平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



 JR中央線木曽福島駅から普通電車に乗り換えて2つ目の駅が「宮ノ越」、木曽町日義です。
中央アルプスの山々が連なり木曽川が水しぶきをあげるこの村に山野を駆けめぐり、
武芸に励んだ若き日の木曽義仲を尋ねました。

宮ノ越駅は無人駅

駅前のゆるやかな坂を下ると木曽川、義仲橋を渡ると正面に徳音寺、
その手前、右手には義仲館があります。

義仲橋からの木曽川の流れ

源義仲は久寿元年(1154)に源義賢の次男として、武蔵国(埼玉県)大蔵で
生まれたといわれています。
幼名を駒王丸といい母は小枝(さえ)御前という
遊女でした。父義賢は、帯刀先生(たてわきせんじょう)といい、
近衛天皇が皇太子の時に剣を帯びて護衛長官をつとめましたが、
久寿二年(1155)、一族内の勢力争いが原因となって起きた大蔵合戦で兄義朝の
長男悪源汰義平に討たれました。
義仲の兄仲家は義賢が都にいた時の子で、
残された仲家を源頼政がひきとり猶子として育てましたが、
宇治川の合戦で頼政とともに討死しています。

『源平盛衰記(巻26)木曽謀反附兼遠起請の事』によると、
義賢を討った義平は後難を恐れ、畠山重能に駒王丸を捜し出して
殺すよう命じたが、重能は僅か二歳の子を殺すにはしのびず、
ちょうど武蔵に下向してきた斉藤別当実盛に預けた。実盛は、
東国に駒王丸をおくのは危険であると判断し、小枝御前に
抱かせて木曽の中原兼遠のもとに送り届けた。」と記され、

『吾妻鏡』治承4年9月7日条には、義賢が討ち滅ぼされた時、
乳母の夫である
中三権守中原兼遠は、三歳の幼児であった
義仲を抱いて信濃国の木曽に逃れた。と記載されています。
また『平家物語・廻文の事』では、二歳の駒王丸を
小枝御前が抱いて木曽の中原兼遠のもとに行った。とあります。

これらの史料のいずれが正しいのかは明らかでありませんが、
駒王丸が木曽の中原兼遠のもとに逃れた点では一致します。
木曽での駒王丸の生活については殆んど知ることができません。
十三歳で石清水八幡宮において元服、京へも上ったことが
平家物語に書かれていますが、義仲が京へ上ったかどうかは
定かではありませんが、都の情報は様々な形で得ていたものと
思われます。治承四年(1180)8月に挙兵した頼朝に20日遅れて、
義仲が平家打倒の兵を挙げたのは27歳の時でした。

義仲館
宮ノ越駅から義仲橋を渡ると右手に武家屋敷風の館があります。
源氏の家紋、笹りんどうの紋の幕をくぐると義仲・巴御前の
銅像が迎えてくれます。館内には義仲に関する資料を展示、
義仲の生涯を絵画や人形で解説しています。



巴御前と木曽義仲

木曽義仲四天王

人形や写真パネル等の展示物は係の方の承諾を得て撮影しました



木曽へ逃れた駒王丸を中原兼遠匿う 田屋幸男画 

駒王丸元服して木曽次郎義仲と名乗る  田屋幸男画 



日照山徳音寺(義仲の菩提寺)
寺の前身は母小枝御前を葬った柏原寺です。寺伝によると義仲討死後、
義仲の右筆であり、参謀でもあった大夫房覚明が山吹山の麓にあった
柏原寺を現在地に移し寺号を徳音寺と改め義仲を弔ったという。

山号の「日照山」は朝日将軍木曽義仲に因んだ号です。

鐘楼門は18C尾張藩犬山城主成瀬正幸の母堂により
寄進されたもので楼上の鐘の音は「徳音寺の晩鐘」と呼ばれ
木曽八景の一つに数えられています。





徳音寺本堂前、少女時代の巴御前の騎馬像



徳音寺本堂の左手の義仲廟所
には武将姿の義仲像と位牌が安置され、
裏手の墓所には義仲を中心にして樋口次郎兼光、巴御前、
小枝御前、今井四郎兼平の墓が並んでいます。

