緑の、東京ブログ

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

1月の高輪台:泉岳寺本堂と四十七士(赤穂浪士)の墓内の散策 PART2

2019年09月09日 06時01分00秒 | 城南・港区全域


「義士墓入口の門」を通り抜けて、泉岳寺の境内の敷地南側に整備されている「浅野長矩墓および赤穂義士墓」にやってきました。ここは史跡(国指定)となっている場所です。




元禄14年3月14日、江戸城中で吉良義央(上野介)に対し刃傷沙汰に及び、即日切腹となった赤穂藩主浅野長矩(内匠頭)の墓、及び、元禄15年12月14日、江戸本所の吉良屋敷に押し入って吉良の首級を上げ、翌年2月4日に切腹となったいわゆる赤穂浪士(泉岳寺では「赤穂義士」と呼んでいる)の墓となっています。




墓地の中央部にひときわ大きなお墓が整備されていますが、これが「浅野長矩公之墓」ですね。




通路内にはお墓の見取り図が設置されていました。




毎年12月14日になると「義士祭」が行われます。私が訪れたのは1月中旬の平日だったのですが、それなりに見学者の人達が多かったです。




「浅野長矩墓および赤穂義士墓」は、「高輪台地」と呼ばれている丘陵地帯の東側斜面に沿って整備されているのですね。




通路の両側には整然と義士たちのお墓が整備されていました。墓地内には、泉岳寺の赤穂義士墓地には討入り以前に自害した萱野重実(三平)の供養墓を含め48基の墓塔があります。




墓地の一角には「義士供養箱」の建屋が設置されていました。




「義士供養箱」の建屋の全景を撮影しました。




「赤穂義士墓」の通路内から振り返って、西側(東京湾側)を見渡して撮影しました。「泉岳寺」の周囲は、高輪二丁目地区の閑静な住宅密集地帯に囲まれていました。




「赤穂義士墓」内を一通り見終わったので、元来た道を引き返していきます。




「義士墓入口の門」へ向かって歩いていきます。門の周囲には休憩用のベンチや広場スペースなどが整備されていました。




「義士墓入口の門」内から、泉岳寺本堂へ向かって伸びている歩行者用の通路の全景を撮影しました。




泉岳寺の「本堂」前の広場スペースに戻ってきました。広場スペースの敷地北側に建っている寺事務所の建物を撮影しました。




「本堂」の建物を見渡して撮影しました。境内に整備されている「浅野長矩墓および赤穂義士墓」の方が注目されがちですが、泉岳寺の主役は実際にはこちらなのですね。




正面に掲げられている「獅子吼」の額は「ししく」と読み、お釈迦様の説法のことを指しているのだそうです。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月の高輪台:泉岳寺本堂と四十七士(赤穂浪士)の墓内の散策 PART1

2019年09月09日 06時00分00秒 | 城南・港区全域


高輪台二丁目地区の東側に建っている「泉岳寺」の境内を散策してきます。南側から「中門」の全景を撮影しました。




現在の「中門」は1836年(天保7年)に35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたもので、1931年(昭和7年)に大修理を施されています。




「中門」を通り抜けた先には、更に参道が続いています。参道沿いも閑静な住宅密集地帯が広がっていました。




参道西側に建っている「山門」の全景を撮影しました。1832年(天保3年)に34世大道貞鈞(だいどうていきん)和尚代に再建されたものです。




「山門」前から、南側に広がっている「泉岳寺」の境内を見渡して撮影しました。




「山門」の脇に設置されている入口を通り抜けていきます。




境内の敷地北側に建っている寺事務所の建物脇を通り抜けていきます。




寺事務所の建物脇を通り抜けていくと、前方に「本堂」の建物が見えて来ました。




東側から「本堂」の建物の全景を撮影しました。現在の建物は東京大空襲の後に再建されたもので、1953年(昭和28年)12月に落成した鎌倉様式の建築です。




北東側から、「本堂」の建物脇に建っている「講堂」の建物の全景を撮影しました。




境内の一番奥に整備されている「浅野長矩墓および赤穂義士墓地」へ向かって伸びている歩行者用通路を歩いていきます。




南東側から、「本堂」前の広場スペースの全景を撮影しました。




「山門」の南側にも入口がありましたが、こちらは閉鎖されていました。




「浅野長矩墓および赤穂義士墓地」へ向かって伸びている歩行者用通路脇に設置されている「首洗い井戸」の説明板を撮影しました。義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。




その「首洗い井戸」の全景を撮影しました。




「義士墓入口の門」を通り抜けていきます。この門は浅野家の鉄砲州上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したものです。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする