評価点:78点/1995年/日本
監督:近藤喜文
天沢聖司「結婚しよう」の謎。
中学三年生の雫(声:本名陽子)は、進路よりも多くの本を読むことに夢中だった。
本を読む傍ら、雫は卒業式に向けての「カントリーロード」を和訳していた。
しかし、遊びで作った「コンクリートロード」の歌詞を同級生の男の子に、見られてしまい、いやみを言われる。
また、自分の借りた本を、天沢聖司(声:高橋一生)という人物が先に借りていることに気づく。
ある日、雫は、図書館に向かう途中、電車に乗る猫を見つける。
その猫を追っていると、猫がたどり着いたのは、幻想的な時計屋さんだった。
この「耳をすませば」も、とても有名なジブリ作品だろう。
監督としては関わっていないが、この作品も、主要な部分に宮崎駿が携わっている。
そのためか、良くも悪くも宮崎色が濃い作品となっている。
▼以下はネタバレあり▼
有名な作品なので、作品の細かい展開について触れる必要はないだろう。
この作品で、最も象徴的なシーンは、ラストにある。
ここで多くの人が違和感に襲われるからである。
それは当然、「結婚しよう」という聖司君の台詞である。
この違和感たっぷりの台詞は、非常に象徴的で、
この作品を考えるうえで面白い部分になっている。
よって「耳をすませば」という作品を、この最後の台詞から〈切る〉ことにする。
この最後の台詞を考える前に、先に「カントリーロード」の歌詞を考えたい。
なぜなら、「耳をすませば」は、「結婚しよう」という台詞と、「カントリーロード」の歌詞は同じ象徴性をもっているからである。
「カントリーロード」のサビの部分は次のようになっている。
「カントリーロード この道 ずっとゆけばあの街に つづいてる 気がする カントリーロード」
(註:歌詞引用は、CD「STUDIO GHIBLI SONGS」の歌詞カードより。以下同じ)
さらに、最後のサビは、
「この道 故郷へつづいても 僕は 行かないさ 行けない」
「明日は いつもの僕さ 帰りたい 帰れない さよなら」
となっている。
ここに違和感を覚えないだろうか。
僕は、映画をはじめて観たときから、違和感を覚えたのを覚えている。
ここに歌われている想いは、故郷を遠く離れた人間の故郷を振り返る想いである。
(ここで注意が必要なのは、あくまで訳詞を問題にしている。
英語の「カントリーロード」については、殆んど問題にならない。
訳を原作と対照させていないが、原作との差異は関係がない。
意味的に原作と全く同じであったとしても、そういう意味をもつ歌を選んだということが、ここでは問題なのだ。)
つまり、この歌で歌われている想いというのは、既に故郷を出てしまっている者の想いである。
彼(彼女)は、夢に向かって走り始めているのである。
しかし、この訳を考える雫は、まだ夢を追っているわけではない。
この「耳をすませば」は、夢を探し出し、それに向かって今まさにスタートを切ろう、という物語である。
ここに決定的な時間的な視点のずれがある。
人生を100m走にたとえてみよう。
雫は、100m走のスタート・ラインをようやく見つけたところである。
この物語は、スタート・ラインを見つける物語と言ってもいい。
しかし、歌詞に込められている想いは、走り始めて20mや、30mの時点での想いなのである。
雫は、現時点の想いを歌っているわけではないのだ。
彼女はやがて卒業するだろう。
しかし、卒業前のいま、彼女は卒業して、友達と別れる淋しさを抱いていない。
卒業した後、故郷を振り返り孤独を感じる、その想いを卒業前に想っている。
もっと言うならば、彼女にとって卒業とは、〈巣立ち〉ではない。
巣立った後、後を振り返り「孤独を想うこと」なのである。
ここに、この雫という人物がもつ世界観を垣間見ることができる。
人は前に進むため自分の夢に飛び込むとき、言いようのない不安を感じるものである。
