平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



神戸市須磨区には、一ノ谷合戦に赴く途中、
那須与一が戦勝祈願したと伝わる北向八幡宮があります。

最寄りの妙法寺駅

屋島の戦いで両軍かたずをのんで見守る中、那須与一が波間に揺れる平家方の
小舟に立てられた扇を一矢で射落とし、「沖には平家、船ばたを叩いて感じたり。
陸には源氏えびらを叩いてどよめきけり。」と敵味方の双方から
喝采をあびた話は『平家物語』の名場面として知られています。
この時、与一は『平家物語』では20歳くらい、
『那須氏系図』では17歳とされています。
この功により、与一は頼朝から丹波国(京都府)、信濃国(長野県)、
若狭国(福井県)、武蔵国(埼玉県など)、
備中国(岡山県)に領地を拝領したとされています。

若きヒーロー那須与一は、幸若舞や能、歌舞伎などに多く取り上げられ、
伝統芸能を通して現代まで語り継がれ、全国各地にその伝承地があります。

大阪府豊中市「那須原山超光寺(ちょうこうじ)」は、那須与一の寺ともいわれ、
寺伝によると、源平合戦後那須与一は、当寺の住職空心に帰依して出家し
弓矢を奉納したので山号を那須原山に改めたとしています。
後、その子孫那須太郎が空覚と名乗り中興の祖となりました。
与一は後鳥羽上皇から武芸を愛でられ菊の紋を賜ったと伝え、
今も境内の手洗い石に菊の紋が刻まれています。(『大阪伝承地誌集成』)

壇ノ浦合戦に敗れた残党の一部が九州の山深く逃げ込んだことを知った頼朝は、
与一に
追討させようとしましたが、与一は病床に伏していたため、
弟の那須大八郎宗久がその任にあたり、清盛の末裔である鶴冨姫と恋仲になりました。
しかし幕府の命令で宗久は鎌倉へ帰っていったという。(『平家伝承地 総覧』)

『那須氏系図』によると、建久元年(1190)に源頼朝の上洛に供奉した
与一は山城国で没し、京都市伏見の即成院(泉涌寺塔頭)に葬られたとし、
『寛政重修諸家譜』では、文治5(1189)年8月8日に山城国伏見で亡くなり、
法名を「禅海宗悟即成院」と号したとしています。 
しかし、那須与一の名も所領拝領のことも『吾妻鏡』などの確かな史料にはみえず、
その真偽のほどは定かではありません。

那須氏は藤原道長の孫通家の子、貞信を祖とし、
下野国那須郡(栃木県)に勢力を張った豪族で、与一の父資高は
その六代目にあたります。与一は下野国(栃木県)那須の庄の出身で、
「与一」は正しくは「余一」で十一番目の子の意味です。
幼い頃から弓の腕で父資隆や兄を驚かせ、那須岳で弓の稽古をしていた時に
那須温泉神社に必勝祈願に来た義経に出会い、
兄の十郎為隆と与一が源氏方に従軍したという伝説や弓の稽古のしすぎで
左右の腕の長さが変わってしまったというエピソードがあります。

与一がいつどこで死んだのか明らかではありませんが、故郷に墓所はあり、
京都の即成(そくじょう)院にも墓と伝えられる石塔があります。
須磨では屋島合戦のお礼のため北向八幡宮へ参詣して病に伏し、
この妙法寺地区の人達の懸命な手当ての甲斐もなく
息を引き取ったと伝えられ、地元の人々はそれを信じています。

妙法寺会館傍に「北向八幡宮」の碑が建っています。





北向八幡神社(北向八幡宮)
御祭神
八幡大御神(応神天皇)・(誉田別尊=ほんだわけのみこと)
大神宮(天照大御神)・春日大神(春日大明神)
寿永三年(一一八四)源平の一の谷の合戦、
時の総大将源義経は村人より御神威が高く、
飛ぶ鳥も社殿の上を避けて飛ぶ「社」があると聞き、
那須与一に先勝祈願の代参を命じ勝利挙げたと伝える。
又、大国主神を祀るとも云い出雲大社への敬意から北向に建立されたと伝わる。
 平成十七年一月吉日 妙法寺協議会
祭典日・新年一月 豊年祈願祭 八月 例大祭十月第二日曜日(説明板より)

「那須神社」大正10年(1921)ごろ、北向厄除八幡神社の境内に
与一をまつる那須神社が勧請されました。

北向八幡宮の向かい側、県道22号線をはさんで那須与一の墓があります。
「那須与一の墓
那須与一は源平合戦に際し、北向八幡神社を守護神として、
源義経に従い数々の戦陣に加わったとされ、屋島の合戦で
扇の的を射落とし賞賛を得た若武者。晩年に与一はこの地へ
お礼参りに訪れますが、病のためここで亡くなったと伝えられています。
この墓にお参りすると年老いてもシモの世話にならないとの言い伝えがあります。
また、道路を渡った東側には与一を祀った那須神社と
与一が信仰していた北向八幡神社があります。」(説明板より)


「那須與市崇高公御墓所」と書いたのぼりがはためく石段が続いています。

長い石段を上るとお堂が現れます。





この墓にお参りすると、年老いても「しもの世話をしてもらわなくてすむ。」との
信仰があり、祥月命日や月命日の7日には多くの参詣者が訪れます。

天井から吊り下げた献灯の提灯が並ぶお堂にある五輪塔が与一の墓です。



お堂の左手には、無縁仏の墓があります。周辺の谷あいに埋もれていた
源平合戦で亡くなった武士の塚や五輪塔をここに集めたといわれています。

屋島古戦場を歩く那須与一扇の的(祈り岩・駒立岩)  
那須与一の墓(即成院)   那須与一の郷(那須神社)  
一の谷へ出陣途中、亀岡で病になったという与一 那須与市堂  
『アクセス』
「北向八幡宮」兵庫県神戸市須磨区妙法寺宮ノ下 54−1
例祭日:10月第2日曜日
「那須与一の墓」神戸市須磨区妙法寺字円満林24-8
開門時間 9時から15時
月例祭(毎月7日):8時から15時
市営地下鉄「妙法寺駅」または市営地下鉄・山陽電車「板宿駅」から、
市バス5系統で「那須神社前」下車すぐ
または市営地下鉄妙法寺駅 から徒歩約25分
『参考資料』
「国史大辞典」吉川弘文館、平成元年 
NHK神戸放送局編「新兵庫史を歩く」神戸新聞総合出版センター、2008年
 富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)、昭和42年 
三善貞司「大阪伝承地誌集成清文堂昭和53年
全国平家会編「平家伝承地総覧」全国平家会、2005年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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地下鉄「妙法寺駅」から旧市街地の方へ歩くと、妙法寺小学校の近くに
如意山(毘沙門山とも)妙法寺(高野山真言宗)があります。

寺伝によると、行基菩薩のつくった毘沙門天を
天平10年(738)、聖武天皇の勅願によって祀ったのが始まりとされ、
かつては七堂伽藍37坊を擁する広大な寺域を占めていました。

その後、承和6年(839)定範上人により復興され、
平清盛が福原遷都の時、乾(北西)の方位にあたることから、
京の鞍馬になぞらえて新鞍馬と称し、
福原の鎮守の地としたと伝えられています。
足利尊氏の軍が西国に敗退した際、
高師直(こうのもろなお)らの兵火によって全山焼失し、
元禄10年(1697)に再建されましたが、昔日の面影はありません。

須磨区内には、主な観光地を中心に案内サイン「須磨楽歩」が設置されています。

毘沙門天妙法寺と示された標柱。




 
山号は如意山または毘沙門山、高野山真言宗に属し、寺の伝記によると、
天平10年(738)聖武天皇の勅願によって建てられたとされています。
のちに、平清盛が福原(現在の神戸市兵庫区平野周辺)に都を移したとき、
都を守る霊場として「新鞍馬山」の勅願を賜ったと言われています。
最盛期には七堂伽藍37坊を誇り、付近にみられる寺にちなんだ
多くの字名が広大な寺域であったことを今も示しています。
御本尊の「木像毘沙門天立像」は、平安時代末期に楠材で造られた
充実感のある整った尊像で国の重要文化財に指定されています。
また、市の指定有形文化財である「木像聖観音立像」は、
平安時代の作で、霊木から仏さまが出現しつつある過程を表す
「霊木化現仏」と考えられています。このほか、南北朝時代に造られた
「銅製鍍金釣燈篭」をはじめ、平安時代の写経や南宋時代の
版経など数多くの寺宝を有しています。毎年1月3日には追儀式が行われ、
市の登録無形民俗文化財となっています。神戸市教育委員会(説明板より)


