平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




JR三ノ宮駅から西へ、生田前筋のアーチを北に抜けると生田神社があります。
境内には、梶原源太景季(かげすえ)が梅の枝を箙(矢を入れて背中に負う箱)に
挿して奮戦したという「えびらの梅」や平敦盛の遺児が父の墓を訪ねる際に
休息したという「敦盛の萩」など源平ゆかりの史跡があります。

平成20年3月16日撮影





平家が大手軍をおいた生田の森は、当時、前を流れていた
生田川を堀としていました。これを攻める源氏軍として参戦した梶原景時は、
先陣を切った
河原兄弟が討たれた後、三人の子息、郎党とともに
敵陣に一気に突入し、総攻撃をしかけます。
この時、
景時の嫡男源太景季は、敵に囲まれ
一時は討死したかと思われるほど
深入りして奮戦していました。

景季が箙に梅の枝を挿しているのを見た平家の公達は、

♪吹く風を何いとひけむ梅の花 散り来る時ぞ香はまさりける
(吹く風をなぜ嫌ったのでしょうか。
梅の香は風に舞い散る時にこそ香りは優るものなのに)という 
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の歌などを思い出し、
花えびらと名づけ「優なるかな」と感じいりました。

寿永3年(1184)2月7日(新暦の3月27日)梅の盛りのことです。

この源平合戦の名場面は、能や歌舞伎、浄瑠璃の題材に扱われて
しだいに伝説化され、今日まで語り継がれています。

ここで『長門本平家物語』から、景季の戦いぶりをご紹介しましょう。
「生田森の合戦で源太景季は戦場に駆け入る時は、旗を挙げ、
母衣(ほろ)をかけて勇ましく戦い、退く時は、旗を巻き、
母衣を収めて見事な引き際を見せる。この華麗な姿を繰り返し見せたので、
さすが武芸に秀でた東国武者と讃えられました。

また景季が、満開の梅の一枝を手折って箙にさして駆け巡ると、
梅は風に吹かれてはらはらと散り、香りが漂い優美な風情。
これを見て敵も味方もしみじみ感じ入っている所に、
年のころ30歳ばかりの男が、景季の前に進み出て、
「本三位(ほんざんみ)中将殿(清盛の五男重衡)のお使いでございます。
梅を挿した御方に歌一首申し上げます。」と言って
♪こちなくも 見ゆるものかは 桜狩り
(不作法ではございますが、桜狩りなどさせて戴きたいと思います。)
と上の句を詠み終えないうちに、景季は馬から飛び降りて、
♪生捕り取らむ ためと思えば
(桜を取れるものなら、どうぞ取ってご覧になって下さい。)
と下の句を返しました。」
景季のあっぱれな若武者ぶりと雅をめでた平家方との
和歌のやり取りが語られ、戦場に優雅ないろどりを添えています。

母衣とは、馬に乗る時、鎧の後ろにつける吹流しのように
長い布をたわませたもので、馬を駆けると風をはらんでふくらみ、
後方からの流れ矢を防ぐ役目を果たします。

『平家物語』には、諸本が五十種以上あるといわれ、大別すると
琵琶法師が語ったテキスト、語り本系とそうでない読み本系に分けられ、
後者には延慶本、長門本、源平盛衰記などがあり、
逸話が多く収められています。
語り物系諸本には、景季のこの物語が見えず、『盛衰記』には、
景季の父景時は文化的素養が高かったといい、景時の風流談として載せています。

語り本系にこの記事が欠けている理由を、水原一氏は新潮日本古典集成
『平家物語』の頭注で、次のように説明されています。
「一つは、一ノ谷の平家敗北の悲劇性を、こうした源氏方の風流談で
弱めることを避けるため。二つには、梶原一家を義経の敵役として
印象づけるため、その印象と正反対な風流談を除外したのであろう。」





  生田神社
社伝では、神功(じんぐう)皇后が朝鮮半島から大和への途次、
神戸沖で船が進まなくなったため、神意を問う占により、
航海の神、稚日女尊(わかひるめのみこと)を祀ったのが始まりとされ、
古くは生田川の上流、布引の砂子山(いさごやま)に祀られていましたが、
大洪水で流され、現在地に移されたと伝えられています。
その際、神地に繁らせていた松が役に立たず、
「松は水に弱い」とする神意をうけて、現在でも松をいっさい使用せず、
正月には門松のかわりに杉盛を楼門に飾ります。

