平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



平清盛の嫡男重盛(1138~1179)は、平家一門が六波羅一帯に館を構えていた頃、
その東南の小松谷に住
んでいたため、小松殿・小松内大臣とよばれ、
また小松家といえば重盛一門の通称となっています。

小松市は石川県の南部に位置する日本海に接した所で、
かつて加賀国の国府があった地です。

歌舞伎の勧進帳の舞台となった安宅の関址、北陸篠原合戦で
討死した斎藤実盛の兜を所蔵する多太(ただ)神社があり、
また清盛に寵愛された仏御前の故郷でもあります。

篠原合戦に敗れ、敗走する平家軍の中で、老武者斎藤実盛は白髪を
黒く染めて戦い討死しました。奥の細道の途中、芭蕉は実盛の兜を拝観し、
♪むざんやな かぶとの下の きりぎりす と詠んでいます。

「小松」の地名の由来は諸説あり、小松内府平重盛の所領であったことによるという説、
一方、花山法皇が別荘を造り、数多くの小松を植えたという説もありますが、
平家物語ファンとしては、重盛にちなむ説をとりたいところです。

重盛ゆかりの寺院がJR小松市駅の近くの東町にあります。
「小松山法界寺」浄土宗法界寺はもと三密精舎鎮華院小松寺といい、
平重盛が六十六ヵ国に建てた小松寺のひとつであるという。
小寺村(現、小寺町・御宮町)は、仁安2年(1167)、この村に創建された
小松寺の門前集落と伝えています。(『石川県の地名』)

十数年前、安宅関址を訪ねた時、通りすがりに街角にたつ説明板に
平重盛の文字を見つけて撮影した一枚です。
現在、門前に説明板は立っていないようです。

「小松山法界寺由来 今を去る八百余年の昔、小松内大臣平重盛公が
国家鎮護を祈願して六十六ヵ国に小松寺を建てられました。
当寺はその一寺として仁安二年(一一六七年)
加賀国小寺(現小松市小寺)に建立されました。
小松の地名もここに由来すると伝えられ、町のはじまりと共に
縁りの深い寺であると申すことができるのです。
はじめは
真言宗に属して三密精舎鎮華院小松寺と号し祖師は法印龍真であります。
弘安の頃北国鎮護道場勅願所に定められました。

明応二年(一四九三年)第三十二代泉龍社了道の時に浄土宗鎮西派に帰し
小松山仏徳院法界寺と改められました。今日、了道以来二十八世に当たる
法純が法燈を守り続けて居ります。天正五年(一五五七年)柴田勝家の兵によって
寺が焼かれました。再建後八十余年を経た寛永十七年(一六四〇年)加賀藩三代藩主
前田利常公によってこの地を与えられ創建の地を離れこヽに移って参りました。
昭和七年大火に遭い山門本堂等の伽藍を悉く焼き数多くの仏像や
寺宝を失ったことは誠に惜しいことであります。

漸くその難を免れたものの中で狩野探幽の筆になる当麻曼荼羅と
釈尊臨終の場を画いた涅槃図は特に有名で春秋の彼岸にこれを拝観し罪障消滅、
極楽往生を願う善男善女が集まり門前市をなしました。これらは
仏教美術としても価値のある文化財であり大切にされなければなりません。

また摩耶夫人像は四代藩主前田光高公の正室清泰院の遺品として
焼失した中将姫像、涅槃像と共に奉納されたもので
前田家の尊崇の篤かったことが伺えます。この像は長い歳月の間に
極彩色がはがれたため黒く塗り替えられたので黒仏と呼ばれ、
今も母体守護安産祈願の信仰をあつめ親まれて居ります。
昭和五十八癸亥年  小松山法界寺」(現地説明板より)

重盛開基の小松寺は、愛知県小牧市味岡、愛知県一宮市五反田、
愛知県知立市、広島県福山市鞆町などに残っています。
この他重盛や平家一門などと関係のない小松寺も各地に存在しています。

平重盛像 神護寺蔵(国宝)
 悪源太と恐れられた源義平と戦う重盛の勇姿 矢先稲荷神社蔵


大山祇神社奉納の伝平重盛白鞘柄の豪華な螺鈿飾(らでんかざり)太刀(重文)

平重盛の母は高階(たかしな)基章の娘、妻は藤原成親の妹です。
十九歳で父清盛に従って参戦した保元の乱では、白河殿に夜討ちをかけ
「八郎が矢さきにひとつあたらん」と真っ先に強弓の鎮西八郎為朝の前に
果敢に進み出で、慌てた清盛が郎党に制止させています。

その三年後の平治の乱でも、平家重代の唐皮の鎧に小烏(こがらす)の太刀を佩(は)き、
「年号は平治也、花の都は平安城、われらは平家也、三事相応して、
今度の戦に勝たんことなんの疑かあるべき。」と言って部下たちを鼓舞し、
待賢門を守る悪源太義平(源義朝の子)と渡り合い、
平家貞(貞能の父)に「重盛様はご先祖平将軍貞盛の
生まれかわりのようです。」と称賛され、将来を期待されています。
保元・平治の乱の頃の重盛は心身ともに充実した時であり、
これ以後、軍事上ではあまり華々しい活躍を見せていません。