本尊の毘沙門天像が祀られている本堂。







鐘楼
 
本堂の西裏手には、南北朝時代に浄照が建てたという
石造宝篋印塔(県文化財)があります。

 
県指定文化財 石造宝篋印塔
指定年月日 昭和46年4月1日 所有者管理者 妙法寺 
宝篋印塔とは、経典の1つである陀羅尼経を納める塔をいい、
後には供養塔・墓碑塔として建てられるようになった。
この塔は約600年前に浄照という僧によって建てられたもので、
花崗岩で造られ、基礎以上2・02メートル。
台石の正面、両脇に、応安3年(1370)の刻銘があり、
造立年次が明らかな上に、各部が完存し、
姿態もよく整っている点貴重といえる。なお、この塔は、
昔ここより北にあたる車村への道筋に建てられていたものである。
平成4年11月 兵庫県教育委員会

毎年1月3日の午後には、平安時代から続く勇壮な踊りの追儺式が行われます。
太郎・次郎という八鬼(はちき)と小鬼が松明をふりかざしながら、ほら貝と
太鼓の音にあわせて本堂の回廊を練り歩くという古式にのっとった行事です。
鬼踊りとも呼ばれる追儺式の後には、「もちまき」が行われます。
『アクセス』
「妙法寺」 兵庫県神戸市須磨区妙法寺毘沙門山1286
神戸市営地下鉄西神・山手線妙法寺駅より徒歩約10分。

『参考資料』
「兵庫県の歴史散歩(上)」山川出版社、1990年
 「源平と神戸」神戸史談会、昭和56年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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六條八幡宮はもとは山田十三ヵ村の氏神で、祭神は応神天皇です。
草創の年は明らかではありませんが、寛文13年(1673)に作成された縁起によると、
神功皇后の行宮跡に後、基澄(きとう)が草庵を結び、長徳元年(995)に
村人らと宝殿を造営し、若宮八幡と呼んだのが始まりとしています。
そして丹生山田荘の領主となった六条判官源為義が、保安4年(1123)に
京都六条にあった六条左女牛(さめうし)八幡をこの地に遷して再興し、
六條八幡宮と称するようになったという。

ところが、『吾妻鏡』には、源頼朝は祖父為義のために
京都堀川の為義の六条邸の跡地を選定し、
文治元年(1185)に左女牛(さめがい)八幡宮を建立した。
さらに季厳阿闍梨(大江広元の弟)を別当職に任じ、
文治3年(1187)に平家の所領であった山田荘を
六条左女牛八幡の社領地にしたと記されているので、
(文治元年12月30日条、文治3年10月26日条)
当社の創建はこれを契機としたと思われます。

六條八幡の名は、京都堀川六条に源為義の邸宅があったため、
六条判官と呼ばれたことに由来しています。

最寄りの箕谷(みのたに)駅

六條八幡宮近くを流れる山田川







広い境内には、東から三重塔、舞殿、本殿、拝殿、薬師堂、手水舎、
社務所などが並び、鎌倉から室町時代にかけては、大いに栄えたようです。
拝殿の傍には、市の名木に指定された銀杏の大木がそびえ、

境内に建つ三重塔・薬師堂がかつての神仏習合の名残を伝えています。

舞殿

社務所、手水舎、瓦葺入母屋造の拝殿。

六條八幡宮 
鎮座地 神戸市北区山田町中字宮片57 御祭神 応神天皇
由緒 摂津丹生六條八幡宮の縁起によれば、古くは若宮八幡宮と称せられ、
昔、神功皇后紀伊の水門より難波の浦(大阪湾)務古の水門に御舟を留め給いし時、
この山田の地にしばらく行宮を営み給う所なりと伝えられている。
後、人皇60代一條院の御代に周防国大嶋郡の基澄法師がこの地に来て、
長徳元年(995年)5月、黒木の寶殿一宇を建立し、八幡三所の神霊を勧請した。
更に、人皇74代鳥羽院の御代保安4年4月(1123年)、六條判官源為義が
この山田庄の領主であった時、夢想の霊感によって六條左女牛(さめがい)の
八幡大神を京より勧請合祀し、いにしえよりの八幡宮を再造した。
これよりふたたび神徳あらわれて多くの人が崇敬し、
為義の称号をとって六條八幡宮と申奉るようになった。
なお、室町期における神仏混淆の名残りで、今も境内に
三重の塔(文正元年・1466年建立)があり、重要文化財の指定を受けている。
八幡宮の所在する東大寺領山田荘は、平清盛領越前国大蔵荘と、
永万頃(1165~1166年)交換、一時、平清盛領となるが、
平家没後、源頼朝が接収し、京都六条の若宮八幡宮に寄進されるなど、
源氏平家ゆかりの地と伝えられている。
境 内 社  
 稲荷神社 (宇賀魂命)住吉神社(住吉三神 神功皇后)山王神社( 大山祗命)
大歳神社(大歳神 高良大神)猿田彦神社(猿田彦大神)
祭  日
  1月19日  厄除祭  引目神事 
  9月第3日曜日  神幸祭  御輿渡御
  10月第2日曜日 例  祭 流鏑馬神事 神戸市登録無形民俗文化財(説明板より)





 室町中期の優美な佇まいの三重塔は、総高さ13m、
3枚の棟札とともに国の重要文化財に指定され、
この地の有力者であった鷲尾綱貞が寄進したというものです。
鷲尾家は鎌倉時代には、六條八幡の政所(まんどころ)を預かり、
室町時代には栗花落(つゆ)家とともに頭家を務める家柄でした。

鷲尾家は、現在の北区山田町東下を本家として、須磨区の白川、
同区多井畑(たいのはた)の三家があり、この一帯に勢力を張っていました。
 『摂津名所図会』には、丹生山田荘を二分するような
鷲尾氏と栗花落氏の豪壮な邸宅が描かれています。
早稲田大学古典籍総合データベース摂津名所図会より転載 (請求記号:ル04_03651_0010)


八幡神社三重塔  
重要文化財指定大正三年四月 桧皮葺、初重内部来迎柱後退
山田の歴史は、神社を中心に発展したところで、多くの文化遺産を残しています。
この塔は、五百年前の文正元年(1466年)神社の世話役であり、
地方の有力者であった鷲尾綱貞によって建てられたものです。
緑の木々を背景に、やわらかな桧皮葺(桧の皮で屋根をふく)と上層を区切る
細縁の手すりなど優美な姿を見せています。軒先の強い反(そ)りや、
上層になる程小さくなる形に時代(室町中期)の特徴が見られます。
仏教建築である塔が神社にあるのは、神仏が一体であるとの考えのあらわれですが、
明治以降は、区別され、神社にあった塔の多くは姿を消しました。
今、全国で十八、県下で三ケ所残っていますが、その一つがこれです。
神戸市教育委員会

桧皮葺の本殿

薬師堂

舞殿に神輿が据えられ、豊作を祈る秋祭り「神幸祭」の準備中です。
祭礼当日は、紺色の法被に鉢巻き姿の数十人の男たちが神輿を担いで境内を練り歩き、
最後に神輿を担いだまま山田川(志染川=しじみがわ)に入って禊を行います。
源為義の邸跡 
 源氏堀川館・左女牛井跡・若宮八幡宮 
『アクセス』
「六條八幡宮」神戸市北区山田町中字宮ノ片57 
神戸電鉄有馬線箕谷(みのたに)駅から
市バス「衝原(つくはら)」行き(111系統)乗車、
「山田小学校前」下車より徒歩約6分。バスは1時間に1本程度の運行
 または箕谷駅より徒歩約40分
『参考資料』
野村貴郎「北神戸歴史の道を歩く」神戸新聞総合出版センター、2002年
「兵庫県の地名」平凡社、1999年 「兵庫県の歴史散歩」山川出版社、1990年
現代語訳「吾妻鏡」(2)(3)吉川弘文館、2008年 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 



