評価点:85点/1999年/アメリカ
監督:デヴィッド・フィンチャー
あなたはそれでも“物”に囲まれた生活を望むのだろうか。
不眠症に悩まされるナレーター(エドワード・ノートン)こと語り手は、サラリーマンとして働いていたが、生き甲斐が見いだせない。
たまたま訪れたガン患者の会に出入りするようになり、そこで思いっきり泣くことができた。
それからは不眠症を解消した彼だったが、マーラ・シンガー(ヘレナ・ボナム=カーター)も同様になんちゃって患者を装って、様々な会に出席してきた。
彼女に見透かされているように感じた彼は、再び泣くことができなくなり、不眠症に陥る。
彼女と協定を結び、重複しないように参加する会を分けることにした。
そんなある日、タイラー・ダーデン(ブラッド・ピット)と名乗る男と出会い、彼は徐々にタイラーに影響されていく。
映画館で映画を見始めた素人時代(今も素人だけど)に見た作品で、もう何年かぶりに見た。
それまであまり映画を観たことがなかったので、衝撃的な作品であったことは間違いない。
だが、正直、全然理解できていなかったのだと思う。
今観ると新たな発見もあり、こんなにおもしろく、完成度の高い映画だったのだ、と改めて感心させられた。
ブラッド・ピットと聞いて観るとえらい目に遭う。
エドワード・ノートンが好きになったのはこの作品あたりからだろう。
ラストのオチは確かに衝撃的だが、それよりも注目すべきは、しっかりと描かれた彼らの内面だ。
十年も前の作品だが、本当におもしろい映画とはこういう映画なのだ、と思わされる作品だ。
▼以下はネタバレあり▼
ラストのオチは、実は多重人格でした、という今では結構使い古されたものだ。
当時は、そりゃないよ~とのび太がドラえもんにねだるような声を上げたものだ。
「ゲーム」などと同じようなミスディレクション映画と思って観ると、この映画の本質を見誤ることになる。
サスペンスとしても一級だが、そのオチに隠された心理を見抜かなければ、おもしろみは半減する。
僕は今回見直すまで、気づかなかった。
多くの観客はたぶん理解できたのだろうけれど、一応説明しておこう。
物語の終盤で、タイラーはナレーターに、俺はおまえが生み出したもう一人のおまえだ、ということを告げる。
つまりこれまでの一連のやりとりは一人でやっていたという衝撃の告白だ。
ファイトクラブを立ち上げたのは、一人で「殴り合っていた」姿を周りが見て、参加し始めたというわけだ。
この違和感たっぷりのオチに、処理しきれなくなって頭が痛くなりそうだ。
そして、ナレーターは、タイラーと対峙したとき、銃を奪い返す。
二重人格であるならタイラーが向けた銃は、自分で向けた銃と同じだからだ。
そして、タイラーを抹殺するために、その銃口を自分の口の中に押し込む。
引き金を引き、タイラーを「殺して」しまうのだ。
自ら仕掛けた爆弾で壊れゆくビルを観ながらエンドロールを向かえる。
僕のように何も考えずに観ると、このシーンは不可思議な何とも消化不良のようなラストに見える。
「結局何が言いたかったの?」と怒りすら覚えて映画館を後にしても仕方がない。
そういう見方も悪くないが、それではおもしろくない。
タイラーに向けた銃口を自分に向けるということは、すなわち自分を殺すことに他ならない。
タイラーを殺すために自殺したように思えるが、実際には逆である。
つまり、自分を殺すために、あるいはタイラーであることを肯定するためにナレーターは自分に銃口を向けるのだ。
ラストのオチが示しているのは、完全にタイラーになったということを意味する。
タイラーとしてビルが崩壊していく姿を見ていたわけだ。
そう解釈すると、この物語は、〈ナレーターがタイラーになるまでの物語〉ということができる。
タイラーとなったナレーターは、もはや不眠症に悩まされることはないだろう。