重盛は元来病弱であったらしく、病気で二度も官職を辞任しています。
このことが重盛を神仏に深く帰依させたようです。
『平家物語』には、重盛が宋に金を贈り、永代供養を願ったという話や
東山の麓に四十八間の仏堂を建て、若く美しい女房たちを集めて
法会を開いたので「燈籠大臣」と称されたとの説話もみえます。

重盛は熊野信仰厚く、熊野本宮の参詣では、清盛の暴虐を悲しみ熊野権現に
「父の行いを改めさせてください。それが無理なら自分の命を縮め、
来世での苦しみだけでも救ってほしい。」と一晩中祈りました。
熊野から帰ってまもなく病の床につき、平家一門の滅亡を見ずに世を去りました。
死因は不食の病、今でいう胃潰瘍、胃がんにあたります。
一説には頸部の「悪痩」(延慶本)という。重盛死去のしらせに世間の人々は
「こののち天下にいかなることが起こるのであろう。」と恐れおののき
その死を悲しみました。この頃から平家の栄華にかげりが見えはじめます。

重盛は信仰のために多額の出費をしたと思われます。宋に寄進した金の出所は、
重盛が知行していた奥州気仙郡(現、岩手県大船渡市・陸前高田市)から
まいらせた年貢(『源平盛衰記』)としており、
平家一門の富はそうした浪費にも十分耐えうるものでした。


「巻1・吾身栄華」の一節は、その財力を次のように語っています。
「日本秋津島はわずかに66ヵ国。そのうち平家の支配する国は30余ヵ国。
この他平家所有の荘園や田畑はいくらあるかわからない。宮中の殿上の間は
華美な衣装で着飾った一門の人々が満ちあふれ、まるで花が咲いたようだ。
平家の邸には、上級貴族が集まり、さながら門前は彼らの牛車や馬で市が
できるようだ。海外からは豪華な品々が集まり、一つとして欠けるものはない。」
平氏の荘園は後に没収されましたが、五百余ヵ所あったという。

これまで後白河院と清盛の間で潤滑油の役割を果たし、清盛の横暴を
諫めていた重盛が没した途端、二人の間の亀裂は決定的となります。
鹿ヶ谷事件が発覚し、清盛によって院近臣の藤原成親、西光を処刑、
俊寛らは鬼界島に流されて以来、平静をよそおいながらもその実、
反感を強めていた院が清盛の勢力を排除しようとします。

藤原基実没後、基実の後家の盛子(清盛の娘)が相続していた
摂関家領の管理権を盛子の死後、取り上げたばかりか、
維盛(重盛の嫡男)に相続されるはずの重盛の所領越前国(福井県)を
没収するなどして清盛を挑発していきます。
盛子、重盛と続いて二人の子を失い何かにつけ心細く感じていた清盛は、
福原に引き籠っていましたが、たまりかねて軍勢を率いて上洛し、
院近臣の官職を取りあげて追放し、次いで後白河院の身柄を法住寺殿から
洛南の鳥羽殿(鳥羽離宮)に移して幽閉し、院政を停止させました。
(治承三年の清盛クーデター、治承三年の政変)

小松家の重臣平貞能(さだよし)は、都落ちに際し、重盛の墓を掘り起こし
「ああ、情けなや。殿はこうなることを悟っておられたので、神仏に祈願して
早くお亡くなりになったものと存じます。あの時、貞能もお供すべきでしたが、
甲斐なき命を永らえて、このような憂き目に遭っております。
私めが死にましたら、必ず殿と同じ浄土へお迎えください。」と
重盛の遺骨に向かって泣く泣くかき口説くのでした。
平重盛熊野詣(熊野本宮大社)  
アクセス』
「小松山法界寺」石川県小松市東町92  ℡ 0761-22-3448 
JR北陸本線小松駅徒歩約3分
『参考資料』
「石川県の地名」平凡社、1991年 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実(上)」塙新書、1994年
安田元久「平家の群像」塙新書、1982年 新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
倉富徳次郎「平家物語全注釈(上)」角川書店、昭和62年 
兵藤祐己「平家物語の読み方」ちくま学芸文庫、2011年 上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書、平成13年
水原一「新定源平盛衰記(2)」新人物往来社、1993年「図説源平合戦人物伝」学習研究社、2004年
  日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年 





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多太神社は篠原合戦で討死した斎藤実盛の兜を所蔵する神社です。
多太八幡神社ともいい、延喜式内社に列する古い社で、
祭神は衝桙等乎而留比古命(つきほことおてるひこのみこと)
応仁天皇・仁徳天皇・神功皇后ほかが祀られています。
 
鎌倉時代中期、近くの能美庄が京都の石清水八幡宮の社領になると、
その末社となり、室町時代まで加賀地方ではかなりの勢力をもっていました。
この神社に残る兜・袖・すね当は、藤別当実盛の遺品を
木曽義仲が願状を添えて奉納したものと伝えられています。




篠原合戦における斉藤実盛の逸話は後世まで語りつがれ、
さらに有名にしたのが謡曲「実盛」や松尾芭蕉の俳句です。

斉藤実盛の死後二百年余り経った室町時代、
時宗の遊行上人太空が篠原古戦場近くにある潮津(うしおず)道場で布教中、
実盛の亡霊にあい卒塔婆をかいて霊を慰め供養したといわれています。
(実盛の亡霊が実際に現れたと室町時代の記録類にも載せられている)
謡曲「実盛」はこれを素材にした世阿弥の作品です。
武将が死後修羅道の苦しみを語る修羅物の一曲で「三修羅」および「三盛」の
一つにあげられており「未熟の能師の勤めざる能也」とされる難曲です。

時代は下り江戸時代、芭蕉は「おくの細道」で多太神社に詣で、
実盛が身につけていたと伝えられる錦の切れ端やかぶと等を拝観しています。

松尾芭蕉の像


『奥の細道』でそのくだりを見ておきます。
「この神社には斉藤別当実盛の遺品である甲や錦の直垂の一部が所蔵されている。
その昔、実盛が源氏に仕えていたころ、義朝から拝領したものだとか、
なるほど並みの武士のものではない。目庇(まびさし)から吹返しまで、
菊唐草の彫刻に金を散りばめ竜頭の飾金具と鍬形の角が打ちつけてある。
実盛が討死の後、木曽義仲が祈願の状文に添えてこの社に奉納されたこと。
その時、樋口次郎が使いとして来たことなどが、
目のあたりに見るように縁起に書いてある。」


ちなみに目庇というのはかぶとの正面に突き出した庇をいい、
吹返しは目庇の
両側から耳のように出て
後方に反り返っている部分で矢防ぎと装飾をかねています。


この文章に続けて♪むざんやな甲の下のきりぎりすの句が添えられています。
「このかぶとを見るにつけ往時のことが偲ばれるが、実盛が白髪を染め
この甲をかぶって戦って討たれたことは何といたわしいことであろう。

しかしそれも過ぎ去った昔語りとなって
今はかぶとの下で秋の哀れを誘うようにきりぎりすが鳴いていることだ。」
当時のきりぎりすとは今のこおろぎの事です。

この句の初句は、はじめ「あなむざんやな」または「あなむざんや」でした。
「あなむざんやな」は謡曲「実盛」で、樋口次郎が実盛の首級(しゅきゅう)を見て
「あなむざんやな、斉藤別当にて候ひけるぞや」という詞をとったものですが、
もとは『平家物語』の「あなむざんや」から繋がっています。
『奥の細道』をまとめる際に、字余りが修正され「あな」という詞が省かれました。



芭蕉翁一行が多太神社に詣でたのが三百年前の
元禄二年(一六八九年)七月二十五日(九月八日)であった。
七月二十七日小松を出発して山中温泉に向う時に
再び多太神社に詣で、それぞれ次の句を奉納した。
あなむざん甲の下のきりぎりす  芭蕉
幾秋か甲にきへぬ鬢の霜     曽良
くさずりのうち珍らしや秋の風   北枝

斎藤別当実盛の像



おくの細道の旅で芭蕉は西行の足跡を辿ったとされますが、悲劇の武将
源義経を追慕するのも目的の一つでした。平泉から南下するうちに木曽義仲にも
思いをよせるようになり、晩年義仲が眠る義仲寺(ぎちゅうじ)に埋葬するよう遺言し、
義仲寺には芭蕉の墓があります。義仲に特別な思いを持っていた芭蕉は、
多太神社で義仲が奉納した宝物を見た時、実盛の最後を追懐し、
鬢髭を黒く染めて戦った誇り高い武士魂と図らずも恩人を討ってしまった
義仲の心情を思い、感慨深いものがあったはずです。

義仲が奉納した実盛のかぶとは、今も多太神社で見ることができます。
通常は予約が必要ですが、7月下旬の「かぶとまつり」では一般公開されています。
かぶと保存会(0761-21-1707)に予約し、
平成18年5月4日に拝観させていただきました。
宮司さんに案内されて宝物館の戸を開けると、
テーブル状のショーケースの中に兜は展示されていました。
中央の祓立(はらいだて)には八幡大菩薩の文字が彫られ、古雅で気品高い
兜の姿にしばし見とれ、八百年余り前の悲哀に思いを馳せました。



大きく破損していたかぶとは明治33年に国宝に指定された時に
一度解体修理され、昭和25年には重要文化財となりました。

篠原合戦で討たれた実盛は死んで怨霊神となり、稲を食うサネモリという
虫になったという。それというのも実盛は稲につまずいて倒れ、
それが原因で手塚に討たれたと伝えられます。
田植えを終えた祭り「さなぶり」が「さねもり」に重ねられ、稲の害虫よけを
実盛の霊に祈る慣わしが現在でも北陸地方を中心にした農村に残っています。
実盛の説話はやがて謡曲の舞台となり、
文芸・民間伝承の中に長く生き続けています。

拝殿本殿

多太神社回向札(小松市指定文化財)
画像は小松市HPよりお借りしました。
室町時代、時宗の祖一遍から14代にあたる遊行上人太空が
実盛の霊を供養したという縁起にもとづき、代々の上人は加賀国に布教の際、
多太神社・実盛塚で回向するのが慣例となりました。

