評価点:81点/2010年/アメリカ/112分
監督:デレク・シアンフランス
二人の始まりと終わりを描いた、完璧な世界。
定職に就いたことがなかったディーン(ライアン・ゴズリング)はようやく引越の仕事をみつける。
初めての仕事で、老人ホームに荷物を運んだとき、シンディ(ミシェル・ウィリアムズ)と出会い、恋に落ちる。
5年後、娘のフランキーは犬のメーガンがいなくなってしまったことに気付いた。
泣きじゃくるフランキー(フェイス・ワディッカ)をディーンはなだめながら妻のシンディを起こす。
妻は不機嫌な様子で、フランキーの朝食を作り始める…。
M4会で勧められた、2011年に日本で公開されたラブ・ストーリー。
全くの予備知識なしで観た。
こちらも「ムカデ人間」と同様、4本で1000円に惹かれて手に取ったのだ。
これまで二度、レンタルしては観ずに返すということを繰り返していたので、なんとか今回はみてやろうと意気込んで観た。
単館上映だったはずなので、見逃した人も多いだろう。
良質の映画であることは間違いなく、完成度は高い。
けれども、注意が必要なのはこの映画は男女で観るべき映画ではないということだ。
特にラブラブなカップルは二人で観ると、本当に辛い目に遭うかもしれない。
完成度が高い分だけ、高確率でそうなるだろう。
夫婦二人とも、どこにでもいそうな平凡な男女を演じている。
自然さを失わない二人の演技だけでも見る価値がある。
観るべき映画の一つである。
▼以下はネタバレあり▼
この映画を観るとカップルは喧嘩をしはじめるのではないか。
考えれば考えるほど、そう思えてしまう。
それはすなわち、この映画の完成度の高さがそう思わせるのだろうと考えるに至った。
この物語は最初と最後のみが提示される。
物語には常にはじめと終わりがあるものだけれど、この映画にはその「間」なるものがない。
だから「間」に相当する部分は、はじめと終わりから想像するより他ない。
つまりは、二人が出会ったころと、別れる時の二つの時間軸から描かれている。
映画の時間軸のとおり話を進めているとわかりにくい。
だから、ここでははじめとおわりで話を分けて、整理してみよう。
ディーンとシンディは非常に運命的な出会いがきっかけとなって交際に発展する。
彼女は恋人のボビーがいたが、避妊せずにセックスすることで、彼女は妊娠してしまう。
ボビーはどこにでもいるイケメン高校生。
そんなボビーが彼女の妊娠を受け止めることができるはずもなく、彼女は堕胎を余儀なくされる。
そんな時に出会ったのが、引越し業者として老人ホームに来ていたシンディだった。
彼はそれまでまともに仕事にありついたことがなく、ようやく引越しの仕事を見つけた。
そこで老人ホームに祖母の介護で来ていたシンディと出会う。
その数奇な出会いは二人にとって、運命めいた予感を覚えさせる。
ちらっと見えたその様子から、心を奪われたディーンは彼女を追い求める。
ついに再会したとき、二人とも恋に落ちていた。
彼女の妊娠が発覚するのはその後だ。
だから、彼女は動揺する。
元恋人にも堕胎を迫られ、育てていくことができない状況に陥る。
ディーンはそれを聞き、家族になろうと決意する。
それは彼女にとっても望むべきことであり、まさに救い主のような存在と感じる。
二人の結婚は、運命めいているだろうか。
しかし、ここに落とし穴があったことに彼らは気づけなかった。
それは、この二人は決して対等な関係で結ばれたわけではないということだ。
二人は愛し合って結婚したに違いない。
けれども、男にとってみれば、常に「自分の子どもでない娘を引き取って育てている」という恩を常に着せながら生活することになる。
よい父となることは、彼にとってしなくてもよい義務を敢えて受け取っているという状態になる。
だから、それに甘えてしまう。
シンディも、彼に感謝から接する以外になくなってしまう。
この対等でない関係が、五年後決定的な亀裂となる。
5年後の夫婦の風景はどこにでもあるような日常のようにみえる。
けれども、二人の溝が取り返しのつかない状態にあることは、よく観察すれば見えてくる。
わかりやすいのは犬メーガンのシークエンス。
娘のフランキーが大切にしていた犬が逃げ出してしまう。
シンディが車を走らせていると、道路の横に犬が横たわっている。
庭でしか過ごしたことがなかったのだろう、交通事故に遭ってしまったのだ。
娘の発表会、観客席で夫にそのことを伝えると、夫は一言、
「だから鍵をかけろって言っておいたのに」
よくある会話に見える。
けれども、妻が憔悴しきった表情で隣に座ったとき、妻が言ってほしかったことはそんな言葉ではなかったはずだ。
夫はそれを気づくこともできずに、そう言い放ってしまう。