自分には本当に可能性があるのか、本当にそれがやりたいのか、成功するだろうか、失敗したらどうしようか…。
雫にはそんな不安はない。
可能性や夢の成功・失敗よりも、夢の向こうに行ったときの、望郷の想いを歌っているのである。
彼女の想いは、自身の〈現在〉を超越してしまっている。
卒業を前にした彼女は、「既に孤独」なのである。
故郷を失くす前から、故郷を喪失しているのである。
僕は、ここに「耳をすませば」の世界観を見つける。
そしてそれは、非常に〈現代的〉である。
彼女は、〈現在〉を生きずに、〈未来〉を生きている。
これから先、雫はどうなるかわからない。
もしかしたら、雫は漫画家を目指すようになるかもしれない。
高校に行って理系に目覚めるかもしれない。
勉強じたいが嫌になるかもしれない。
しかし、雫は、未来を既に悟っている。
彼女にとって、未来は訪れる前から既定的なものとしてある。
それがいい事か悪い事か、評価しがたい。
しかし、少なくとも、雫にはふつうに感じるはずの不安はない。
だから聖司君は「結婚しよう」と言うのである。
彼らには、付き合うか付き合わないか、という〈現在〉に視点はない。
既に付き合っているものとして〈未来〉に視点が置かれているのである。
そこには、これから先、違ういい相手が見つかるかもしれない、嫌いになってしまうかもしれないという〈現在〉の可能性は想定されない。
二人は、結婚という先走った〈未来〉にしか視点を置いていないのである。
よって、このラストの台詞は、「帰ってきたら付き合おう」では駄目だ。
「帰ってきたら結婚しよう」以外は考えられない。
「結婚」という言葉が唐突な印象を与えるのはそのためだったのだ。
こうした二人の世界観が、二人だけのものだけではないことを、毎回高い視聴率をたたき出すことが証明している。
この映画に少なからず魅力を感じる現代人特有の考え方なのだ。
それは、この映画の美しい画も手伝っている。
余りにも甘美で、余りにも美しい世界(画)に表われているように、これでもかという具合に、まっすぐな〈夢〉への想いである。
それは、多くの者にとって、理想とも言えるほど、迷いのないまっすぐさなのである。
〈現在〉の将来への不安が取り除かれ、〈未来〉に向かってまっすぐと突き進む。
それは、〈現在〉の将来への不安を抱え続ける現代人にとって、まさに理想であり、美しい世界である。
この映画を観て、「こんな恋がしたい」と思った人は、恋それ自体への憧憬ではなく、確かなもの(=恋)への渇望である。
〈未来〉を確信している雫たちの世界観は、とても眩しい。
それが、〈現実〉逃避かどうかは別にして…。
(2004/10/21執筆)
監督:近藤喜文
天沢聖司「結婚しよう」の謎。
中学三年生の雫(声:本名陽子)は、進路よりも多くの本を読むことに夢中だった。
本を読む傍ら、雫は卒業式に向けての「カントリーロード」を和訳していた。
しかし、遊びで作った「コンクリートロード」の歌詞を同級生の男の子に、見られてしまい、いやみを言われる。
また、自分の借りた本を、天沢聖司(声:高橋一生)という人物が先に借りていることに気づく。
ある日、雫は、図書館に向かう途中、電車に乗る猫を見つける。
その猫を追っていると、猫がたどり着いたのは、幻想的な時計屋さんだった。
この「耳をすませば」も、とても有名なジブリ作品だろう。
監督としては関わっていないが、この作品も、主要な部分に宮崎駿が携わっている。
そのためか、良くも悪くも宮崎色が濃い作品となっている。
▼以下はネタバレあり▼
有名な作品なので、作品の細かい展開について触れる必要はないだろう。
この作品で、最も象徴的なシーンは、ラストにある。
ここで多くの人が違和感に襲われるからである。
それは当然、「結婚しよう」という聖司君の台詞である。
