評価点:56点/1997年/アメリカ
監督:フランシス・フォード・コッポラ
若い弁護士が悪質保険会社と法廷で争う。
メンフィスの大学の新卒ルーディ(マット・デイモン)は、弁護士になるべく、バイトのコネで、
“なぐり屋”ストーンの下で働くことになった。
そこでの現実は、正義を貫きたいというルーディの思いとは違い、いかに原告を見つけるか、という「営業」のような毎日だった。
ルーディは、保険会社の保険料請求の依頼を受ける。
白血病になったにもかかわらず、正当な保険料を受け取れなかったからだ。
司法試験に漸く受かったルーディに待っていたのは、スコットの事務所の家宅捜索だった。
これにより、ルーディは一人で保険会社と交渉しなければならなくなってしまう。
▼以下はネタバレあり▼
マット・デイモンの法廷サスペンス。
法廷サスペンスとしては、良い出来に仕上がっている。
しかし、この作品は、とても後味の悪い作品になっている。
おもしろいのだが、見終わった後、なぜか首を傾げてしまう。
ここに、この映画のすべてが象徴されている。
結論から言えば、判決と、物語の結末が、どうしてもかみ合わないからだ。
物語のテーマとしては、冒頭のほうで言われるように、
「札束の雨を降らせるかごとくお金を勝ち取る弁護士」=「レインメーカー」
に主人公ルーディがいかになっていくか、というものである。
それは、その野望と正反対の位置にある、弁護士免許も持っていないルーディという人物の設定でもわかる。
レインメーカーにいかになっていくか、というのをさらに平たく言えば、いわゆる若者の成長譚である。
保険会社との裁判も、それをみせるためにあると言ってしまって良い。
経験豊富な弁護士団に対する、若さだけが取り柄のルーディ、
資金潤沢の保険会社に対する、貧困層の原告、
「魂を売り渡した」弁護士と、
正義感溢れる弁護士、
こうしたあらゆる対立が、若者の成長のために用意されている。
しかも、法廷サスペンスとして、それらが判例や法律を元にして(その判例や法律が事実かは知らないけど)展開されるため、観ている側としても、素直に物語を追うことが出来る。
最終弁論でのルーディの説得力ある話も、陪審員とともに観客をつかむ。
法廷サスペンスとして、秀逸な展開であることは間違いない。
同時に三つの問題を提示したことによって、展開に緩急がつき、「頭」だけを使うことを要求しないので、観客にとってもよかった。
しかし、判決が終わった後から、急に物語が変な方向に向いてしまう。
判決の後、保険会社は倒産、慰謝料は一文も入らないことが確定する。
そしてマット・デイモンは、夫の虐待に悩んでいたクレア・デインズとともにひっそりと暮らすという選択をする。
ここでのルーディのナレーションは、「裁判に勝とうとすれば、知らない間に見えない一線を越えてしまう。
何度もそれを繰り返していくうちにやがて線は消えて、晴れて「向こう側」の仲間入りだ。」
僕はこのナレーションに大きな違和感を憶える。
このナレーションはとてもかっこいい。そして的を射ている。
そんな弁護士がアメリカだけではなく、どこの国にもたくさんいるだろう。
しかし、である。
ここまで、正義という御旗を掲げ、そして慰謝料が手に入らなかったとしても、勝訴し、そして理想を貫いたわけである。
それなのに、「理想を貫けない」という理由で、安易に女の元へ行ってしまうルーディは、それまで法廷で闘っていた面影がまるでない。
ものすごくきれい事であり、消極的な「解答」である。
そして、短絡的に未来に見切りをつけてしまい、安い理想を胸にスクリーンから消える。
もう一度言う。
この物語は、判決が下されるまではあきらかに若者の成長を描いた作品だった。
なのに、いかに正義を貫くか、という努力をあきらめてしまい、女に逃げてしまうという「解答」を持たせたことは、非常に残念だ。
別にその後、飲んだくれて、悪に染まってしまってもいいのである。
それでも俺はやるんだ! みたいな情熱あふれた結論でなければ、それまでの裁判が台無しである。
「国中が僕の噂をしている。僕はこの裁判で奇跡を起こした。
今後も僕を訪れる原告はその奇跡を期待するだろう。」
ルーディにとって、その奇跡を起こし続けるしか、その正義を貫くことは出来ない。
正義を胸に、現実(悪が溢れている裁判界)から逃げては全然かっこよくない。
裁判に勝った、というカタルシスをここで一気に萎えさせるという結末にはどう考えても納得できない。
この映画の後に出た「エリン・ブロコビッチ」では、きちんとその戦いを続けている。
だから、大きな達成感が得られたのだ。
マット・デイモン、クレア・デインズともに嫌いじゃないので、残念な映画だ。
これを書くにあたって、見直したのだが、確か、一回目に観たときにも似たような違和感があった。
ん~、残念。
(2003/12/29執筆)
監督:フランシス・フォード・コッポラ