「俺が悪いんじゃない、お前が悪いんだろ。」と。
しかし、その犬の埋葬のとき、号泣するのは父親のディーンである。
素直に感情を表現できない二人の関係性は、ひどくいびつになっている。
相手にわかってほしい。
それを伝えるすべがない。
価値観の相違や、性格の不一致といってしまえば、事足りるのかもしれない。
二人の関係性は、まったくかみ合うことなく、別れへと突き進む。
この映画はきっと誰にでも感情移入することができる。
ただし、この映画は男女で完全に感情移入する相手が異なるだろう。
誰にでも感情移入できるのは、この映画がどこにでもいるような「普通の夫婦」を描いているからだ。
無個性といってもいいほどだ。
男は家族のためにといいながら、仕事に肯定的な生きがいを見出すことができず、妻はそれに対して腹立たしいと感じている。
妻は、自分の仕事の夢をかなえようと必死になり、看護婦の仕事を手に入れる。
その姿が、家庭を顧みないように夫には映ってしまう。
それはお互いが自分の衝かれたくないところを隠すような、「なぜ理解してくれないんだ」というようなまなざしだ。
僕は見ながら、「なぜ妻はもっと夫を理解してあげないんだ。やり直せるよ!」と思いながらすごくはらはらしながら見ていた。
そう、二人には劇的な運命的な出会いがあり、困難を乗り越えることで結ばれた二人だからだ。
だからどうしても可能性を見出したくなる。
その一方、一緒に見ていた姉(そこが僕にとって悲しすぎる現実なわけだが)は、「それはあかんわ、男が」とつぶやく。
男女でこの映画を見るとこうも見る角度が違うのか、と思い知らされる。
この角度の違いそのものが、この映画の決定的で強烈なところだ。
あの後二人はよりを戻すだろうか。
答えはNOだろう。
元に戻る可能性はない。
なぜなら、二人には自分が正しいと信じるものが取り除けないからだ。
それが自分が父親でないのに注ぐ、娘への愛であったり、夢をかなえるために必死になる努力であったり。
彼、彼女がお互いの関係性を支えているそのものが、すでに相手を傷つけているのだ。
だから、この映画は重い。
そして何度も言うように、この映画はどんな男女でも陥る可能性のある普遍性がある。
二人がお互いを理解しあいながら一生を添い遂げる、そんなことは奇跡なのではないかと思わせる、そんな映画だ。
監督:デレク・シアンフランス
二人の始まりと終わりを描いた、完璧な世界。
定職に就いたことがなかったディーン(ライアン・ゴズリング)はようやく引越の仕事をみつける。
初めての仕事で、老人ホームに荷物を運んだとき、シンディ(ミシェル・ウィリアムズ)と出会い、恋に落ちる。
5年後、娘のフランキーは犬のメーガンがいなくなってしまったことに気付いた。
泣きじゃくるフランキー(フェイス・ワディッカ)をディーンはなだめながら妻のシンディを起こす。
妻は不機嫌な様子で、フランキーの朝食を作り始める…。
M4会で勧められた、2011年に日本で公開されたラブ・ストーリー。
全くの予備知識なしで観た。
こちらも「ムカデ人間」と同様、4本で1000円に惹かれて手に取ったのだ。
これまで二度、レンタルしては観ずに返すということを繰り返していたので、なんとか今回はみてやろうと意気込んで観た。
単館上映だったはずなので、見逃した人も多いだろう。
良質の映画であることは間違いなく、完成度は高い。
けれども、注意が必要なのはこの映画は男女で観るべき映画ではないということだ。
特にラブラブなカップルは二人で観ると、本当に辛い目に遭うかもしれない。
完成度が高い分だけ、高確率でそうなるだろう。
夫婦二人とも、どこにでもいそうな平凡な男女を演じている。
自然さを失わない二人の演技だけでも見る価値がある。
観るべき映画の一つである。
▼以下はネタバレあり▼
この映画を観るとカップルは喧嘩をしはじめるのではないか。
考えれば考えるほど、そう思えてしまう。
それはすなわち、この映画の完成度の高さがそう思わせるのだろうと考えるに至った。
この物語は最初と最後のみが提示される。
物語には常にはじめと終わりがあるものだけれど、この映画にはその「間」なるものがない。
だから「間」に相当する部分は、はじめと終わりから想像するより他ない。
つまりは、二人が出会ったころと、別れる時の二つの時間軸から描かれている。
映画の時間軸のとおり話を進めているとわかりにくい。
だから、ここでははじめとおわりで話を分けて、整理してみよう。
ディーンとシンディは非常に運命的な出会いがきっかけとなって交際に発展する。
彼女は恋人のボビーがいたが、避妊せずにセックスすることで、彼女は妊娠してしまう。
ボビーはどこにでもいるイケメン高校生。
