評価点:73点/2022年/アメリカ/134分
監督:デヴィッド・O・ラッセル
奇抜な題材を見事に脚本化。しかし、今ひとつ決定的な何かが足りない。
1933年、アメリカの医者であるユダヤ系のバート・ベレンゼン(クリスチャン・ベイル)は、第一次世界大戦で活躍した退役軍人で、兵役後の後遺症に苦しんでいた。
そんなとき、かつての戦友であるハロルド・ウッドマン(ジョン・デヴィッド・ワシントン)から連絡をもらい、手伝って欲しいことがあると言われる。
よくわからず、ハロルドの言うことなら、と請け負うと、それはアメリカ軍将校の検死だった。
検死を嫌うバートは、いやいやながら検死を終えた。
しかし、その直後、依頼人であるリズ・ミーキンズ(テイラー・スイフト)が何者かに殺される。
いきなり容疑者にされた二人は、とりあえずその場を逃げるが、仕方なく疎遠になっていたバートの妻のもとを訪れるが……。
映画館にそろそろ、と考えていたところ、時間が合ったのでとりあえず見に行った。
まったく話を知らずに、とにかくクリスチャン・ベイルと、「TENET」のジョン・デヴィッド・ワシントンが出ているということだけを知っていた。
(そういや、両方とも、クリストファー・ノーランと仕事をしているのね)
他の映画も時間的に見られるものがあったが、消去法的にこの映画に落ち着いた。
監督は「世界にひとつのプレイブック」や「アメリカン・ハッスル」のデヴィッド・O・ラッセル。
「ザ・ファイター」では主演のクリスチャン・ベイルとも組んでいる。
どんな話かを知らずに見た方がおもしろいかもしれない。
方向性が途中まで全く見えてこないので、へんに予告編をみなくて良かったとは思う。
不思議な映画なので、ちょっと映画慣れしている人のほうが楽しめるだろう。
いかにも現代のアメリカだな、というテーマであり、題材だ。
分断化して、右傾化するアメリカの危機感がよくわかる、そういう映画でもある。
▼以下はネタバレあり▼
アメリカ映画でよくある対立の一つは、平凡な一般庶民や弱者やマイノリティが、巨大な権力や陰謀をくじくというものだ。
「ダイハード」などはその典型だし、ピクサーの「ファインディング・ニモ」にもその構図があった。
大手企業を相手取る弁護士などは、まさにそういうアメリカ社会のモデルを反映したものだ。
この映画も、退役軍人で、いたるところを痛めている、しかも義眼の男、バートを主人公に、巨大なファシズムの陰謀と対立していく。
どこまで史実なのか知らないが、こういう題材を見つけて脚本に起こして、映画にしてしまうところがアメリカのすごさだし、きちんと映画として見せるだけの面白さや視点を見いだすのが単純にすごい。
おそらく日本映画なら、この手の話はコメディにはならずに、お涙頂戴、「偉大な民間人の感動の実話」として描いてしまうだろう。
主人公を英雄視することなく、平凡で、むしろ弱者であることをことさら強調して、コメディとして描いてしまうのは、アメリカというか西欧の文化的なあり方をよく表している。
冒頭から続く、バートの説明や設定は、ほとんど変人としか言いようのないようなものだ。
運が悪く、間も悪く、どこにも才能があるとは思えない。
ノリと勢いで検死をすることになり、後先考えずにどんどん事件に巻き込まれていく。
かっこいいはずのクリスチャン・ベイルがなんとも痛々しい役を演じている。
――役を一つ演じるたびに、徹底した役作りをすることで有名なので、ちょっと心配にもなるが。
最初は自分が潔白であることを証明するために始まった逃走劇だが、次第に巨大な陰謀を目にする。
5人委員会という、選挙や法律を無視して作り上げるファシズム体制を目指す組織が、この将校の死に関係してくることがわかってくる。
少し整理しておくと、ミーキンズという将校が5人委員会のメンバーとして勧誘されることが発端だった。
彼はその危険性を察知し、協力を拒否すると、何者かが水銀を入れて毒殺する。
明らかに不自然な死を聞いた、その娘リズは、頼れる人を探し、ヴォーズ氏の妹であるヴァレリーから、弁護士であるハロルドとバートを紹介される。
それを知ったヴォース夫妻は、リズを殺し、真相を隠蔽しようとする。
そんなことを知らずに訪ねてきたハロルドとバートは、ヴォーズ夫妻に相談して、自分の潔白を証明する方法を教えてもらおうとする。