この違和感たっぷりの台詞は、非常に象徴的で、
この作品を考えるうえで面白い部分になっている。
よって「耳をすませば」という作品を、この最後の台詞から〈切る〉ことにする。
この最後の台詞を考える前に、先に「カントリーロード」の歌詞を考えたい。
なぜなら、「耳をすませば」は、「結婚しよう」という台詞と、「カントリーロード」の歌詞は同じ象徴性をもっているからである。
「カントリーロード」のサビの部分は次のようになっている。
「カントリーロード この道 ずっとゆけばあの街に つづいてる 気がする カントリーロード」
(註:歌詞引用は、CD「STUDIO GHIBLI SONGS」の歌詞カードより。以下同じ)
さらに、最後のサビは、
「この道 故郷へつづいても 僕は 行かないさ 行けない」
「明日は いつもの僕さ 帰りたい 帰れない さよなら」
となっている。
ここに違和感を覚えないだろうか。
僕は、映画をはじめて観たときから、違和感を覚えたのを覚えている。
ここに歌われている想いは、故郷を遠く離れた人間の故郷を振り返る想いである。
(ここで注意が必要なのは、あくまで訳詞を問題にしている。
英語の「カントリーロード」については、殆んど問題にならない。
訳を原作と対照させていないが、原作との差異は関係がない。
意味的に原作と全く同じであったとしても、そういう意味をもつ歌を選んだということが、ここでは問題なのだ。)
つまり、この歌で歌われている想いというのは、既に故郷を出てしまっている者の想いである。
彼(彼女)は、夢に向かって走り始めているのである。
しかし、この訳を考える雫は、まだ夢を追っているわけではない。
この「耳をすませば」は、夢を探し出し、それに向かって今まさにスタートを切ろう、という物語である。
ここに決定的な時間的な視点のずれがある。
人生を100m走にたとえてみよう。
雫は、100m走のスタート・ラインをようやく見つけたところである。
この物語は、スタート・ラインを見つける物語と言ってもいい。
しかし、歌詞に込められている想いは、走り始めて20mや、30mの時点での想いなのである。
雫は、現時点の想いを歌っているわけではないのだ。
彼女はやがて卒業するだろう。
しかし、卒業前のいま、彼女は卒業して、友達と別れる淋しさを抱いていない。
卒業した後、故郷を振り返り孤独を感じる、その想いを卒業前に想っている。
もっと言うならば、彼女にとって卒業とは、〈巣立ち〉ではない。
巣立った後、後を振り返り「孤独を想うこと」なのである。
ここに、この雫という人物がもつ世界観を垣間見ることができる。
人は前に進むため自分の夢に飛び込むとき、言いようのない不安を感じるものである。
自分には本当に可能性があるのか、本当にそれがやりたいのか、成功するだろうか、失敗したらどうしようか…。
雫にはそんな不安はない。
可能性や夢の成功・失敗よりも、夢の向こうに行ったときの、望郷の想いを歌っているのである。
彼女の想いは、自身の〈現在〉を超越してしまっている。
卒業を前にした彼女は、「既に孤独」なのである。
故郷を失くす前から、故郷を喪失しているのである。
僕は、ここに「耳をすませば」の世界観を見つける。
そしてそれは、非常に〈現代的〉である。
彼女は、〈現在〉を生きずに、〈未来〉を生きている。
これから先、雫はどうなるかわからない。
もしかしたら、雫は漫画家を目指すようになるかもしれない。
高校に行って理系に目覚めるかもしれない。
勉強じたいが嫌になるかもしれない。
しかし、雫は、未来を既に悟っている。
彼女にとって、未来は訪れる前から既定的なものとしてある。
それがいい事か悪い事か、評価しがたい。
しかし、少なくとも、雫にはふつうに感じるはずの不安はない。
だから聖司君は「結婚しよう」と言うのである。
彼らには、付き合うか付き合わないか、という〈現在〉に視点はない。