そんなボビーが彼女の妊娠を受け止めることができるはずもなく、彼女は堕胎を余儀なくされる。
そんな時に出会ったのが、引越し業者として老人ホームに来ていたシンディだった。
彼はそれまでまともに仕事にありついたことがなく、ようやく引越しの仕事を見つけた。
そこで老人ホームに祖母の介護で来ていたシンディと出会う。
その数奇な出会いは二人にとって、運命めいた予感を覚えさせる。
ちらっと見えたその様子から、心を奪われたディーンは彼女を追い求める。
ついに再会したとき、二人とも恋に落ちていた。
彼女の妊娠が発覚するのはその後だ。
だから、彼女は動揺する。
元恋人にも堕胎を迫られ、育てていくことができない状況に陥る。
ディーンはそれを聞き、家族になろうと決意する。
それは彼女にとっても望むべきことであり、まさに救い主のような存在と感じる。
二人の結婚は、運命めいているだろうか。
しかし、ここに落とし穴があったことに彼らは気づけなかった。
それは、この二人は決して対等な関係で結ばれたわけではないということだ。
二人は愛し合って結婚したに違いない。
けれども、男にとってみれば、常に「自分の子どもでない娘を引き取って育てている」という恩を常に着せながら生活することになる。
よい父となることは、彼にとってしなくてもよい義務を敢えて受け取っているという状態になる。
だから、それに甘えてしまう。
シンディも、彼に感謝から接する以外になくなってしまう。
この対等でない関係が、五年後決定的な亀裂となる。
5年後の夫婦の風景はどこにでもあるような日常のようにみえる。
けれども、二人の溝が取り返しのつかない状態にあることは、よく観察すれば見えてくる。
わかりやすいのは犬メーガンのシークエンス。
娘のフランキーが大切にしていた犬が逃げ出してしまう。
シンディが車を走らせていると、道路の横に犬が横たわっている。
庭でしか過ごしたことがなかったのだろう、交通事故に遭ってしまったのだ。
娘の発表会、観客席で夫にそのことを伝えると、夫は一言、
「だから鍵をかけろって言っておいたのに」
よくある会話に見える。
けれども、妻が憔悴しきった表情で隣に座ったとき、妻が言ってほしかったことはそんな言葉ではなかったはずだ。
夫はそれを気づくこともできずに、そう言い放ってしまう。
「俺が悪いんじゃない、お前が悪いんだろ。」と。
しかし、その犬の埋葬のとき、号泣するのは父親のディーンである。
素直に感情を表現できない二人の関係性は、ひどくいびつになっている。
相手にわかってほしい。
それを伝えるすべがない。
価値観の相違や、性格の不一致といってしまえば、事足りるのかもしれない。
二人の関係性は、まったくかみ合うことなく、別れへと突き進む。
この映画はきっと誰にでも感情移入することができる。
ただし、この映画は男女で完全に感情移入する相手が異なるだろう。
誰にでも感情移入できるのは、この映画がどこにでもいるような「普通の夫婦」を描いているからだ。
無個性といってもいいほどだ。
男は家族のためにといいながら、仕事に肯定的な生きがいを見出すことができず、妻はそれに対して腹立たしいと感じている。
妻は、自分の仕事の夢をかなえようと必死になり、看護婦の仕事を手に入れる。
その姿が、家庭を顧みないように夫には映ってしまう。
それはお互いが自分の衝かれたくないところを隠すような、「なぜ理解してくれないんだ」というようなまなざしだ。
僕は見ながら、「なぜ妻はもっと夫を理解してあげないんだ。やり直せるよ!」と思いながらすごくはらはらしながら見ていた。
そう、二人には劇的な運命的な出会いがあり、困難を乗り越えることで結ばれた二人だからだ。
だからどうしても可能性を見出したくなる。
その一方、一緒に見ていた姉(そこが僕にとって悲しすぎる現実なわけだが)は、「それはあかんわ、男が」とつぶやく。
男女でこの映画を見るとこうも見る角度が違うのか、と思い知らされる。
この角度の違いそのものが、この映画の決定的で強烈なところだ。
あの後二人はよりを戻すだろうか。
答えはNOだろう。
元に戻る可能性はない。
なぜなら、二人には自分が正しいと信じるものが取り除けないからだ。
それが自分が父親でないのに注ぐ、娘への愛であったり、夢をかなえるために必死になる努力であったり。
彼、彼女がお互いの関係性を支えているそのものが、すでに相手を傷つけているのだ。
だから、この映画は重い。
そして何度も言うように、この映画はどんな男女でも陥る可能性のある普遍性がある。
二人がお互いを理解しあいながら一生を添い遂げる、そんなことは奇跡なのではないかと思わせる、そんな映画だ。
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