終幕後は、彼は立派なテロリストとして人々を恐怖のどん底に陥れる犯罪者になることだろう。
もう少し話を丁寧に巻き戻そう。
車のリコール査定という極めて人の不平に近い仕事をしている彼は、いつしか不眠症になってしまう。
それは、自分の生活に満足できない、あるいは自分の人生に肯定できないということの証だった。
なぜなら、不眠症になったのは、寝ていないからであり、夜中に人間の脂肪で石けんを作ったりしていたからだ。
タイラーと名乗るもう一人の自分を作り出すことで、不眠症になっていく。
その理由は、繰り返しタイラーが訴える言葉に表れている。
「俺たちは誰にも感謝されることもなく働かされ続けている。」
「一線を越えるためにはすべてを捨てるしかない。」
「こんな世界壊してしまえばいい」
……一言一句は覚えていないのでこんなところでやめておこう。
とにかく、自分の取り巻く世界に対して不満と疑念を抱き、自分の生き方に納得できないナレーターがいた。
それは鬱になったりして不眠症になるのと、それほど変わらないのかもしれない。
だが、彼はそれを克服する手立てを得る。
それが、重病患者が集う会である。
ガン患者や感染症患者に紛れて、悲しそうな顔をして泣き叫ぶ。
それで彼は生を実感できたため、不眠症を解消し、心の平温を取り戻す。
それもマーラ・シンガーによって壊されることで、新たな展開に突入する。
タイラーであるもう一人の自分は、飛行機でとなりどうしになるという形で出会う。
考えれば、これが大いなる計画の一歩だったわけだ。
タイラーと出会った直後、自宅が爆発してしまう。
もちろん、タイラーとしての自分が、すべて仕込んだことだった。
爆弾についての知識は、不眠症だった頃に学んだのだろう。
タイラーに連れて行かれたのは、それまでの完璧な家具に囲まれた生活とは一転した廃墟だった。
もちろん、選んだのはナレーター自身だ。
物に囲まれた生活を放棄したいという願望を密かに抱いていたということだ。
彼らはふと、おもしろい試みを始める。
殴り合う、というファイトクラブを立ち上げるのだ。
このファイトクラブには二段階あるので、第一次ファイトクラブとでも呼んでおこうか。
この第一次ファイトクラブでは、サラリーマンの日常では失われた〈身体性〉を取り戻すことに重点が置かれる。
ナレーターが心の安定を取り戻すのは、拳と拳、肌と肌を突き合わせることで、人間として持っていた当然の身体的な凶暴性を発揮するからだ。
それまでもがれていた牙を、再びふるう機会を得たのだ。
よって、精神と肉体のアンバランスさをここで解消することになるわけだ。
もちろん、マーラとセックスするのも、その一連の流れだ。
〈生〉と〈性〉の両方を取り戻すことで、ナレーターは安定するのだ。
だが、タイラーはそれだけでは飽きたらず、ファイトクラブを社会的な存在へと昇華させる。
宿題と称して、人々にテロ活動を呼びかけるのだ。
これによって、自己の覚醒にとどまるだけでなく、自己を取り巻く世界そのものを覚醒させようと試みる。
もちろん、それは自他が支えるアイデンティティの確立への道であり、ナレーターとタイラーが同化するための手続きだった。
第二次ファイトクラブになることによって、名実ともに覚醒していくことになる。
自分自身の野生性を遺憾なく発揮することで、ナレーター自身を納得させていくわけだ。
この映画を最初に観たときに、僕はこのミスディレクションとも言えるトリックの必然性を認めなかった。
つまり、なぜこんなにまどろっこしい方法で物語を展開させたのだろうか、という疑問だ。
だが、丁寧に観れば(というか普通に観れば)、この答えは自ずと見えてくる。
理由の一つは、二人の役者が自己の二面性、――保守と革新という二面性――であることを示すためだ。
自己と自己のせめぎ合いをヴィジュアル的に示すにはこれほど良い方法はなかった。