境内社松尾神社

平成18年に続いて平成27年秋に再度参拝させていただきました。
篠原古戦場(首洗池・実盛塚)  
義仲寺1(木曽義仲と芭蕉) 
 『アクセス』
「多太神社」小松市上本折町72
JR小松駅から徒歩16、7分。駅前通りを300mほど西へ進み、
龍助町から左に折れて南へ向う「上本折町」バス停すぐ。
『参考資料』
新編日本古典文学全集「松尾芭蕉集」(1)(2)小学館
 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 
山本健吉「奥の細道」飯塚書店
菅野拓也「奥の細道三百年を走る」丸善ライブラリー 

佐々木信綱「芭蕉の言葉」淡交社 金森敦子「芭蕉はどんな旅をしたのか」晶文社
水原一「平家物語の世界」(上)日本放送出版協会 新潮日本古典集成「謡曲集」(中)新潮社
「石川県の歴史散歩」山川出版社 「石川県の地名」平凡社

 

 



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倶利伽羅合戦で木曽義仲軍に大敗した平家は、加賀平野を南下し、
篠原の地(現、加賀市篠原町)で陣を立て直し、
義仲軍に再び挑みますが、敗れて次々と戦場を落ちていきます。
その中にただ一騎だけ踏みとどまって戦う老武者がいました。
大蔵合戦で父義賢を討たれた駒王丸(木曽義仲)を
木曽の中原兼遠のもとへ送り届けた長井斉藤別当実盛です。

かつて不憫に思って命を助けた幼い駒王丸が今成長し、敵方の将軍として
兵を進めてくる。その中で恩人として情けを受けることを潔しとせず、
実盛は平家方の一武士として見事な最期を遂げます。
ここで『巻7・実盛最期の事』のあらすじをご紹介します。                              

斉藤実盛は味方の軍勢が総崩れになる中で、ただ一騎引き返し、
引き返しては戦っていました。
実盛この日の装束は、将軍が着る赤地の
錦の直垂(ひたたれ)に
若武者のような萌黄縅(もえぎおどし)の鎧を着け、
鍬形(兜の角)打った兜の緒を締め、黄金作りの太刀をはき、
切斑(きりふ)の矢(白羽に黒褐色の斑紋がある鷲の羽の矢)を負い
滋藤(しげどう)の弓(漆で黒く塗り白い藤を点々と巻いた弓)を持ち、
銭形のまだら毛の馬に黄覆輪(金)の鞍を置き、
何から何まで立派な大将軍のいでたちでした。

義仲配下の手塚太郎光盛がこれに目をつけ戦いを挑み
「信濃国の住人手塚太郎金刺光盛」と名乗ります。
「手塚」は姓、「金刺」は源・平・藤・橘などと同様の氏のよび方で
諏訪神社の神職の家柄です。

戦場では互いに名乗り合って勝負するのが礼儀ですが、
斉藤実盛は「
存ずるむねがある」といって名乗りません。
そこへ手塚の郎党が割り込んできて組みつきますが、
たちまち実盛に首をかき斬られました。

手塚はその隙を見て、実盛の左手にまわり、鎧の草ずり
(胴の下にたらして腰や腹をまもる)を引上げて
刀を突き立て、
馬から組み落としました。
さすがの実盛も激しい戦いで疲れ、手傷も負いその上、
何よりも老武者であるため、若い手塚にとうとう組み敷かれてしまいました。
手塚は相手が中々の勇者であるので、自分でしとめずに
組み敷いたまま、駆けつけてきた郎党に首をとらせました。


義仲の御前にその首を差し出すと、実盛をよく知る樋口次郎兼光は
一目見るなり
「あなむざんやな、斉藤別当にてそうろう」と
涙をはらはらと流し次のように語りました。

「六十も過ぎて戦場に向かう時は、若武者と白髪頭で先陣を争うのも見苦しいし、
老武者と相手に侮られるのもいやだから、髪や髭を黒く染めて、
若く見せて出かけたい。と実盛は常々申していました。
実盛に相違ありません。」討ち取った首を洗わせてみると、
はたして真っ白な髪があらわれました。


実盛が錦の直垂を着ていたわけは、北陸合戦の前に平宗盛を訪ねた時、
富士川合戦で水鳥の羽音に驚いて逃げ戻ったことを恥じ、
この汚名を挽回するために故郷である北国で討死する覚悟を申し述べ
「故郷へは錦を着て帰れ」という
例えに因んで
錦の直垂の着用をお許し下さい。とお願いして
宗盛から特別の許しを得ていたのでした。

樋口次郎兼光は中原兼遠の次男で、武蔵の児玉党と縁を結び、信濃から武蔵へ
よく出かけていたので、義仲を逃がしてくれた実盛を知っていたのです。
 
なお、実盛は「謡曲実盛」や浄瑠璃などの文芸作品にも取り上げられています。

首洗池
篠原古戦場は片山津温泉の北方、
加賀三湖の一つ柴山潟と片山津海岸の間一帯をいう。

柴山潟から日本海に注ぐ新堀川にかかる源平橋のたもとにある小公園に
斉藤実盛の首を洗ったと伝える首洗池があります。
池の中には首洗池の標柱が立ち、池の畔には実盛の首級を抱く義仲と
樋口次郎、手塚太郎の銅像や
芭蕉の句碑がたっています。