なお、神戸の名は、神戸(かんべ)に由来するとされ、
生田神社に所属して、租税や課役を神社に納める民、神の封戸の略です。




楼門の脇には、景季ゆかりのえびらの梅、梶原の井戸があり、

楼門を入った植え込みに敦盛萩、弁慶の竹が残されています。


梶原井













生田の森(源平合戦古戦場 )  
『アクセス』
「生田神社」神戸市中央区下山手通1 JR三ノ宮駅、私鉄各線三宮駅下車北へ徒歩10分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語下」新潮社 AERA Mook「平家物語がわかる」朝日新聞社
「新定源平盛衰記(5)」(P70下欄・長門本平家物語)新人物往来社
「兵庫県の地名」平凡社 「兵庫県の歴史散歩(上)」山川出版社 「歴史人」KKベストセラーズ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )




三宮駅から生田ロードを北に向かった生田神社境内には、
『枕草子』に「森は大荒木の森…信太の森、生田の森。」と記され、
また歌枕としても名高い生田の森があります。
この森は昔、付近を旧生田川が流れ、現、JR三宮駅付近まで及ぶ
広大な森林でしたが、周辺地の開発、都市化により大部分が失われ、
生田神社の社殿背後に茂る楠などの老木が、
わずかに往時の面影を今に伝えています。

この地は山陽道の交通の要衝とともに、生田川をひかえた
軍事的な要衝地であったため、源平合戦の戦場となり、
室町戦国時代には、楠・新田軍と足利軍の湊川合戦、
織田軍と荒木村重軍の花隈城の戦いの舞台となりました。

一ノ谷合戦において平家軍は、平知盛(清盛4男)を大手の大将軍に、
重衡(清盛5男)を副将軍に据え、生田の森に砦を築き、
その東側を流れる生田川を城郭の堀とみなし、この川に沿って
垣や逆茂木(さかもぎ)などの防衛施設を設け敵を防ぎました。
堀には橋を一つ架けて大手の木戸口(城門)とし、 
生田川を挟んで源平両軍は対峙しました。
ここで大奮闘したのが河原兄弟と梶原景時父子です。

生田川は大雨が降るたびに氾濫し、下流の外国人居留地に
被害を与えたため、明治4年に埋め立てられ、
神社から東に約1,3㌔の現在の位置に付け替えられました。
埋め立てられた川筋は、加納町からフラワーロードを通り、
神戸税関に至る三宮の主要道路です。上の地図でご覧ください。



神戸の繁華街三宮から生田前筋のアーチを北に抜けると生田神社があります。



 生田神社の社殿背後にある生田の森は 、昔は広大な森林で、
一ノ谷合戦では平氏の大手軍がおかれ激戦地となりました。











生田の森開門時間 毎1日・15日・土・日・祝祭日 午前10時~午後4時



樹齢千年の楠の老木が生い茂っています。





寿永3年(1184)2月、東の生田の森(大手)、西の一ノ谷(搦手)に
それぞれ城郭を構えて防備を固めていた平氏軍を源範頼・義経率いる
源氏軍が襲って敗走させました。(一ノ谷合戦)
大手口を攻めたのは、源範頼を大将軍とする5万余騎でした。

生田神社の境内には、源氏の若武者梶原景季にちなむ
「えびらの梅」が植えられ、「梶原の井」もあります。
生田神社に近い三宮神社の境内には、生田の森で先陣を目ざし
討たれた河原太郎・次郎の兄弟を祀る河原霊社があります。

(平家物語・巻九・二度の駆けの事)
生田の森にいた大手軍(範頼軍)の先陣は、河原太郎・次郎の兄弟でしたが、
平家軍に討取られ、
兄弟の討死を知った侍大将梶原平三景時は
「彼らが討たれたのは、私市党(河原兄弟が所属する集団)の手落ちであるぞ。
私市(きさいち)党の面々が河原兄弟に続いて攻め入らないからだ。
惜しい者たちを失った。ちょうどよい潮時だ。攻めろ」と下知し、
息子3人伴い500余騎で、平家の大軍の中へどっと押し寄せました。

