終戦直後の貧村では貧乏は略常態である
まともな食事は殆どなかった気がする
貧農村と言っても農村である、流石に「配給米」を利用していたのは我が家の外やはり敗戦疎開の「Hさん」と2軒だけだった
姉二人と自分、両親の家族では配給米では間に合わない、米の外に麦の配給手帳が有った
押し麦と言う平べったい真ん中に黒い筋のある麦が何キロか買える
未だとダイエットと健康に良いと通販で売っているが当時は白米に混ぜて増量する、
小学校の給食が始まるまで米だけのいわゆる「銀シャリ」は見た事もなかった
それでも足らなくなると同じく配給だった小麦粉で水団を作る、具材は野菜だけの出汁の無い水団である
お袋が「無くなるときはみんな無くなる」と言う調味料は醤油が切れれば替わりに味噌を使うので当然みんな切れてしまう
ご飯に薩摩芋を入れた芋飯もちょくちょく出た、これは東京生まれの義兄も当時たべていたらしく「だから薩摩芋は惨めな思いが有るから」嫌いだと言っていた
何時でも空腹の私はお蔭で胃腸だけは頑丈である、当時腹を満たした野生の果実を並べてみる
春先の好物は虎杖の新芽
山の草むらで一生懸命に採った草苺、野イチゴと言っていたがこれはお袋がジャムにしてくれたがパンはめったに手に入らない
春と秋両方実る、ぐみ
山桃
秋はアケビ
随分豊富だったな、良い思い出だ、
とても貧しいと言うラインナップじゃあない