実盛塚 

篠原合戦で討死した斉藤実盛の首塚と伝え、大正6年(1917)に整備されました。
大きな土盛の塚で、一本の見事な老松が大きく枝を広げ、
その下には「南無阿弥陀仏」と刻まれた供養塔がたっています。








斎藤実盛(?~1183)は『今昔物語の芋粥』で有名な鎮守府将軍・
藤原利仁の流れを汲み、火打城で義仲を裏切った
平泉寺長吏斉明とはふたいとこの間柄です。
越前国の生まれ父は斎藤実直(さねなお)で、
祖父実遠(さねとお)の猶子となり、後に武蔵国長井庄に移住し、
長井斎藤別当実盛と改名しました。

「別当」とは荘園の管理職をいい、
斉藤氏は利仁の子・叙用が斎宮寮頭に任じられたことに始まるという。

保元の乱、平治の乱では源義朝の郎党として参戦し、特に平治の乱では、
東国へ敗走する途中、落ち武者を狙う比叡山の僧兵に妨げられましたが、
実盛の気転により一行は無事逃れることができました。
洛北から竜華越えして堅田に逃れ勢多まで来た時、
義朝は郎党二十余人に国で再起を待つよう申し渡し、
子息義平・朝長・頼朝らとともに僅か八騎の勢で雪の夜道を落ちて行きました。
暇を出された郎党は思い思いに下り、実盛は長井庄へ帰りました。

源氏が滅びて長井庄が平家の所領となると、実盛も時勢には勝てず
平宗盛に仕え、関東の平家荘園管領別当職に任じられました。
やがて源頼朝が挙兵し、東国で勢力を拡張しながら
数万騎を率いて鎌倉に入っても態度を変えませんでした。

富士川の合戦で大将軍平維盛に東国武士の実態を尋ねられ
その勇猛さを述べて味方を怖気づかせたという逸話があります。
死を覚悟していた実盛は、二人の息子・斉藤五・斉藤六をあえて都に留まらせ、
この後、兄弟は維盛・六代父子に仕える武士として登場し、
維盛都落ちの後は六代母子を守って忠誠を尽くします。

多太(ただ)神社には、義仲が奉納した斉藤実盛の甲が保存されています。
むざんやな甲の下のきりぎりす(小松市多太神社)
幼い義仲の命を救った斎藤実盛の館跡実盛塚(武蔵国長井庄)  
大蔵合戦 (大蔵館跡・木曽義仲生誕地) 
『アクセス』
「首洗い池」石川県加賀市手塚町 JR加賀温泉駅下車
海まわり「キャン・バス」約15分 雪の科学館下車徒歩10分
「実盛塚」加賀市篠原新町 首洗い池から約2k、新堀川沿いの道を
海岸の方へ辿り左手の松林と民家の裏手に入った所にあります。
『参考資料』

新潮日本古典集成「平家物語」(中)(下)新潮社 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 水原一「平家物語の世界」(上)日本放送出版協会
 「南関東」(武蔵七党の興亡)世界文化社 「木曽義仲のすべて」新人物往来社
 日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館
成迫政則「武蔵武士(下)」まつやま書房「石川県の地名」平凡社 「石川県の歴史散歩」山川出版社

 

 



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倶利伽羅古戦場の加賀(石川県)側には、倶利伽羅合戦の兵火によって
焼失した長楽寺の後身、倶利伽羅不動寺山頂本堂があり、
境内には長楽寺跡や食堂があります。

倶利伽羅合戦で平氏軍は、大軍の強みを発揮できない山中に閉じ込められて惨敗し、
大将軍維盛はじめ僅かに二千余騎が命からがら逃れ、加賀国に退いていきました。
瀬尾(せのお)太郎兼康は武勇に名高い武士でしたが、運が尽きたのか
加賀の倉光成澄(なりずみ)に生け捕りにされ、また火打城で平家方に寝返った
平泉寺の長吏斎明も捕らわれ、義仲の前で即座に首をはねられました。
一方、志保山に向った義仲の叔父行家は、平家に囲まれ苦戦していましが、
義仲が送った援軍によって勝利し、清盛の末子知度(とものり)を討ち取りました。
  
倶利伽羅合戦の敗因について、右大臣九条兼実は、彼の日記『玉葉』に
平氏の侍大将らが主導権争いをして統制を乱したためと記しています。

侍大将として倶利伽羅合戦に参加したのは次のメンバーです。
伊藤忠清の子息(忠綱・忠光・悪七兵衛景清・忠経)、
伊藤忠清の弟飛騨守景家とその子息景高、
越中前司盛俊とその子息(長綱・盛綱・盛嗣)らです。
中でも、上総介判官忠経・飛騨守景家・越中前司盛俊は
「平家第一の勇士」とうたわれていました。

ここで重要なことは、平家の御家人は、一門を構成する各家と
個別に主従関係を結んでいたということです。
小松家の御家人
維盛の父重盛は、清盛の先妻の子であり時子の実子ではありません。
小松谷(現在の小松谷正林寺辺)に住んでいたので小松殿とよばれました。
伊藤忠清は小松家に仕え、維盛の乳母夫でした。
宗盛の御家人
鬼神と称された越中前司盛俊は、清盛・宗盛に仕え、
飛騨守景家は宗盛の乳母夫にあたります。

この合戦には維盛の乳母夫伊藤忠清は従軍せず、
忠清に代わって維盛を補佐したのが、子息の忠経らでした。
清盛の死後、
大黒柱は彼の妻時子であり、その息子宗盛が一門を率いる立場となりました。
嫡流小松家の家人である忠経らは、一門の主流派となった
宗盛の家人と功を争って対立し、軍を統制することができなかったようです。

 倶利迦羅不動寺(真言宗)
平氏軍は倶利伽羅合戦の際、この寺の前身である長楽寺に本陣を布きました。
縁起によると養老2年(718)に元正天皇の勅願により、中国から渡来した
インドの高僧、達磨大師の弟子・善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)法師が、
倶利迦羅不動明王(剣に巻きついた黒竜の姿)を刻み祀ったのが始まりと伝えられ、
このことから、この地を倶利伽羅と呼ぶようになりました。 



それから約100年後、弘法大師空海が諸国巡礼の途中に参詣し、
自作の倶利伽羅竜王像を安置して別当寺・長楽寺を開いたという。
山上には七堂伽藍が建ち並び、塔頭は21ヶ寺を数えましたが
その後、度々兵火にあって衰退し、昭和24年(1949)、
長楽寺跡に堂宇が倶利伽羅不動寺として再建されました。













山頂の倶利伽羅不動寺からバスで移動
平成10年に建てられた倶利伽羅不動寺の西之坊鳳凰殿

道の駅倶利伽羅源平の郷 津幡町字竹橋西
倶利伽羅峠の歴史や文化を知ることができる歴史資料館を始め、
宿泊や研修施設などが完備された倶利伽羅塾などがあります。

火牛の像





倶利伽羅不動寺に通じる道路から倶利伽羅峠一帯は
4月下旬には、7000本余の八重桜が満開になります。
倶利伽羅古戦場(1)埴生護国八幡宮  
倶利伽羅古戦場(2)猿ヶ馬場・源氏ヶ峰・源平供養塔  
瀬尾太郎兼康のその後をご覧ください。
瀬尾(妹尾)太郎兼康の墓  
『アクセス』
「倶利迦羅不動寺」石川県河北郡津幡町字倶利伽羅
「西之坊鳳凰殿」  津幡町字竹橋
JR北陸本線・七尾線 津幡駅下車 タクシー 山頂本堂 20分 鳳凰殿 15分
『参考資料』

高橋昌明「平家の群像」岩波新書 高橋昌明編「別冊太陽・平清盛」平凡社 
高橋昌明「平清盛福原の夢」講談社選書メチエ 角田文衛「平家後抄」(上)講談社学術文庫 
「石川県の地名」平凡社 「富山県の歴史散歩」山川出版社

 

 

 



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寿永2年(1183)5月11日朝、平家軍は倶利伽羅峠に到着し、
長楽寺(現、倶利伽羅不動寺)
を本陣とし、猿ヶ馬場から砺波山一帯に陣を布きました。
一方、
義仲が率いるのは平氏軍の半分の5万騎。義仲は大軍に対して
小勢が平地で戦うは不利と、
敵を山中に釘付けにしておいて夜襲をかけ、
倶利伽羅峠に追い込む作戦をたてました。
そして
義仲が埴生護国八幡宮に奉納した願文が八幡神に
届いたかと思われるような大勝利が
源平倶利伽羅合戦です。

倶利伽羅古戦場跡には、猿ヶ馬場・源氏ヶ峰・塔の橋・矢立山・
砺波の関などがあり、倶利伽羅県定公園に指定されています。



源氏ヶ峯・猿ヶ馬場・倶利伽羅不動寺に布陣した平氏軍、
義仲軍の最前線はそこからわずか数百m隔てた矢立山です。

猿ヶ馬場
「源平倶利伽羅合戦」と刻まれた石碑がブナ林の中に高く立ち、
その前には作戦を練ったといわれる大きな軍議石があります。
傍の駒札には維盛以下、行盛・忠度ら諸将の席次が記されています。



源氏ヶ峯
平氏軍の陣地だったこの峯を源義仲が占領したので
この名がつけられたという。
稜線はなだらかですが谷は深い。


地獄谷
源氏ヶ峯の西の深い谷で平氏軍が馬もろともおちていったという地。
この谷から死骸の膿が流れ出たので谷の渓流を膿川という。
矢立山
義仲軍の最前線だったところ、300mほど隔てた平氏軍の最前線、
塔の橋から射た矢が林のように突き刺さったことから矢立山と呼ばれます。

昼間、両陣は互いに矢を射交わしますが相手方に届かず、間の山に突き刺さったという。
両陣ともに勇み立ちますが、義仲はわざと進撃させず時間かせぎをして
別動隊が平氏軍の背後に回るのを
待ちます。これが源氏の策略とは知らずに、
一日中
矢合わせをしたのは実に哀れなことでした。

日が落ちた。突如、迂回していた義仲隊が白旗を雲のように掲げ、
箙の箱を叩き、大声で鬨の声をあげます。義仲本隊からも、
あちこちに隠れていた軍勢も一斉にどっと鬨の声を合わせます。
わめき上げた声は山も川も崩れ落ちるかと思われるばかり。

四方岩石のこの山の地形から搦め手から攻められる恐れはないと
安心していた平氏方は不意をつかれ、大軍に囲まれたと錯覚し
大混乱となり、「返せ、返せ」と維盛が声を涸らしても、
浮き足立った兵は止められず陣は総崩れ。

濃い闇が視界をさえぎり地理に不案内の平氏方は、義仲があえて
軍勢を配置してなかった地獄谷に我先にとなだれ落ちていきました。
その結果、「馬には人が、人には馬が、落ち重なり、落ち重なり、
さしも深い谷一つを平家の軍勢七万余騎で埋めつくしました。
谷川は血の流れとなり、死骸は積み重なって丘のようになりました。
 
松尾芭蕉の句碑
江戸時代、芭蕉は埴生護国八幡宮を参拝し、倶利伽羅峠を越え、
金沢・小松から今庄の宿の外れの火打城(燧城)の下に出ています。(おくの細道)

 ♪義仲の寝覚の山か 月悲し
(燧城を眺めていると義仲の悲しい運命がしのばれ、月も悲しげに見えることだ。)

これは芭蕉の弟子、宮崎荊口の『荊口(けいこう)句帳』にあり、
芭蕉が福井から敦賀までの名所にからませて月を詠んだ十五句の中の
一句で「燧城」と前書きがあります。芭蕉が記している燧城跡は
源平古戦場の一つで今庄町の西にある愛宕山山頂(270m)にあります。
平氏の追討軍を義仲勢がここで迎え撃ちましたが、
平泉寺長吏斉明の寝返りにより義仲勢は敗退しました。


句碑は津幡出身の俳人河合見風が宝暦年間に義仲ゆかりの地、
猿ヶ馬場に往時を偲んで建立、後に金城馬佛が再建したものです。
風化が激しく碑に刻まれた文字は殆んど読みとれません。
火牛の像
猿ヶ馬場のすぐ西に、雪囲いした二頭の火牛の像や
源氏の笹りんどう紋と平家の揚羽蝶紋を描いた扇があります。



『源平盛衰記』には、義仲は数百頭の牛を集め夜陰に乗じ、
角に松明をつけて放ち、平氏軍を混乱させたと記されていますが、
義仲がこの戦術を実際に使ったかどうかは疑問視されています。

この物語は中国の『史記(列伝22)』にみえる戦国時代の斉国(せいこく)の将

田単(でんたん)の牛の角に剣・尾に松明をつけて敵軍に走らせたという
「火牛の計」の故事にもとづいて作られたといわれ、図柄としては
尾に松明をつけるより角に松明をつけた方が、ずっとインパクトがありますが、
極度に
火を怖れる牛の角に松明をつけるとは考えられないので
『源平盛衰記』の火牛の計は、
田単の故事をもとにして
脚色されたフィクションであると考えられています。


源平供養塔
火牛の像の傍の供養塔は、合戦で犠牲となった源平両軍の霊を弔うために
昭和49に建立された五輪塔。毎年5月12日に法要が営まれています。
その背後には、かって石動町の法務局出張所近くの民家の庭にあった塚で、
平為盛の供養塔と伝えられる五輪塔があります。

源平供養塔の背後にある平為盛の墓


    『為盛は池の大納言平頼盛の子として生まれ、寿永2年(1183年)
砺波山の源平合戦に平家の総帥平維盛の部将として出陣、
5月11日源氏の夜襲に敗れ、加賀国に逃れ翌12日未明、手兵50騎を
ひきいて源氏に逆襲したが、義仲の部将樋口兼光に首をはねられた。
この塚は、勇敢な部将為盛を弔うたもので、墓は地、水、火、風、空を
表す五輪の塔で、高さ1.6m、鎌倉時代の建設である。
市は昭和44年9月20日、この史蹟を文化財に指定した。
昭和46年12月小矢部市教育委員会』(現地説明板)
 
旧北陸道(倶利伽羅古道)
平氏の大軍が駆け上ってきた道、また参勤交代に使われた道でもある。
(源平供養塔付近の古道を撮影)
倶利伽羅古戦場(1)埴生護国八幡宮  倶利伽羅古戦場(3)倶利伽羅不動寺  

 『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
 「源平倶利伽羅合戦記」埴生護国八幡宮社務所 「新定・源平盛衰記」(4)新人物往来社
河合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館 上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館
 「検証・日本史の舞台」東京堂出版 「富山県の地名」平凡社 「富山県の歴史散歩」山川出版社

金森敦子「芭蕉はどんな旅をしたのか」晶文社 新編日本古典文学全集「松尾芭蕉」(1)小学館 

 



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倶利伽羅古戦場は、富山県小矢部市埴生(はにゅう)より、
砺波(となみ)山を越えて石川県津幡町竹橋に至る約10kmの道のり、
富山県と石川県の県境に位置する標高277mほどの峠です。