世界を壊したいという欲求と、それは既存の価値観に反するものだという理性。
アクセルとブレーキのやりとりを二人の役者を文字通り競演させることでそれを見せたわけだ。
もう一つは、固有名詞が剥奪された“ナレーター”というエドワード・ノートンの役名に隠されている。
彼の一人称で語るスタイルから、固有名詞が存在しないことさえ気づかないような演出だが、この一人称による語りと、二重人格とは、制作者の意図的な演出だった。
つまり、観客は一人称として固有名詞さえ剥奪されていることから、完全にナレーターに感情移入することになる。
すなわち、観客自身がタイラーとなるように仕向けられていくのだ。
身体性や野生性、野獣性などといったナレーターが見失い、奪われてしまった動物性とも言える感覚を呼び起こし、この物質至上主義とも言える現代へのテロリストとなるように仕組まれているわけだ。
よって、この映画で最も救われるのは、ナレーターでもタイラーでも、去勢された登場人物たちでもない。
明確に、それは観客自身なのだ。
ミスディレクションとして演出される二重人格という衝撃よりも、映画館を出るときに観る異化された自身の周りの世界への衝撃の方が、遥かに強い。
タイラーという観客自身に隠されたもう一人の自分に気づく物語。
この映画は、世界が物質至上主義で、極度に身体性を奪う現代であり続ける限り、衝撃的でスタイリッシュであり続ける。
文句なしにおもしろい。
映画館で鑑賞できたことを誇りに思う。
監督:デヴィッド・フィンチャー
あなたはそれでも“物”に囲まれた生活を望むのだろうか。
不眠症に悩まされるナレーター(エドワード・ノートン)こと語り手は、サラリーマンとして働いていたが、生き甲斐が見いだせない。
たまたま訪れたガン患者の会に出入りするようになり、そこで思いっきり泣くことができた。
それからは不眠症を解消した彼だったが、マーラ・シンガー(ヘレナ・ボナム=カーター)も同様になんちゃって患者を装って、様々な会に出席してきた。
彼女に見透かされているように感じた彼は、再び泣くことができなくなり、不眠症に陥る。
彼女と協定を結び、重複しないように参加する会を分けることにした。
そんなある日、タイラー・ダーデン(ブラッド・ピット)と名乗る男と出会い、彼は徐々にタイラーに影響されていく。
映画館で映画を見始めた素人時代(今も素人だけど)に見た作品で、もう何年かぶりに見た。
それまであまり映画を観たことがなかったので、衝撃的な作品であったことは間違いない。
だが、正直、全然理解できていなかったのだと思う。
今観ると新たな発見もあり、こんなにおもしろく、完成度の高い映画だったのだ、と改めて感心させられた。
ブラッド・ピットと聞いて観るとえらい目に遭う。
エドワード・ノートンが好きになったのはこの作品あたりからだろう。
ラストのオチは確かに衝撃的だが、それよりも注目すべきは、しっかりと描かれた彼らの内面だ。
十年も前の作品だが、本当におもしろい映画とはこういう映画なのだ、と思わされる作品だ。
▼以下はネタバレあり▼
ラストのオチは、実は多重人格でした、という今では結構使い古されたものだ。
当時は、そりゃないよ~とのび太がドラえもんにねだるような声を上げたものだ。
「ゲーム」などと同じようなミスディレクション映画と思って観ると、この映画の本質を見誤ることになる。
サスペンスとしても一級だが、そのオチに隠された心理を見抜かなければ、おもしろみは半減する。
僕は今回見直すまで、気づかなかった。
多くの観客はたぶん理解できたのだろうけれど、一応説明しておこう。
物語の終盤で、タイラーはナレーターに、俺はおまえが生み出したもう一人のおまえだ、ということを告げる。
つまりこれまでの一連のやりとりは一人でやっていたという衝撃の告白だ。
ファイトクラブを立ち上げたのは、一人で「殴り合っていた」姿を周りが見て、参加し始めたというわけだ。
この違和感たっぷりのオチに、処理しきれなくなって頭が痛くなりそうだ。
そして、ナレーターは、タイラーと対峙したとき、銃を奪い返す。
二重人格であるならタイラーが向けた銃は、自分で向けた銃と同じだからだ。
そして、タイラーを抹殺するために、その銃口を自分の口の中に押し込む。
引き金を引き、タイラーを「殺して」しまうのだ。
自ら仕掛けた爆弾で壊れゆくビルを観ながらエンドロールを向かえる。
僕のように何も考えずに観ると、このシーンは不可思議な何とも消化不良のようなラストに見える。
「結局何が言いたかったの?」と怒りすら覚えて映画館を後にしても仕方がない。
そういう見方も悪くないが、それではおもしろくない。
タイラーに向けた銃口を自分に向けるということは、すなわち自分を殺すことに他ならない。
タイラーを殺すために自殺したように思えるが、実際には逆である。
つまり、自分を殺すために、あるいはタイラーであることを肯定するためにナレーターは自分に銃口を向けるのだ。
ラストのオチが示しているのは、完全にタイラーになったということを意味する。
タイラーとしてビルが崩壊していく姿を見ていたわけだ。
そう解釈すると、この物語は、〈ナレーターがタイラーになるまでの物語〉ということができる。
タイラーとなったナレーターは、もはや不眠症に悩まされることはないだろう。
終幕後は、彼は立派なテロリストとして人々を恐怖のどん底に陥れる犯罪者になることだろう。
もう少し話を丁寧に巻き戻そう。
車のリコール査定という極めて人の不平に近い仕事をしている彼は、いつしか不眠症になってしまう。
それは、自分の生活に満足できない、あるいは自分の人生に肯定できないということの証だった。
なぜなら、不眠症になったのは、寝ていないからであり、夜中に人間の脂肪で石けんを作ったりしていたからだ。
タイラーと名乗るもう一人の自分を作り出すことで、不眠症になっていく。
その理由は、繰り返しタイラーが訴える言葉に表れている。
「俺たちは誰にも感謝されることもなく働かされ続けている。」
「一線を越えるためにはすべてを捨てるしかない。」
「こんな世界壊してしまえばいい」
……一言一句は覚えていないのでこんなところでやめておこう。
とにかく、自分の取り巻く世界に対して不満と疑念を抱き、自分の生き方に納得できないナレーターがいた。
それは鬱になったりして不眠症になるのと、それほど変わらないのかもしれない。
だが、彼はそれを克服する手立てを得る。
それが、重病患者が集う会である。
ガン患者や感染症患者に紛れて、悲しそうな顔をして泣き叫ぶ。
それで彼は生を実感できたため、不眠症を解消し、心の平温を取り戻す。
それもマーラ・シンガーによって壊されることで、新たな展開に突入する。
タイラーであるもう一人の自分は、飛行機でとなりどうしになるという形で出会う。
考えれば、これが大いなる計画の一歩だったわけだ。
タイラーと出会った直後、自宅が爆発してしまう。
もちろん、タイラーとしての自分が、すべて仕込んだことだった。
爆弾についての知識は、不眠症だった頃に学んだのだろう。
タイラーに連れて行かれたのは、それまでの完璧な家具に囲まれた生活とは一転した廃墟だった。
もちろん、選んだのはナレーター自身だ。
物に囲まれた生活を放棄したいという願望を密かに抱いていたということだ。
彼らはふと、おもしろい試みを始める。
殴り合う、というファイトクラブを立ち上げるのだ。
このファイトクラブには二段階あるので、第一次ファイトクラブとでも呼んでおこうか。
この第一次ファイトクラブでは、サラリーマンの日常では失われた〈身体性〉を取り戻すことに重点が置かれる。