ヴォーズはそれを良い機会だと信じて、もう一人の協力者の候補としてディレンベック将軍(ロバート・デ・ニーロ)の名前を挙げる。
ヴォーズは二人に協力しているように見せかけて、ディレンベックに近寄ろうとしていた。
彼にスピーチさせることで、政権転覆を狙おうと考えていたのだ。
しかし、無力そうだった二人は、正義感に燃えてディレンベックとともにヴォーズ夫妻のもくろみを打ち砕くことになった。
もちろん、右傾化が深刻化するアメリカにおいて、この映画のメッセージはわかりやすい。
個人の自由(権利)を求めていた主人公の二人が、最終的にはアメリカという国のあり方を考えるまでになる。
題材が史実を元にしているだけではなく、ナチズムを敵として置いているので国民感情としても感情移入しやすい。
反知性主義が横行するアメリカで、非常にタイムリーな映画であり、非常に深刻な題材でもある。
黒人を初めとして、負傷した軍人たちという社会的弱者にスポットを当てているところも巧い。
こういう現代的なメッセージをもちながら、それを正攻法のような感動物語に仕立てず、コメディとして映画にしてしまうところが、いかにも巧い。
また、戦争(経済)と芸術(自由)という対比も見事に映画のテーマを浮き彫りにする装置として機能している。
しかし、いかんせんあらゆることを狙いすぎた感じは否めない。
物語の方向性がわかりにくく、またあらゆる要素を詰め込んだので、映画としての一貫性や統一性にやや欠ける。
どこまでが史実なのかわからないが、ヴァレリーのキャラクター設定の都合の良さなど、説得力に欠ける。
世界がひたひたと戦争に向かっていく暗さを街並みや民衆の描写でもう少し描きたかった。
そうでないので、アムステルダムなどを豚にしているにもかかわらず、ちょっと世界が縮こまって、狭い世界に見えてしまう。
個→全体というカタルシスや展開の面白さが、ヴィジュアルの面白さとして描けていない。
タイトルだけでは何の映画か全くわからないし。
私は嫌いではないが、もうちょっと工夫ができたかな、という印象だ。
監督:デヴィッド・O・ラッセル
奇抜な題材を見事に脚本化。しかし、今ひとつ決定的な何かが足りない。
1933年、アメリカの医者であるユダヤ系のバート・ベレンゼン(クリスチャン・ベイル)は、第一次世界大戦で活躍した退役軍人で、兵役後の後遺症に苦しんでいた。
そんなとき、かつての戦友であるハロルド・ウッドマン(ジョン・デヴィッド・ワシントン)から連絡をもらい、手伝って欲しいことがあると言われる。
よくわからず、ハロルドの言うことなら、と請け負うと、それはアメリカ軍将校の検死だった。
検死を嫌うバートは、いやいやながら検死を終えた。
しかし、その直後、依頼人であるリズ・ミーキンズ(テイラー・スイフト)が何者かに殺される。
いきなり容疑者にされた二人は、とりあえずその場を逃げるが、仕方なく疎遠になっていたバートの妻のもとを訪れるが……。
映画館にそろそろ、と考えていたところ、時間が合ったのでとりあえず見に行った。
まったく話を知らずに、とにかくクリスチャン・ベイルと、「TENET」のジョン・デヴィッド・ワシントンが出ているということだけを知っていた。
(そういや、両方とも、クリストファー・ノーランと仕事をしているのね)
他の映画も時間的に見られるものがあったが、消去法的にこの映画に落ち着いた。
監督は「世界にひとつのプレイブック」や「アメリカン・ハッスル」のデヴィッド・O・ラッセル。
「ザ・ファイター」では主演のクリスチャン・ベイルとも組んでいる。
どんな話かを知らずに見た方がおもしろいかもしれない。
方向性が途中まで全く見えてこないので、へんに予告編をみなくて良かったとは思う。
不思議な映画なので、ちょっと映画慣れしている人のほうが楽しめるだろう。
いかにも現代のアメリカだな、というテーマであり、題材だ。
分断化して、右傾化するアメリカの危機感がよくわかる、そういう映画でもある。
▼以下はネタバレあり▼
アメリカ映画でよくある対立の一つは、平凡な一般庶民や弱者やマイノリティが、巨大な権力や陰謀をくじくというものだ。
「ダイハード」などはその典型だし、ピクサーの「ファインディング・ニモ」にもその構図があった。
