詩「むねに届く」
山本純子
からだという住まいの
棟のあたりに
郵便受けがひとつ
取り付けてあって
時たま誰かのことばが届いたりする
郵便受けは手の届く高さにはないので
ほとんどのことばは
軒下に落ちている
国語の授業では、児童生徒には詩を学習する時間があります。
でも、鑑賞のしかた、つまり味わい方がわからないという子が少なくありません。
わたしは、そのことにあまりこだわらなくてもいいと考えています。
この詩が好き、あの詩は好きになれないと感じることはあるでしょうが、まずは詩に出会って知ることが大切です。
そのため、教科書にはたくさんの詩が載せてあります。
大きな自然の風景を連想する詩。
読んだときにジーンとくる詩。
リズム感があって、楽しくなる詩。
・・・・・・・・・・・・
そのような経験はしたことがない。
そうなのかなあ。
何か不思議な感じ。
そのように、子どもはいろいろな受け取り方をしますが、それでいいのだと思います。
また、詩は短いことばで書かれているので、いろいろな感じ方や読み方ができるのです。
「わたしはこの詩が好きです。なぜなら・・・」
「ぼくはこちらの詩にひかれます。この〜」
自分の考えたことを交流しあい、対話が生まれる授業ができます。
さて、冒頭の詩は、わたしは読んだときに、ハッとしました。
わたしは教師なので、おとなが、子どものことばを確実に受けとめているかが、問われているように感じました。
子どものいうことばだからと高をくくっていると、おとなに子どもの声は届きません。
おとな同士でも、相手からのメッセージが届くかどうかは、自分と相手の関係によってきまるとも思いました。
また、詩は声に出して読んだ方がいいと思います。
声に出すと語感やリズムを味わうことのできる詩があるからです。
さらに、詩を正確に写す学習もあります。
句読点をわざとつけていない詩があるかと思えば、たくさんつけている詩もあります。
句読点にも作者の思いがつまっているのです。
要は、詩の学習で言葉を楽しむことができるのです。
それが、詩の学習の意義なのです。
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