評価点:70点/1991年/アメリカ
監督:マーティン・スコセッシ
もっと追い詰めてくれ。
弁護士のボーデン(ニック・ノルティ)のもとに、かつて弁護を担当したマックス(ロバート・デ・ニーロ)が現れる。
はじめは付きまとう程度の嫌がらせだったが、マックスは次第にボーデンを追い詰め始める。
マックスは14年の刑を喰らった原因は、ボーデンの「手抜き」弁護にあると考え、復讐を始めたのである。
ボーデンは合法非合法を問わず対抗処置に出るが、マックスは刑務所で学んだ教養によってするりと交わしていく。
ボーデンは、どんどん追い詰められていくことになる。
マーティン・スコセッシ監督のサスペンス・スリラー。
ロバート・デ・ニーロが悪役で登場するのも、この映画の魅力の一つと言える。
一流やA級映画とは言いがたいが、ツボを押さえて、まとまりのよいサスペンスに仕上がっている。
▼以下はネタバレあり▼
サスペンス・スリラーの中でも、一つの典型をもった作品である。
一人のキャラクターが執拗に主人公達に嫌がらせすることで、相手を追い詰め、次第にそれがエスカレートしていく。
ストーカーのような展開である。
僕が見たことのある映画の中で言えば、「隣人は静かに笑う」がその変形だろう。
双方が追うことになるが「チェンジング・レーン」の趣にも共通性がある。
「シークレット・ウィンドウ」などは、その典型に少しスパイスを加えたもの、となるのだろう。
サスペンスではないがスピルバーグの「激突」も、いわれのない追跡がモティーフになっている。
いずれにしても、誰にとっても、相手がわからない理由もわからないのに、執拗に嫌がらせを受けることは不愉快極まりないことであり、恐怖そのものである。
日常に、誰にでも起こりそうだからなお怖い。
この映画の場合、追い詰める側と追い詰められる側の対立は比較的明確だ。
マックスは、14年の間に自分の弁護士の不備を知り、それをねたみ、自分の失った期間に見合うだけのものを相手から奪おうとする。
対する弁護士のボーデンは、まじめな弁護士だが、実際には夫婦間の関係は冷め切って、娘とも不仲である。
それを埋めるために弁護士見習いの女学生と不倫している。
これが、極めてアメリカ人の典型の設定であるところがうまい。
少し学のある人間なら弁護士になる。
これがアメリカの常識である。
日本とは違って弁護士の多いアメリカでは、弁護士は特別な職業ではない。
そんな彼は、当然のように家族と会う時間がなく、不倫している。
この日常性が、この映画を支えている。
この設定であれば、アメリカ人なら「あり得るかも」と納得してしまう。
自分が弁護士でなくとも、知り合いの弁護士がもしそうなったら、と感情移入しやすいのである。
まじめな弁護士でも、叩けばほこりは出るものである。
そのあまり知られたくないほこりを執拗に叩かれ続ければ、精神的にどんどん追い込まれていくことは、目に見えている。
しかも、もともと家族の関係が冷え切ったところに起こった「危機」であるからこそ、なお、男に訪れた危機感は大きい。
それが次第に修復されていくことで、終わったあとのカタルシスも増大する。
追い詰めるデ・ニーロも、またいい味を出している。
ものすごい粗野で、暴力的な態度であるにもかかわらず、反面では、ニーチェを図書館で読んだり、法律書をボーデンの前でそらんじたりする知性も発揮する。
理性がぶっ飛んだ性格に、知識と知恵がつくとこれほど怖いものかと恐ろしくなる。
コメディや、シリアスな主人公など、幅広い役を演じるデ・ニーロの真骨頂といったところである。
見慣れたはずの顔が、悪魔に見えるというのはすごい。
この映画のうまい点は、それぞれのキャラクターがきちんと形成されているところだ。
だから、追い込まれる様子が、追い詰められる側、追い詰める側の二方から、きちんと見ることができる。
だから、緊迫感も生まれる。
しかも、それがありがちな被害者だから、余計に怖いのである。
だが。
僕は多少物足りなさを感じた。
理由は二つ。
追い込まれ方、追い詰められ方が足りない。
そして、全体的な展開が遅い、ということだ。
この映画の肝は、どれだけ追い詰められていくか、というその感覚である。
もっと言えば、「うわ~もうどうしようもないな~」という危機感と、絶望感である。
だからこそ、「これ、こっからどうすんの?」という面白味がうまれる。
これがこの手の映画の醍醐味であろう。
その意味で、もう少し、絶望的な状況を作り出したほうが良かった。
例えば、娘とマックスの関係。
娘の年齢を考えると、まずい可能性もあるが、肉体関係をもってしまったほうが、絶望さは増す。
冒頭に「ひと夏の悪夢」というナレーションがあるため、これはやりすぎなところもあるが、それでも、キスだけでは絶望は小さい。
(ここが強烈な恋愛であればあるほど、その後発覚した後の怖さが増すのだ)
あるいは、終盤ちかくで用心棒(探偵?)が殺されてしまう。
これの時、ボーデンが犯人として疑われる状況を作っておけば、「後には戻れない」という危機感が増すことになる。
ラストのクルーザーまでの展開は、スムーズだが、どうしても「なんとかなりそうだな」と思えてしまう。
これなら「シークレット・ウィンドウ」のほうが、中盤までの展開は絶望的だった。
その意味でもう一つか。
そして展開も、その怖さに水を差している。
まず、冒頭のナレーションがまずい。
「この出来事の始まりは、夏休みの終わり頃のことでした」という娘のナレーションによって、絶対的安定を得てしまう。
要するに、少なくとも娘だけは絶対に助かるのである。
これでは、どうしても危機感が薄れてしまう。
終盤で、クルーザーで密室になったところで、アンハッピーな結末は予想できない。
これは実に勿体ない。
また、人が殺されてしまうまでの展開が長すぎるため、「相手を殺すしかない」という状況まで盛り上がりが遅い。
あくまで「日常に起こりうる恐怖」を描いた本作ではあるが、それでも本作にとっての肝となる「恐怖」のためには、もう少し早めに「殺人」まで発展させる必要があっただろう。
十分面白いとは思う。
だが、もう少し、という感じ。
(2005/2/21執筆)
監督:マーティン・スコセッシ
もっと追い詰めてくれ。
弁護士のボーデン(ニック・ノルティ)のもとに、かつて弁護を担当したマックス(ロバート・デ・ニーロ)が現れる。
はじめは付きまとう程度の嫌がらせだったが、マックスは次第にボーデンを追い詰め始める。
マックスは14年の刑を喰らった原因は、ボーデンの「手抜き」弁護にあると考え、復讐を始めたのである。
ボーデンは合法非合法を問わず対抗処置に出るが、マックスは刑務所で学んだ教養によってするりと交わしていく。
ボーデンは、どんどん追い詰められていくことになる。
マーティン・スコセッシ監督のサスペンス・スリラー。
ロバート・デ・ニーロが悪役で登場するのも、この映画の魅力の一つと言える。
一流やA級映画とは言いがたいが、ツボを押さえて、まとまりのよいサスペンスに仕上がっている。
▼以下はネタバレあり▼
サスペンス・スリラーの中でも、一つの典型をもった作品である。
一人のキャラクターが執拗に主人公達に嫌がらせすることで、相手を追い詰め、次第にそれがエスカレートしていく。
ストーカーのような展開である。
僕が見たことのある映画の中で言えば、「隣人は静かに笑う」がその変形だろう。
双方が追うことになるが「チェンジング・レーン」の趣にも共通性がある。
「シークレット・ウィンドウ」などは、その典型に少しスパイスを加えたもの、となるのだろう。
サスペンスではないがスピルバーグの「激突」も、いわれのない追跡がモティーフになっている。
いずれにしても、誰にとっても、相手がわからない理由もわからないのに、執拗に嫌がらせを受けることは不愉快極まりないことであり、恐怖そのものである。
日常に、誰にでも起こりそうだからなお怖い。
この映画の場合、追い詰める側と追い詰められる側の対立は比較的明確だ。
マックスは、14年の間に自分の弁護士の不備を知り、それをねたみ、自分の失った期間に見合うだけのものを相手から奪おうとする。
対する弁護士のボーデンは、まじめな弁護士だが、実際には夫婦間の関係は冷め切って、娘とも不仲である。
