今朝の東京新聞に全面広告と特報記事に面白いものが有って起きたばかり頭で「ん?」と言う感じで読み進めていたがどうも特報記事がの内容のテンションが高い、
若しかしてと記事末を見たら「本日は4月1日です!」と一行、先ほどの全面広告もと戻ってみたら案の定枠外に「4月1日対応広告」と書かれている、
そう言えば少し前まで新聞もTVもラジオも結構こんな事をやっていたが最近はあまり見ないな、
かみさんと「今の子たちはエイプリルフールなんか知っているんだろうか?」と話したが確かに殆ど耳にしなくなった気がする、
昭和の頃は学校でも会社でも結構楽しんだものだが「悪意のあるファイクニュース」がこんな遊びをギスギスしたものにしてしまったのか寂しい限りだ、
大戦前のアメリカでエイプリルフールにラジオで「宇宙人が攻めてきました!ニューヨークもワシントンも円盤の攻撃にあっています!」と言う放送を流したら国内に大パニックが起きたと言う事件が有ったそうだがそれでも20世紀までは結構こんな事をやっていた
しかしSNSが普及してから「拡散」「炎上」と歯止めがかからなくなり、「エイプリルフールです」と言うジョークが通用しなくなった、
笑える嘘ではなく陰湿な嘘は尾ヒレがついて真実として拡散し誰かを攻撃する、残念だが文化と社会はどんどん劣化している、
人間教育は知識の詰込みではなくその知識を吸収し咀嚼し社会と共有するのが教育だろう、
しかし昭和の親世代までは当たり前にあった筈の気風(そう呼ぶに一番相応しい)が無くなったのはおそらく敗戦とそれを起こした明治政府以降の薩長政治では無いだろうか、
良きにつけ悪しきにつけ、天皇政治から武家社会はいわば「帝王学」が有った、しかし明治政府を牛耳った財・軍閥による政治はその帝王学がない、
これは今のロシアと中国共産党にも言える、特にロシア王朝の崩壊から農民が政権を担う事の節操のなさが今のロシア政府と中国共産党に大きい、
王政が良いと言うのではないが民を慮ると言うのはやはり代々受け継がれ磨かれた品格が必要な気がする、閉鎖的な「村」の感覚では大きな社会を運営してゆけば社会は劣化し衰退する、
何はともあれ今日は「4月馬鹿」、
若しかしてと記事末を見たら「本日は4月1日です!」と一行、先ほどの全面広告もと戻ってみたら案の定枠外に「4月1日対応広告」と書かれている、
そう言えば少し前まで新聞もTVもラジオも結構こんな事をやっていたが最近はあまり見ないな、
かみさんと「今の子たちはエイプリルフールなんか知っているんだろうか?」と話したが確かに殆ど耳にしなくなった気がする、
昭和の頃は学校でも会社でも結構楽しんだものだが「悪意のあるファイクニュース」がこんな遊びをギスギスしたものにしてしまったのか寂しい限りだ、
大戦前のアメリカでエイプリルフールにラジオで「宇宙人が攻めてきました!ニューヨークもワシントンも円盤の攻撃にあっています!」と言う放送を流したら国内に大パニックが起きたと言う事件が有ったそうだがそれでも20世紀までは結構こんな事をやっていた
しかしSNSが普及してから「拡散」「炎上」と歯止めがかからなくなり、「エイプリルフールです」と言うジョークが通用しなくなった、
笑える嘘ではなく陰湿な嘘は尾ヒレがついて真実として拡散し誰かを攻撃する、残念だが文化と社会はどんどん劣化している、
人間教育は知識の詰込みではなくその知識を吸収し咀嚼し社会と共有するのが教育だろう、
しかし昭和の親世代までは当たり前にあった筈の気風(そう呼ぶに一番相応しい)が無くなったのはおそらく敗戦とそれを起こした明治政府以降の薩長政治では無いだろうか、
良きにつけ悪しきにつけ、天皇政治から武家社会はいわば「帝王学」が有った、しかし明治政府を牛耳った財・軍閥による政治はその帝王学がない、
これは今のロシアと中国共産党にも言える、特にロシア王朝の崩壊から農民が政権を担う事の節操のなさが今のロシア政府と中国共産党に大きい、
王政が良いと言うのではないが民を慮ると言うのはやはり代々受け継がれ磨かれた品格が必要な気がする、閉鎖的な「村」の感覚では大きな社会を運営してゆけば社会は劣化し衰退する、
何はともあれ今日は「4月馬鹿」、