次男景高が先駆けをしようと勇み、しゃにむに駆けて行くので、景時は使者を送り
「後陣が続かぬうちに先駆けした者には恩賞はないと思え。という
大将軍(範頼)の仰せであるぞ。」と諌めますが景高は、

♪もののふのとり伝えたる梓弓 ひいては人のかへるものかは
(梓弓は一たび引いたら戻らぬように、私も今さら引き返すことなど
できません。)と伝えて再び敵中に突進し、大将軍の命令さえ聞こうとしません。

「景高討たすな。者ども続けや。」と景時、嫡男源太景季、
三男三郎景家らが続いて突進しましたが、大勢の敵に追詰められて、
500余騎あった手勢は50騎ほどに減らされ、散々に討たれ退いてみると、
どうしたことか嫡男源太の姿が見えません。
郎党どもに問うと「源太殿は深入りしすぎてお討たれになったのでは!
はるか遠くを見渡してもお姿が見えません。」と答えるだけです。

景時は軍(いくさ9の先駆けしようと思うのも息子のため、
息子が討たれては生き長らえる価値はない。と再び平家の大軍の中に
死を覚悟して突し、大音声をあげ、「昔、八幡殿(八幡太郎義家)に仕え、
後三年合戦では、生年十六歳で先を駆け、弓手の目を射られながらも、
手柄をたてその名を後代に留めた鎌倉権五郎景政の末裔、
相模国の住人梶原平三景時であるぞ。一人当千の強者ぞ。
我と思わん者はかかってこい。」と名乗ります。

これを聞いた敵兵は、「景時は東国に聞こえる強者ぞ。それ討ちとれ。」と
大軍に囲まれますが、景時は捨て身で敵兵の中を、駆けまわり、
駆け破りつつ息子の行方を探します。
すると案の定、源太は馬を射られて徒立ちとなり、
兜も打ち落とされて髪をふり乱し、
崖を背に敵5人に取り囲まれ、ここを最後と戦っていました。
これを見るなり景時は急いで馬から降り「景時ここにあり。
いかに源太、決して敵に後を見せるでないぞ。」と力づけ、
共に戦い敵3人を討ち取り、2人に傷を負わせて
「弓矢とる身で大切なのは、駆け入る時と退く時の潮時であるぞ。」と
言いながら、源太を連れ出し撤退します。
「梶原の二度の駆け」と呼ばれる奮戦は、この時のことです。

判官びいきの方には、評判が悪い景時も、
この戦いでは息子を気にかける父親の姿が描かれています。
箙の梅 (生田神社)
河原兄弟塚・河原霊社(三宮神社)  
『アクセス』
「生田の森」神戸市中央区下山手通1 JR三ノ宮駅、私鉄各線三宮駅下車北へ徒歩10分
『参考資料』
「兵庫県の地名」平凡社 橘川真一「兵庫の街道いまむかし」神戸新聞総合出版センター
「兵庫県の歴史散歩」(上)山川出版社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社

 

 

 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )




 
三宮神社は旧神戸村の氏神で、境内には生田の森で先陣を遂げて
戦死した河原兄弟を祀る河原霊社と塚があります。

また境内には、この社前で起こった「史跡神戸事件発生地」の石碑が建てられ、
当時の大砲が置かれています。











  平家の大手生田の森は、名将平知盛(清盛の四男)が守る城郭でした。
これを攻める範頼軍の中に、武蔵国埼玉郡河原(現、埼玉県行田市南河原)に住む、
私市(きさいち)党の河原太郎・次郎兄弟がいました。

兄は弟に「豪族たちは、自分で手柄を挙げなくても、家来の手柄を
自分のものとすることができるが、我らのような弱小武者は
そうはいかない。矢合せの卯の刻(午前6時)までには、まだ大分間があるので、
それがしはここで攻め入ろうと思う。おそらく生きては戻れまい。
そなたは生き延びて、手柄の証人になってくれ」というと
弟は涙をはらはらと流しながら「たった二人の兄弟なのに、
自分だけ生き残って恩賞に預かっても何もならない。
一緒に討死する覚悟です。」と答えます。しかし当時の合戦では
手柄を立てても、証人がなければ恩賞にあずかれません。

