評価点:81点/2008年/日本
監督:宮崎駿
これは、「トトロ」以来の傑作かもしれない。
幼稚園に通う五歳の宗介(声:土井洋輝)は、瓶に閉じ込められた金魚を海辺で拾う。
瓶を割って救い出した金魚に「ポニョ」(声:奈良柚莉愛)という名前をつけた。
ポニョは海底に住むフジモト(声:所ジョージ)が作り出した人面魚だった。
フジモトは逃げ出したポニョを取り返すために、宗介を追う。
取り返したフジモトはポニョが「人間になりたい」と言い出したことに驚愕する。
「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」以来の宮崎作品である。
国民的期待を乗せて、興行収入六週連続で一位という好成績を残している。
映画館を後にする子供たちは、みな「ポ~ニョ、ポニョポニョ」と歌いながら機嫌良く出て行く姿が印象的だ。
全編手書きという話題性も手伝って、異常な売れ行きを見せる「ポニョ」だが、同時に「おもしろくない」「子供向けだ」という批判の声もしばしば耳にする。
「もののけ」以来ずっとジブリ作品は映画館で観ていることもあって、強引に平日の映画館に足を運んだ。
一つ特筆すべきことは、子どもがたくさんみていたにも関わらず、彼らが静かだったことだ。
僕は子どもが嫌いというわけではないが、映画館にいる子どもは何よりも嫌いだ。
だが、今回はみな静かに鑑賞していたので、下の批評にも若干の影響を与えているかもしれない。
▼以下はネタバレあり▼
まず、タイトルについてである。
「崖の上」というタイトルは、ある種の境界に立っている。
「崖の上」といわれれば、瞬時に「崖の下」が想定されるからだ。
この映画の場合、崖の下とは海であり、崖の上とは陸を指している。
つまり魚から人間へという転生の物語を意味していることが、タイトルに暗示されていることになる。
この物語は単純にいって「成長譚」であるといえる。
いや、正確に言えば、魚から人間へという生命の進化である。
しかし、その進化に伴うのが、「デボン紀」以来の海の出現であることが、とても皮肉だ。
また、「魚でも、半漁人でも、人間でも、」ポニョが好きだ、という宗介の最後の台詞から考えると、アイデンティティの確立という言い方も可能だろう。
では、具体的にポニョの造形、キャラクター性について考えよう。
ポニョについて、あるいはこの映画の世界観についてはあまり明確には語られていない。
そのため、何度か見直す必要があると考えている。
一度見た限りでは、ポニョがどういう存在なのか、いまいちわからなかった。
ただいえることは、ポニョは魔法が使えるということだ。
人間になりたいポニョは、魔法を使うことでフジモトの家から脱出する。
人間に転生する際、グランマンマーレ(天海祐希)とフジモトがポニョに出した条件は「魔法を捨てること」だった。
よって、この作品における魔法とは、人間と人間でない存在(ここでは半漁人か?)との差異を決定づけるものとして考えられる。
もちろん、これだけが人間になる要素ではないだろう。
なぜなら、グランマンマーレとフジモトが相談しあっている内容(「五歳の少年にできますか?」など)から考えて、宗介との関係も不可欠な要素であることがわかる。
では、宗介はポニョの転生にどのような役割を果たしたのか。
考えられるのは、人間としての、ポニョにとっての〈他者〉になることである。
つまり、「ポニョ」を「ポニョ」個人として「好き」であるという評価を下してもらうことによって、はじめて「人間」としてのポニョが存在し始めるのだ。
だから、ここでは「子ども」から「大人」というような単純な成長譚とは趣を異にしている。
物の怪(神? 間?)という存在から、人間へという成長譚、あるいは転生譚なのである。
次にわいてくる疑問は、「なぜポニョは人間になりたかったか」ということだ。
ポニョが逃げ出したフジモトのアジトの周りは、ゴミだらけの世界だった。
また、ポニョが出会う人間は、宗介のようなポニョに好意を抱いている人間ばかりではない。
思わず水をかけたくなるような人間もいたのだ。
それでもポニョは人間になりたいと思う。
それは宗介の魅力なのかもしれない。
そういう説明も無理ではないし、それもまた回答の一つだろう。
だが、僕は、ここで「主観的」にこう考える。
この動機こそが、この映画のテーマなのだ、と。
つまり、「人間存在そのものへの全肯定」であると考えたいのだ。
