secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ザ・メニュー

2022-11-24 19:04:59 | 映画(さ)
評価点:63点/2022年/アメリカ/107分

監督:マーク・マイロッド

完璧なメニューのなかに混入した異物。

孤島にある高級レストラン、ホーソン。
そこは限られた人しか訪れることができないという場所だった。
なんとか予約が取れた美食家のタイラー(ニコラス・ホルト)は、恋人のマーゴ(アニヤ・テイラー=ジョイ)を連れて念願のホーソンを訪れる。
同席できるのは12人のみ。
有名企業の会社役員や映画監督まで、その客層も一流だった。
しかし、シェフのスローヴィク(レイフ・ファインズ)のなめらかな口上にマーゴは違和感を隠しきれなかった。

早くから予告編が流れ、なんとなく展開も読めたが、面白そうだったので見に行った。
これからさらに目玉の作品が公開されるので、時間が合ったのはラッキーだった。
話題のアニメも気になったが、こちらは少し時間が経ってからでも公開されつづけるだろうという目論見もあった。

ちなみに、準主役のニコラス・ホルトは「マッドマックス 怒りのデスロード」に、アニヤ・テイラー=ジョイは「アムステルダム」に出演している。

こういう映画をあれこれ考えても仕方がないが、あれこれ考えて見たくなる作品ではある。
あまり重箱の隅をつつくことをせずに単純に、わーきゃー言えばいいのだと思う。

▼以下はネタバレあり▼

予告から明らかに猟奇的な話で、単なるおいしい料理を味わうような映画ではないことはわかっている。
要はその見せ方や展開、真相がどれだけ楽しめるかという点にあるだろう。
高級料理店に行って、おいしい料理を食べるのは当たり前。
「なんだ料理以上に何かないのか」と期待するのは間違えている。
料理を食べに行ったのだから、料理が出てくるのは当然のことだ。
だが、問題はその料理の質がどれだけ高く、それに唸ることができるか、という点にあるだろう。

この映画は、高級レストランに来た客が、狂気じみた料理長が料理の素材を間違えてしまうという話の流れは予告編ですでに明かされている。
それを知らずに映画館に行ったとしたらそれは不幸でしかないが、視聴年齢制限もあることだし、そのミスマッチは想定しないでおこう。
だからこそ、観客の注目すべきは、ラストがどうなるのか、という点と、なぜそんなことをするのか、という点に必然的に限られてくる。
その意味で全くこの映画は観客を裏切らないし、やはり期待したとおりの料理が出てくると言える。
その完成度がどれだけ高いか、という点で映画の評価が大きく割れてしまう。

ある意味では非常に監督としては難しいチャレンジではある。

シェフは長年にわたって一流の評価を得続ける、ストイックな男で、自分のレシピに一切の妥協を許さない。
それはスタッフにも同様で、いかに客がおいしい料理を味わうか(食べるのではないのだ)ということを終始こだわってきた。
そんな男が、12人の客と大勢のスタッフで史上まれに見る完成度の高いメニューに挑戦する、というのがこの映画の話である。
しかし、それは客とスタッフという二分した関係性ではなく、そこに料理を合わせて一つの盛大な作品を作り上げようとする。
観客は次第にメニューがあまりにも個々の事情を踏まえたものであることに気づき、自分たちも作品の一部なのだということに気づく。
料理として味わうのは、一方的に捕食する側ではなく、自分もまた料理される側であることに気づかされる。
ラストのデザートで、素晴らしい一皿に生まれ変わるとき、客たちは一切の抵抗をしない。
それは、自分が食べられる側であることに気づき、それに納得したからにほからない。
逃げられないからではない。
これまでの自分の行いを鑑みれば、自分は料理される側に違いない、ということを確信したからこそ、受け入れるのだ。

シェフのスローヴィクはそこまで計算した上で、このメニューを組み立てていた。
副料理長を殺すのも、男性を逃がして捕まえさせ、それを料理に見立てるのも、すべては彼らに自分がいかに料理されるにふさわしい人間であるかを悟らせるためだ。

視点人物の一人である美食家のタイラーは、食事に関するうんちくをこねまくり最後に料理するように強要され、自殺に追い込まれる。
そのときスローヴィクに耳打ちされる。
その一言によって、タイラーは自分が死すべき人間であることに気づかされる。
その姿を見た残りの客たちは、自分もまた傲慢さに満ちた生き方をしてきたことに気づくのだ。
「タイラーと私はおなじようなものだ」と。

あらゆることは一直線に、彼らを料理するところへと導かれていく。
だからオチを見てもまったく驚くようなものではない。
最初からこういうオチになることはすでに明かされていたからだ。

だが、その中で唯一、料理されない者がいる。
それがマーゴと名乗る娼婦である。
彼女はこの料理の理の外にいる。
だから、彼女は料理になることができないし、受け入れることもできない。

彼女だけは、料理になることを免れる。
彼女が「私はお腹が減っている。チーズバガーが食べたい」と言ったやりとりは、スローヴィクが一貫して料理人であったということを照らし出す。
ただ料理を完璧なものとして仕上げることに命をかけていた、ということが浮き彫りになるわけだ。
彼女と同じ目線でいるのは、だから観客だけである。
観客は彼女と同じ立場にいる、「このメニューからいびつなもの」である。
だから他の客たちが殺されていく様子がいまいち理解できない。
この映画の真の視点人物であり、生き残ることができた唯一の人間であるのは必然的である。

だから、この映画は徹頭徹尾非常に一貫したコンセプトの元にできあがっている。
完結された、非常に統一性のある世界観である。

しかし、私はそれほどこの映画をそれほどおもしろみをもって劇場を後にすることができなかった。
その理由は、客が死を受け入れるまでの過程を、深く描き切れていなかったためだと思う。
だから、理解できないし、説得力がない。
シェフにしても、レストランを訪れた客の11人にしても、完璧なメニューの一つになった、といえるだけの深さ(=必然性)をもって描かれていない。
その最もわかりやすい一人は、タイラーだろう。

タイラーは自分が美食家である、という点しか作中で明かされない。
美食家であることがなぜ罪なのか。
料理が作れないことがなぜ悪なのか。
他の人物たちがわかりやすく他者への冒涜が描かれているのに、前半の視点人物として描かれていたキーポイントとなる人物の真相がぼやけている。
だから、あの自殺のシークエンスくらいから「必然」というよりも「強引」さが感じられるようになってしまう。
そして、予定調和的に死を受け入れる客たちは、やはりどこか違和感に満ちてしまう。

私たちはマーゴとともに島を後にすることができるが、すべてを置き去りにしてしまって感情をお土産として持って帰ることができない。
「ああ終わったね」という読後感でエンドロールを見ることになる。
はっきり言えば、おもしろい、良い映画、怖いな、とは思えないのだ。

完璧な一本道の映画であるからこそ、そのすべてに必然性を感じさせる真相やキャラクターの深さがいる。
おいしいとわかっている料理を、それでもおいしいと言わせるのには、こちらの予想を上回る完成度がなければならない。

こういう映画も、嫌いじゃあない。
でもたぶんあまり印象には残らない。

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