大手企業を相手取る弁護士などは、まさにそういうアメリカ社会のモデルを反映したものだ。
この映画も、退役軍人で、いたるところを痛めている、しかも義眼の男、バートを主人公に、巨大なファシズムの陰謀と対立していく。
どこまで史実なのか知らないが、こういう題材を見つけて脚本に起こして、映画にしてしまうところがアメリカのすごさだし、きちんと映画として見せるだけの面白さや視点を見いだすのが単純にすごい。
おそらく日本映画なら、この手の話はコメディにはならずに、お涙頂戴、「偉大な民間人の感動の実話」として描いてしまうだろう。
主人公を英雄視することなく、平凡で、むしろ弱者であることをことさら強調して、コメディとして描いてしまうのは、アメリカというか西欧の文化的なあり方をよく表している。
冒頭から続く、バートの説明や設定は、ほとんど変人としか言いようのないようなものだ。
運が悪く、間も悪く、どこにも才能があるとは思えない。
ノリと勢いで検死をすることになり、後先考えずにどんどん事件に巻き込まれていく。
かっこいいはずのクリスチャン・ベイルがなんとも痛々しい役を演じている。
――役を一つ演じるたびに、徹底した役作りをすることで有名なので、ちょっと心配にもなるが。
最初は自分が潔白であることを証明するために始まった逃走劇だが、次第に巨大な陰謀を目にする。
5人委員会という、選挙や法律を無視して作り上げるファシズム体制を目指す組織が、この将校の死に関係してくることがわかってくる。
少し整理しておくと、ミーキンズという将校が5人委員会のメンバーとして勧誘されることが発端だった。
彼はその危険性を察知し、協力を拒否すると、何者かが水銀を入れて毒殺する。
明らかに不自然な死を聞いた、その娘リズは、頼れる人を探し、ヴォーズ氏の妹であるヴァレリーから、弁護士であるハロルドとバートを紹介される。
それを知ったヴォース夫妻は、リズを殺し、真相を隠蔽しようとする。
そんなことを知らずに訪ねてきたハロルドとバートは、ヴォーズ夫妻に相談して、自分の潔白を証明する方法を教えてもらおうとする。
ヴォーズはそれを良い機会だと信じて、もう一人の協力者の候補としてディレンベック将軍(ロバート・デ・ニーロ)の名前を挙げる。
ヴォーズは二人に協力しているように見せかけて、ディレンベックに近寄ろうとしていた。
彼にスピーチさせることで、政権転覆を狙おうと考えていたのだ。
しかし、無力そうだった二人は、正義感に燃えてディレンベックとともにヴォーズ夫妻のもくろみを打ち砕くことになった。
もちろん、右傾化が深刻化するアメリカにおいて、この映画のメッセージはわかりやすい。
個人の自由(権利)を求めていた主人公の二人が、最終的にはアメリカという国のあり方を考えるまでになる。
題材が史実を元にしているだけではなく、ナチズムを敵として置いているので国民感情としても感情移入しやすい。
反知性主義が横行するアメリカで、非常にタイムリーな映画であり、非常に深刻な題材でもある。
黒人を初めとして、負傷した軍人たちという社会的弱者にスポットを当てているところも巧い。
こういう現代的なメッセージをもちながら、それを正攻法のような感動物語に仕立てず、コメディとして映画にしてしまうところが、いかにも巧い。
また、戦争(経済)と芸術(自由)という対比も見事に映画のテーマを浮き彫りにする装置として機能している。
しかし、いかんせんあらゆることを狙いすぎた感じは否めない。
物語の方向性がわかりにくく、またあらゆる要素を詰め込んだので、映画としての一貫性や統一性にやや欠ける。
どこまでが史実なのかわからないが、ヴァレリーのキャラクター設定の都合の良さなど、説得力に欠ける。
世界がひたひたと戦争に向かっていく暗さを街並みや民衆の描写でもう少し描きたかった。
そうでないので、アムステルダムなどを豚にしているにもかかわらず、ちょっと世界が縮こまって、狭い世界に見えてしまう。
個→全体というカタルシスや展開の面白さが、ヴィジュアルの面白さとして描けていない。
タイトルだけでは何の映画か全くわからないし。
私は嫌いではないが、もうちょっと工夫ができたかな、という印象だ。
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