本堂裏手の廟所

木曽義仲の墓

義仲の母小枝御前(実性院殿貞節良俊大姉)とその右側に今井四郎兼平(浄室信戒)の墓

巴御前(龍神院殿)の墓とその左側に樋口次郎兼光(心院殿)の墓

徳音寺から木曽川沿いに北へ進みます



徳音寺集落より山吹山を望む
 巴 淵
山吹山の麓を流れる木曽川の深い淵をいい、義仲と巴が水遊びを
した所と伝えられています。またこの淵に住む竜神が巴に化身して
義仲を守り続けたという伝説の地です。山吹山とともにこの周辺の
木曽川に架かる橋には、葵橋・巴橋・山吹橋と義仲に
かかわりのある女性名がつけられています。
義仲が都へ攻め上る時、倶利伽羅峠で牛の角に松明をつけて
平家の大軍を破ったという故事に因んで8月14日の夜、
山吹山に火文字で「木」の字が描かれ松明を持って山を下る
らっぽしょ祭りが行われます。



巴淵はエメラルドグリーンの水をたたえています。
巴はこの淵の龍神の生まれ変わりであったという





巴橋の傍にたつ碑
♪山吹も 巴もいでて 田植かな 許六

巴淵から宮の越駅に戻るように歩きます。
宮ノ越宿
木曽川沿いに平地が広がるこの地は、古くは木曽義仲の拠点となった地で、
義仲にまつわる史跡が多く残っています。
中世末に設けられた宮ノ越宿の「宮ノ越」という地名は、
南宮神社の宮の腰(中腹)から生まれたといわれています。


南宮神社
JRの陸橋をくぐり国道沿いに見える神社は、村の産土神として
祀ったものでしたが、のち美濃国一ノ宮の南宮神社を勧請し、
義仲の戦勝祈願所となった社です。

旗挙八幡宮
南宮神社を進むと、義仲挙兵の地となったことから旗挙八幡宮と呼ばれる社があり、
義仲の元服を祝って植えられたというけやきが拝殿脇にたっています。
落雷によって傷ついていますが、傍には二代目が植えられています。

この神社の辺りから宮ノ越方面一帯は義仲、根井行親、樋口兼光、
今井兼平らの屋敷があったといわれています。
境内には「木曽義仲公館址」と刻まれた碑が建てられ、義仲は元服後、
中原兼遠のもとを離れてここに住んだと伝えられています。



旗揚げ八幡宮と左手に傷ついた大ケヤキ

「木曽義仲公館趾」の碑から山吹山を望む

義仲の居館は東西約200㍍、南北約300㍍の規模と伝えられています。

旗挙八幡宮境内には、義仲の子孫という
千村泰雄作の「木曽義仲公出陣之地」の詩碑があります


橋を渡ると徳音寺集落
中原兼遠館跡・林昌寺・手習天神     興禅寺(木曽義仲の墓)  
『アクセス』  
「義仲館」木曽町日義(旧木曾郡日義村)

「日義」という地名は、朝日将軍の「日」と義仲の「義」に由来します。
JR中央線木曽福島駅から普通電車(日中は2時間に1本、朝夕は1時間に1本)に

乗換え宮ノ越駅下車徒歩5分

義仲館のパンフレットに次のように書かれています。散策の際に参考にしてください。

義仲館⇒100m徳音寺⇒1.3km旗挙八幡宮⇒0.5km南宮神社⇒0.6km巴淵
『参考資料』
「朝日将軍木曽義仲」日義村 「木曽義仲のすべて」新人物往来社
「新定源平盛衰記」(3)新人物往来社  現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 
安田元久「武蔵の武士団」有隣新書 「長野県の地名」平凡社
「長野県の歴史」河出書房新社



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富士川の戦いで大勝利した源頼朝は鎌倉に引き返し、
ここを本拠にして東国の地盤を固めます。
一方頼朝の従兄弟にあたる源義仲の所にも叔父の源行家に
よって以仁王の令旨がもたらされました。今回は「巻6・小督の事」の
末尾部分から義仲旗揚げの章段を読み進めていきます。

後白河法皇にとってお嘆きが続きました。永万元年(1165)には
第一の御子二条院が崩御、安元2年(1176)の7月には孫の
六条院がお隠れになり、天に住むならば比翼の鳥、地上で
あるならば連理の枝のようにありたいと天の川の星を指して
ご夫婦のちぎりを交わされた建春門院(高倉天皇の生母)が
朝露のようにはかなく消えてしまわれた。

年月は経ってもこれらの出来事がまるで昨日今日のことのように思われて
涙もつきないのに、治承4年(1180)の5月には第二皇子の
高倉宮(以仁王)が討ち取られてしまわれました。その上、現世
後世の二世にわたって頼みに思っておられた新院(高倉院)
までも先にお亡くなりになったので恨みごとを言う言葉もなく
涙ばかり溢れでます。「悲しいが上にも悲しいものは老いて子に
先立たれることより悲しいことはない。若くして子供が親に
先立つことより恨めしいことはない。」と大江朝綱が
子息の澄明に先立たれた時にお書きになったが、
後白河法皇も今になってなるほどと思われました。
こういうわけで後白河法皇は法華経の読誦も怠らず、
真言の修行にも精を出されていました。新院の崩御で世間は喪に
服すことになったから、いつもは華やかな装束をまとっていた
大宮人達も一様に喪服に着替えました。(巻6・小督の事)

