評価点:71点/2003年/アメリカ
監督:エドワード・ズウィック
トム・クルーズ主演の本格的サムライ・ストーリー。
1870年代、日本は欧米の国々に対抗するため、アメリカのネイサン・オールグレン大尉(トム・クルーズ)を、戦術指南役として呼び寄せる。
しかし、オールグレンを待っていたのは、銃も目にした事が無い農民ばかりの兵士たちだった。
ある程度戦力をつけてきた部隊は、明治政府に反抗し続ける武士の勝元(渡辺謙)らと一戦を交える。
西洋の戦術を巧みに扱うオールグレンであったが、予想に反し、弓と刀だけの勝元の武士団に負けてしまう。
捕虜となったオールグレンは、日本の侍という集団を徐々に知るようになる。
ハリウッドが、しかも、トム・クルーズが日本の侍を撮った!
これだけでこの映画はすでに偉大である。
しかも、これまで撮られてきたような、歪曲された日本ではなく、本格的な「時代劇」に挑戦したのは、おそらく初めてだろう。
これが、日本の時代劇映画に良い刺激を与えてくれれば、と思う。
もちろん、日本のハリウッド化を望んでいるわけではないけどね。
▼以下はネタバレあり▼
僕は、明治時代の歴史をあまり詳しく知らない。
よって、明治天皇が英語をしゃべれたのかとか、勝元のモデルであろう西郷どんも、
英語がペラペラだったのかといった事情には詳しくない。
また、「史実である」というようなテロップも無いので、この映画は、いちおう、フィクションである、と考えたい。
物語のテーマは、はっきり言えば、「異文化コミュニケーション」である。
捕虜となり、勝元の下で剣術やその哲学を学ぶのである。
このテーマを描くために、ネイサンには、あるトラウマが設定されている。
インディアンの虐殺や、無謀な戦略によって仲間を失い、飲んだ暮れの状態である。
このトラウマの設定が、侍に学ぶ、という彼の態度を生むことになる。
このネイサンの課題によって、アメリカ人にはあきらかに異常な集団「侍」を、無理なく尊敬の対象に仕立て上げているところは、さすがである。
ストーリーは単純で、浦島太郎型の物語、すなわち、日常 ― 非日常 ― 日常という往来のパターンである。
勝元とネイサンの共通の敵も、一人(バクリー大佐=トニー・ゴールドウィン)であり、至ってシンプルである。
やはりこの映画の最大のみどころは、なんといっても、明治時代の日本であり、侍という哲学である。
日本の時代劇では、妙にこぎれいな風景が背景になるが、この映画の横浜港は、人々が溢れかえり、活気があり、そして何より、生活感がある。
果たしてそれが実際であったかは、わからない。
しかし、この活気ある風景を見ていると、日本の時代劇がいかに「風景」や当時の「生活感」をないがしろにしていたかがわかる。
街並みがわかるシーンは、ごくわずかであるが、そのわずかなシーンに映画制作者側の哲学を感じることが出来る。
アクション・シーンもさすがハリウッド、である。
ここで敢えて「殺陣」といわないのは、この映画では殺陣なるものは殆んど無い。
むしろ、ハリウッド的な「アクション」である。
どちらがいいというのではないにしても、「かっこよく」撮っていることは間違いない。
全体としては非常に力が入っていることがわかる。
しかし、「アカデミー賞」にかなうか、といわれれば、迷わずNOと答えるだろう。
なぜなら、どうしても納得できない、不自然に感じてしまうところがあるからである。
例えば、風景。
あきらかにいびつな形をした富士山が登場したり、平べったい吉野の森(そもそも平地の森は日本にない)があったり、どう考えてもゴルフ場のような場所で戦いが起こったり。
また、英語ができる勝元にも、なんらかの設定がほしかった。
それを許したとしても、日本人なら「会話は楽しい」などとは言わないだろうし、死の間際に、「パーフェクト!」なんて英語で話すことも不自然である。
このように死の間際に英語で話させるなら、その前に、「パーフェクト」と話すようなシーンを挿入して伏線をはるべきだった。
さらに、その勝元の死のシーンで、涙ぐみ、土下座し始める日本兵も、失笑ものである。
英語というなら、明治天皇が英語を話せたのかどうかも、やはり疑わしい。
もちろん、それがフィクションであっても構わない。
しかし、フィクションであるなら、やはり何らかの伏線(勉強しているなどのシーンや台詞を入れるなど)をはり、いきなりラストで話し始める、という唐突さに配慮すべきだった。
しかもその台詞が、日本の方針を語る、という重要なものであったので、余計に違和感を覚えてしまう。
しかし、僕にとって決定的だったのは、勝元の息子、信忠が死んでしまうシーン。
「サムライ」というタイトルをつけるなら、ここで勝元は泣いてはいけなかった。
絶対に泣いてはいけなかった。
サムライなら、そのまま、何事も無かったように後を任せるべきだったのだ。
そしてその異常さの目撃者として、ネイサンの驚きの表情を撮り、そのあと、哀しそうな後姿でその悲しみを表すべきだった。
