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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日

2013-03-11 22:23:21 | 映画(ら)
評価点:79点/2012年/アメリカ/127分

監督:アン・リー

ベンガルトラがほぼCGであるということの意味。

幼少期、インドの動物園を営む父に育てられたパイ(スラージ・シャルマ)は、ある日北米へ引っ越しすることになった。
日本を出港して数日後、大規模な暴風に襲われて、船は転覆してしまう。
パイが必死に救命ボートにしがみつき、船が沈没していく様子を見る。
生き残ったのは、シマウマ、ハイエナ、オランウータン(名:オレンジジュース)、そしてベンガルトラのリチャード・パーカーである。
衰弱していくそれぞれの動物たちはたちまち殺し合うことになるが……。

アカデミー賞の多数の部門にノミネートされた作品で、受賞が注目された作品の一つだ。
ずいぶん前から予告編も流れていたので、日本でも話題になっていた。
公開されてから時間も経ったので、すでに見に行ったという人も多いだろう。
吹き替えか字幕か、2Dか3Dかで公開方法が四種類もあるから、自分のみたい方法で時間を合わせるのは存外難しい。
できれば、やはり原作に近い字幕で、さらに3Dで見たいところだ。

ただし、この作品を「アバター」などの他の3Dエンターテイメント作品と同列に考えて見に行くのは危険だ。
誰にでも楽しめる映画ではあるが、きちんと観ないと「私が注文した料理とは違うものがでてきた」と喚く羽目になる。
映像ばかりに注目されるこの映画だが、3Dの映像は目的ではない。
目的を達成するための手段でしかない。
その意味をしっかりと認識して、この映画を観て欲しい。

なにせ、あの「ブロークバック・マウンテン」のアン・リー監督だ。
表層的な映画としてではなく、深遠な懐まで飛び込んで欲しい。

▼以下はネタバレあり▼

私は、アン・リーほどの監督がなぜリアルな映像にこだわらなかったのか、不思議で仕方がなかった。
私は、「ダークナイト」のクリストファー・ノーランの影響を受けていることもあり、本物の映像にこだわって欲しいと考えている一人だ。
昔、年配の仕事仲間に「私は今はやりのCGで描かれている映画はみない。なぜ人間が作り物で感動しないといけないのか」と話していたことを思い出す。
おもしろいものは、おもしろい。
それでいいとも思いながら、どうしても本物をみて感動したいという本質的な欲求は確かにある。

だからこそ、アン・リーほどの監督が、ほとんど全編CGに頼るような、「本物」がいない画を撮り続けるのはなぜだろうと不思議に思っていた。
その画がリアルであればあるほど、真に迫っていればいるほど、妙にきれいすぎる画に違和感を覚えていた。
そして、最後にその問いに対する答えが、はっきりと示された。
この映画は、CGでなければベンガルトラを描いてはいけなかったのだ、ということを。

物語をもう少しきちんと解体してから私の疑問に対する答えについて書こう。
物語は入れ子型構造になっている。
タイタニック」と同じように、過去の出来事を今いる語り手が回想しながら語る、という構造だ。
よくある構造だし、大して目新しいものでも、混乱するようなものでもない。
けれども、私がいつも書くように、今、ここを明らかにして語りの場を設定して物語を綴る場合、必ず物語は今、ここに戻ってこなければならない。
そうでなければ、同時的に起こった物語として描くべきだからだ。
あえて、物語を赤の他人(今回はカナダ人作家)に語るのならば、今、ここにどのように関連づけられるのかにテーマがスライドされる。

私は虎と漂流したという話をもう何年も話してこなかった、とパイは語り始める。
語り始めたのも、最初は自分の生い立ちから始め、決して虎との漂流だけを語ろうとはしなかった。
自分の生い立ち、それは、神がどのようなものなのかを考え、生きるとはどうするべきなのかを考えるという幼少期少年期だった、ということだ。
ヒンドゥー教徒として生まれ、キリスト教を知り、イスラム教の祈りを覚えた。
一方から見れば、それは明らかな禁忌なのかもしれないが、彼の中では一貫した何かがあった。

