私は親父の事をあまりしらない、或いは解らない、“殆ど”と言っていい程だが人生で一番遅くまで一緒に生活したのは親父だった
一番遅くまで一緒に暮らしたと言っても一番長い時間を共にしていたと言う事ではない
物心の付くころからお袋が癌で入院するころまで度々出稼ぎをしていたので生活の中にあまりいなかった
親父も私の生まれ育った家で生まれたらしいがやはり赤貧だった様だ、親父とそういう話をしたことが無いので姉と兄から聞いた話の知識である
親父の兄弟は姉が一人と兄と弟がいたらしいが若しかしたら兄二人だったかもしれない、親父は親戚付き合いと言うのが嫌いだった、
市内に一人と桜木と言う所に一人の叔父さんが居たが殆ど行き来は無かった、伯母さんに関してはどこに嫁いでいたのかすら、まったっく知らない
親父が東京に就職した時期に前後してこの家は絶えた、
軍需工場の中島飛行機に就職して戦時下の事、そこそこの稼ぎをしていたらしいがそのせいで兄弟とは疎遠になったらしい、
敗戦で無一文になって親父は後添えだったお袋と二人の姉を伴って廃墟に掘立て小屋を建ててこの村に戻って来た、
叔父二人と会ったのはお袋の葬式時意外に記憶はない、伯母が来ていたかどうかも定かではない
気位の高い偏屈な親父だったのは後から姉二人から聞いた、思い出してみると確かにしょっちゅう村の人と衝突していた記憶もある
農村で田畑を持たない家は一段も二段も地位が低い、その親父が偉そうに理屈をこねる、
農家の親父は理屈では親父には勝てなかったがその分怒りや顰蹙は十分に残る、晩飯で親の怒りは子供の怒りとなって学校で子供に廻って来る
子供には遠慮会釈は無い、残酷である、
村の祭りは甘酒とお煮しめ、子供におひねりの僅かな菓子が配られる、しかし、祭りは村人の寄付で賄われている、煮炊きや甘酒の支度にはお袋も出ていたが生活保護家庭の我が家は免除されていたのだが同級生は私に向かって「寄付も出さんで菓子だけ喰うのか」と祭りに来た私を面罵した、
お袋は私から菓子を取り上げて役員に返した、村のかみさんたちは「そんな事を気にするな」と言ってくれたが私は手にすることは出来なかった
貧しいと言う事は絶対的な貧しさと相対的な貧しさがある、子供にとっての貧しさは自分の家の貧しさは友人より貧しいと言う事が自分の価値迄見下げられんだと言う事がとても悔しかった、
お袋は「お父ちゃんに言っちゃだめだよ、絶対に怒鳴り込むんだから」と言っていた、その事が更に立場を面倒にすることは更に私に戻って来る
中学1年生でお袋が死んで姉は家を出て行った、親父と共同生活の様な暮らしを2年して東京に出て来たが二人だけの二年間も含めて親父の顔が思い出せない
親父の顔はいつとったか解らないがモノクロも写真の顔だけである、
かみさんからみると私の家族関係に関する考え方と言うものが「かなりおかしい」らしいがこんな所にあるのかもしれない、
私の子供たちは女房と一緒になった時に私の子供になったが未だに時々思うのだ(子供たちは本当に俺を父親として認めてくれているんだろうか)と
しかしもしかしたらこんな事を考えていること自体子供達に対する裏切りなのかもしれない、
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