そうでなければ、たか(小雪)が夫が死んでも全く悲しみを見せなかった意味がなくなってしまう。
悲しみを外に表さない、これが侍の悲しみ方なのだ。
悲しみを外に表すことは、それほど悲しんでいないとされ、ほんとうに悲しんでいるときは、平生を装うというのが、侍である。
少なくとも、映画や小説の中では、そうあるべきだ。
僕は、物語が佳境に向かえば向かうほど、どんどん映画から離れてしまった。
どんどん同化することができなくなっていった。
そのはじまりが、この息子の死を悲しむ、という勝元の姿だった。
その後、戦争を始める両者の指揮官が、対峙した間で戦争をするかどうかを話す。
ここで、完全に映画という世界から切り離されてしまった。
格好は武士の姿をしているが、あきらかにアメリカ的なやりとりだ。
僕には、どうしてもそう映ってしまった。
この映画は、日本を描いている。
それも非常に高いレベルで描いていることは、疑いない。
しかし、やはりアメリカ映画だ。
アメリカが考える、「映画はこうあるべき」、「人の死は悲しみを表すべき」「戦いの前には協議すべき」「重要なシーンは英語であるべき」という大前提のうえに成り立っている。
ハリウッドで作ったわけだから、それは仕方が無いと言えばそれまでである。
しかし、侍をモティーフにし、「異文化交流」をテーマにした(それは疑いないだろう)時点で、それらは捨てるべきだった。
このレベルの「日本」では、僕はオスカーをあげたくない。
渡辺謙よりも、真田広之のほうが存在感があったように思うし。
すこし話はずれるが、この映画と「座頭市」は共通点をもちながら、正反対のものである、と思う。
「ラスト・サムライ」はアメリカ人が、日本人にも通用する時代劇を作ろうとした。
そして、「座頭市」は日本人が、アメリカ(全世界)にも通用する時代劇を作ろうとした。
ともに、時代劇や日本をこれまで積み重ねられてきたものを越えようとする試みである点で共通している。
同時に、正反対の立場からそれを達成しようとしたことでは、対立する。
どちらの作品とも、実験的であり、また、示唆に富んでいる。
直接、模倣したり、伸長したりする必要は無い。
しかし、今の日本の時代劇に一石を投じ、時代劇を製作する者たちに、良い刺激を与えられれば、この二本の映画は、充分に存在価値を見出すことが出来るだろう。
(2003/12/21執筆)
監督:エドワード・ズウィック
トム・クルーズ主演の本格的サムライ・ストーリー。
1870年代、日本は欧米の国々に対抗するため、アメリカのネイサン・オールグレン大尉(トム・クルーズ)を、戦術指南役として呼び寄せる。
しかし、オールグレンを待っていたのは、銃も目にした事が無い農民ばかりの兵士たちだった。
ある程度戦力をつけてきた部隊は、明治政府に反抗し続ける武士の勝元(渡辺謙)らと一戦を交える。
西洋の戦術を巧みに扱うオールグレンであったが、予想に反し、弓と刀だけの勝元の武士団に負けてしまう。
捕虜となったオールグレンは、日本の侍という集団を徐々に知るようになる。
ハリウッドが、しかも、トム・クルーズが日本の侍を撮った!
これだけでこの映画はすでに偉大である。
しかも、これまで撮られてきたような、歪曲された日本ではなく、本格的な「時代劇」に挑戦したのは、おそらく初めてだろう。
これが、日本の時代劇映画に良い刺激を与えてくれれば、と思う。
もちろん、日本のハリウッド化を望んでいるわけではないけどね。
▼以下はネタバレあり▼
僕は、明治時代の歴史をあまり詳しく知らない。
よって、明治天皇が英語をしゃべれたのかとか、勝元のモデルであろう西郷どんも、
英語がペラペラだったのかといった事情には詳しくない。
また、「史実である」というようなテロップも無いので、この映画は、いちおう、フィクションである、と考えたい。
物語のテーマは、はっきり言えば、「異文化コミュニケーション」である。
捕虜となり、勝元の下で剣術やその哲学を学ぶのである。
このテーマを描くために、ネイサンには、あるトラウマが設定されている。
インディアンの虐殺や、無謀な戦略によって仲間を失い、飲んだ暮れの状態である。
このトラウマの設定が、侍に学ぶ、という彼の態度を生むことになる。
このネイサンの課題によって、アメリカ人にはあきらかに異常な集団「侍」を、無理なく尊敬の対象に仕立て上げているところは、さすがである。
ストーリーは単純で、浦島太郎型の物語、すなわち、日常 ― 非日常 ― 日常という往来のパターンである。
勝元とネイサンの共通の敵も、一人(バクリー大佐=トニー・ゴールドウィン)であり、至ってシンプルである。
やはりこの映画の最大のみどころは、なんといっても、明治時代の日本であり、侍という哲学である。
日本の時代劇では、妙にこぎれいな風景が背景になるが、この映画の横浜港は、人々が溢れかえり、活気があり、そして何より、生活感がある。
果たしてそれが実際であったかは、わからない。
しかし、この活気ある風景を見ていると、日本の時代劇がいかに「風景」や当時の「生活感」をないがしろにしていたかがわかる。
街並みがわかるシーンは、ごくわずかであるが、そのわずかなシーンに映画制作者側の哲学を感じることが出来る。
アクション・シーンもさすがハリウッド、である。
ここで敢えて「殺陣」といわないのは、この映画では殺陣なるものは殆んど無い。
むしろ、ハリウッド的な「アクション」である。
どちらがいいというのではないにしても、「かっこよく」撮っていることは間違いない。
全体としては非常に力が入っていることがわかる。
しかし、「アカデミー賞」にかなうか、といわれれば、迷わずNOと答えるだろう。
なぜなら、どうしても納得できない、不自然に感じてしまうところがあるからである。
例えば、風景。
あきらかにいびつな形をした富士山が登場したり、平べったい吉野の森(そもそも平地の森は日本にない)があったり、どう考えてもゴルフ場のような場所で戦いが起こったり。
また、英語ができる勝元にも、なんらかの設定がほしかった。
それを許したとしても、日本人なら「会話は楽しい」などとは言わないだろうし、死の間際に、「パーフェクト!」なんて英語で話すことも不自然である。
このように死の間際に英語で話させるなら、その前に、「パーフェクト」と話すようなシーンを挿入して伏線をはるべきだった。
さらに、その勝元の死のシーンで、涙ぐみ、土下座し始める日本兵も、失笑ものである。
英語というなら、明治天皇が英語を話せたのかどうかも、やはり疑わしい。
もちろん、それがフィクションであっても構わない。
しかし、フィクションであるなら、やはり何らかの伏線(勉強しているなどのシーンや台詞を入れるなど)をはり、いきなりラストで話し始める、という唐突さに配慮すべきだった。
しかもその台詞が、日本の方針を語る、という重要なものであったので、余計に違和感を覚えてしまう。
しかし、僕にとって決定的だったのは、勝元の息子、信忠が死んでしまうシーン。
「サムライ」というタイトルをつけるなら、ここで勝元は泣いてはいけなかった。
絶対に泣いてはいけなかった。
サムライなら、そのまま、何事も無かったように後を任せるべきだったのだ。
そしてその異常さの目撃者として、ネイサンの驚きの表情を撮り、そのあと、哀しそうな後姿でその悲しみを表すべきだった。
そうでなければ、たか(小雪)が夫が死んでも全く悲しみを見せなかった意味がなくなってしまう。
悲しみを外に表さない、これが侍の悲しみ方なのだ。
悲しみを外に表すことは、それほど悲しんでいないとされ、ほんとうに悲しんでいるときは、平生を装うというのが、侍である。
少なくとも、映画や小説の中では、そうあるべきだ。
僕は、物語が佳境に向かえば向かうほど、どんどん映画から離れてしまった。
どんどん同化することができなくなっていった。
そのはじまりが、この息子の死を悲しむ、という勝元の姿だった。
その後、戦争を始める両者の指揮官が、対峙した間で戦争をするかどうかを話す。
ここで、完全に映画という世界から切り離されてしまった。
格好は武士の姿をしているが、あきらかにアメリカ的なやりとりだ。
僕には、どうしてもそう映ってしまった。
この映画は、日本を描いている。
それも非常に高いレベルで描いていることは、疑いない。
しかし、やはりアメリカ映画だ。
アメリカが考える、「映画はこうあるべき」、「人の死は悲しみを表すべき」「戦いの前には協議すべき」「重要なシーンは英語であるべき」という大前提のうえに成り立っている。
ハリウッドで作ったわけだから、それは仕方が無いと言えばそれまでである。
しかし、侍をモティーフにし、「異文化交流」をテーマにした(それは疑いないだろう)時点で、それらは捨てるべきだった。
このレベルの「日本」では、僕はオスカーをあげたくない。
渡辺謙よりも、真田広之のほうが存在感があったように思うし。
すこし話はずれるが、この映画と「座頭市」は共通点をもちながら、正反対のものである、と思う。
「ラスト・サムライ」はアメリカ人が、日本人にも通用する時代劇を作ろうとした。
そして、「座頭市」は日本人が、アメリカ(全世界)にも通用する時代劇を作ろうとした。
ともに、時代劇や日本をこれまで積み重ねられてきたものを越えようとする試みである点で共通している。
同時に、正反対の立場からそれを達成しようとしたことでは、対立する。
どちらの作品とも、実験的であり、また、示唆に富んでいる。
直接、模倣したり、伸長したりする必要は無い。
しかし、今の日本の時代劇に一石を投じ、時代劇を製作する者たちに、良い刺激を与えられれば、この二本の映画は、充分に存在価値を見出すことが出来るだろう。
(2003/12/21執筆)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます