平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




文治元年(1185)11月、頼朝と対立した義経は、
都を去り
九州をめざし大物浦(兵庫県尼崎市)から出航したものの、
大風のため専称寺(大阪市大正区三軒家東2)付近に流され、
義経主従は泳いで対岸の木津に渡って四天王寺に潜み、
住吉大社の神主のもとで一夜を過ごしてから
吉野へ逃げ込んだという伝承があります。

義経主従が泳いで渡ったという木津川

大阪市の大正区と浪速区を結ぶ木津川に架かる
大浪橋(おおなみばし)のたもとに
「わたし勘助島」の碑がたっています。
勘助島とは、慶長年間に船着場の整備等を行った中村(木津)勘助のことです。

右面には「すぐちかみち なんば 今宮 
天王寺 住吉  あみ田池  道頓堀」と刻まれています。
現在の橋は、昭和12年(1937)に架けられたもので、
ここに初めて橋が架かったのは江戸時代の末期です。




四天王寺南大門

西重門



極楽門(西大門)付近に義経鎧掛け松があります。

1984年11月2日 大阪市28ロータリークラブより寄贈された義経よろい掛け松

この松について四天王寺の文化財係にお尋ねしたところ、
次のようなお返事をいただきました。

「四天王寺の記録では、江戸後期に作成された資料(絵図)から
この松が載っていて、
それ以前のものにはなく、
義経鎧掛松に関する資料は他になく、その理由は分からない。
明治40年頃発行された生田南水著『四天王寺と大阪』に
義経鎧掛松の記事が載っているので、
パソコンで検索すると見る事ができる。」

 その本が大阪市立中央図書館の書架にあったので
閲覧させていただきました。

一、四天王寺案内記 鎧掛松(P26)
法器庫の南方西大門の内にあり世俗義経のよろい掛松といふ
所伝詳ならず。と記されています。 

屋島、壇ノ浦合戦で平家を滅ぼし源氏勝利の立役者となった
源義経は、兄頼朝との行き違いから一転、追われる身となり、
京都から吉野へそして奥州藤原氏三代秀衡を頼って
平泉に落ちのびましたが、
秀衡没後、
四代泰衡に攻められ高館で自害し、報われない最期を遂げました。

江戸時代、木版印刷技術の向上で出版文化が花開き、
さらに寺子屋の普及による識字率の高まりで、
『義経記(ぎけいき)』が庶民にさかんに読まれるようになり、
能、歌舞伎、大衆芸能、読み本などの題材に義経の姿は
魅力的に脚色されて取り入れられ、数々の伝説と
エピソードに彩られた悲劇の英雄が誕生しました。

源平合戦でめざましい活躍を見せた義経の人気は、
軍事の天才によるものだけではありません。
華々しく活躍した後、兄に疎まれ非業の死を遂げたことから、
「判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉まで生まれるほど
その波瀾万丈の人生は、幅広い世代の人気を集めました。

江戸時代、「義経鎧掛松」が四天王寺の絵図に
載せられるようになったのはこのような理由からでしょうか。

『アクセス』
「大浪橋」
JR環状線大正駅下車徒歩約9分

「四天王寺」大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
 tel. 06-6771-0066
地下鉄 御堂筋線・谷町線天王寺駅 から北へ徒歩約12 分
地下鉄 谷町線四天王寺前夕陽ヶ丘駅から南へ徒歩約5 分
近鉄 南大阪線阿部野橋駅から北へ徒歩約14 分
『拝観時間』年中無休
お堂・中心伽藍・庭園
4~9月 8:30~16:30  *毎月21・22日 ~17:00
10~3月 8:30~16:00  *毎月21・22日 ~16:30
六時堂 8:30~18:00  *毎月21・22日 8:00~
本坊庭園 9:00~16:00
なお、四天王寺の門は24 時間開いています。
お堂の外からのお参りはいつでもできます。
毎月21 日、22 日、3 月の春季彼岸会と
9 月の秋季彼岸会は
中心伽藍の拝観料は無料です。
『参考資料』
三善貞司編 「大阪史蹟辞典(専称寺)」清文堂出版、昭和61年
 上横手雅敬「「源義経流浪の勇者」文英堂、2004年
生田南水「四天王寺と大阪」木下翠香、明治43年初版 昭和9年再版
現代語訳「義経記」河出文庫、2004年
週刊古寺をゆく「四天王寺」小学館、2001年