若い弁護士が悪質保険会社と法廷で争う。
メンフィスの大学の新卒ルーディ(マット・デイモン)は、弁護士になるべく、バイトのコネで、
“なぐり屋”ストーンの下で働くことになった。
そこでの現実は、正義を貫きたいというルーディの思いとは違い、いかに原告を見つけるか、という「営業」のような毎日だった。
ルーディは、保険会社の保険料請求の依頼を受ける。
白血病になったにもかかわらず、正当な保険料を受け取れなかったからだ。
司法試験に漸く受かったルーディに待っていたのは、スコットの事務所の家宅捜索だった。
これにより、ルーディは一人で保険会社と交渉しなければならなくなってしまう。
▼以下はネタバレあり▼
マット・デイモンの法廷サスペンス。
法廷サスペンスとしては、良い出来に仕上がっている。
しかし、この作品は、とても後味の悪い作品になっている。
おもしろいのだが、見終わった後、なぜか首を傾げてしまう。
ここに、この映画のすべてが象徴されている。
結論から言えば、判決と、物語の結末が、どうしてもかみ合わないからだ。
物語のテーマとしては、冒頭のほうで言われるように、
「札束の雨を降らせるかごとくお金を勝ち取る弁護士」=「レインメーカー」
に主人公ルーディがいかになっていくか、というものである。
それは、その野望と正反対の位置にある、弁護士免許も持っていないルーディという人物の設定でもわかる。
レインメーカーにいかになっていくか、というのをさらに平たく言えば、いわゆる若者の成長譚である。
保険会社との裁判も、それをみせるためにあると言ってしまって良い。
経験豊富な弁護士団に対する、若さだけが取り柄のルーディ、
資金潤沢の保険会社に対する、貧困層の原告、
「魂を売り渡した」弁護士と、
正義感溢れる弁護士、
こうしたあらゆる対立が、若者の成長のために用意されている。
しかも、法廷サスペンスとして、それらが判例や法律を元にして(その判例や法律が事実かは知らないけど)展開されるため、観ている側としても、素直に物語を追うことが出来る。
最終弁論でのルーディの説得力ある話も、陪審員とともに観客をつかむ。
法廷サスペンスとして、秀逸な展開であることは間違いない。
同時に三つの問題を提示したことによって、展開に緩急がつき、「頭」だけを使うことを要求しないので、観客にとってもよかった。
しかし、判決が終わった後から、急に物語が変な方向に向いてしまう。
判決の後、保険会社は倒産、慰謝料は一文も入らないことが確定する。
そしてマット・デイモンは、夫の虐待に悩んでいたクレア・デインズとともにひっそりと暮らすという選択をする。
ここでのルーディのナレーションは、「裁判に勝とうとすれば、知らない間に見えない一線を越えてしまう。
何度もそれを繰り返していくうちにやがて線は消えて、晴れて「向こう側」の仲間入りだ。」
僕はこのナレーションに大きな違和感を憶える。
このナレーションはとてもかっこいい。そして的を射ている。
そんな弁護士がアメリカだけではなく、どこの国にもたくさんいるだろう。
しかし、である。
ここまで、正義という御旗を掲げ、そして慰謝料が手に入らなかったとしても、勝訴し、そして理想を貫いたわけである。
それなのに、「理想を貫けない」という理由で、安易に女の元へ行ってしまうルーディは、それまで法廷で闘っていた面影がまるでない。
ものすごくきれい事であり、消極的な「解答」である。
そして、短絡的に未来に見切りをつけてしまい、安い理想を胸にスクリーンから消える。
もう一度言う。
この物語は、判決が下されるまではあきらかに若者の成長を描いた作品だった。
なのに、いかに正義を貫くか、という努力をあきらめてしまい、女に逃げてしまうという「解答」を持たせたことは、非常に残念だ。
別にその後、飲んだくれて、悪に染まってしまってもいいのである。
それでも俺はやるんだ! みたいな情熱あふれた結論でなければ、それまでの裁判が台無しである。
「国中が僕の噂をしている。僕はこの裁判で奇跡を起こした。
今後も僕を訪れる原告はその奇跡を期待するだろう。」
ルーディにとって、その奇跡を起こし続けるしか、その正義を貫くことは出来ない。
正義を胸に、現実(悪が溢れている裁判界)から逃げては全然かっこよくない。
裁判に勝った、というカタルシスをここで一気に萎えさせるという結末にはどう考えても納得できない。
この映画の後に出た「エリン・ブロコビッチ」では、きちんとその戦いを続けている。
だから、大きな達成感が得られたのだ。
マット・デイモン、クレア・デインズともに嫌いじゃないので、残念な映画だ。
これを書くにあたって、見直したのだが、確か、一回目に観たときにも似たような違和感があった。
ん~、残念。
(2003/12/29執筆)
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