清盛はこのように法皇にひどく冷酷なふるまいをした事(鳥羽殿に幽閉)を
さすがに何となく空恐ろしく思われたのか、法皇をお慰めしようと
して安芸厳島内侍(巫女)との間にできた18歳の娘を差出ました。
多くの公卿をお供につけたのでまるで女御が入内する
ようでした。「高倉上皇が崩御されてまだ二七日(2回目の7日)さえ
過ぎていないのに何ということだ。」と人々は噂しあいました。

その頃、信濃国(長野県)に木曽冠者義仲(駒王丸)という源氏がいました。
これは故六条判官為義の次男で、帯刀先生(たちはきせんじょう)
義賢(よしかた)の子です。義賢は去る久寿2年(1155)8月16日、
武蔵の国大蔵で甥の鎌倉の悪源太義平(頼朝の兄)によって殺されました。
その時、2歳であった義仲は斉藤実盛の世話で、母に抱かれ
木曽の
中三権守兼遠のもとに行き、「この子を育て
一人前の人間にしてください。」とお願いすると
兼遠は義仲を受け取り20余年の間かいがいしく育てました。
成長するにつれて
義仲は、力も人並外れて強く、
気性もまたとなく剛毅でした。

「力の強さ、弓矢をとっては昔の坂上田村麻呂・藤原利仁(としひと)
・平維茂(これもち)の各将軍、平致頼(むねより)・藤原保昌、
先祖の源頼光・源義家と比べても勝るとも劣ることはない。」と
人々は噂しました。13歳で元服しましたが、まず石清水八幡宮へ参り参籠して
「四代の先祖義家殿は八幡神の御子として八幡太郎義家と申された。我も
それにあやかるぞ。」と御宝前にて髻とりあげ木曽次郎義仲と名乗りました。
日頃は中原兼遠に連れられて都へ上り平家の様子を探っていました。

義仲はある日、兼遠を呼んで「兵衛佐頼朝は東(関東)八カ国を従え、
東山道(東海道)より攻め上り、平家を追い落とそうとしている。
義仲も東山・北陸両道の軍勢を従えて、頼朝より1日も早く平家を滅ぼし、
日本国に2人の将軍ありと言われたいと思うがどうか。」と言うと
兼遠は大いに喜んで「それでこそ今日までお育て申しあげたかいがあった
というものです。さすが八幡殿(源義家)のご子孫です。」と
いうので義仲は気を強くして謀反を企てました。
廻文(めぐらしぶみ・回覧文)をまわして決起を促すと
信濃国根井幸親をはじめとして信濃国兵(つわもの)ども誰一人として
背くものはなかった。上野国(群馬県)では多胡郡の武士たちが父義賢の
よしみによってみな味方につきました。平家が末となる機会をとらえて
源氏が長年の望みを遂げようとし始めたのです。(巻6・廻文の事)

*清盛は高倉院が亡くなられたら徳子を後白河法皇のもとに
入内させようと考え時子もこれを承知しました。
しかし徳子は帝が亡くなられたら出家すると言って強く拒否したので
代わりに厳島内侍に生ませた娘を入内させることにしたのです。
後白河法皇はこの話に乗り気でなく頻りに辞退しましたが、
清盛は強行に御子姫君というこの娘を入内させよと迫り、
養和元年(1181)正月十四日、高倉院が没すると
二十五日、
法皇の御所に入内させました。
しかし法皇はこの娘を
猶子のように取り扱われたという。
高倉院の命が今日明日に迫っていたころにこの入内話が
進められていたと九条兼実の日記『玉葉』に記されています。

このでき事について一般的には娘婿高倉院を失った清盛は
後白河法皇との関係をつなぎとめて悪化した政治情勢の
収拾を後白河に託したかったのである。
と云われていますが、
『平清盛の闘い』には、「(後白河)が一応院政を
復活させたとは言え、清盛は後白河の政治活動を厳しく
制約していたし、貴族や寺社に対する態度も決して妥協的ではなかった。
したがって、この入侍を単に迎合と見なすのは誤っている。
(中略)清盛はこの女子の入侍を機に、院御所に平氏側の
人間を送り込んだり、頻繁に出入りさせようとしたのである。
これによって、後白河の動向を規制するとともに、院周辺の
情報収集を目指したのではないか。
同時に流れた徳子入侍の噂は、冷泉局(御子姫君)入侍の
情報が、誤解、あるいは意図的に曲解されて、
広まったものであろう。」と書かれています。
『参考資料』 
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 元木泰雄「平清盛の闘い」角川ソフィア文庫

