評価点:42点/1998年/アメリカ
監督:ハロルド・ベッカー
結局何を描こうとするのか不明確な、残念さが残る。
FBI捜査官のアート(ブルース・ウィリス)は、張り込み捜査官へ左遷される。
ある日、自閉症をかかえる少年サイモンの両親が無理心中するという事件が起こる。
不審に思ったアートは、これが無理心中ではなく何者かに殺されたのだと考える。
子供を連れて逃げるアートは、誘拐犯として逆に警察に追われることになる。
少年の自宅に戻ったアートは彼が特殊な能力を持っていることに気付く。
僕の家族が大好きな映画の一つ。
けれども、僕はあまり好きではなかった。
以来ずっとさけて見てこなかったが、あまりにも暇なGWだったので、CSで見た。
やはり僕の感想は正しかった。
それほどおもしろくない。
たまにはそういう映画でお茶を濁してみるのもありかな、なしかな、と思いパソコンの前にいる。
▼以下はネタバレあり▼
アメリカの典型として、弱者が強力な力(権力)を持った組織を倒すという構図がある。
それが一つの美学であり、哲学であるといっても過言ではない。
訴訟で大企業がことごとく理不尽な損害賠償を支払うことになるのは、そういった美学があるからだろう。
「ファインディング・ニモ」でも人間に対抗する小魚という対比があった。
これも同じである。
社会的弱者に位置づけられているのがやり方が下手だけれども心は温かいというFBI捜査官のアート。
そして、パズルを解くことに才能を発揮するという自閉症のサイモンだ。
「サイモン」という名前からは飛行機をハイジャックしてラスベガスに不時着しそうな印象があるが、ここではかわいい少年だ。
彼らがNSAという巨大な権力を握る組織から命を狙われることになる。
この映画はそこに軸があり、それ以上に何か踏み込む気はないようだ。
だから、安心感と多少のカタルシスを得ることはできても、それ以上の感動や驚き、興奮を味わうことはできない。
いわゆるアメリカ映画の典型であり、日本でいうところの二時間サスペンスドラマのようなお手軽さがある。
この映画にはイメージで物語を押し進めようという印象を受けてしまう。
例えば自閉症の少年、サイモン。
彼の演技が話題になったようだ(Wiki情報)が、彼の内面や難しさに触れようとする作り手の意図は全くない。
自閉症には確かに時折すばらしい才能を見せる人間がいる。
けれども、そういう人間はごくごくわずかだ。
この映画の描き方だと、自閉症患者への変な誤解を招きかねない。
もちろん、すばらしい才能をもつ自閉症患者が少ないからと言って、それを映画の主人公にもってきてはいけないということを指摘したいわけではない。
問題は、この映画の描き方だと、全く自閉症の難しさを描かずに、記号化された、レッテルを貼られた「自閉症患者」を助長するのではないかという危惧があることだ。
自閉症患者を演じるに当たって、サイモン役の少年は施設などを訪問したのかも知れない。
全く調べていなかったとまでは思わないが、自閉症患者への配慮があまりにもなさすぎるのではないだろうか。
日本のドラマ「ピュア」も主人公の女性が知的障害者の設定だった。
すばらしい芸術的才能を発揮するという極めて危うい内容だった。
知的障害と自閉症は全く違う次元の症状であっても、同じような危うさと安易さを感じる。
NSAについても同じだ。
「エネミー・オブ・アメリカ」のようにNSAの危険性を真っ向から描くのならともかく、この映画のような曖昧な設定では結局組織の実態は伝わらない。
なぜ国家プロジェクトの暗号システムをしょうもないパズル雑誌で試そうとしたのだろうか。
いまいち見えてこない。
それをあっさり少年に暴かれたということに対して、なぜそれほど驚愕したのだろうか。
完璧な問題など存在するはずがない。
なぜならその問題は人間がつくったものであり、必ず解答があるのだから暴かれるのは当然の成り行きだ。