押し問答の末、下人らをよびよせて馬を形見に取らせ、
妻子に最後の様子を伝えるよう言い残し、馬にも乗らず、
藁草履のままで、逆茂木(さかもぎ)を乗り越えて敵陣に攻め入りました。
「武蔵国の私市(きさいち)党河原太郎高直、同じく次郎盛直、
生田の森の先陣ぞや!」と大音声で名乗りをあげます。

これを聞いた平家の兵たちは「東国のやつらは、何と命知らずなことよ。
これほどの軍勢の中へ、たった2人で駆け入って
何ほどのことができるか。」と馬鹿にして討って出る者もいません。

兄弟は弓の名手であったので、一族のために何とか
手柄を立てようと、陣中に矢をさんざんに射てまわります。
仕方なく強弓で鳴らした備中国の真名辺五郎の引いた矢に
太郎が胸板を貫かれて弓にすがるところに、次郎が駆けより、
兄を背負い逆茂木を越えて逃げようとします。
そこを五郎の二の矢が次郎の腰を射て兄弟は戦死しました。

これを見て五郎の郎党が走りより、その首を取って大将軍平知盛の
見参に入れると「敵ながらあっぱれな剛の者よ!
一騎当千の惜しいつわものを死なせてしまった。」と称賛したといいます。
河原兄弟の下人は急ぎ帰り「河原殿兄弟、今先陣を遂げて討死!」と
大声で走りながら叫びます。それは主人の功名を味方に伝え、
遺族のために恩賞を得る方法だったのです。

ちなみに神戸名物の「かわらせんべい」は
この兄弟の名をとったものだといわれています。(『神戸歴史散歩』)





河原兄弟の塚

河原霊社
「源平の史蹟 河原霊社のいわれ

祭神 河原太郎高直公(兄)河原次郎盛直公(弟)
祭日 二月七日(旧暦)
寿永三年(西暦1184)に起こった 源平一ノ谷合戦生田の森で
一番乗りの功名手柄立てその後 討ち死にをした
源氏の勇士河原兄弟の塚とその馬塚がこの附近にあったが

神戸開港以後 土地の発展につれて
その塚は惜しくも跡を失ってしまった
 大正十一年四月 三宮町三丁目の有志が この有名な源平の遺跡を
世に顕彰すると共に 兄弟の霊を祀って霊社を建立した
旧遺跡は都市計画のため
 昭和三十四年四月少し北の方に当たる地に移したが またまた
環境の変化によって 昭和四十六年に三宮神社境内に遷した
 平成七年の阪神大震災に因り壊滅したのでこの地に復興したものである
 平成十年一月吉日 河原霊社奉賛会」(現地駒札より)




 神戸事件
明治維新政府は、徳川譜代の尼崎藩主松平忠興を牽制するため、
長州藩及び備前藩に命じて、西宮に駐屯させることにしました。
岡山を出発した備前藩の一隊が、
先頭に砲兵三ヵ小隊を置いて進軍中、事件が起きました。

 「トア・ロード南端にある三宮神社の前で
慶応4年(1808)1月11日、神戸事件が起きた。
備前藩の隊列が西国街道を東に向かって行進中、
三宮神社の前にさしかかったとき、
沖に停泊していた外国軍艦の水兵数人が隊列を横切った。
これに怒った備前藩隊員が水兵を切りつけたことが国際事件となった。
結果として第3砲兵隊長の滝善三郎が詰腹を切らされ、
兵庫の永福寺の座敷で6ヵ国の立会人が
注視するなかで切腹したのである。
日本の政治体制がまだ確固としていなかったために
この悲劇が起きた。」(現地説明板より)

 『アクセス』
「三宮神社」神戸市中央区三宮町2-4-4
地下鉄「旧居留地・大丸前駅」下車すぐ
 JR「元町駅」下車徒歩5分 
阪神電車「元町駅」下車徒歩5分
 『参考資料』