上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(下)塙新書
財団法人古代学協会編「後白河院」吉川弘文館 
 



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『平家物語(巻6)小督の事』は高倉天皇と小督の悲恋物語としてよく知られています。
琴や硯筺、光明真言が小督(こごう)の遺品として因幡堂平等寺に保存されています。


同寺社務所で伺うと「明治初まで清閑寺は平等寺の末寺で、平等寺の住職が清閑寺の
住職を兼務していたが、清閑寺が無住寺になる際、宝物を引上げてきた。」とのことです。
『平家物語』では小督は嵯峨で出家しそこに隠れ住んだ。とありますが、
清閑寺の寺伝では小督は同寺で出家しここで亡くなったと伝え、
『源平盛衰記』でも小督は清閑寺で尼となったと記しています。







平等寺縁起によると因幡堂は高倉天皇によって多くの堂宇が築かれ、
天皇が因幡堂を平等寺と改められました。平等寺の真南を不明門(あけず)通と呼び、
この通りは平等寺の南門に突き当たります。平等寺のすぐ南に高倉天皇の
「東五条院」があったので、高倉天皇の御所に遠慮して
同寺の南門を開けなかったためこの名がついたと伝えています。
平家物語の覚一本を完成させた琵琶法師の明石覚一が平等寺で平家琵琶を
演じたこともあり、因幡堂・平等寺は平家物語とは縁の深い寺院です。
尚、小督の遺品は非公開ですが、同寺の絵はがきで見ることができます。 
小督(琴きき橋跡碑・琴聴橋・小督塚)
 清閑寺 高倉天皇陵と小督の供養塔  
『アクセス』
「因幡堂平等寺」京都市下京区松原通烏丸東入因幡堂町

市バス「烏丸松原」下車すぐ
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社
「新定源平盛衰記」(第1巻)新人物往来社 梅原猛「京都発見」(2)新潮社
「京都市の地名」平凡社 「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂 

 

 



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長寛二年(1164)12月、蓮華王院(三十三間堂)が完成し、
盛大な落慶供養が営まれました。
後白河上皇は息子の二条天皇も招待したので当然
行幸するものと思っていましたが、
天皇は臨席せず、
同寺の僧侶に対する勧賞の沙汰もありませんでした。
取り次いだ平親範がそのことを伝えると、上皇は悔し涙を流して
「やゝ、なんのにくさに にくさに」と仰せられたという。
上皇と天皇の仲が悪かったことと同時に上皇の権力がそれほど
強いものでなかったことを示す逸話として伝えられています。
 
蓮華王院の本堂を造営したのは平清盛です。
上皇はこれの賞として、清盛の嫡男重盛を正三位に叙しました。

清盛は後白河天皇の譲位後、まもなく勃発した平治の乱(1159)では、
二条天皇方として活躍し、後白河
上皇はこの乱で
近臣の藤原信西・藤原信頼を失ったばかりでなく、乱後、
後白河上皇とその近臣、二条天皇とその近臣、二つの勢力が
並び立ち、主導権を争ってことごとに批判・反目しあい、
互いに相手の近臣の解官・流罪をくり返していました。
応保二年(1162)、押小路東洞院に造営された天皇の里内裏を
平家一門が宿直しながら警護するなど
清盛は二条天皇の政治を支える立場でした。
同時に自分の妻の妹滋子が上皇の皇子を生んだことで、
上皇ともつながりを持ち、蓮華王院を造営するなど
資金援助を怠ることはありませんでした。

亡き鳥羽院が次の天皇にと選んだのは、聡明な
守仁親王(二条天皇)でしたが、その父親の
雅仁親王の乳母の夫である信西が画策し、
中継ぎの天皇として後白河が即位したのでした。
美福門院の強い意向もあり、わずか3年で息子に譲位した
後白河上皇は、平治の乱で2人の側近を失くして力を失い、
それに代わって二条天皇が政権をとるようになりました。

天皇は母親が早くに亡くなり、美福門院の養子となっていたのです。

清盛は状況を見ながら天皇方についたり、
上皇方についたりしながら両者の間を巧に泳ぎまわり、
その対立をうまく利用しながら出世しました。
もっともこの対立は永万元年(1165)七月、
二条天皇が死去したことで終わり、これ以後、
後白河上皇が権力を振るうことになります。
三十三間堂(蓮華王院)  
『参考資料』
財団法人古代学協会「動乱期の天皇 後白河院」吉川弘文館 「京都学への招待」角川書店
元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書 上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書
安田元久「後白河上皇」吉川弘文館 



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