それを埋めるために弁護士見習いの女学生と不倫している。
これが、極めてアメリカ人の典型の設定であるところがうまい。
少し学のある人間なら弁護士になる。
これがアメリカの常識である。
日本とは違って弁護士の多いアメリカでは、弁護士は特別な職業ではない。
そんな彼は、当然のように家族と会う時間がなく、不倫している。
この日常性が、この映画を支えている。
この設定であれば、アメリカ人なら「あり得るかも」と納得してしまう。
自分が弁護士でなくとも、知り合いの弁護士がもしそうなったら、と感情移入しやすいのである。
まじめな弁護士でも、叩けばほこりは出るものである。
そのあまり知られたくないほこりを執拗に叩かれ続ければ、精神的にどんどん追い込まれていくことは、目に見えている。
しかも、もともと家族の関係が冷え切ったところに起こった「危機」であるからこそ、なお、男に訪れた危機感は大きい。
それが次第に修復されていくことで、終わったあとのカタルシスも増大する。
追い詰めるデ・ニーロも、またいい味を出している。
ものすごい粗野で、暴力的な態度であるにもかかわらず、反面では、ニーチェを図書館で読んだり、法律書をボーデンの前でそらんじたりする知性も発揮する。
理性がぶっ飛んだ性格に、知識と知恵がつくとこれほど怖いものかと恐ろしくなる。
コメディや、シリアスな主人公など、幅広い役を演じるデ・ニーロの真骨頂といったところである。
見慣れたはずの顔が、悪魔に見えるというのはすごい。
この映画のうまい点は、それぞれのキャラクターがきちんと形成されているところだ。
だから、追い込まれる様子が、追い詰められる側、追い詰める側の二方から、きちんと見ることができる。
だから、緊迫感も生まれる。
しかも、それがありがちな被害者だから、余計に怖いのである。
だが。
僕は多少物足りなさを感じた。
理由は二つ。
追い込まれ方、追い詰められ方が足りない。
そして、全体的な展開が遅い、ということだ。
この映画の肝は、どれだけ追い詰められていくか、というその感覚である。
もっと言えば、「うわ~もうどうしようもないな~」という危機感と、絶望感である。
だからこそ、「これ、こっからどうすんの?」という面白味がうまれる。
これがこの手の映画の醍醐味であろう。
その意味で、もう少し、絶望的な状況を作り出したほうが良かった。
例えば、娘とマックスの関係。
娘の年齢を考えると、まずい可能性もあるが、肉体関係をもってしまったほうが、絶望さは増す。
冒頭に「ひと夏の悪夢」というナレーションがあるため、これはやりすぎなところもあるが、それでも、キスだけでは絶望は小さい。
(ここが強烈な恋愛であればあるほど、その後発覚した後の怖さが増すのだ)
あるいは、終盤ちかくで用心棒(探偵?)が殺されてしまう。
これの時、ボーデンが犯人として疑われる状況を作っておけば、「後には戻れない」という危機感が増すことになる。
ラストのクルーザーまでの展開は、スムーズだが、どうしても「なんとかなりそうだな」と思えてしまう。
これなら「シークレット・ウィンドウ」のほうが、中盤までの展開は絶望的だった。
その意味でもう一つか。
そして展開も、その怖さに水を差している。
まず、冒頭のナレーションがまずい。
「この出来事の始まりは、夏休みの終わり頃のことでした」という娘のナレーションによって、絶対的安定を得てしまう。
要するに、少なくとも娘だけは絶対に助かるのである。
これでは、どうしても危機感が薄れてしまう。
終盤で、クルーザーで密室になったところで、アンハッピーな結末は予想できない。
これは実に勿体ない。
また、人が殺されてしまうまでの展開が長すぎるため、「相手を殺すしかない」という状況まで盛り上がりが遅い。
あくまで「日常に起こりうる恐怖」を描いた本作ではあるが、それでも本作にとっての肝となる「恐怖」のためには、もう少し早めに「殺人」まで発展させる必要があっただろう。
十分面白いとは思う。
だが、もう少し、という感じ。
(2005/2/21執筆)
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