砺波山は倶利伽羅峠ともいい、倶利伽羅の名はこの峠に倶利伽羅不動明王を祀る
不動堂(現・倶利伽羅不動寺)があったことによるものです。
寿永2年(1183)5月、平維盛を総大将とする平家軍は越中、加賀へと進軍し、
砺波山で義仲軍と戦いを繰り広げ、義仲軍が平家軍を撃破しました。

 2009年11月9日、津幡町観光協会主催の「倶利伽羅源平古戦場めぐり」に参加、
町のバスで移動しながら、観光ボランティアガイド
「つばたふるさと探偵団」に案内していただき、埴生護国八幡宮、
矢立、地獄谷、猿ヶ馬場、倶利伽羅不動寺などを辿りました。






挙兵した義仲は、平家方の越後の城一族を横田河原の合戦で破り、
北陸道における支配力を着実に広げていきました。
一方、平氏は大軍を動員して北陸道を下り、火打城(燧ケ城)
待ち構えていた義仲方の軍勢を打ち破り、破竹の勢いで軍を進めます。
この知らせを受け、越後国府(新潟県上越市か)にいた義仲は
5万余騎を7手に分けて出陣し、平氏軍と衝突したのが倶利伽羅合戦です。

義仲が倶利伽羅合戦の直前、あたりを見回すと峰の緑の木の間より
千木をつけた八幡宮の社が見えます。源氏にゆかりの深い神社だけに
右筆(書記係)の覚明に戦勝祈願の願文を書かせ奉納すると、
八幡大菩薩はこれに感応したのか、
雲の中から山鳩2羽飛来し源氏の白旗の上を旋回しました。
義仲は喜び馬から下りて冑を脱ぎ地に頭をつけて礼拝しました。
ちなみに鳩は八幡神の使いとされています。
埴生護国八幡宮
倶利伽羅峠の富山県側の丘陵には、埴生護国八幡宮の
2万坪の広い境内があり、倶利伽羅合戦の際に
木曽義仲が戦勝祈願した社として知られ、義仲の願文が残されています。
以後、武田信玄・佐々成政など多くの武将や大名の信仰を集め、
江戸時代には加賀藩の手厚い尊崇・保護を受けました。

鳥居をくぐると、倶利伽羅合戦八百年祭に造られた我国最大の義仲騎馬像が建ち、
103段の長い石段を上ると拝殿及び幣殿が現れ、釣殿、本殿が続いて建っています。
現在の社殿は江戸時代初期、加賀藩前田家によって造営されもので
国の重要文化財に指定されています。


昭和58年(1983)、源平倶利伽羅合戦800年祭に造られた源義仲騎馬像

迫力ある義仲騎馬像に圧倒されます

 鳩清水 
八幡宮より2K半山手にある鳩清水の滝を水源にしている清水で
「とやまの名水」に選ばれています。
倶利伽羅合戦の折、義仲が平維盛の本陣に迫る途中、
鳩の導きによってこの滝の清水を得、源氏軍が渇きをいやしたという。




石段を上ると、拝殿及び幣殿・釣殿・本殿が続いています。







社殿の向かって左側にある宝物殿には、室町時代末期から江戸時代にかけての
古文書や義仲・秀吉ゆかりの武具類などが保存されています。

大夫房覚明(かくみょう)
覚明は藤原氏の子弟が学ぶ学問所の勧学院で儒学を学んだ学者で、
同院に蔵人道弘の名で出仕していました。ほどなく比叡山で出家し、
信救(しんきゅう)と名乗り興福寺に入りました。

治承4年(1180)、挙兵が未然に発覚し、平氏に追われる身となった
以仁王は園城寺に逃れました。以仁王を支持する園城寺(三井寺)から
興福寺に決起を促す手紙が届いた時、承諾の返書を書き、さ
らに興福寺から南都諸寺へ呼びかける書状を記したのが信救でした。

文中で激しく平氏を罵倒し、「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥」と書いたため、
「信救法師めが、清盛を平氏のぬかかす、武家のちりあくたとはいかに。
すぐにからめとって首をはねよ。」と清盛は激怒しました。
顔に漆をあびて人相を変え南都を逃れた信救は、源行家とともに
鎌倉に行きますが、
頼朝に冷たくあしらわれたため、義仲の軍勢に加わり大夫房覚明と名を変えました。
文筆の才に恵まれ、義仲のために埴生護国八幡宮の願書や
白山神社に納める願書を書き、のち京都に入る前、
比叡山延暦寺の協力を取り付ける牒状を記しています。

頼朝には朝廷の官人を経て鎌倉に下った大江広元をはじめ政治上の
ブレーンとなった人々が多数いましたが、義仲には覚明が唯一の参謀でした。
  倶利伽羅古戦場(2)猿ヶ馬場  
倶利伽羅古戦場(3)倶利伽羅不動寺  
『アクセス』
「埴生護国八幡宮」富山県小矢部市埴生2992
JR北陸本線石動駅下車徒歩25分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 武久堅「平家物語・木曽義仲の光芒」世界思想社
「木曽義仲のすべて」新人物往来社 「埴生護国八幡宮略記」埴生護国八幡宮社務所
「源平倶利伽羅合戦記」埴生護国八幡宮社務所「富山県の地名」「石川県の地名」平凡社
「富山県の歴史散歩」山川出版社



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