secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

スパイダーマン: ノー・ウェイ・ホーム

2022-01-10 15:46:46 | 映画(さ)
評価点:90点/2021年/アメリカ/148分

監督:ジョン・ワッツ

〈私〉に届く物語。

ミステリオによって正体を暴かれたピーター・パーカー(トム・ホランド)は、全世界(厳密に言えばNY)から注目される存在となってしまった。
騒動を起こした張本人であると喧伝されたことで、恋人になったばかりのMJ(ゼンデイヤ)と、良き理解者だったネッドにも影響が出てしまった。
進路も絶たれてしまったピーターは、魔術師ストレンジ(ベネディクト・カンバーバッチ)に相談する。
時を戻すことはできないが、記憶を消せるかもしれない、と術式展開を行ったが、失敗、マルチバースを開いてしまった。
なんとか閉じたが、スパイダーマンを敵と見なす超人たちが、別次元から現れる。
ストレンジに言われて、元の世界に連れ戻そうとするスパイダーマンだったが、おばのメイに言われた「力を持つ者は責任がある」ということばが、ピーターを捉えていた。

MCUに絡んだトム版の「スパイダーマン」の三部作の最後を飾るのが、本作「ノー・ウェイ・ホーム」である。
予告編が頻繁に流され、年末に公開された本国では異例のスタートダッシュを見せたことで、日本でも話題になっていた。
さまざまなウワサが飛び交っていたが、公開されてすぐにネタバレもされている。
この映画は絶対にネタバレされずにみたほうがいい作品なので、一切の情報を立ちたい。
検索するのもまずい。(検索候補に思いっきりネタバレワードが出てくる)
SNSをはじめ、関連する情報を完全にシャットアウトして臨みたい。

また、過去のシリーズのヴィランが登場するとこもあり、前二部作、前々三部作もできれば見ておきたい。
というか、スパイダーマンファンに贈る作品であるので、逆にそこまでスパイダーマンを知らないのなら、別に見る必要はないかもしれない。
どれくらいスパイダーマンに思い入れが強いかによって、大きく評価が分かれるだろう。

奇跡のような作品を、ぜひ、劇場で体験すべきだ。
ネタバレ無しで。

▼以下はネタバレあり▼

マルチバースというのは多宇宙のことで、宇宙が無限の広がりがあるとすれば、この地球と同じような世界が存在する可能性も、また無限にあるということだ。
であれば、もしかしたらこの地球と同じような惑星や少し違う地球も存在するかもしれない。
もしその次元の異なる地球と行き来することができるようになれば、もしかしたらそっくりの自分やすこし変更が加わった世界などが存在するかもしれない。

たとえば「ドラゴンボール」の未来から来たトランクスなどが、そういう考え方を元に描かれた物語だった。
だから、MCUだけの特別な考え方ではなく、天文学や物理学の間ではまことしやかに言われている仮説である。
ただ、それらを確認する方法がないだけで、絶対にあり得ないということは言えない。
SF作品などではよく題材や設定にされることが多いわけだ。

今回はMCUで次元の異なる世界を行き来できる魔術を扱う、ストレンジがその扉を開いてしまう、という話になっている。
過去のスパイダーマンシリーズに出てきたヴィランが登場し、トム版のスパイダーマンを苦しめるという設定だ。
実はこの設定、映画的にかなり危ういものになりうる設定だった。

というのは、過去の作品と紐付けてしまうと、MCU自体の作品が相対化されて「作り物」のように感じられてしまうからだ。
メタフィクションを描くのと同じように、外側の世界を観客に意識させてしまう。
そうなると、二次創作やオマージュ、さらに言い方を悪くすればパクリのように感じさせてしまう可能性がある。
特にヒーローがばんばん登場するMCUの世界観にあって、「何でもありじゃん」と思わせてしまえば映画として没入する余地を失ってしまうわけだ。
トレーラー(予告編)を見た人の印象から言えば、「ああ、ネタがないから過去の作品にあやかろうとしているのか」と揶揄されてもおかしくない設定だと言える。

マトリックス レザレクションズ」がその失敗作品の典型例だろう。
過去の作品を作品に取り入れることで、より作品が相対化されてしまう。

だが、この「ノー・ウェイ・ホーム」は、その点を逆手に取ったとんでもない傑作になった。
これは、本当にヒーロー映画の中でも、SF映画の中でも、そして何より映画業界にとっても歴史に刻んだ作品と言える。

【ピーター・パーカーという〈個〉の物語】

本性を暴かれたピーターは、周りを巻き込んでしまったことに深く傷つき、ストレンジに全てを忘れる魔術をかけてもらう。
しかし、まだまだ若いピーターはその魔術の最中に注文をつけてしまい、魔術が失敗してしまう。
そのことで、マルチバースが開き、他の次元のスパイダーマンの敵を呼び寄せてしまう。

ここにはピーターという個人の物語がきちんと描かれている。
自分だけが助かりたい、という思いで始まった物語は、「自分の孤独」を肯定することで閉じるようになっている。
ラストで、全てのバースを閉じるために、自分がスパイダーマンであったことを自分以外全ての人が忘れてしまう、というリスクを負う。
その決断ができたのは、「誰かが自分を認めてくれなければ生きていけない」という今までのピーターにはなかった発想だった。
ホームカミング」も「ファー・フロム・ホーム」も、承認欲求の塊のような振る舞いを見せていたピーターだった。
だが、ここにきてようやく、ヒーローとしての責任は、誰かに理解されたり賞賛されたりすることではない、と腹をくくるのだ。

しかもそのあり方は、誰かを救うためである。
ラストですべてを忘れ去ったMJに、結局自分がスパイダーマンであることを告げなかった。
なぜなのか。
自分がスパイダーマンであることを告げることは、結局自分のためでしかない。
MJを救うことは、再び恋仲になることではない。
むしろ離れておくことの方が、彼女の人生を生きるために必要なことだと判断したのだ。
恋人と思いを添い遂げられないという、これまでの「スパイダーマン」の流れから言っても、これは自然な結論である。

ヒーローは他人を救うためであって、自分が救われる(自己の欲望を満たす)ことではないのだ、とピーターは気づいたのだ。
ここには、「ダークナイト」にあった自己犠牲とも違う次元のヒーロー像がある。

というのは、彼は別次元から来た敵を救うために、この闘いをはじめたからである。
スパイダーマンとの闘いに傷つき、疲弊したヴィランを見つけたとき、メイは他人を救うことの責任を説く。
それを聞いたピーターは、ストレンジに逆らってまでも、彼らを助ける方策を考える。
だからこそ、ラストでMJと再び【出会う】ことを避けたのだ。

【〈社会的〉コードとしての「スパイダーマン」】

ヒーロー映画はなにより社会の世相を反映したものになる。
それは、そうでなければ評価され得ないからだ。
傑作のヒーロー映画は、社会のそのときの世相を比喩した作品になるものだ。

今回のヴィランは、これまでの作品のクロスオーバーの形で集合したことで、詳しいキャラクター設定を描かずともバックボーンが既に描かれている、という前提で登場した。
しかも、スパイダーマンと決戦する直前という設定だ。
だから、前シリーズを見ている観客には、余計な説明が不要でありながら、且つ彼らを待ち受ける非情な結末も知っている。
スパイダーマンに感情移入しながらも、ヴィランの運命をも共有することができている。
それは、これまでの作品が、しっかりとした敵を設定していたからに他ならない。

あのときもっと違った結末はなかったのか。
あのときあのコナーズともっと話ができていれば、救えたのではないか。
ここにあるのは敵であっても助けるべきだという、対峙を超えた救済の物語がある。
私たちが過去に犯した過ちさえも、救えるかもしれないという余地を見出す。

そしてそれは、この20年間、アメリカが復讐という名の不毛な戦争に費やされた時間、お金、命、正義が、否が応でも思い出されるわけだ。
必ず報復すると、高らかに宣言してアフガニスタンやイラクに戦争をしかけて、いったいどれくらいの人が救われただろう。
逆にどれくらいの人が犠牲になっただろう。
けれども、その結果今でもわかり合うことはできていない。

今までの闘いの最中にあった、私たちには気づかなかった、全てが終わってしまった今だから相対化できるそういう視点がある。
本当にあの敵は、敵だったのか。
救う余地はなかったのか。

メイが問いかけるのは、アメリカ人に対しての正義のあり方だ。
どれだけ憎いヴィランであっても、そこには一つの合理があった。
そのことを受けて描かれる本作の闘いは、だから真っ向から敵を倒すという「正義対悪」ではないのだ。
本編のほとんどで繰り広げられる闘いは、対峙する相手を救うための闘いなのだ。

ここに、コロナの騒動を経験した私たちに、強烈なメッセージが込められている。


【〈作品〉を横断するスパイダーマン】

だが、作品はそこでは終わらなかった。
親友のネッドが助けを求めた先にいたのは、あのアンドリュー・ガーフィールドのピーター・パーカーだった。
そしてもう一度呼びかけると、今度はトビーが現れた。
私は、文字通りもうスクリーンが見えなくなるほど泣いていた。
私はこのとき初めて気づいた。
「ああ、こんなに彼らのことが大好きだったんだ」と。

サム・ライミ版マーク・ウェブ版も、そのときにはわからなかった、私の物語が隠されていたことに、そのとき気づいた。
彼らは一様に不遇な運命を辿り、もがきながら人々を助けてきた。
明るく、おちゃめで、ばかばかしい態度をとりながら、そこにある深い悲しみをマスクの下に隠してきた。
そのことが一気に思い出されたのだ。

彼らはメイを失ったトムに話しかける。
力をもつ者には責任が伴う。
どんなに苦しいことがあってもそれは無意味じゃない。
前を向いて明るく生きていくことが、人の死に意味を与えるのだ。

「アメイジング」で救えなかったグウェインを、トムの世界のMJを救うことでやり直す。
一人でずっと戦っていた彼らは、兄弟のようなピーター・パーカーと出会い、ヒーローであることの難しさを共有する。
それは、今まで20年間生きてきた、観客一人一人に突き刺さる「できなかったことをやり直せるかもしれない可能性」を提示している。
だから、この話は、トムを通して、私たちにももっと可能性があるかもしれない、うつむいても前を向くべきかもしれない、というメッセージを受け取ることができる。
わかり得なかった人と、わかり合えるかもしれない。
だからこそ、この映画は〈私〉に届く物語なのだ。

ネタバレ厳禁の本作だが、ネットではネタバレの嵐が続いている。
それはとても残念なことだが、言いたくなる気持ちは分かる。
この感動を誰かと共有せずにはいられない。
それは傑作であることの裏返しだ。

もちろん、映画としての自立性はない。
この20年をともに歩んできたと思える人でなければ感動は得られないかもしれない。
けれどもこの物語は〈私〉の物語なのだ。
映画でありながら、こんなにも〈私〉に迫る物語があっただろうか。
「スパイダーマン」は、単なるヒーロー映画ではなく、象徴性をもったSF映画になった。

商業主義とかなんとか言われてもいい。
この感動を味わえたことに、本当に嬉しく思う。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 問われる社会的資源~~内在... | トップ | 「だれが悪いのか」という議... »

コメントを投稿

映画(さ)」カテゴリの最新記事