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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ハプニング

2008-08-13 18:43:33 | 映画(は)
評価点:53点/2008年/アメリカ

監督:M・ナイト・シャマラン

ハリウッド映画の〈解体〉なのか、それとも〈物語〉そのものの〈解体〉なのか。

科学の教師エリオット(マーク・ウォルバーグ)の元へ副校長が授業中に訪れ、ニューヨークでテロ攻撃があったと告げる。
ニュースによると、化学兵器かなにかで、人間の脳を刺激し、突然人々が自殺し始めるという。
大都市から始まり、次第に広がりを見せているという報道だった。
数学の教師のジュリアン(ジョン・レグイザモ)の誘いで彼の田舎に行くことになったエリオット夫婦は、電車に乗り込む。
だが、電車は途中でストップしてしまい、おろされてしまう。

僕がもっとも尊敬する監督の一人、シャマランの最新作だ。
シックス・センス」から彼の伝説が始まり、どんでん返しの代名詞ともいえる監督に上り詰めた。
「レディ・イン・ザ・ウォーター」からそれまでの配給を独占していたディズニーを離れ、より自由に制作しはじめた感がある。

次々と人々が自殺していく、という何とも奇妙な設定のこの映画。
結末は自分の目で確認するしかない。
ただし、過剰な期待は禁物です
期待を裏切るようで悪いが、彼の専売特許であるどんでん返しの話ではない。

▼以下はネタバレあり▼

〈物語〉とはなにか、ということを僕は常々考える。
それについて詳述したいが、この場はそういう場ではないので、いったん棚上げしておこう。
だが、この映画は僕らが抱く〈物語〉像がどのようなものであるかを問いただす映画になることは間違いない。

この映画には二つの〈物語〉、筋がある。
ここでの「物語」とは話が展開する軸、というほどのものだ。
一つは、ある夫婦の物語であり、もう一つは社会的な、人と自然との物語だ。
基本的に、どんな話も、この社会的な視座と個人的な視座というのはある。
特にこのようなディザスター(自然災害)映画には、つきものだ。
映画館で僕が号泣した逸話がある「ディープ・インパクト」も、親子の物語と、自然と人間との戦いの物語が絡み合った映画だし、
ディザスター映画の最高峰だと思う「ダンテズ・ピーク」も、火山から愛する人を守れなかった男と、火山に生きる人々たちの火山との戦いの物語が僕たちの心を打つ。
物語とは、一概には言い難いが、こうした〈大きな物語〉と〈小さな物語〉が絡み合いながら展開する。
〈大きな~〉という言い方があまりにもどこかの新書をパックた言い方だと思う人は、〈社会的な物語〉と〈個人的な物語〉と言い換えてもいい。
それはディザスター映画でなくとも、「28日後…」のような映画でも同じだ。

少し話がそれている。
この映画は間違いなく、「ホラーテイストのディザスター映画」である。
社会的な物語、から説明しよう。

原因不明と言われながら、いきなり自殺してしまうこの事件は、テレビ報道を通して、徐々にその姿が解明されていく。
1 大都会の公園で始まった。
2 大都会から大きな町、そして村へという人口によってその発生場所を変えていく。
3 何らかの抗生物質が分泌されており、その影響が脳に達し、人が普段もっている安全のリミッターを外してしまい、人が自殺してしまう。
4 よって、空気(風)を遮断すればある程度防ぐことができる。
5 なぜ始まり、どこで始まり、いつ終わるのか、まったく予想することができない。

というような点が、テレビや劇中を通して整理することができる。
人間は自然への行いに自ら畏怖している。
それを体現させたのが、この映画である。
つまり、嵐が起こったり、地面が割れたり、何かが降ってきたりという目に見える災害よりも、僕たちは「なぜか死んでいく」という目に見えない恐怖の方が、遙かに恐ろしい。
そして、それが防ぐ手立てが見えないと言うことが、余計に恐ろしく感じる。

この映画は、なぜ? を問うことを許さない。
それは、「サイン」や「アンブレイカブル」などでも同じことだ。
高度に完結された映画であっても、その部分は完結されずに放置される。
そこに答えを見いだしたい人は、環境について専門的に書かれた本を読む方がよほどすっきりする。
ディザスター映画でありながら、この映画はそこに追求の目を置かせないのだ。

だが、この映画のすごいところ(褒めていない)は、この物語と夫婦の物語が全然かみ合わないといいうことだ。
夫婦間に起こった事件と、自然災害によって引き起こされている事件とは、まったくかみ合わない。
だから、余計にややこしいし、カタルシスを望む観客は終幕を迎えても混乱してしまう。

夫婦を取り巻く問題は、次のように整理される。
結婚式当日から精神的に不安定だった妻のアルマ(ズーイー・デシャネル)は、結婚後も二人の関係がうまくいかないと悩んでいた。
ある日、仕事で遅くなると夫に告げたものの、職場の同僚デューイ(声:M・ナイト・シャマラン)とケーキを食べてしまう。
それをずっと気に病んでいたアルマは、余計に夫エリオット(マーク・ウォルバーグ)に引け目を感じてしまう。
しかし、この事件をきっかけに、二人は死を意識し始めることで、距離を縮めていく。
やがて、抗生物質が収まると、二人は、残された友人の娘とともに暮らし始める。
義娘の最初の登校日、アルマは自分が妊娠していることを知るのだった。

彼らはこのように助かる。
だが、彼らが助かった理由がいっこうに明かされることはない。
普通、こういう映画であれば、自分の課題を克服した者が生き残るものだ。
もしくは、ほかの人間とは特別違った選択をしたものが生き残ることができる。
それなのに、この映画では、彼らの行動にそういった主人公となるべき「特別な要因」を感じることがない。
なぜなら、友人のジュリアンは、かなりうざったい性格であっても、娘を死ぬほど愛していた。
だが、あっさり死んでしまう。
その妻も同じことだ。

しかも、アルマが悩んでいるのは、「夫とは違う男とお茶をした」という、たったそれだけのことだ。
寝たとか、妊娠してしまったとか、そういう深刻な裏切りではない。
それをくよくよ悩んで、夫とうまくいかなくなってしまう。
それはほとんど異常なくらい、過剰な禁欲的発想だ。

愛を語り合う二人は、一見課題を克服したかのように見える。
あるいは、そこに克服すべき課題などなかったのだと、発見するように見える。
だが、それは物語全体との齟齬が極限までに達したことを同時に示すのだ。
それまでの流れで言えば、そのことが結論になることは、少なくともこれまでの映画では、なかった。
だから、僕らは、この微妙な齟齬、期待しているものと、提示されることへの決定的な、それでも微妙な齟齬、にいらだったり、戸惑ったりするのだ。
それは「物語上の記号なんて意味はないのさ」という監督からのハリウッド映画への最大のアンチなのかもしれない。

だが、それを感動できると享受できる人は、この世にいまい。
孤高と呼ぶのか、無謀というのか、あるいは独りよがりというのか。
それもこれも、「レディ・イン・ザ・ウォーター」と同じ欠点だろう。
結局二人の関係性を示す以前に、彼らの個々の人間性を描けていないのだ。
だから、彼らの言動がひどく「上滑り」しているように見受けられてしまう。

そして、カタルシスを得ることがでいないことで納得できないもう一つの理由は、自殺のホラー的要素の中途半端さだ。
自殺という奇妙な親善の抵抗を描きたかったのなら、もっとリアルに描くべきだった気がする。
怖いと言うよりは、手を抜いた印象を受けてしまった。
それは、「SAW」といった忌まわしきハリウッド映画のために、僕の免疫ができてしまっているからかもしれないが。

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