18歳になって直ぐ運転免許を取った、実を言うと取ったのが8月だったがこの年の7月から自動二輪と普通自動車が分かれてしまった、実に惜しい事をした。翌年になってH製作所を辞めた、H製作所は大きな重電メーカーで事務方と現場ははっきりと身分に差がある、中卒は現業でも女性以外は取って居ない、最年少は中学卒を自社内の学校で1年間養成する技術養成員で残りは高卒である、事務方は大卒のみ、私の居た部署はレントゲン製作課で約300人、その中の一つの組で60人程居た、構成は技術養成員が3割、高卒が1割、臨時工が3割残りは女子である、組長は技術養成員からずっと勤め上げた定年に10年程残した50代の方、しかし前の年の4月に本社に大学卒で入った人が4月から研修としてやってきた、幹部候補だと言う事が囁かれているらしい、本社で1年ほど経った後幹部研修と言う事でやって来たのだが最初の挨拶から課長までが敬語を使って居る、300人以上を統括するI課長は多分50代前半、この後定年前のご祝儀部長で北海道に移動する、しかし幹部候補生は23歳程度だろう、その候補生が先頭で大名行列よろしく現場を見て廻る、組長などは歯牙にもかけて居ない様子だ、翻って自分と言えば臨時工上がりの職工だ(此処に居ても組長ですら行けない)と思った、同じ思いは何人か居らしい、3人が辞表を出した、私以外は同じ年齢の技術養成員だった、話したわけではないが同じ思いだったのだろう。転職した仕事は配送営業員と言う仕事でなんとこの時点で給料の手取りが3倍に成った、この会社には7年居たが今回は車の話、此処で知り合った同年の奴が自動車整備工だったのだ、2人で車が欲しいなと言っていたら近くの中古車店に何と2万円の車が出た、車検の残りは4ヶ月と少し、ブルーバードの最初のモデルだ、テールが小さな310と言うモデル、1300ccでおそらく55HP程度だったろう、2人で1万づつ出し合って購入するがこの値段である、先ず右には曲がるが左には曲がらない、ハンドルギヤのピニオンが欠けているのだ、その中古車屋は会社の左手に曲がった同じ道の右側にある、つまり買って会社に戻るのに右折を6回繰り返して到着する、彼が車を台に乗り上げてギヤボックスを外し、此れを持って両国の立川と言う所に行ってスクラップ工場をまわり同じ物を買って来た、確か800円だった、此れを入れ替えて何とか走れるようにして先ず最初の2ヶ月を私が、後半の2ヵ月半を彼が使う事にする、丁度年末で此れで田舎に帰ってやろうと言うのが私の計画であった
翌朝自転車は取りに戻ったのだが、此処まで書いて何故こんな事をやったか思い出した、この年の6月父親が死んだ、結婚した姉と同居していたのだが3年前に交通事故に巻き込まれ脳出血を患い更に高血圧でも有って医者から「飲酒は脳溢血の再発を起こす、今度は恐らく命取りになる」と言われて居たのだが毎日泥酔して帰宅していたらしい、そして案の定再発しそのまま12日寝て他界したのだが、結婚した娘の家に住むと言う事を経験した自分が今考えると親父は消極的な自殺だったのではないか、と思えて来た、自分には未だ連れ合いが居て無理に無理をして娘の家を出た、しかしお袋に6年前に死なれ1人では生活する力も無くなった親父は現実を忘れそのまま死を選んだのだろうか、その6月の葬式の時に義理の兄に「一度自転車で戻ってみようかな?」と会話の中で話したら「やってみなよ」と言った話し方が余りに馬鹿にした口調に聞こえ(絶対やってやる!)となったのだ、朝義兄が顔を会わせた時に「馬鹿やったな」と言われて内心(見たか!)と思った事を思い出した、今考えると若かったし可愛げの無い小僧だったな、島田から大井川を渡って日坂峠を乗り越える、今車で通ると良く乗り切ったと思うが1時間弱で目的地に着いた事が悔しかったと同時に(あのままはやはり無理だったな)と言う思いが有った。