フジモトは「僕もかつては人間だった」ということから、今はもう魔法を使う外法者になってしまったことを吐露する。
人間を憎むフジモトの行動は、これまでの宮崎駿の考えを受け継ぐキャラクターにも思える。
デボン紀の海を再現するために、もっといえば、人間を排除してかつての豊かな海を取り戻すために、「命の水」を蓄えるフジモトは、人間ではない。
もう一度書くが、人間として扱ってくれる者がいないフジモトは人間ではないのだ。
せいぜい地上にあげれば「変なおっさん」にすぎない。
人間関係を一切絶ってしまったフジモトには、やはりポニョと同じ物の怪としての記号が与えられているとしてよいはずだ。
だが、彼の行動はどこまでも人間くさい。
というか、彼を人間ではないとすることのほうが難しいくらい、「人間らしい」のだ。
失敗してしまったり、「あの人」に会うために焦ってしまったり、悲しいくらいに、笑えるくらいに人間なのだ。
そのいびつさに、彼の悲しみがある。
そして、その悲しみがそのまま、テーマである「人間存在そのものへの全肯定」なのだ。
「人間(じんかん)」を離れてようとしても、やはりどうしようもなく人間なのだ、と。
ところで、このフジモトが揶揄しているところのものは、たとえばグリーンピースではないだろうか。
自然保護団体を名乗るNGOたちは、しばしば過激な行動に出て、逆効果を生み出すことがある。
フジモトも同じではないだろうか。
フジモトは「命の水」によって、世界を救おうとする。
完全ではないが、漏れ出てしまった「命の水」によって、かれのしようとしていたことが露呈されることになる。
「命の水」によって確かにデボン紀以来の豊かな海がよみがえる。
だが、その弊害として「月があんなに近づいているのが見えないのか、このままでは大変なことになってしまうんだ」
という本人の台詞に現れているように、月を呼び寄せるという諸刃の刃であったわけだ。
僕はこの台詞から、この「命の水」が象徴しているものは、間違いなく核兵器だと感じた。
彼は核兵器に似た強力な兵器によって世界を変えようとしていたのだ。
(未完成の「命の水」だったためにこのような弊害が起こったのだろうが、危険性がある事に関しては同じである。)
話を戻そう。
フジモトの目的がデボン紀の再来であったとすれば、また、「命の水」が核兵器であったとすれば、テーマが「千と千尋」にあったような説教くさい「自然保護」ではないことがわかるはずだ。
むしろ、自然保護が大切だと知りながら、それでも人間はすばらしいのだ、というメッセージではないか、と考えるのは深読みだろうか。
核兵器では世界を救えない。
過去に戻るだけでは真の回答とはいえない。
それでも、魔法を捨てて、人間であることを望むのだろうか。
それでも、人間として愛されたいのか。
明確に宮崎駿は回答を打ち出したのだ。
これは、表現方法にも現れているように思えて仕方がない。
僕は当初、「CGを一切使わずに手で描く」といううたい文句に、「ふざけるな」と思っていた。
CGを使うかどうか、手書きで描くかどうか、それは方法論に過ぎず、そこに価値を見いだすことじたいがナンセンス、というか「商業的」だと感じていた。
勝負すべきは、やはり「テーマ」であり、「モティーフ」であり、強い哲学なのだ。
だが、宮崎駿は、この映画に関してはCGを使えなかったのだ。
なぜなら、人間のすばらしさを伝えるためには、直に筆をおろす以外にないからだ。
CGも人間が作ったものだ。
だが、筆で実際に絵に触ることが、この映画のテーマをも浮かび上がらせるのだと信じていたのではないだろうか。
もう一つ。
多くの人が違和感を覚えることだと思われるのが、宗介の母親に対する呼称だ。
母親であるにもかかわらず「リサ」と名前で呼ぶ。
僕は名前で呼ぶことから、継母とか、里親とか、そういう複雑な家庭環境なのかと勘ぐったが、そうではないらしい。
「お母さん」や「ママ」と呼ぶということは、自分がその人の子どもであることを意識させることになる。
相手ではなく、相手に対しての自分の位置を呼称は決定づける。
「お母さん」と呼ぶ以上、その呼んでいる自分は、「その子ども」というロール、社会的な〈役割〉を逃れることができない。
宗介は母親を「リサ」と呼ぶことで自己を息子という〈役割〉からの解放を遂げる。
逆に言えば母親である自分を「リサ」と呼ばせることで、宗介が人として扱われることを促し、〈個人〉を強く意識させることになる。
この呼称が、教育的でないとか、しつけがなっていないという批判は全く的外れだ。
なぜならこれは映画であって、映画は物語的な〈記号〉という〈言語〉によって展開されていくからである。
その〈記号性〉を読み解かなければ、映画に込められた意味は理解でいない。
その意味からいっても、この話は宗介の成長譚ではない。
親を「リサ」と呼べる宗介は、エディプスコンプレックスの記号の中で、父親を乗り越える必要性がない。
だから、彼はずっと強い意志と行動力で一貫してポニョを守り続ける。
はじめとおわりで特に変化は見られない。
人間の最も重要な魅力である意志と行動力を、ポニョに示す、というのが彼に与えられた劇中での位置だ。
とここまで解体してきてなんだが、僕はまだ一度しか観ていない。
「トトロ」や「風の谷」などは何度も子どもの頃から観てきた。
「ポニョ」も何度も観なければ読み切れないだろう。
かつての宮崎アニメは、わかりやすい話(表層の物語)とわかりにくい話(深層の物語)とがあった。
だが「千と千尋」あたりから、誰にでもわかる表層の物語だけで勝負しようとしていたきらいがある。
だから、多くの人には売れるだろうし、楽しめるだろう。
だが、何度も観るに値する作品になるかは、微妙なところだろう。
この「ポニョ」は、おそらく、何年後かにじわじわ評価される、そういう作品ではないかと思う。
少なくとも、僕たちが子どものころに観た「トトロ」は、ほとんど何も考えなくても楽しめた。
環境のことや、人間のエゴなどという説教くさい話は別に考える必要はなかった。
何度も観ていくうちに、観ている人間のほうが成長していくにしたがって、様々なことが見えてきたのではなかったか。
この映画を本当に評価できるのは、「トトロ」を昔から親しんできた大人ではない。
この映画とともに育っていく子どもたちだろう。
10年後、彼らが発言権を持ち始めたとき、改めて、この映画の評価を下して欲しいと思う。
ああ、そうそう、蛇足だけれども、これだけはいっておきたい。
「ポニョ」のCDを運良く手に入れた。
あの五番目のトラックは必要がないように思えるのは僕だけだろうか。
そのあたりが根っからの商人(あきんど)ですね、ジブリさん。
監督:宮崎駿
これは、「トトロ」以来の傑作かもしれない。
幼稚園に通う五歳の宗介(声:土井洋輝)は、瓶に閉じ込められた金魚を海辺で拾う。
瓶を割って救い出した金魚に「ポニョ」(声:奈良柚莉愛)という名前をつけた。
ポニョは海底に住むフジモト(声:所ジョージ)が作り出した人面魚だった。
フジモトは逃げ出したポニョを取り返すために、宗介を追う。
取り返したフジモトはポニョが「人間になりたい」と言い出したことに驚愕する。
「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」以来の宮崎作品である。
国民的期待を乗せて、興行収入六週連続で一位という好成績を残している。
映画館を後にする子供たちは、みな「ポ~ニョ、ポニョポニョ」と歌いながら機嫌良く出て行く姿が印象的だ。
全編手書きという話題性も手伝って、異常な売れ行きを見せる「ポニョ」だが、同時に「おもしろくない」「子供向けだ」という批判の声もしばしば耳にする。
「もののけ」以来ずっとジブリ作品は映画館で観ていることもあって、強引に平日の映画館に足を運んだ。
一つ特筆すべきことは、子どもがたくさんみていたにも関わらず、彼らが静かだったことだ。
僕は子どもが嫌いというわけではないが、映画館にいる子どもは何よりも嫌いだ。
だが、今回はみな静かに鑑賞していたので、下の批評にも若干の影響を与えているかもしれない。
▼以下はネタバレあり▼
まず、タイトルについてである。
「崖の上」というタイトルは、ある種の境界に立っている。
「崖の上」といわれれば、瞬時に「崖の下」が想定されるからだ。
この映画の場合、崖の下とは海であり、崖の上とは陸を指している。
つまり魚から人間へという転生の物語を意味していることが、タイトルに暗示されていることになる。
この物語は単純にいって「成長譚」であるといえる。
いや、正確に言えば、魚から人間へという生命の進化である。
しかし、その進化に伴うのが、「デボン紀」以来の海の出現であることが、とても皮肉だ。
また、「魚でも、半漁人でも、人間でも、」ポニョが好きだ、という宗介の最後の台詞から考えると、アイデンティティの確立という言い方も可能だろう。
では、具体的にポニョの造形、キャラクター性について考えよう。
ポニョについて、あるいはこの映画の世界観についてはあまり明確には語られていない。
そのため、何度か見直す必要があると考えている。
一度見た限りでは、ポニョがどういう存在なのか、いまいちわからなかった。
ただいえることは、ポニョは魔法が使えるということだ。
人間になりたいポニョは、魔法を使うことでフジモトの家から脱出する。
人間に転生する際、グランマンマーレ(天海祐希)とフジモトがポニョに出した条件は「魔法を捨てること」だった。
よって、この作品における魔法とは、人間と人間でない存在(ここでは半漁人か?)との差異を決定づけるものとして考えられる。
もちろん、これだけが人間になる要素ではないだろう。
なぜなら、グランマンマーレとフジモトが相談しあっている内容(「五歳の少年にできますか?」など)から考えて、宗介との関係も不可欠な要素であることがわかる。
では、宗介はポニョの転生にどのような役割を果たしたのか。
考えられるのは、人間としての、ポニョにとっての〈他者〉になることである。
つまり、「ポニョ」を「ポニョ」個人として「好き」であるという評価を下してもらうことによって、はじめて「人間」としてのポニョが存在し始めるのだ。
だから、ここでは「子ども」から「大人」というような単純な成長譚とは趣を異にしている。
物の怪(神? 間?)という存在から、人間へという成長譚、あるいは転生譚なのである。
次にわいてくる疑問は、「なぜポニョは人間になりたかったか」ということだ。
ポニョが逃げ出したフジモトのアジトの周りは、ゴミだらけの世界だった。
また、ポニョが出会う人間は、宗介のようなポニョに好意を抱いている人間ばかりではない。
思わず水をかけたくなるような人間もいたのだ。
それでもポニョは人間になりたいと思う。
それは宗介の魅力なのかもしれない。
そういう説明も無理ではないし、それもまた回答の一つだろう。
だが、僕は、ここで「主観的」にこう考える。
この動機こそが、この映画のテーマなのだ、と。
つまり、「人間存在そのものへの全肯定」であると考えたいのだ。
フジモトは「僕もかつては人間だった」ということから、今はもう魔法を使う外法者になってしまったことを吐露する。
人間を憎むフジモトの行動は、これまでの宮崎駿の考えを受け継ぐキャラクターにも思える。
デボン紀の海を再現するために、もっといえば、人間を排除してかつての豊かな海を取り戻すために、「命の水」を蓄えるフジモトは、人間ではない。
もう一度書くが、人間として扱ってくれる者がいないフジモトは人間ではないのだ。
せいぜい地上にあげれば「変なおっさん」にすぎない。
人間関係を一切絶ってしまったフジモトには、やはりポニョと同じ物の怪としての記号が与えられているとしてよいはずだ。
だが、彼の行動はどこまでも人間くさい。
というか、彼を人間ではないとすることのほうが難しいくらい、「人間らしい」のだ。
失敗してしまったり、「あの人」に会うために焦ってしまったり、悲しいくらいに、笑えるくらいに人間なのだ。
そのいびつさに、彼の悲しみがある。
そして、その悲しみがそのまま、テーマである「人間存在そのものへの全肯定」なのだ。
「人間(じんかん)」を離れてようとしても、やはりどうしようもなく人間なのだ、と。
ところで、このフジモトが揶揄しているところのものは、たとえばグリーンピースではないだろうか。
自然保護団体を名乗るNGOたちは、しばしば過激な行動に出て、逆効果を生み出すことがある。
フジモトも同じではないだろうか。
フジモトは「命の水」によって、世界を救おうとする。
完全ではないが、漏れ出てしまった「命の水」によって、かれのしようとしていたことが露呈されることになる。
「命の水」によって確かにデボン紀以来の豊かな海がよみがえる。
だが、その弊害として「月があんなに近づいているのが見えないのか、このままでは大変なことになってしまうんだ」
という本人の台詞に現れているように、月を呼び寄せるという諸刃の刃であったわけだ。
僕はこの台詞から、この「命の水」が象徴しているものは、間違いなく核兵器だと感じた。
彼は核兵器に似た強力な兵器によって世界を変えようとしていたのだ。
(未完成の「命の水」だったためにこのような弊害が起こったのだろうが、危険性がある事に関しては同じである。)
話を戻そう。