ナレーターが心の安定を取り戻すのは、拳と拳、肌と肌を突き合わせることで、人間として持っていた当然の身体的な凶暴性を発揮するからだ。
それまでもがれていた牙を、再びふるう機会を得たのだ。
よって、精神と肉体のアンバランスさをここで解消することになるわけだ。
もちろん、マーラとセックスするのも、その一連の流れだ。
〈生〉と〈性〉の両方を取り戻すことで、ナレーターは安定するのだ。
だが、タイラーはそれだけでは飽きたらず、ファイトクラブを社会的な存在へと昇華させる。
宿題と称して、人々にテロ活動を呼びかけるのだ。
これによって、自己の覚醒にとどまるだけでなく、自己を取り巻く世界そのものを覚醒させようと試みる。
もちろん、それは自他が支えるアイデンティティの確立への道であり、ナレーターとタイラーが同化するための手続きだった。
第二次ファイトクラブになることによって、名実ともに覚醒していくことになる。
自分自身の野生性を遺憾なく発揮することで、ナレーター自身を納得させていくわけだ。
この映画を最初に観たときに、僕はこのミスディレクションとも言えるトリックの必然性を認めなかった。
つまり、なぜこんなにまどろっこしい方法で物語を展開させたのだろうか、という疑問だ。
だが、丁寧に観れば(というか普通に観れば)、この答えは自ずと見えてくる。
理由の一つは、二人の役者が自己の二面性、――保守と革新という二面性――であることを示すためだ。
自己と自己のせめぎ合いをヴィジュアル的に示すにはこれほど良い方法はなかった。
世界を壊したいという欲求と、それは既存の価値観に反するものだという理性。
アクセルとブレーキのやりとりを二人の役者を文字通り競演させることでそれを見せたわけだ。
もう一つは、固有名詞が剥奪された“ナレーター”というエドワード・ノートンの役名に隠されている。
彼の一人称で語るスタイルから、固有名詞が存在しないことさえ気づかないような演出だが、この一人称による語りと、二重人格とは、制作者の意図的な演出だった。
つまり、観客は一人称として固有名詞さえ剥奪されていることから、完全にナレーターに感情移入することになる。
すなわち、観客自身がタイラーとなるように仕向けられていくのだ。
身体性や野生性、野獣性などといったナレーターが見失い、奪われてしまった動物性とも言える感覚を呼び起こし、この物質至上主義とも言える現代へのテロリストとなるように仕組まれているわけだ。
よって、この映画で最も救われるのは、ナレーターでもタイラーでも、去勢された登場人物たちでもない。
明確に、それは観客自身なのだ。
ミスディレクションとして演出される二重人格という衝撃よりも、映画館を出るときに観る異化された自身の周りの世界への衝撃の方が、遥かに強い。
タイラーという観客自身に隠されたもう一人の自分に気づく物語。
この映画は、世界が物質至上主義で、極度に身体性を奪う現代であり続ける限り、衝撃的でスタイリッシュであり続ける。
文句なしにおもしろい。
映画館で鑑賞できたことを誇りに思う。
年度末の慌ただしさに加えてケータイを無くしたり、結婚式に二日酔いで参加したりしてちょっとダウンしてしまいました。
週に二度も二日酔いになるという学習能力の低さで、発熱と嘔吐、下痢が続いておりました。
相互リンクのお話もいただいておりながら、更新できていない状態です。
ここ2、3日は大人しく静養しました。
4月からまた飲み会が続きそうな予感ですが、当分禁酒したいと思います。
ここに書くからは本気です。
誘惑を断ち切って、ウーロン茶のmenfithで乗り切ります。
>地デジさん
いいですよね。
この流れで見れば、「ソーシャルネットワーク」へのフィンチャーのしたいことが見えてくるのではないでしょうか。
この秋にまた公開作品が控えているという話を聞きました。
オスカーには見放されましたが、僕は見放しません。