付き合いの永い貧乏だ、物心がついた頃はかなりの貧乏だった、親父は樵をしていてお袋は裁縫で家計を支えていた、生まれた所は農村で貧富は所有する田畑土地で決まる、「田が何反、畑が何反、山が何町歩」で家の格は決まる、当たり前だが収入も決まる。我が家は段々傾斜の200坪ほどの土地だがその内1/4程は竹藪で、家の前の畑は親父とお袋、そして子供達で耕していた、当然自家用である、様々の野菜を季節に応じて作っていた、穀物は取れない、村で配給米を取って居たのは僅かなので子供同士での格付けでは非常にマイナスだった。親父は村の生まれらしい、しかし戦争前に家族全部が村を離れた、祖父母に関しては記憶所か知識すらない、あまり話をしない親父で覚えて居るのも全て兄弟から聞いた話である、親父には兄弟が居たらしいが自分が覚えている限りで付き合いが有ったのは2軒でそれも都合4~5回有っただけだろう、内2度は其々母と親父の葬儀の時だ、敗戦から10年弱の頃小学校に入った、家の食事は押し麦と白米半々の麦飯で時々は薩摩芋が増量剤として入った、後はすいとんで器用な親父は饂飩にもしていた、学校はまだ給食は無く麦飯の弁当を持って来る子はは少なかった、家が米農家だから当たり前である、オカズはよく覚えていないが印象に残るのは鰹節を敷き詰めて醤油を掛けたものだった、それでも良い方で時々は弁当を持たない事もあった、いわゆる欠食児童である、クラスに私を含めて3人いたが3人が持たないことは余り無く交代で2人が所在なく校庭に出て昼飯を終えるのを待っていた、田舎なので敷地から続く野原に居た事もある、ふと気が付くと6歳上の姉もブランコに座って居た事も多い、まあ当たり前なんだが。途中から給食が始まった頃母親が乳癌で手術をするが戻って半年でまた入院し中学に上がった年に他界する、その前から姉達は就職して家にはいない、親父と二人で生活をするが親父の稼ぎでは苦しく生活保護を受けていた、朝食の片付けと夕食の用意、風呂の用意は自分の仕事で調理の材料は財布を見ながら考えた、近所の養鶏農家から分けてもらう卵が栄養源で鶏肉以外の肉は家では食べてた記憶はない、村には酒や缶詰を売る雑貨店は有るが魚屋とか肉屋は無い、未だ冷蔵庫のない時代である、時々廻ってくる自転車の行商人が持ってくる魚を買うが味噌漬けか干物だった、時折焼津漁港で取れすぎた秋刀魚をトラックに山積みにして売りに来た、数では無くバケツに山盛り幾らと言う売り方でスコップで入れて売って居た、これを買ってホーロー引きのパンに塩と交互に並べて猫に取られないように天井から縄で吊るしておく、それでも臓物処理をしている訳では無いので急いでたべきらないとならない、暫くは朝昼晩と秋刀魚の塩漬けである、親父は此れで焼酎を飲んでいたが塩を洗っても最後の頃はやたらにしょっぱい物になって居た、この時期は貧富は関係なく教室は秋刀魚だった、しかし此の頃の記憶で貧乏だと言う意識は全くと言って良いほど無かったな、普通に生活していた気がする、初めて「貧乏だったのか」と思ったのは東京の大手電機会社に入った時、大食堂で出すおかずに同僚達が「豚の餌かよ!」と怒っているのを聞いた時である、当然口には出せなかったが自分にはずいぶん美味しかったのである、それから高成長に合わせ会社を興し時流に乗って子供を学校にも出し、家も買った、しかしバブル崩壊と共についには家も手放して又明日の米の心配をする所にまで来た、1人ならまあ昔に比べればと云う所だが連れ合いが居るとやはり辛いな
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