それをいちいち解いた人間を殺して回ったとしたら、それこそ組織が解体されかねない。
クドロー大佐のそのふるまいに全く論理性を感じない。
だから、怖くない。
そんな理不尽な奴は、殺されるに決まっているからだ。
また、暗号を解いたことを知ったNSA職員たちの行動も意味不明だ。
完全に盗聴されていることを知った職員は、「アナログで勝負よ」とわけのわからない事を言い出す。
何をするのかと言えば、インクリボンをつかったタイプライターで手紙を書こうというのだ。
結局手紙を書いた直後にNSAに見つかり殺されてしまう。
残されたインクリボンが証拠になるという流れだ。
けれども、彼は何故アナログで勝負するのに、タイプライターを使ったのだろうか。
手紙として渡すならタイプライターでなくとも、実際に直筆で書けばよい。
タイプライターだとよけいに足がつきやすいはずだ。
これはインクリボンを発見させるためだけにある、脚本家側からの要請に過ぎない。
そもそも、手紙にして投函できるくらい自由なら、もっと他の方法で直接的に伝えることもできたのではないだろうか。
NSA側も、彼をすぐに見つけ出せるくらいなら、アートとサイモンを早く見つけて殺せば良かったのに。
同僚の家に転がり込むというようなわかりやすい逃走経路しか使っていなかったはずなのに。
そういうサスペンスとしての甘さが随所に見られる。
他にも、たまたま出会った女性にやたらと迷惑をかけてしまうわりにはその女性の内面が全く分からなかったり。
結局それなりの映画をそれなりに作ったという印象しか受けない。
アメリカは商業として映画を考えているため、仕方がないし、存在意義を認めないわけではないが、それにしてもおもしろくない。
まさに時間の無駄を痛感する2時間だった。
監督:ハロルド・ベッカー
結局何を描こうとするのか不明確な、残念さが残る。
FBI捜査官のアート(ブルース・ウィリス)は、張り込み捜査官へ左遷される。
ある日、自閉症をかかえる少年サイモンの両親が無理心中するという事件が起こる。
不審に思ったアートは、これが無理心中ではなく何者かに殺されたのだと考える。
子供を連れて逃げるアートは、誘拐犯として逆に警察に追われることになる。
少年の自宅に戻ったアートは彼が特殊な能力を持っていることに気付く。
僕の家族が大好きな映画の一つ。
けれども、僕はあまり好きではなかった。
以来ずっとさけて見てこなかったが、あまりにも暇なGWだったので、CSで見た。
やはり僕の感想は正しかった。
それほどおもしろくない。
たまにはそういう映画でお茶を濁してみるのもありかな、なしかな、と思いパソコンの前にいる。
▼以下はネタバレあり▼
アメリカの典型として、弱者が強力な力(権力)を持った組織を倒すという構図がある。
それが一つの美学であり、哲学であるといっても過言ではない。
訴訟で大企業がことごとく理不尽な損害賠償を支払うことになるのは、そういった美学があるからだろう。
「ファインディング・ニモ」でも人間に対抗する小魚という対比があった。
これも同じである。
社会的弱者に位置づけられているのがやり方が下手だけれども心は温かいというFBI捜査官のアート。
そして、パズルを解くことに才能を発揮するという自閉症のサイモンだ。
「サイモン」という名前からは飛行機をハイジャックしてラスベガスに不時着しそうな印象があるが、ここではかわいい少年だ。
彼らがNSAという巨大な権力を握る組織から命を狙われることになる。
この映画はそこに軸があり、それ以上に何か踏み込む気はないようだ。
だから、安心感と多少のカタルシスを得ることはできても、それ以上の感動や驚き、興奮を味わうことはできない。
いわゆるアメリカ映画の典型であり、日本でいうところの二時間サスペンスドラマのようなお手軽さがある。
この映画にはイメージで物語を押し進めようという印象を受けてしまう。
例えば自閉症の少年、サイモン。
彼の演技が話題になったようだ(Wiki情報)が、彼の内面や難しさに触れようとする作り手の意図は全くない。
自閉症には確かに時折すばらしい才能を見せる人間がいる。
けれども、そういう人間はごくごくわずかだ。
この映画の描き方だと、自閉症患者への変な誤解を招きかねない。
もちろん、すばらしい才能をもつ自閉症患者が少ないからと言って、それを映画の主人公にもってきてはいけないということを指摘したいわけではない。
問題は、この映画の描き方だと、全く自閉症の難しさを描かずに、記号化された、レッテルを貼られた「自閉症患者」を助長するのではないかという危惧があることだ。
自閉症患者を演じるに当たって、サイモン役の少年は施設などを訪問したのかも知れない。
全く調べていなかったとまでは思わないが、自閉症患者への配慮があまりにもなさすぎるのではないだろうか。
日本のドラマ「ピュア」も主人公の女性が知的障害者の設定だった。
すばらしい芸術的才能を発揮するという極めて危うい内容だった。
知的障害と自閉症は全く違う次元の症状であっても、同じような危うさと安易さを感じる。
NSAについても同じだ。
「エネミー・オブ・アメリカ」のようにNSAの危険性を真っ向から描くのならともかく、この映画のような曖昧な設定では結局組織の実態は伝わらない。
なぜ国家プロジェクトの暗号システムをしょうもないパズル雑誌で試そうとしたのだろうか。
いまいち見えてこない。
それをあっさり少年に暴かれたということに対して、なぜそれほど驚愕したのだろうか。
完璧な問題など存在するはずがない。
なぜならその問題は人間がつくったものであり、必ず解答があるのだから暴かれるのは当然の成り行きだ。
それをいちいち解いた人間を殺して回ったとしたら、それこそ組織が解体されかねない。
クドロー大佐のそのふるまいに全く論理性を感じない。
だから、怖くない。
そんな理不尽な奴は、殺されるに決まっているからだ。
また、暗号を解いたことを知ったNSA職員たちの行動も意味不明だ。
完全に盗聴されていることを知った職員は、「アナログで勝負よ」とわけのわからない事を言い出す。
何をするのかと言えば、インクリボンをつかったタイプライターで手紙を書こうというのだ。
結局手紙を書いた直後にNSAに見つかり殺されてしまう。
残されたインクリボンが証拠になるという流れだ。
けれども、彼は何故アナログで勝負するのに、タイプライターを使ったのだろうか。
手紙として渡すならタイプライターでなくとも、実際に直筆で書けばよい。
タイプライターだとよけいに足がつきやすいはずだ。
これはインクリボンを発見させるためだけにある、脚本家側からの要請に過ぎない。
そもそも、手紙にして投函できるくらい自由なら、もっと他の方法で直接的に伝えることもできたのではないだろうか。
NSA側も、彼をすぐに見つけ出せるくらいなら、アートとサイモンを早く見つけて殺せば良かったのに。
同僚の家に転がり込むというようなわかりやすい逃走経路しか使っていなかったはずなのに。
そういうサスペンスとしての甘さが随所に見られる。
他にも、たまたま出会った女性にやたらと迷惑をかけてしまうわりにはその女性の内面が全く分からなかったり。
結局それなりの映画をそれなりに作ったという印象しか受けない。
アメリカは商業として映画を考えているため、仕方がないし、存在意義を認めないわけではないが、それにしてもおもしろくない。
まさに時間の無駄を痛感する2時間だった。
仕事には終わりはないですね。
はあ。
今日は早く帰りたいな。
>j さん
返信遅れました。
書込みありがとうございます。
時間がないながら、しょうもない映画を観てしまいました。
読んでいただけたのなら書いた甲斐があったというものです。
ありがとうございます。