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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ゲド戦記

2009-07-12 18:11:56 | 映画(か)
評価点:23点/2006年/日本

監督:宮崎吾郎

映画を大切にしないやつは、死ね。

アレン(声:岡田准一)は一国の王である父親を殺して逃げる。
旅を続けているとハイタカ(声:菅原文太)と名乗る老人に出会う。
そして二人は旅を続けるが、魔法使いのクモ(声:田中裕子)に目を付けられ、窮地に立たされてしまう。

いきなりの失言で申し訳ない。
建築畑の人間をいきなり起用して、何が描きたかったのか。
それがこの映画の見所であり、最大の焦点である。
「ゲド」を肯定的に見る人もいないわけではない。
期待をしないで観なければ、案外面白いかもしれない。
しかし、僕はテレビでこれを数年後放映していても、絶対に観ないだろうし、ジブリ映画をもし、彼がもう一度撮るというのなら、観に行くかどうかの真剣な検討が必要だろう。

僕としては間違いなく期待を裏切った作品であると断言できる。
 
▼以下はネタバレあり▼

まず、息子・吾郎の名誉のために言っておく。
彼は映画の専門家ではなく、建築畑の人間である。
その彼がいきなり初監督したのがこの映画である。
多少の力量のなさはしかたない。
もし、この作品が悪いとすれば、彼を監督に起用したジブリが悪いのだ。
僕としては彼はもう二度と映画業界に関わらないほうがいいと思うが、この映画の失敗は、彼だけの責任ではないことを、最初に明確にしておきたい。

どこから言えばいいのか。
この映画も、多くのジブリ作品と同じく、「往来の物語」である。
つまり、主人公が旅にでて、非日常の世界に触れ、そしてまた日常に戻ってくるときに、成長する、という話である。
加えて、父親殺しの話でもある。
エディプスコンプレックスに代表される、父親を乗り越える話であることは、冒頭の始まり方でも明確に表れている。

テーマも明確だ。
「人の命を大切にしないやつは嫌いだ」
「死が怖いと言うことは生が怖いんだ」
「生き物は死ぬから大切にしなければならないんだ」
というように、テーマは今を生きること。
生を全うすることであろう。
これらはオーソドックスであり、はっきりと劇中も明示されている。

しかし、この映画の最大の問題は、そんなところにはない。
問題は、誰一人としてキャラの内面を明確にしていないということだ。

この映画は「何故?」を問いだしたらきりがないほどに出てくる。
顕著なのは主人公のアレンだ。
アレンはなぜ父親を殺したのだろう。
冒頭に父親殺しの話が印象的に描かれるのに、その後一切彼と父親との関係を語るシーンはない。
父親を殺したことによって、恐怖が生まれたと言うが、父親を殺した経緯を明らかにしなければ、その恐怖は取り除かれることはないはずだ。
なぜなら、父親殺しは「結果」であって「原因」でなないからだ。
それなのに、父親殺しとそれによって味わった恐怖とが別個に扱われ、恐怖のほうにだけ焦点が当てられてしまっている。
だから、あのシーンの必要性が全くなくなってしまっている。

アレンだけではない。
ヒロインに位置づけられるテルー(声:手嶌葵(新人))の造形も不明確だ。
アレンに不本意とはいえ助けられたのにもかかわらず、その後「命を大切にするやつは嫌いだ」と偉そうなことをのたまう。
それならあそこで捕まっても良かったのだろうか。
その後誘拐されそうになったときは、必死の抵抗。
何があっても抵抗しないというような強い決意だったと思っていた僕にとって、何がしたいのかわからない。

結局彼女がアレンの「課題」(結局中身が不明の「課題」だが)を取り除く位置に立つはずなのに、
彼女がなぜその資格を有するのか、不明確なままだ。
顔をけがしていたら、心は純粋でしかも悟りが開けるのだろうか。

しかし、そんなことよりも、声優としての技量があまりにも足りない。
エンドロールで「新人」と但し書きをしておかないと見せられないのなら、最初から起用するなといいたい。
彼女の声の違和感がでかすぎる。