新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 
 杜山悠「神戸歴史散歩」創元社 安田元久「武蔵の武士団」有隣新書
 水原一「平家物語の世界」(下)放送ライブラリー 「図説源平合戦人物伝」学習研究社

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )





熊谷直実の本拠地は武蔵国大里郡熊谷郷(現、埼玉県熊谷市)です。
直実の館跡には、天正年間(1573~92)に幡随意(ばんずいい)上人によって
建てられた熊谷氏の菩提寺熊谷寺(ゆうこくじ)があります



熊谷次郎直実
(1141-1207)は幼名を弓矢丸と称し、弓の名手であったという。
直実は武蔵七党のひとつ私市(きさいち)党に属し、父直貞の時代から
大里郡熊谷郷の領主となり熊谷の姓を名乗りました。
2歳の時に父が亡くなり、兄とともに母方の叔父
久下直光(くげなおみつ)に育てられます。後にこの叔父との所領争いに
敗れた直実は出家して名を「法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)」と改め、
法然上人の門に入り、修行に励みました。
その後、故郷熊谷に帰り、熱心な念仏信仰布教の上人となり、
館の一郭に建てた草庵が熊谷寺の始まりとされています。

保元元年(1156)の保元の乱では、直実は源義朝に従って16歳で初陣を飾り、
その3年後の平治の乱では、悪源太義平(義朝の長子)に属する
十七騎の一人として平重盛(清盛嫡男)との待賢門の戦いに勇名を馳せます。
義朝の敗死後、本拠地に戻り平氏の支配下に入ります。

やがて叔父の代理で上洛し、京都大番役(都の警護役)を務めていた時、
武蔵国の同僚が直実を代官だと侮辱したため、直実は腹を立て、
そのまま叔父に無断で平知盛(清盛の4男)に仕えて都に留まります。
そうこうしているうちに叔父久下直光は直実の所領を奪い取ります。

源頼朝の旗揚げの際、直実はたまたま東国に下向していたため、
平家方の大庭景親に従いましたが、
やがて情勢の変化を見て頼朝の陣営に加わります。
それから間もなく常陸の佐竹攻めに出陣し、先陣をきって戦い武名をあげ、
この功により頼朝から、叔父に押領されていた所領を安堵されます。

一ノ谷合戦では、息子ほどの年齢の平敦盛を討取ったことによって
戦の無情さや世の無常観を感じ、心に深い傷を負いました。
この一件が後の出家の動機となったといわれています。
この時のことは『平家物語』や『源平盛衰記』に記され、これをもとに歌舞伎
『一谷嫩軍記(ふたばぐんき)』(熊谷陣屋の段)として描かれ人気を博しました。 
  


JR熊谷駅北口
ロータリー広場に建つ北村西望作熊谷次郎直実ブロンズ像
北村西望は長崎市の「平和祈念像」の作者です。

北村西望が、渡辺崋山の描いた直実挙扇図を元に制作した直実騎馬像

「新島車庫・深谷行」バスに乗り熊谷寺前で下ります。



熊谷寺山門 門は閉ざされていて参拝することはできませんでした。


壮大な屋根瓦の本堂が見えます。
未見ですが、本堂左手には直実の墓と伝えられる宝篋印塔があります。

敦盛最期(敦盛塚) 高野山熊谷寺(熊谷直実)  
金戒光明寺(熊谷堂・鎧かけ松)熊谷直実  
 熊谷直実、平山武者所季重の先陣争い『巻九・一二之懸』  
直実のご子孫が経営なさっている店舗
熊谷直実(鳩居堂)  
『アクセス』
「熊谷寺」埼玉県熊谷市仲町43(非公開)
JR高崎線・上越新幹線・秩父鉄道熊谷駅より、
国際十王バスまたは朝日バス「熊谷寺前」バス停下車すぐ。
又は熊谷駅より徒歩 約15分。
 『参考資料』

安田元久「武蔵の武士団」有隣新書
 「埼玉県の歴史散歩」山川出版社 安田元久「源平の争乱」新人物往来社
川合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館 

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )