昭和の40年代の話
日比谷通りを新橋から皇居に向かい、日比谷公園の前を右折する
右手前の角は帝国ホテル、向かい側は日生劇場で有る
当時の帝国ホテルは2代目のフランク・ロイド・ライトの設計による荘厳な建物で今では岐阜の明治村にある、その後たてられた本館も今又建て替えの様だ
左手の大きな建物は日生劇場で背中合わせに有るのが東京宝塚ビル、
この辺りは殆どが東宝の建物でこのみゆき通りからは入れない一方通行だが晴海通り側から入ると左側に日比谷劇場、少し曲がったあと真っすぐなる一方通行路の左が有楽座、
外次が千代田劇場、右側のビル地下から3階が東京宝塚で4階がスカラ座、その上が東宝演芸場である
千代田劇場は東宝映画の封切館、スカラ・有楽・日比谷劇場は洋画専門である
恐らく配給映画によって決まっていたのだろうが良く解らない
千代田劇場を過ぎてみゆき通りを左に折れるとすぐに有るのがみゆき座で基本的にフランスとイタリアの映画が掛かる、
このビルの3階は芸術座、森光子の「女の一生」の記録的ロングランが掛かったのもこの劇場である
芸術座の立ち稽古場が有ったのが日比谷劇場からガードに向かう狭い路地にあった「インドネシア・ラヤ」と言うエスニックレストランの3・4階ですれ違う事も難しい様な階段を上がった所にあった
仕事の関係で3階の隅にあるインドネシア・ラヤのストッカーにアイスクリームを運び入れる事が月に何度かあったがこの階段では何人かの女優と鉢合わせをする事が有った、
一人は当時芸術座で掛かっていた「三人姉妹」と言う舞台(だと記憶しているが)に出ていた岡田茉莉子さん、勢いよく曲がったら正面から鉢合わせをしてしまった、(小さいな、が印象的だった)「すみません!」と謝ったが凄い顔で睨んで黙って降りて行ってしまった、
もう一人は中山千夏さんだが何に出ていたのかは覚えていない
ガード前を左に曲がると渡邊プロの入ったビルが有ってその一階にある中華料理屋にその後大ブレークした「ブルーコメッツ」の井上大輔、ダイチャンが働いていた
曲がらないでガードをくぐり左に曲がると正面の細い隙間から晴海通りを超えた有楽町のガード下に改札が見える、右側を圧して見えるのは今では無くなってしまった日劇の丸い建物、
路地のガード下に「カレーの後楽」と言う店が有って毎日朝50食限定で50円カレーを売っていた、
此れが実にうまかった記憶がある、今と違ってポークとビーフだけだったが当然これはポークで量も大したことは無いが昼飯は別にとるのでまあ10時のおやつだ
日立の職工から飛び込んだいわば水商売、昼でも夜でも「おはようございます!」と言う世界が楽しい時代だった、先の事なんかこれっぽちも考えていない若さならぬ馬鹿さである
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます