五条大橋西側の緑地帯には、牛若丸と弁慶の像があります。
牛若丸のエピソードで一般によく知られているのが、
『御伽草子』や『弁慶物語』が伝える五条橋の上で弁慶と戦った話です。
この話が一般に広まり文部省唱歌『牛若丸』などになったようです。
御所人形をモチーフに建てられた石像(京都市下京区五条大橋西詰)
五条大橋は、弁慶が都で千本の太刀を奪おうと願をかけ、
九百九十九本に達したところで牛若丸に出会い、
負けた弁慶が牛若丸と主従関係を結んだという伝説の地です。
これを受けて謡曲『橋弁慶』も五条橋を舞台とし、『牛若丸』では、
「京の五条の橋の上、大の男の弁慶は長い薙刀ふりあげて
牛若めがけて切りかかる。」と紹介されています。
ところが、牛若丸の時代には、鴨川の五条には橋は架かってなく、
二人が決闘をしたという五条橋は、現在の松原橋のところにありました。
松原通は平安京の五条大路にあたるため、そこに架かる橋を
五条橋といい、洛中から六波羅を経て清水寺に至る
道筋にあたるので清水橋とも呼ばれていたのです。
今の五条橋は秀吉が大仏殿建立の際、伏見との交通の便をはかるため、
六条坊門小路(今の五条通)に架けた橋で、その時、
もとの五条橋の名を松原橋と改めました。
平治の乱では、平家の軍勢が五条の橋板を外し、
寄せ集めて楯とし、防戦に努めたことが『平治物語・中』に見えます。
今の五条大橋よりひとつ上流(北側)の位置にある松原通に架かる松原橋。
上の絵は、五条の橋の上で牛若丸と弁慶の出会いを描いたものです。
二人の出会いの場については諸説あり、『義経記(ぎけいき)』によると、
五条天神社で牛若丸を見つけた弁慶は戦って敗れ、
2度目に清水寺で遭遇した弁慶は、戦いを挑みましたが、
またもや敗れて牛若丸の家来になったという。
五條天神社(牛若丸と弁慶の出会いの場)
祇園祭橋弁慶山 弁慶石(武蔵坊弁慶)
『参考資料』
竹村俊則「京都伝説の旅」駿々堂 現代語訳「義経記」河出文庫
図説「源平合戦人物伝」学研 別冊歴史読本「源義経の謎」新人物往来社
角川源義・高田実「源義経」講談社学術文庫
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店