであるが、ここでは、おそらく認知度が高いであろうドラゴンボールを例にとって考えたい。
ベジータは、戦闘民族サイヤ人の王であり、かなりの強さを持っていた。
しかし、宇宙一の強さを誇るのは、フリーザであった。
結果的には、トランクスが後始末をつける形で、一連の戦いに終止符が打たれるのであるが、それまでのベジータ―フリーザの争いは、どんな願いでもかなえられる「ドラゴンボール」で、永遠の命と若さを手に入れることが、お互いの目的であったと総括することができる。
その当時のベジータの理論で言えば、次のようになるだろう。
戦闘民族である自分は、死のふちをさまよったあと、復活すると、さらなるパワーアップをはかることができる。
しかし、強力なフリーザの前では、殺されてしまう危険性が高い。
それならば、「ドラゴンボール」によって不老不死を手に入れ、何度かフリーザや他の強敵と戦うことで、行く行くはフリーザに勝てるはずだ。
と、平たく言えば、こういったものであるといえる。
しかし、僕はこの理論は成立しない(しえなかった)と思うのである。
そんなことどうでもいいじゃん、とは言わないでくれ。むなしくなるから。
成立しない理由は、至ってシンプルである。
「進化の過程から切り離されてしまった物(生物)は、それ以上進化することを要求されないため、“強く”はならない」からである。
宗教によっては、生物は進化しない、という考えを持つ人もいるので、その場合は軽く聞き流してほしいのだけれど、生物は「死」があるから子孫を残す。
そしてその死をできるだけ回避できるように、子孫に強さを求めてきたのである。
もっとわかりやすく言えば、弱い(死ぬ)から、強くなろうとするのである。
死なないのなら、子孫を残す必要はない。
そして死なないという保障があるなら、強弱は殆んど意味を失う。
ミジンコのような生物でも、「生」には変わりないのだから。
おそらく、この考えに立てば、ベジータは単細胞化、つまり退化していくことになるだろう。
生物は楽をしたがる。
宇宙空間で、重力をなくした人間は、地球に帰ってきたとき、立てないほど骨や筋肉が落ちるという。
実際、運動していない(=運動が必要ない)人は、どんどん運動できない体になっていく。
死なないベジータは、もはやフリーザに勝つ、という目的さえ不必要になるのである。
フリーザは老化などによってやがて死が訪れる。
しかし、不老不死を得たベジータは、フリーザが死んだ後も生き続ける。
戦いによる、生死の決着は、何の意味もない。
むしろ、やがて老化して死を考えるようになると、フリーザは、そのベジータの死なない姿に、崇め始めるかもしれない。
この「ベジータが永遠の命を手に入れられたとしたら、フリーザを倒せたか」という問いの答えは、「NO」ではない。
「YES」か「NO」で言えば「NO」だが、厳密には、「戦わない」のである。
決着をつけるという行為自体が、ほとんど意味をなさないからである。
それはフリーザが不老不死になったとしても同じことである。
永遠に支配できるか、といったら、そんなことはない。
死を恐れなくなった、死の恐れのない者に、支配などという表層的な望みは、無意味なのである(他を掌握しなくてもその生存は保障される)。
このあたりで、このコラムの本当の主題をわかっていただけただろうか。
そのとおり。
それは人間にも当てはまることなのである。
即ち、「真の完璧さを手に入れた者は、それ以降は退化していくしかない」ということである。
もっと言ってしまおう。
人は危うさを持つから、向上できるのである。
んん~~、なんといいお話だろうか。
作者・鳥山明はフリーザ、ベジータともに不老不死は与えなかった。
それどころか、主人公の孫悟空を終盤、殺してしまった。
彼は知っていたのだ。
進化は、死から始まったということを。(決して話が進まないからではない!)
(2004/2/4執筆)
なるほど…教育話としては良く出来ている。
しかしそう言う話は大抵穴がある。
完璧な物が本当に存在した場合、退化はしないのでは無いかと言う事だ。
退化するって言うのは進化と同じ意味を持つ。
不完全だから出来ることなのではないでしょうか?