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平重盛開基と伝えられる法楽寺の山門をくぐると
右側に楠の大樹がそびえ立ち、
その前に水かけ不動明王と二童子が祀られています。


小松院法楽寺と彫られた寺標(じひょう)







法楽寺蔵 摂津名所図会 『法楽寺』より転載

法楽寺の境内には、かつて重盛お手植えの松といわれる
巨樹がありましたが、江戸時代末に枯れてしまいました。
慈雲(じうん)の字で「相伝此樹小松内大臣平重盛公手植」と
刻んだ石碑もありましたが、今は見当たりません。

その代わり樹齢約800年、高さ23㍍余、幹周り8㍍の大楠があり、
大阪府指定天然記念物に指定され、楠大明神として信仰されています。
法楽寺は、日本の小釈迦とまでいわれた徳川中期の高僧、
慈雲尊者が修行し、
のち住職となった寺としても知られています。

楠の大木と鐘楼

水かけ不動

楠大明神

山門の正面には、大日如来が祀られている木造三重塔が建っています。
平成8年(1996)11月26日、三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下ならびに
同妃殿下をお迎えして落慶法要が営まれ、
「法楽寺三重宝塔(さんじゅうほうとう)」と名付けられました。

たなべ不動尊の縁日である毎月28日には、
この三重塔が開扉され、参拝者に内部が公開されます。
三重塔の内陣 本尊金剛界大日如来  脇侍不動明王・愛染明王
宝筐印塔 育王山伝来の仏舎利二粒

育王山(阿育王山の略)伝来の仏舎利には、次のような伝承があります。
日頃から信仰心の篤い重盛は、一門菩提のため宋国の育王山に
祠堂(しどう)料を送り、結縁(けちえん)を求めたところ、
その篤志に報いるため、育王山より秘蔵の仏舎利が贈られてきたという。

手水舎

観音堂

宇陀松山藩織田家の殿舎を解体移築した大きな本堂です。



内陣の奥行きが広く、須弥壇はうす暗くて見えませんでしたが、
不動明王・釈迦如来・如意輪観音像などが並んでいると
受付で教えていただきました。
『法楽寺』には、内陣の杉の板戸に描かれた西行像が掲載されています。
本堂内陣彩色画杉戸之内 西行法師像



 本尊は、不動明王の従者、矜羯羅(こんがら)童子と
制多迦(せいたか)童子を従えた
大日大聖不動明王(大日如来の化身)立像です。

不動明王はもとヒンズー教の神でしたが、大日如来のもとにきて
その化身である五大明王「降三世(ごうざんぜ)・軍荼利(ぐんだり)・
大威徳(だいいとく )・金剛夜叉(こんごうやしゃ)」の
中心的役割をはたす仏法の守護にあたった仏です。

大日如来の使者として、剣と縄を持って
眼をむき悪鬼を追い払う憤怒の姿をして働きます。
不動明王の身体の色は、赤、黒、白、青の五色ありますが、
法楽寺の仏像は青黒で鎌倉初の作とみられています。
 
本堂の左手にまわると、ギャラリーへ続く通路に
田辺大根のサンプルが展示してあります。
しまい不動の大根炊き
江戸時代田辺で栽培された大根が美味しいと評判で、
田辺大根として全国的にも有名になり、大正期には
法楽寺周辺で盛んに栽培されていました。
都市化などにより、畑が減少し次第に廃れていきましたが、
地元住民による復活運動で大阪の伝統野菜として蘇り、
毎年12
月28日、法楽寺のしまい不動で
田辺大根を使った大根炊きが参拝者にふるまわれています。

江戸時代、法楽寺の本格的な復興を成し遂げた
洪善和尚の協力者、大宇陀松山藩織田家から
殿舎を拝領し本堂と山門が建てられました。

瓦は堺の職人を呼んだようで、
山門の軒瓦には、
法楽精舎と丸の中に文字を浮かせた瓦、
本堂軒瓦に平家の紋章揚羽蝶、
本堂鬼瓦銘に「宝永八年卯月吉日 
堺□さいく人瓦ふき 三郎□かわらし八三」と刻まれていました。









庫裏の軒丸瓦も揚羽蝶紋です。

昭和53年本堂修理の際、偶然蔵から不動明王図像が発見され、
学術調査の結果、「天下の三不動」の一つ京都青連院の
国宝「青不動」の原画と判明し、大騒ぎになりました。
この図像は、「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)不動明王二童子像」と
名付けられ、重要文化財に指定されています。

平重盛公画像
 
重盛が陣中で用いた平重盛陣銅鑼(直径1尺5寸)が本堂にあります。
『平家物語』では、重盛は傲慢な権力者の父清盛と対照して、
どちらかといえば貴族的で柔和な人格者として描かれ、清盛が後白河法皇と
対立するようになると、争いが起きないように気を配っていました。

平治の乱では、郎党を率いて源義朝の長子
悪源太義平(よしひら)と対決し、武勇に優れた一面もみせています。
待賢門合戦(平重盛と悪源太義平の対決)  



修行大師像

大師堂

大師堂に架かる富士山の麓を行く在原業平の絵画



蔵の前に客殿で行われる写経案内板がたっています。

鎮守秋葉大権現
 
法楽寺の年中行事
1月元旦(3ヶ日)歳旦吉祥護摩 1月28日 初不動大祭
2月1~7日 節分厄除星祭  3月中日 春期彼岸会
4月上旬 四国八十八ヶ所巡拝 5月28日 たなべ不動尊大祭
6月21日 青葉祭り 8月15日お盆精霊経木流し
8月18日 大施餓鬼会 9月中日 秋期彼岸会
9月28日 狂言奉納 10月21日 四国八十八ヵ所お砂踏み
11月28日不動講総会 12月28日終い不動 田辺大根炊き
12月31日 除夜の鐘
大阪市の法楽寺(1)源平両氏の菩提を弔った寺  
『アクセス』
「法楽寺」大阪府大阪市東住吉区山坂1丁目18−30
JR阪和線「南田辺駅」下車、東へ100メートル
大阪メトロ谷町線「田辺駅」下車、西へ150メートル
拝観:年中無休。6:00~17:00 電話:06-6621-2103

『参考資料』
永井路子 木南卓一著「法楽寺」(平重盛・慈雲尊者と法楽寺 )法楽寺、昭和53年
三善貞司編 「大阪史蹟辞典」清文堂出版、1986年 「大阪市の地名」平凡社、2001年
ひろさちや監修「仏教早わかり百科」主婦と生活社、1994年



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法楽寺は紫金山(しこんざん)小松院と号し、真言宗泉涌寺派の別格本山です。
治承2年(1178)清盛の嫡男小松内大臣平重盛が創建したと伝えられ、
「田辺のお不動さん」の名で親しまれている名刹です。

院号は小松の大臣(おとど)といわれた重盛(1138~1179)にちなむ小松院、
寺名は敵味方の区別なく慈悲の心で接する「怨親(おんしん)平等」の法楽、
山号の紫金山は宋国育王山請来の紫金(しこん)二粒の仏舎利を表しています。

宋の育王山(中国五山の一つ)仏照国師を崇拝していた重盛は、
黄金三千両を祠堂料として送り、紫金の舎利2個をいただき
この寺に納めています。
紫金とは「紫磨黄金(しまおうごん)」の略で、
紫色を帯びた最高の黄金を意味しています。

『平家物語・巻3・金渡(こがねわたし)』にも、
重盛が育王山の仏照禅師に黄金三千両を贈り
結縁を求めたことが記されています。

一説によると、重盛は仏照国師を我が国に迎えようとしましたが、
仏照は丁寧にこれを断り代わりに秘蔵の仏舎利2個を贈り
その志に報いたという。(『摂津名所図会』)

法楽寺の古文書には、その時を
「南宋第二主(南宋第2代皇帝の意)孝宗(こうそう)順熈二年、
本邦高倉安元二年(1176)乙未也」」と記し、
重盛の邸内に多くの僧侶が招かれ、
一七日(いちしちにち・七日間)、昼夜を問わず香を
焚いて経を読み、大法要を行ったとあります。

治承3年(1179)5月、重盛は熊野参詣の途次法楽寺に立ち寄り、
田地四反6畝八十歩を寄進し、盛大な落慶法要を営み、
紫金二個の仏舎利とともに平治の乱の時に亡くなった
源義朝の念持仏・如意輪観世音(にょいりんかんぜおん)像を安置し、
「怨親平等」に源平両氏の菩提を弔ったと伝えています。
 この如意輪観世音像の背面には、「左馬頭義朝
一刀三礼(仏像を彫刻する時、一刻みするごとに三度礼拝すること)
久安二年(1146)丙寅(ひのえとら)
二月十八日法眼湛幸作之」との墨書銘があります。