見に行った人は、ここで違和感を覚えたはずだ。
「私が見に来たのは少年がトラと漂流する話のはずだ」と。
この映画の、始点と支点はここにある。
だから、漂流する前に、印象的に描いたのだ。
この物語は、「少年が生きるということを学ぶ物語」なのである。
奇跡的に助かった、トラとサバイバルを遂げた映画ではない。
生きるということ、命を奪い、命を受け取るという大きな流れの中に生きていることを悟るということだ。

その転機となるのが、難破することだった。
だから、それが転機であることを示すためには、「難破に至る前」の話をしなければならなかったのだ。
難破すると、話もできない動物たちがともに救命ボートに乗り込むことになった。
怪我をしたシマウマ、獰猛なハイエナ、おとなしいオランウータン、そして危険なベンガルトラ。
生き残るために動物たちは殺しあう。
ハイエナはシマウマをむさぼり、それも尽きてしまうと、オランウータンの命まで奪ってしまう。
そしてベンガルトラにハイエナは殺され、ベンガルトラとパイ、二人(?)だけになってしまう。

漂流してはじめて気づいたことがあった。
それは、生き物を殺さなければ生きていけない、ということだ。
ベジタリアンであった彼にとっては、生命を奪うということ、魚であっても肉をむさぼるということに対して強い抵抗があった。
けれども、リチャード・パーカーと生きるということは、まさに他の生命を食い尽くしていくということそのものだったのだ。
そこで、生き物を奪うことへの感謝、生きることそのものへの畏怖の念を強く抱くようになる。
227日という長い時間の中で、宗教という「形」を越えた、超越的な何かに触れたのだ。
メキシコの海岸に着くと、リチャード・パーカーは去っていく。

そのことを日本の保険会社が聞き来たとき、「信じられない、もっとまともな話を聴きたい」と詰められる。
彼は、しぶしぶ、「もう一つの話」をすることになる。
それは、コックが怪我をした船乗りの足を食べ、さらに母親まで殺した。
そのコックをパイがさらに殺したのだ、そして今まで一人で漂流し続けたのだ、と話す。
カナダ人作家は、その話を聞き、コックがハイエナ、母親がオランウータン、シマウマが船員で、リチャード・パーカーは君自身だね、と言い当てる。
ここで物語のすべてがつながることになる。

何が事実だろうか。
何が真実なのだろうか。
ことばだけを追えば、起こった現象だけを追えば、「もう一つの話」が本当の話ということになる。
トラと227日も漂流していたのは、嘘っぱちだ、といえばその通りだ。
夢落ちと言いたければそれでもいいのだ。

しかし、トラのように生きた227日で、彼は確実に「生きる」ことを知った。
ベジタリアンかどうか、どんな神を信じるかどうか、どんな祈りが必要かどうか。
そんなことよりも大切なことは、自分が生きるために数え切れないほどの生命が失われ、自分の体を突き抜けていったことを彼は悟る。
彼は紛れもなく、ベンガルトラとともに227日漂流したのだ。

ラストで物語がすべてつながるようになっている。
なぜ多くの人に語ろうとしてこなかったのか。
なぜ四匹の動物たちのやりとりがあんなにもリアルに、時間をかけて、しっかりと描かれたのか。
なぜベジタリアンうんぬん、ヴィシュヌ神うんぬんの蛇足に見えた話があったのか。
そして、私はここで、なぜこの監督がCGでベンガルトラを撮影したのか、ということにも合点がいった。

(CGじゃないと技術的に不可能だったから? 本当にそうだろうか。
本物のトラを撮らずに済ませようという程度の意気込みなら、こんな作品引き受けないのではないだろうか。
アン・リーのこだわりはそんな安易なものではないだろう。)

この話がすべて作り話だ、というのならそれでもいい。
けれども、作り話だからこそ、この映画は輝いているのだと思う。

生きることが当たり前で、他の命を奪っていることを自覚することがしにくくなっている現代だからこそ、この映画は価値がある。
できることなら、もう一度映画館に行きたい、そう思わせる映画だ。

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