富士川の戦いで大勝利した源頼朝は鎌倉に引き返し、
ここを本拠にして東国の地盤を固めます。
一方頼朝の従兄弟にあたる源義仲の所にも叔父の源行家に
よって以仁王の令旨がもたらされました。今回は「巻6・小督の事」の
末尾部分から義仲旗揚げの章段を読み進めていきます。
後白河法皇にとってお嘆きが続きました。永万元年(1165)には
第一の御子二条院が崩御、安元2年(1176)の7月には孫の
六条院がお隠れになり、天に住むならば比翼の鳥、地上で
あるならば連理の枝のようにありたいと天の川の星を指して
ご夫婦のちぎりを交わされた建春門院(高倉天皇の生母)が
朝露のようにはかなく消えてしまわれた。
年月は経ってもこれらの出来事がまるで昨日今日のことのように思われて
涙もつきないのに、治承4年(1180)の5月には第二皇子の
高倉宮(以仁王)が討ち取られてしまわれました。その上、現世
後世の二世にわたって頼みに思っておられた新院(高倉院)
までも先にお亡くなりになったので恨みごとを言う言葉もなく
涙ばかり溢れでます。「悲しいが上にも悲しいものは老いて子に
先立たれることより悲しいことはない。若くして子供が親に
先立つことより恨めしいことはない。」と大江朝綱が
子息の澄明に先立たれた時にお書きになったが、
後白河法皇も今になってなるほどと思われました。
こういうわけで後白河法皇は法華経の読誦も怠らず、
真言の修行にも精を出されていました。新院の崩御で世間は喪に
服すことになったから、いつもは華やかな装束をまとっていた
大宮人達も一様に喪服に着替えました。(巻6・小督の事)
清盛はこのように法皇にひどく冷酷なふるまいをした事(鳥羽殿に幽閉)を
さすがに何となく空恐ろしく思われたのか、法皇をお慰めしようと
して安芸厳島内侍(巫女)との間にできた18歳の娘を差出ました。
多くの公卿をお供につけたのでまるで女御が入内する
ようでした。「高倉上皇が崩御されてまだ二七日(2回目の7日)さえ
過ぎていないのに何ということだ。」と人々は噂しあいました。
その頃、信濃国(長野県)に木曽冠者義仲(駒王丸)という源氏がいました。
これは故六条判官為義の次男で、帯刀先生(たちはきせんじょう)
義賢(よしかた)の子です。義賢は去る久寿2年(1155)8月16日、
武蔵の国大蔵で甥の鎌倉の悪源太義平(頼朝の兄)によって殺されました。
その時、2歳であった義仲は斉藤実盛の世話で、母に抱かれ
木曽の中三権守兼遠のもとに行き、「この子を育て
一人前の人間にしてください。」とお願いすると
兼遠は義仲を受け取り20余年の間かいがいしく育てました。
成長するにつれて義仲は、力も人並外れて強く、
気性もまたとなく剛毅でした。
「力の強さ、弓矢をとっては昔の坂上田村麻呂・藤原利仁(としひと)
・平維茂(これもち)の各将軍、平致頼(むねより)・藤原保昌、
先祖の源頼光・源義家と比べても勝るとも劣ることはない。」と
人々は噂しました。13歳で元服しましたが、まず石清水八幡宮へ参り参籠して
「四代の先祖義家殿は八幡神の御子として八幡太郎義家と申された。我も
それにあやかるぞ。」と御宝前にて髻とりあげ木曽次郎義仲と名乗りました。
日頃は中原兼遠に連れられて都へ上り平家の様子を探っていました。
義仲はある日、兼遠を呼んで「兵衛佐頼朝は東(関東)八カ国を従え、
東山道(東海道)より攻め上り、平家を追い落とそうとしている。
義仲も東山・北陸両道の軍勢を従えて、頼朝より1日も早く平家を滅ぼし、
日本国に2人の将軍ありと言われたいと思うがどうか。」と言うと
兼遠は大いに喜んで「それでこそ今日までお育て申しあげたかいがあった
というものです。さすが八幡殿(源義家)のご子孫です。」と
いうので義仲は気を強くして謀反を企てました。
廻文(めぐらしぶみ・回覧文)をまわして決起を促すと
信濃国根井幸親をはじめとして信濃国兵(つわもの)ども誰一人として
背くものはなかった。上野国(群馬県)では多胡郡の武士たちが父義賢の
よしみによってみな味方につきました。平家が末となる機会をとらえて
源氏が長年の望みを遂げようとし始めたのです。(巻6・廻文の事)
*清盛は高倉院が亡くなられたら徳子を後白河法皇のもとに
入内させようと考え時子もこれを承知しました。
しかし徳子は帝が亡くなられたら出家すると言って強く拒否したので
代わりに厳島内侍に生ませた娘を入内させることにしたのです。
後白河法皇はこの話に乗り気でなく頻りに辞退しましたが、
清盛は強行に御子姫君というこの娘を入内させよと迫り、
養和元年(1181)正月十四日、高倉院が没すると
二十五日、法皇の御所に入内させました。
しかし法皇はこの娘を猶子のように取り扱われたという。
高倉院の命が今日明日に迫っていたころにこの入内話が
進められていたと九条兼実の日記『玉葉』に記されています。
このでき事について一般的には娘婿高倉院を失った清盛は
後白河法皇との関係をつなぎとめて悪化した政治情勢の
収拾を後白河に託したかったのである。と云われていますが、
『平清盛の闘い』には、「(後白河)が一応院政を
復活させたとは言え、清盛は後白河の政治活動を厳しく
制約していたし、貴族や寺社に対する態度も決して妥協的ではなかった。
したがって、この入侍を単に迎合と見なすのは誤っている。
(中略)清盛はこの女子の入侍を機に、院御所に平氏側の
人間を送り込んだり、頻繁に出入りさせようとしたのである。
これによって、後白河の動向を規制するとともに、院周辺の
情報収集を目指したのではないか。
同時に流れた徳子入侍の噂は、冷泉局(御子姫君)入侍の
情報が、誤解、あるいは意図的に曲解されて、
広まったものであろう。」と書かれています。
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 元木泰雄「平清盛の闘い」角川ソフィア文庫
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(下)塙新書
財団法人古代学協会編「後白河院」吉川弘文館