兎に角これで目的を達成したので帰りは自転車を電車で送る事にする、当時は「チッキ」と言っていたが連結した貨車で荷物を運ぶ事が出来たのだ。しかしこの冒険は自分に自信を付ける事が出来ていい経験だった、効果としてはその後同窓会に出る度に「今日は自転車じゃないのか?」と数回言われた事位かもしれないが、兎に角それで自転車はおしまいで他の同僚とカメラと物々交換してしまった、その時に手に入れたのは今はカメラメーカーとしては無くなったミノルタのハイマチックセブンと言うカメラだった、最初はモノクロでネオパンSSかトライXを使い、たまに頑張って富士カラー100と言うフィルムを使って写真を撮り始める、この頃からずっとカメラは趣味になって行くが移動の手段は数年後免許を取ったので自転車から車に移って行った
中学を卒業して上京した、重電メーカーのH製作所の臨時工員である、2年ほどで正社員に成ったがその後4年ほどで退社してしまったが此れは又次の機会にしよう、民間アパートを借り上げた寮に住む事になった、17歳の春頃同僚3人でサイクリング自転車を買った、ブリジストンの4段変則でドロップハンドルと言う奴だ、住まいのあった江戸川区から木下街道や未だディズニーランドの無い「青べか物語」の浦安などを休日毎に橋って楽しんでいた。その年の夏休み3人で何処か遠くに行こうと言う話しになった、自分は前から考えていた自転車での帰郷をやってみる事にする、2人は「2泊3日で三浦半島を廻る」事になって江戸川区の小岩を朝の3時に出発する、横浜の駅前で分かれて自分は1号線の標識に従って西に向かう、今考えれば自転車だから246が正解だがそんな知識は無い、保土ヶ谷から戸塚の坂を息を切らせて登り、藤沢でクラッカーを買って先に進む、平塚を過ぎ、小田原近くで白絣と袴、高下駄に角帽の二人連れに合った、東海道を京の五条まで歩いてゆくそうだ、小田急の駅前を過ぎて強羅口まで何とか乗ってゆく、時間は8時過ぎ、此処まで5時間だ。此れからが大変だった、後は兎に角押して上がる、どの辺りだろう、お土産やに寄って水をお願いして頭から被るが直ぐ乾いてい仕舞う、芦ノ湖も殆ど見ないで箱根峠に向かう、芦ノ湖から箱根峠の間で新潟から門司まで向かうという高校生の2人組みと一緒に成った、「長距離なので1日100kmと決めている」そうで「昨日は城ヶ島で泊まった」らしい、もう1人富士フィルムに勤めていると言う痩身の人とも知り合う事が出来た、箱根峠を越えたら2時過ぎで小田原から6時間掛かっている、これからは下りだ、未だ東名高速の無い時代で大型のトラックが連続して居る、きついカーブが連続して居るのとブレーキが焼けるせいだろう、20~25km/h位で走っているので次々と抜いてゆく、スリップ止めの丸い凹みで細かな振動が体を振るわせる、三島の平坦地まで40分程度で降りた、気が付いたら後ろにゴムで止めていた地図は何処かで振り落としたらしい。吉原付近は平坦な道路、清水の街中のT字路を過ぎて静岡市内を抜けて安倍川を渡り鞠子から岡部に向かう所で暗くなってきた、宇津の谷峠は今行ってみると何処を通っていたか思い出せないがこの辺りから真っ暗になり後方から来るトラックに危険を感じるようになる、多い側を越えて日坂峠を越えればそろそろ目的地だが、時間は8時を廻る、さすがに日坂峠を越える体力も気力も無くなった、島田の駅前で自転車の預かり所を見つけて自転車を置いて電車に乗る、9時を廻って姉の家に着いたらもう真っ暗で誰も出て来ない、今考えれば随分無用心だったが玄関は開いていたのでそのまま玄関の板の間に仰向けになったら直ぐ寝てしまったらしい、激しい鼾をかいたらしく姉に起こされた、食事をと言われたが食欲は無い、考えてみると横浜駅前でお結びを何個か食べただけで後は藤沢で買ったレーズンクラッカー(今でも覚えている)しか食べて居ないが腹が減った気がしない、冷蔵庫を見たら西瓜が入っていたので此れを半分平らげて布団に入るが妙に肌に馴染まない、外廊下の板敷に横になったら直ぐに寝てしまった
私の生まれ育った所は静岡県の中央部、海からはかなり離れた山の中だった、しかしそれでも静かな夜半には遠くから波の音が聞こえる事も有った、雲の厚い風の無い日で親父が「雲に反射してるんだろ」と言っていたのを思い出す、今よりずっと寒かったきがするが雪は降った事は無い、冬になると真っ白に霜が降りて橋の欄干や稲を干すはぜの竹に着いた霜を集めて遊んでいた、私が中学に上がった頃本田技研が売り出した「スーパーカブ」が爆発的に売れて同じ様に鈴木自動車が50ccのバイクを売り出してそれまでブリジストン自転車が小さなエンジンを実用自転車につけてゴムローラーをリムに押し付けて自動自転車として売っていたのをあっという間に凌駕してしまった。ホンダは125ccと250ccでも独占的なシェアを確立しつつあった、ベンリー号と言うバイクと少しおしゃれにランプ廻りが角ばったドリーム号と言うバイクがあり、このドリーム号はやはり爆発的な人気に成った「月光仮面」が乗って悪と戦っていた、しかし何と言っても凄かったのは「スーパーカブ」で頑丈高性能で且つ廉価だったせいであっという間に広まっていった、実用としても広まったが此れに火を点けたのは中学を卒業した程度の若者達だった、未だこの頃は16歳から50cc以下には許可制で乗れたのであっという間に広まったのだ、此れを見逃すわけも無くホンダはスーパーカブのデザインと性能を実用から少しだけ変更し「スポーツカブ」と言う名で売り出したのであるが、意外とこれは売れなかったらしい、私が中学2年に成った頃で、この頃は未だ進学組みと就職組みに2年からクラス編制が分けられていて私は就職組みだったのだが本田技研が静岡の中学(若しかしたら遠州だけだったのかもしれないが)就職クラスに実習用の教材としてこのスポーツカブを1校に1台づつ寄付をしてくれたのだ。丁度私の学年が最初の学年となって恩恵を受ける事に成った、先ず校庭で全員が1人づつ運転し、その後此れを分解する事に成った、今考えると技術の先生がそれ程詳しいわけも無くどう言うコンセプトで始めたのか解らないが兎に角「ばらして見よう」と言う事に成った、校庭に新聞紙を敷き詰めてバイクの外側から外して行くのである、此れを後で解らなくならない様にと順番に並べてゆくのだが最終的にはエンジンまでばらしたら驚くほど大量の部品である、当然だが時間は足らずそれらを一旦講堂に移して後日組立てた訳だが大勢の生徒が居るので分解組みと組立て組みに分かれて作業をする、分解組みと相談しながら組上げてゆくのだが組み上がってみるとドライミルクの缶に半分位の部品が残ってしまった、先生に聞いても当然解らない、「試しにエンジンを掛けてみろ」と言う事に成った、未だセルモーターは無くキック掛けである、此れが何と1発で掛かってしまった、「試しに乗ってみろ」と言う事で校庭を最初は恐る恐る走ったが何の問題も無い、校庭から出て田んぼの中の道や坂の有る里山の道を走って来たが何の問題も無い、しかし「何の問題も無い」のは大変な問題である、先生と相談の結論は「残った部品は無かった事にして捨ててしまおう」と言う事に成ったがさすがに捨てるのは不味かろうと技術室の棚の上にそっと置いておく事に成った、そのままこの教材は下級生に引き継がれていった訳だがその後どうなったのだろう