既に付き合っているものとして〈未来〉に視点が置かれているのである。
そこには、これから先、違ういい相手が見つかるかもしれない、嫌いになってしまうかもしれないという〈現在〉の可能性は想定されない。
二人は、結婚という先走った〈未来〉にしか視点を置いていないのである。
よって、このラストの台詞は、「帰ってきたら付き合おう」では駄目だ。
「帰ってきたら結婚しよう」以外は考えられない。
「結婚」という言葉が唐突な印象を与えるのはそのためだったのだ。
こうした二人の世界観が、二人だけのものだけではないことを、毎回高い視聴率をたたき出すことが証明している。
この映画に少なからず魅力を感じる現代人特有の考え方なのだ。
それは、この映画の美しい画も手伝っている。
余りにも甘美で、余りにも美しい世界(画)に表われているように、これでもかという具合に、まっすぐな〈夢〉への想いである。
それは、多くの者にとって、理想とも言えるほど、迷いのないまっすぐさなのである。
〈現在〉の将来への不安が取り除かれ、〈未来〉に向かってまっすぐと突き進む。
それは、〈現在〉の将来への不安を抱え続ける現代人にとって、まさに理想であり、美しい世界である。
この映画を観て、「こんな恋がしたい」と思った人は、恋それ自体への憧憬ではなく、確かなもの(=恋)への渇望である。
〈未来〉を確信している雫たちの世界観は、とても眩しい。
それが、〈現実〉逃避かどうかは別にして…。
(2004/10/21執筆)
ただ、時計屋さんとか言ってしまう時点でもう、おや?ちゃんと観たのかこの人と思ってしまう。
批評の前にしっかり観てほしい。
そして批評部分について
>「帰ってきたら付き合おう」では駄目だ。
「帰ってきたら結婚しよう」以外は考えられない。
ここはとてもわかりやすくてそしてその通りだと思う。
だが歌詞についての部分はまったく納得できない。
この映画はカントリーロードにはじまりカントリーロードに終わる。
この映画の根底にはこの映画のために用意された日本語のカントリーロードが流れている。
つまり映画を理解するということはこの歌詞を理解するということにつながる。
歌詞の意味を考える部分にきてこれ。
>人は前に進むため自分の夢に飛び込むとき、言いようのない不安を感じるものである。
自分には本当に可能性があるのか、本当にそれがやりたいのか、成功するだろうか、失敗したらどうしようか…。
雫にはそんな不安はない。
可能性や夢の成功・失敗よりも、夢の向こうに行ったときの、望郷の想いを歌っているのである。
思わず鼻で笑っちゃったね。
歌詞どころか映画のセリフすらまともに記憶してないんじゃないか?
もっとしっかり映画を見たうえで批評していただきたい。
映画を理解すればこの歌詞の二元性も理解できるはず。
卒業?巣立ち?いったい歌詞のどこに?勝手に学園物にありがちな単語を並べて理解した気になる程度の批評家気取りは見ていてあまり愉快ではない。
もう一度でも二度でも見直してあなたなりの点数を付け直して頂きたい。
もう4年も前の記事だ。
きっとこのときとは違って見えるに違いないよ。
>通りすがりさん
書き込みありがとうございます。
批判していただくのはありがたいと思っています。
私は批評家ではなく、批評をしている人(=一素人)です。
批評家気取りではありません。
詳しくは、「管理人からのお知らせ」のこのブログの設立意図をご覧ください。
すべての台詞を記憶しているほど観ていないというのは事実です。
どの点が、どのように「誤読」しているのか、具体的にご指摘いただきたいと思います。
そうでなければ、議論になりません。
私が間違えている可能性は十分にあります。
このブログは、反論を求めない場ではありません。
反論は大いに結構です。
ですから、是非、持論をここに書き込んでいただきたいと思います。