
「義士墓入口の門」を通り抜けて、泉岳寺の境内の敷地南側に整備されている「浅野長矩墓および赤穂義士墓」にやってきました。ここは史跡(国指定)となっている場所です。

元禄14年3月14日、江戸城中で吉良義央(上野介)に対し刃傷沙汰に及び、即日切腹となった赤穂藩主浅野長矩(内匠頭)の墓、及び、元禄15年12月14日、江戸本所の吉良屋敷に押し入って吉良の首級を上げ、翌年2月4日に切腹となったいわゆる赤穂浪士(泉岳寺では「赤穂義士」と呼んでいる)の墓となっています。

墓地の中央部にひときわ大きなお墓が整備されていますが、これが「浅野長矩公之墓」ですね。

通路内にはお墓の見取り図が設置されていました。

毎年12月14日になると「義士祭」が行われます。私が訪れたのは1月中旬の平日だったのですが、それなりに見学者の人達が多かったです。

「浅野長矩墓および赤穂義士墓」は、「高輪台地」と呼ばれている丘陵地帯の東側斜面に沿って整備されているのですね。

通路の両側には整然と義士たちのお墓が整備されていました。墓地内には、泉岳寺の赤穂義士墓地には討入り以前に自害した萱野重実(三平)の供養墓を含め48基の墓塔があります。

墓地の一角には「義士供養箱」の建屋が設置されていました。

「義士供養箱」の建屋の全景を撮影しました。

「赤穂義士墓」の通路内から振り返って、西側(東京湾側)を見渡して撮影しました。「泉岳寺」の周囲は、高輪二丁目地区の閑静な住宅密集地帯に囲まれていました。

「赤穂義士墓」内を一通り見終わったので、元来た道を引き返していきます。

「義士墓入口の門」へ向かって歩いていきます。門の周囲には休憩用のベンチや広場スペースなどが整備されていました。

「義士墓入口の門」内から、泉岳寺本堂へ向かって伸びている歩行者用の通路の全景を撮影しました。

泉岳寺の「本堂」前の広場スペースに戻ってきました。広場スペースの敷地北側に建っている寺事務所の建物を撮影しました。

「本堂」の建物を見渡して撮影しました。境内に整備されている「浅野長矩墓および赤穂義士墓」の方が注目されがちですが、泉岳寺の主役は実際にはこちらなのですね。

正面に掲げられている「獅子吼」の額は「ししく」と読み、お釈迦様の説法のことを指しているのだそうです。
