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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ハンガー・ゲーム(V)

2013-12-29 14:56:58 | 映画(は)
評価点:31点/2012年/アメリカ/142分

原作・脚本:スーザン・コリンズ
監督:ゲイリー・ロス

馬鹿にされているのは私たち。

近未来、国家は貧富の差が拡大した国民を納得させるため、12に分かれた地区からそれぞれ代表者を選出し、殺し合いをさせるという「ハンガー・ゲーム」なるテレビ・ショウを国民的行事としていた。
第74回ハンガーゲームに選ばれたプリムローズを救うため、姉のカットニス・エヴァディーン(ジェニファー・ローレンス)が立候補した。
生き残れるのは12地区から選ばれた男女一名ずつ、合計24名の中からたった1名だけだった。
狩りを生業にしていたカットニスは弓の名手だったが、招かれた盛大な催しに彼女は辟易してしまう。

公開当時から気になっていたSF作品。
ただ、公開当時からこれは駄作のにおいがする、警戒していた作品でもある。
今回、テレビで深夜放送していたので、録画して見てみた。
テレビ放送なので、日本語吹き替え、しかも所々編集されているだろう。
また、CFが入るので、映画を鑑賞したという環境としてはかなり劣る状況にあった。
故に、この批評がこの映画の正統なものであるかどうかは、正直自信はない。
けれども、これから先、この映画を見直すとはとうてい思えないので、記事にしておこう。
何かの参考になれば、と思う。

それを差し抜いても駄作だという評価は揺るがないと私は思っている。
続編も公開される。
気になる人は見ればよいと思うが、そうでない人は全くおすすめできない。

▼以下はネタバレあり▼

シチュエーションだけ聞いたとき、「まんま、「バトル・ロワイアル」やん」と思った日本人は多かっただろう。
私もそうだ。
見終わって、「やはりどう考えても説得力がない」ということがこの映画を表す全ての言葉ではないだろうかと思う。

世界観にかなりの無理がある。
貧富の差が拡大した世界で、暴動を抑えるためにテレビショウを行う。
その勝者は一生不自由のない暮らしが約束されている。
24人の中から勝者は一人だけ。
死ぬか、生き残るか、という殺し合いである。

私はこれを見ながら、いくつかの映画を思い出していた。
この映画は見る者と見られる者という両者を描きながら物語が展開される。
見る者はもちろん、持つ者(富豪)であり、見られる者は持たざる者(貧困者)という構造だ。
しかし、それだけではない。
見る者は、私たち視聴者(観客)とイコールの関係で結ばれる。
なぜなら、私たちはお金を払ってこの映画を見るわけだし、普段作る側ではなくそれを受け取る側に立っているからだ。
この映画はその点を完全に見逃している、もしくは気づいていないかのような無邪気さがある。

この映画が圧倒的に嫌悪感を覚えさえるのはその点にある。
もっとはっきり言えば、この映画を見ているとむかついてくる。
俺たちは馬鹿にされているのかと思ってしまう。

映画を見ているとカットニスに感情移入しながらも、それは見ている自分である視聴者としてその姿を見るという構図は揺るがない。
私たちは一視聴者としてこの物語を楽しむことになる。
これは「キャビン」などとも同じ構造だ。
しかし、この視聴者に対してほとんど冒涜とも言える処置が繰り返される。
だから、私たちはこの映画を見ているとだんだんむかついてくるか、馬鹿にされた気持ちになるか、嫌になってくることになる。

たとえば、戦いが進むにつれてカットニスと同郷のピーターが半ば強引な恋に落ちていく。
その姿を見た途端、「ルールを改変して二人生き残ってもかまわないとする」という物語の前提を崩す。
そしてラスト、勝負が決したあと、「やはりルールを戻す」というあまりにも理不尽なルール変更を伝える。
これは完全にプレイヤーを弄ぶルール改変と言うよりは、「視聴者」を馬鹿にした態度としか思えない。

それだけではない。
ルーという少女が殺されたとき、カットニスはカメラに向かって大きくポーズをとる。
それを見た10地区(ルーが出身の地区)の視聴者は暴動を起こし始める。
このシークエンスを見ていてどのように感じただろうか。
私は視聴者を馬鹿にするのもいい加減にしろ、と思った。
これにはコンテクスト(文脈)がある。

それまで「暴動を防ぐために」やっていたハンガー・ゲームがいきなりここでひっくり返されるわけだ。
しかも「単なるテレビ番組」で。
そもそも、テレビ番組として放映されているのにもかかわらず命を賭しているという時点で視聴者を馬鹿にしている。
それで視聴者は喜び、「貧富の差による不満」を解消できるという理論だ。
ここには強烈な奢りがある。
すなわち、テレビ番組という権威がもつ影響力と、それを見る視聴者への軽視という奢りである。
こんな設定をしている時点で、この映画の浅薄さは見え透いている。
この映画の制作者(脚本?)たちは、テレビ番組一つで自分たちが置かれている状況へ反発したり従順になったりすると勘違いしているらしい。
だから、このカットニスのポーズによって暴動を起こすといういかにも不自然なシークエンスを成立させるだろう。

見る者と見られる者という対立構造を持たせた時点で、この映画はその関係性を壊すような展開にもっていかなければオチにならなかったのだ。
なぜなら、この関係性が崩れない以上、私たちはずっと「見る側」から動かないのだから。
(テレビ番組で暴動を起こすか否かを決めてしまうような)決定的に馬鹿な観衆を見せると言うことは、その関係性を壊さなければ、彼らは何も変わらないということだ。
作られた箱庭的な感動で終わってしまい、メタフィクションとしてそれを見ている私たちは「作られた感動で感動している観衆に感動させられる」馬鹿な観客に過ぎない。
それは観客への冒涜としか映らない。

だからこの映画を作る人間の人間性を疑いたくなる。
どうせこの程度の番組を作っていたら、視聴者は喜ぶんでしょ? という視聴者軽視の奢りが見え隠れしてしまう。
続編を公開させたかったからなのか、物語は世界観の崩壊までもっていかなかった。
だから全くカタルシスはない。
(逆に「キャビン」はその点が上手かったのだ。)

しかも、この映画に登場するガジェットやアイテム、デザインがことごとくセンスが悪い。
何を狙っているのかわからない白人の貴婦人だったり、アイシャドウが妙に腹が立つ黒人だったり。
ほとんど宇宙人の域に達している。
だから、憧れも、説得力も、嫌悪感も、何も抱けない。
ただただ「センスが悪い」としか映らない。

もう、ほんとに近年まれにみるしょうもない映画だ。
殺し合いの様子なんてどうでもよいのだ。
だってそもそも「人」や「命」を尊重しようという精神性はこの映画にはどこにもないのだから。


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