フジモトの目的がデボン紀の再来であったとすれば、また、「命の水」が核兵器であったとすれば、テーマが「千と千尋」にあったような説教くさい「自然保護」ではないことがわかるはずだ。
むしろ、自然保護が大切だと知りながら、それでも人間はすばらしいのだ、というメッセージではないか、と考えるのは深読みだろうか。
核兵器では世界を救えない。
過去に戻るだけでは真の回答とはいえない。
それでも、魔法を捨てて、人間であることを望むのだろうか。
それでも、人間として愛されたいのか。
明確に宮崎駿は回答を打ち出したのだ。
これは、表現方法にも現れているように思えて仕方がない。
僕は当初、「CGを一切使わずに手で描く」といううたい文句に、「ふざけるな」と思っていた。
CGを使うかどうか、手書きで描くかどうか、それは方法論に過ぎず、そこに価値を見いだすことじたいがナンセンス、というか「商業的」だと感じていた。
勝負すべきは、やはり「テーマ」であり、「モティーフ」であり、強い哲学なのだ。
だが、宮崎駿は、この映画に関してはCGを使えなかったのだ。
なぜなら、人間のすばらしさを伝えるためには、直に筆をおろす以外にないからだ。
CGも人間が作ったものだ。
だが、筆で実際に絵に触ることが、この映画のテーマをも浮かび上がらせるのだと信じていたのではないだろうか。
もう一つ。
多くの人が違和感を覚えることだと思われるのが、宗介の母親に対する呼称だ。
母親であるにもかかわらず「リサ」と名前で呼ぶ。
僕は名前で呼ぶことから、継母とか、里親とか、そういう複雑な家庭環境なのかと勘ぐったが、そうではないらしい。
「お母さん」や「ママ」と呼ぶということは、自分がその人の子どもであることを意識させることになる。
相手ではなく、相手に対しての自分の位置を呼称は決定づける。
「お母さん」と呼ぶ以上、その呼んでいる自分は、「その子ども」というロール、社会的な〈役割〉を逃れることができない。
宗介は母親を「リサ」と呼ぶことで自己を息子という〈役割〉からの解放を遂げる。
逆に言えば母親である自分を「リサ」と呼ばせることで、宗介が人として扱われることを促し、〈個人〉を強く意識させることになる。
この呼称が、教育的でないとか、しつけがなっていないという批判は全く的外れだ。
なぜならこれは映画であって、映画は物語的な〈記号〉という〈言語〉によって展開されていくからである。
その〈記号性〉を読み解かなければ、映画に込められた意味は理解でいない。
その意味からいっても、この話は宗介の成長譚ではない。
親を「リサ」と呼べる宗介は、エディプスコンプレックスの記号の中で、父親を乗り越える必要性がない。
だから、彼はずっと強い意志と行動力で一貫してポニョを守り続ける。
はじめとおわりで特に変化は見られない。
人間の最も重要な魅力である意志と行動力を、ポニョに示す、というのが彼に与えられた劇中での位置だ。
とここまで解体してきてなんだが、僕はまだ一度しか観ていない。
「トトロ」や「風の谷」などは何度も子どもの頃から観てきた。
「ポニョ」も何度も観なければ読み切れないだろう。
かつての宮崎アニメは、わかりやすい話(表層の物語)とわかりにくい話(深層の物語)とがあった。
だが「千と千尋」あたりから、誰にでもわかる表層の物語だけで勝負しようとしていたきらいがある。
だから、多くの人には売れるだろうし、楽しめるだろう。
だが、何度も観るに値する作品になるかは、微妙なところだろう。
この「ポニョ」は、おそらく、何年後かにじわじわ評価される、そういう作品ではないかと思う。
少なくとも、僕たちが子どものころに観た「トトロ」は、ほとんど何も考えなくても楽しめた。
環境のことや、人間のエゴなどという説教くさい話は別に考える必要はなかった。
何度も観ていくうちに、観ている人間のほうが成長していくにしたがって、様々なことが見えてきたのではなかったか。
この映画を本当に評価できるのは、「トトロ」を昔から親しんできた大人ではない。
この映画とともに育っていく子どもたちだろう。
10年後、彼らが発言権を持ち始めたとき、改めて、この映画の評価を下して欲しいと思う。
ああ、そうそう、蛇足だけれども、これだけはいっておきたい。
「ポニョ」のCDを運良く手に入れた。
あの五番目のトラックは必要がないように思えるのは僕だけだろうか。
そのあたりが根っからの商人(あきんど)ですね、ジブリさん。
直しました。
ご指摘ありがとうございます。