中盤で歌い出すシーンもやたらと長く、その必然性を感じない。
それほど上手い歌でも、良い歌でもないのに、さも、良い歌のように演出するのは、ほとんど彼女の演技の下手さをさらし者にしているようなものだ。

このように、この映画には自分のアイデンティティを語る人物が全くいないのだ。
だから、誰一人として感情移入できる人間はいないし、課題も解決されようがない。
しかし、この映画は徹頭徹尾、答えをさけび続ける。

「人の命を大切にしないやつは嫌いだ」

「死が怖いと言うことは生が怖いんだ」

「生き物は死ぬから大切にしなければならないんだ」

それが各キャラとどのような関係性があるのか、全然わからない。
問題が提示されないまま、結果や答えばかりが次々に提示されていく。
しかし、そもそも問題はなんだったのかが明らかにされない以上、そこに意味を求めることができないし、なぜそれが「答え」になるのかもわからない。
アレンが悩んでいたことは何だったのか。
ゲドが探していたことはなんだったのか。

人一人を描くことさえしていないのに、答えだけが仰々しく大きいものになっている。
これで感動しろというほうが無理である。

それだけではない。
お話が極端に小さいのだ。
それは世界観の狭さでもある。
冒頭では
「人間の世界に竜が現れるなんて」
「しかも共食いをしておる!」
「世界のバランスが崩れ始めている」

などという大きな話を「問題」の「結果」として提示している。
しかし、やはりその「原因」は全く提示されない。
それだけでなく、その「問題」も解決されることはない。
解決されたのは、アレンにとって、生を大切にしろ、ということだけだ。
これと世界との関連はいったい何だったのか。
世界は具体的に何がダメだったのか。
結局「原因」の究明や「解決」は行われない。
思わせぶりなことを言っただけになってしまっている。

二人が旅をするという話であったのに、急に根を下ろしてしまうというところにも世界の狭さを感じずにはいられない。
世界を旅するどころか、いっかいの魔法使いに話を絞り込んでしまっている。
しかも、世界においてクモの存在がどのような関わりがあるのか、説明されない。
確かに「このあたりで魔法の力を失っていない唯一の魔法使い」なのだろうが、それは全世界でということなのか、このあたりだけの話なのか、そしてなぜクモだけが魔法が使えるのか、そのあたりの説明が、映画的記号としても、具体的な世界観の説明としても全くない。
敵 = 「課題」が不透明なので、カタルシスはおろか、事態の把握さえままならない。

年老いて、死を恐れることがそんなにも「悪」なのだろうか。
そこに人間性のような弱さを愛する心がない、冷徹さすら感じる。
それはひとえに、クモの内面を十分にあぶり出せなかったからだろう。

そもそも世界観の説明が何もない。
竜の位置づけ、魔法の位置づけ、アレンのいた国の位置づけ、世界の腐敗はどういうことなのか、何もわからない。
ただわかっていることは、この世界が「天空の城」に代表されるような「ジブリっぽい」世界だということだ。
「みんな知っているジブリの世界だから何となくわかるよね」という程度の説明しかないのだ。

この映画は、すべて宮崎駿が作り出した、世界観、ジブリ・ブランド、
富、技術、そして吾郎という遺伝子を食いつぶしただけの作品になっている。
そこに描くべき「映画」としての志や、哲学のようなものは、一切ない。
ド素人の吾郎を無理矢理起用しようとしたことが、全てを物語ってはいないだろうか。

映画を大切にしない映画人なんて、死ね。
ジブリの連中は、興行成績だけを恐れているんだ。
興行成績を恐れるということは、それは映画の完成度を恐れるということなんだ。
でも、本当に大切なのは、興行成績ではなく、映画の完成度を高めるということなんだ。

こんなわけのわからぬ作品を作るくらいなら、ジブリは潰れた方がいいと思う。

(2006/8/10執筆)

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