また進化は死から始まったのは同意だが、それは自然死ではなく、捕食からです。
エディアカラの生物群の絶滅を見る限り…
ドラゴンボールの話を見ていれば分かると思いますが、
例えボールの力で不老不死を手にしても、同じボールの力で、
フリーザやべジータの不死を取り消せると思います。
何を言いたいのかと言うと、不老不死を手にしても、
べジータとフリーザは決着をつけるという行為自体に意味があると言う事です!
時には直接対決があるでしょう!
それにべジータの性格からして不老不死を手にしても
フリーザと戦うと思います。
不老不死を手にしたガーリックJrは戦ってたし…
書き込みありがとうございます。
変身が遅くなり、申し訳ありません。
確かに退化も進化ですね。
通りすがりさんのコメントを読んでいて、不老不死というのは、生命として完全になると言うことなのか、という新たな疑問がわいてきました。
むしろ、少なくともドラゴンボールの中では、ベジータやフリーザが目指した目標のようなものであって、実際にその後どうするとか、本当に不老不死になって宇宙最強になったからといってどうしたいといった実益は全くなかったのではないかとさえ思えます。
ピッコロが地球の征服を企んだときに、地球上のすべての都市を毎年滅ぼしていく、という演説をしていました。
ですが、すべての都市を破壊し尽くした後、どうしたいのか、いまいちわかりません。
これは岡田斗司夫が本に書いていたことなのですが、成功した場合たった一人ピッコロだけが残ってどうしたかったのか、よくわからないと。
同じように、物語上のアヤであって、不老不死になったからと言って、もっと言えば、生命体として最も大きな不安要素である「死」を乗り越えた後、どうしたかったのか、鳥山明にも不明だったのかもしれません。
僕のイメージでは、不老不死を手に入れると、JOJOのカーズのようになってしまうのだと想像していました。
けれども、今回の指摘でそれも違うような気がしてきました。
う~ん。
ベジータは自信満々でフリーザに挑むと思いますよ
ベジータが『俺は不老不死だ……戦う必要なんかない……』とか言っている姿は想像できません
ナッパにも『永遠に戦いを楽しめるぜ』と語っています
7月が異常な忙しさで、倒れるかと思いました。
それでも仕事が一段落つかないという状態です。
8月になったので少しは落ち着くだろうと思いますが、映画ライフに戻るにはまだ時間がかかりそうです。
一週間後くらいに一本書ければいいなぁと思っています。
気長にお待ちください。
>unknownさん
返信遅くなって申し訳ありません。
書き込みありがとうございます。
このコラムは「性格」にっいては全く考慮していません。
おっしゃる通り、性格を考えれば戦いを挑むことになるでしょうが、生物の生存競争において性格はあまり関係がないと考えて、上の記事を書きました。
その主旨をご理解いただければと思います。
やはりちょっと忙しくなっています。
待機中の批評もあるのですが、書けていません。
しばらくかかるかもしれません…。
しばしお待ちを。
>Unknownさん
書き込みありがとうございます。
確認ですが、先日書き込みいただいた方でしょうか。
それとも、新しく書き込んでいただいた方でしょうか。
もう一つ、私の記事についてのご意見なのか、それとも漫画のドラゴンボールという作品についてのご意見なのでしょうか。
どちらにしても、ということなのですが、私は漫画という表現手段そのものが宗教じみていると思っています。
知情意の中でも、特に情を動かそうとするという点において、また、知情意を巧みに利用しながら読者に共感を得ようという展開が多いという側面において、非常に宗教と酷似しているのではないかと思うのです。
それは読みやすいからということもあるのでしょう。
しかし、それ以上に人間の情動に訴えかける表現手段であると思います。
日本人だけではなく、多くの国々でも評価されているのは、文化や言語、知的な土台の差異があっても通用しているからに他なりません。
その意味でも、人間の情に訴えかける部分が大きいのだと思います。
そうであるならば、やはり私が考えるドラゴンボールという作品も多少なりとも宗教じみた書き方、結論に至るのではないかと思います。
ご指摘いただいた通り、私の批評はかなり恣意的であるとは思っています。
また恣意的でなければ批評という形にはできないと考えています。
より客観的に作品を語るにはどうすればよいのか日々思考を重ねていきたいと思っています。
今後もよろしくお願いします。