南田辺にはかつて舎利田という地名がありましたが、
これは重盛が舎利供養料として寄進した田の跡といわれています。

熊野信仰が盛んになると、平家一門は熊野本宮大社の
造営にも関わり、その功で肥後守というポストを得ています。
忠盛は熊野本宮造営の功績を息子に譲り、
20歳の清盛が
肥後守に任じられたのです。
京から熊野へは、大阪・和歌山を経由して熊野へ参詣する
ルートが一般的でした。造営に際して、
忠盛や彼の郎党たちが熊野と京の間を盛んに往来し、
この摂津田辺の地も度々通ったであろうことは推測できます。
そんな縁ある地に重盛は白羽の矢を立て、豪壮な堂宇を築いたようです。

当時、財力を提供してポストを得るということはよくあることでしたが、
それが熊野本宮であったことは注目すべきことです。
平家重恩の身であった熊野別当湛増は、以仁王の謀反を
清盛に知らせ本宮の手勢を率いて、源氏方についた
那智・新宮の軍勢に戦いを挑んで敗れています。(『巻4・源氏揃』)

重盛は法楽寺落慶法要が行われた治承3年の8月に42歳という若さで
清盛に先立って病没し、平家の礎が傾く原因の一つとなりました。
法楽寺の位牌には「治承三年己亥(つちのとい)八月朔日薨(こう)
 当寺開基小松院内大臣平重盛公照空浄蓮大居士位」とあります。

最寄りのJR南田辺駅



⇦300m法楽寺





法楽寺は摂津国田辺、現在の大阪市東住吉区山坂にあります。

 






山門をくぐって正面に建つ三重の塔は、
平成8年(1996)に再建されたものです。

本堂

創建時の伽藍は元亀(げんき)2年(1571)、織田信長の
戦火にかかり焼失しましたが、12世紀の名品と評価される
「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)不動明王二童子像」(国重要文化財)、
「銅製蔵王権現立像(ざおうごんげんりゅうぞう)」(府有形文化財)などは
焼失をまぬがれました。

その後、平盛家(恩智次郎右衛門の子)が出家して快裕と称し、
天正13年(1585)に復興にあたりました。しかし、戦国時代のことでもあり、
容易に進まず江戸時代の中頃まで細々と法灯を継いでいました。
延宝6年(1678)、河内三大寺のひとつ、野中寺(やちゅうじ)から来た
洪善(こうぜん)が再興に努め、大和大宇陀の松山藩織田家の殿舎を譲り受け、
宝永8年(1711)本堂・山門を築き、中興の祖と仰がれました。
大和松山藩主は織田信長の次子、信雄(のぶかつ)を祖とする一族で、
信長の兵火に焼けた寺院を、その遠孫の殿舎で復興したことになります。

かつては源義朝の念持仏如意輪観世音を安置していましたが、
鎌倉初期に不動信仰が盛んになると、いつの間にか不動尊が有名になり、
今では厄除田辺不動尊として知られ、
毎月28日の縁日には多数の参拝者で賑わいます。



熊野街道沿いには「たなべはうらくじみち」と
刻まれた石標が各所にあったといわれ、
四天王寺の南門の庚申堂付近にも現存しています。
このことからも江戸時代から法楽寺への
盛んな参詣があったことがうかがわれます。

石標は、近畿労働金庫天王寺支店(大阪市天王寺区北河堀町4-22)
北へ約10メートルのところにあります。

「これより右たなべはうらくじみち」と刻まれた古い道標。

重盛の念仏堂跡に建つ正林寺 小松谷正林寺(平重盛阿弥陀経石 )  
死期を悟った重盛が参詣した熊野本宮平重盛熊野詣(熊野本宮大社)  
大阪市の法楽寺(2)重盛が賜った育王山伝来の舎利安置  
『アクセス』
「法楽寺」大阪府大阪市東住吉区山坂1丁目18−30
JR阪和線「南田辺駅」下車、東へ100メートル
大阪メトロ谷町線「田辺駅」下車、西へ150メートル
拝観:年中無休。6:00~17:00 電話:06-6621-2103
『参考資料』
永井路子 木南卓一著「法楽寺」 (平重盛・慈雲尊者と法楽寺 )法楽寺、昭和53年
三善貞司編 「大阪史蹟辞典」清文堂出版、1986年 「大阪市の地名」平凡社、2001年
冨倉徳次郎「平家物語全注釈(上)」角川書店、昭和62年



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