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丹生(たんじょう)山の頂上にある丹生神社(祭神丹生都比売命=にふつひめのみこと)は、
創建当時丹生寺という寺院でしたが、後に明要(みょうよう)寺と改めました。
欽明天皇の三年(542)に百済の聖明(せいめい)王の王子
童男行者(どうなんぎょうじゃ)が開いたという古いお寺です。

福原遷都(1180)の時平清盛は、福原京の鎮護として丹生山を
比叡山にみたてて丹生寺を再興するとともに日吉(ひえ)山王権現を
勧請し月参りしたといわれ、土地の人は今も山王さんと呼んでいます。
清盛の信仰と庇護を受け大いに栄え、末寺を加えると
2千もの僧兵を擁したという大寺院でした。

清盛は福原から丹生山(標高514m)までの参詣道を拓き、
山頂までの参道に1町ごとに町石を建てたと伝えられています。
現在、丹生山参道には山頂までの町数を刻んだ
南北朝時代の永徳3年(1383)の銘がある町石12基が残っています。

戦国時代、三木合戦で別所長治に味方し三木城に運ばれる兵糧の
中継地点となったため羽柴秀吉の激しい攻撃にさらされ焼失しました。
塔頭の舟井坊だけは、秀吉軍側についたためのち許され復興しましたが、
往年の勢いを取り戻すことはできませんでした。
明治2年廃仏毀釈により明要寺が廃寺となったため、
鎮守社の山王社が独立して丹生神社と改称されました。



バス停「丹生神社前」近くに丹生神社の一の鳥居が建っています。
丹生山の山頂へは、この鳥居から北へ約5キロメートルあります。



鳥居の傍にたつ石碑。

麓橋を渡ります。

丹生会館

角を右に曲がったところに丹生神社宝物殿があります白壁土蔵造りの美しい建物です。

丹生寺(明要寺)の遺品を納めた丹生神社宝物殿。
室町時代後期に描かれた『明要寺参詣曼荼羅図』や
『当山景画大幅』などの宝物が所蔵されています。

地区の人々によって管理され、毎年、子供の日に開けられます。 

丹生山山頂までは、まだかなりの距離があります。

鷲尾山麓には、一ノ谷合戦に義経一行を先導した鷲尾三郎義久(経春とも)の
屋敷があったと伝えています。この合戦で義経は勝利し、
鷲尾家は戦功によって領地を与えられ栄えましたが、
秀吉の三木城攻めの時に敵対したため所領を没収されました。

太神宮の石灯篭を目印にして農道を進みます。

灯篭と鷲尾山の間の現在田んぼになっているところが邸跡です。
鷲尾山には鷲尾家の墓があります。

屋敷跡から鷲尾氏の墓所へと藍那古道を進みます。  
藍那古道は鷲尾三郎屋敷跡から藍那にかけての山道で、一ノ谷合戦の時に
義経が行軍した道といわれています。(神戸市北区山田町東下~藍那)




「鷲尾家墓所」と標された碑。

お墓に鷲尾家家紋「日の丸扇」が入っています。

丹生神社鳥居の近くには、鷲尾氏開基の曹洞宗福田寺(ふくでんじ)があります。



福田寺は室町時代まで鷲尾家の私寺として運営されてきましたが、鷲尾家衰退後、
寺の維持のために鷲尾家だけでなく近隣の檀家の寺となりました。
本堂には鷲尾氏の位牌の間があり、鷲尾氏代々の位牌が祀られています。

鷲尾氏は明治20年頃までは旧家としての格式を誇り、
昭和初期までこの地に暮らしていたという。
今は誰も住んでいませんが、お盆には岐阜の鷲尾家本家や
神戸市白川・多井畑の鷲尾家を招いているそうです。

鷲尾義久の位牌「久昌院殿義道宗本大居士」

寺の屋根には、鷲尾家の家紋「日の丸扇」が入っています。

『摂津名所図会』によると、義経から日の丸の軍扇が
与えられたことからこれを家紋にしたとしています。
鷲尾三郎義久(義経進軍三草山から一ノ谷へ)  
『アクセス』
「丹生神社一の鳥居」神戸電鉄箕谷(みのたに)駅前から
神戸市バス111系統「丹生神社前」下車すぐ
「福田寺」神戸市北区山田町東下 後ケ市12
「鷲尾氏墓所」神戸市北区山田町東東下 

『参考資料』
野村貴郎「北神戸歴史の道を歩く」神戸新聞総合出版センター、2002年
「兵庫県の地名」平凡社、1999年 「兵庫県の歴史散歩」山川出版社、1990年
神戸新聞社編「源平50選神戸」神戸新聞総合出版センター、2004年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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多井畑厄除八幡宮から西へ約200mのところに
平家落武者と松風村雨の墓があります。
住宅地の中の少し入り組んだ場所にありますが、
所々に案内板があるので迷うことはありません。

須磨へ蟄居することになった在原行平(在原業平の異母兄)は、
多井畑(たいのはた)の村長(むらおさ)の娘「もしほ」と「こふじ」に出逢い、
「松風・村雨」と名づけて愛したといいます。多井畑には二人が水鏡として
使ったといわれている泉があり、「鏡の井」と呼ばれています。



 









石碑には👉松風村雨之墓と刻まれています。

一ノ谷合戦ではおびただしい数の武士たちが命をおとしましたが、
その名もない人々の墓を地域の人々が大切に守ってきました。
お参りにこられた地元の方にお聞きした話では、
もと13基あった墓碑が50年ほど前に1基なくなったそうです。

落武者の墓
源平一の谷の合戦(西暦一一八四年)に敗れ、この地で自害した
平家の落武者十三名の墓と今に言い伝えられています。(碑文より)





この二基の五輪塔は松風村雨の墓と伝えられ、
傍には、「松風・村雨二女之碑」と彫られた石碑が建っています。

平安時代の歌人在原行平は献歌した1首が光孝天皇のいかりにふれて
須磨に流されたといわれています。3年経って行平は都に帰ることになり、
2人の娘はやがて須磨から3㎞ほど北にある多井畑に戻って亡くなりました。

村風・村雨の墓
松風村雨の二人の姉妹は、謡曲「松風」を初め多くの文学にとりいれられ、
次のように伝説が広く世に知られています。
   在原行平は仁和2年(886年)光孝天皇の怒りにふれ
須磨の地に配流され、寂しく暮していた。その時、汐汲みに通っていた
多井畑の村長の娘”もしほ””こふじ”の姉妹をいとおしく思い、
松風、村雨の名を与え仕えさせた。 三年の歳月がたち許されて
京都に帰るとき行平は小倉百人一首で著名な
立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今かえり来む 中納言行平
 の歌を残し烏帽子、狩衣をかたわらの松の木に掛け姉妹たちへの形見とした。
   二人の姉妹はたいそう悲しんで観世音菩薩を信仰し、
行平の無事を祈っていた。後多井畑へ帰りわびしく世を去った。また、
この近くには二人の姉妹が姿を映し髪をすいたといい伝える「鏡の井」があります。
   現在でもこの伝説にちなんで行平町、松風町、村雨町、
衣掛町などの町名が残っています。令和元年六月吉日 正木勲(碑文より)

地元の方のお話によると、当時の多井畑村長のご子孫正木氏は、説明板が
風化によってだいぶ朽ちていたので、この石碑をお建てになったそうです。

十数年前に須磨を散策した時に訪れた松風村雨堂です。




松風村雨堂
松風村雨の二人の姉妹は、謡曲「松風」を初め多くの文学にとりいれられ、
次のように伝説が広く世に知られています。
  在原行平は仁和2年(886年)光孝天皇の怒りにふれ須磨の地に配流され、
寂しく暮していた。その時、汐汲みに通っていた多井畑の村長の娘
”もしほ””こふじ”の姉妹をいとおしく思い、松風、村雨の名を与え仕えさせた。 
三年の歳月がたち許されて京都に帰るとき行平は、小倉百人一首で著名な

立ち別れいなばの山の峰に生ふる    まつとし聞かば今かえり来む
 の歌を残し烏帽子、狩衣をかたわらの松の木に掛け姉妹たちへの形見とした。 
二人の姉妹はたいそう悲しんで観世音菩薩を信仰し、行平の無事を祈っていた。
後多井畑へ帰りわびしく世を去った。  また、この近くには
二人の姉妹が姿を映し髪をすいたといい伝える「鏡の井」があります。

  現在でもこの伝説にちなんで行平町、松風町、村雨町、
衣掛町などの町名が残っています。昭和46年3月
 神戸市教育委員会 須磨区役所 松風村雨堂保存会(説明板より)

謡曲「松風」と松風・村雨堂に磯馴松(いそなれまつ)
 謡曲「松風」は、宮廷歌人在原行平が須磨に流された折、
姉妹の海士女(あまおとめ)を愛した話を基に、女心の一途な恋慕や
懊悩の姿を幽玄の情趣で表現された叙情豊かな名曲である。

 須磨の浦で、いわくあり気な松を見た諸国一見の旅僧は、
海士女 松風・村雨の旧跡と聞き念仏して弔う。乞うた宿の二人の乙女は
「恋ゆえに思い乱れ世を去った松風村雨の幽霊である」と告げ、
形見の烏帽子、狩衣を着て物狂おしく舞い、妄執解脱の回向を請うと、
二人の姿は消えて、ただ松に吹く風の音が残るばかり・・・。
旧跡を訪うた旅僧の夢であった。 行平の謫居跡に彼を慕う姉妹が
結んだ庵の跡が「松風・村雨堂」と伝えられる。
別れに臨み行平が手ずから植えた「磯馴松」は堂の近くにあり、
古株のみが残って昔を語っている。謡曲史跡保存会(駒札より)

行平が狩衣をかけた磯馴松の古株が衣掛松と名づけられて残っています。
 右手の石碑には、「松風村雨堂」と彫られています。

三代目衣掛の松(きぬがけのまつ)と刻まれています。
 
2人が庵を結んで観世音菩薩を祀った観音堂 

磯馴松の古株の傍に三代目の衣掛松が青々とした葉を茂らせています。
在原行平は帰京の際に、
♪立ちわかれいなばの山の峯におふる まつとし聞かば今かへりこむ
(あなたとお別れして、私は因幡の国へ行きますが、その国の
稲羽山(いなばやま)の峰に生えている松のように、あなたが私の帰りを
待っていると聞いたなら、すぐにでも帰って来ましょう。)の和歌を添え、
形見として烏帽子と狩衣を松の木に掛けて旅立ったという。 

この和歌は、行平が38歳の時、因幡の国(鳥取県)の国司に任命され、
赴任地へ向かう際に別れを惜しんで恋人に贈った歌だとされています。
その切なさは松風村雨との別れにも通じるものがあります。 

なお、一絃琴(いちげんきん)と呼ばれる須磨琴は、
行平が浜辺に打寄せられた一枚の舟板に一本の冠の緒を
張っただけの簡単な琴をつくり、葦の茎を指にはめて
その琴を弾じながら気晴らしをしたのが始まりとされていますが、
江戸時代の前期に中国から輸入されたものともいわれています。

あちこちに散らばっていたものを集めたものでしょうか。
祠には、たくさんの供養塔が祀られています。
『アクセス』
「平家落人の墓」「松風村雨の墓」神戸市須磨区多井畑東所3
JR山陽電車「須磨駅」または、神戸市営地下鉄「妙法寺駅」
神戸市営地下鉄「名谷(みょうだに)駅」から
市バス71(一部)・72・74・88系統「多井畑厄神」下車、西へ徒歩約4分。
「鏡の井」神戸市須磨区多井畑字筋替道

「松風村雨堂」神戸市須磨区離宮前町1丁目2
山陽電鉄「須磨寺駅」から東へ徒歩約10分
 JR・山陽電鉄「須磨駅」下車
 「須磨駅前」バス停から市バス75系統「村雨堂」下車すぐ
『参考資料』
「兵庫県の歴史散歩(上)」山川出版社、1990年
NHK神戸放送局編「新兵庫史を歩く」神戸新聞総合出版センター、2008年
「兵庫県の地名」平凡社、1999年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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神戸市須磨区北部にある多井畑(たいのはた)に多井畑厄除八幡宮があります。

一ノ谷合戦に向かう際、この地を通った源義経が戦勝を祈願した社と伝えられています。

バス停多井畑厄神を降りると、多井畑厄除八幡宮の鳥居が見えます。

厄除八幡宮 祭神応神天皇







奈良時代後半の神護景雲(じんごけいうん)4年(770)6月に疫病が大流行し、
それを鎮めるために朝廷は都の四隅と畿内(大和・山城・河内・摂津・和泉)の
国境10ヶ所に疫神を祀り、疫病を祓う祈願を行わせました。

多井畑厄除八幡宮は、古代の山陽道(のちの西国街道)の摂津と
播磨の国境に位置していたため、この地に疫神が祀られました。
 のちに八幡宮を勧請し、八幡信仰と疫祓いが結びついて
厄除八幡として有名になり、多井畑の厄神さんの愛称で親しまれています。
毎年1月18日から20日にかけて厄除祭が行われ、厄年のお祓いや疫病退散、
病気平癒の祈願と厄除けにたくさんの参拝者が訪れて賑わいます。

神額「厄除八幡宮」が掲げられています。
氏神の八幡神社は俗に厄除八幡宮といいます。



拝殿

本殿

拝殿左手の石段を上ると厄神祭塚があります。



日本最古の厄除けの霊地と伝えられています。

厄神祭塚

義経一ノ谷へ進軍(義経腰掛の松 ほんがんさん)  
『アクセス』
JR山陽電車「須磨駅」または、神戸市営地下鉄「妙法寺駅」 、
神戸市営地下鉄「名谷(みょうだに)駅」から
市バス71(一部)・72・74・88系統「多井畑厄神」下車すぐ

『参考資料』
NHK神戸放送局編「新兵庫史を歩く」神戸新聞総合出版センター、2008年

「兵庫県の歴史散歩(上)」山川出版社、1990年「兵庫県の地名」平凡社、1999年

 

 

 



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高尾山の西、高尾地蔵で軍議を開き合戦の相談をした義経一行は、
鷲尾三郎義久に案内され鵯越と白川の分岐点、
蛙岩のところからから山中に入り、白川に出て妙法寺の西から
多井畑(たいのはた)を通り、鉄拐山(てっかいさん)を目ざしました。
その途中一行が休憩をしたという「義経腰掛の松」が多井畑に残っています。
ちなみに白川・多井畑には、鷲尾一族の集落がありました。

バス停「妙法寺駅前」から「多井畑厄神」停まで乗車。


一ノ谷付近の古代山陽道(後の西国街道)は、山が海に迫った難路であり、
波が激しい場合は通行不能となるため、須磨寺の手前から鉄拐山・鉢伏山の
東にある多井畑峠を越え、鉢伏山の北側を迂回し塩屋に抜けました。
一説には平安時代末期まで、現在の神戸市西部では、
山陽道は山間部を通っていたという。

「義経腰掛の松」が多井畑厄除八幡宮鳥居の南西約50m、古代の山陽道沿いにあります。



 右手奥に多井畑厄除八幡宮が見えます。
バス停「多井畑厄神」から、バス道を少しもどった多井畑峠より撮影。
義経一行が駆け抜けた峠道です。

多井畑厄除八幡宮から古代山陽道を通って義経腰掛の松へ







義経腰掛の松
 1184年(寿永3年)2月7日未明源義経一行は多井畑厄除八幡宮で戦勝祈願した後、
この松の木の下で休息をとり一の谷に向かったと伝えられている。
それから後、村人はこの場所に社を作り「ほんがんさん」の愛称で
親しみと尊敬を込めてお祀りしている。
多井畑厄除八幡宮 多井畑歴史研究会 多井畑自治会

多井畑厄除八幡宮  

義経腰掛の松に隣接して数多くの供養塔が並べられています。
 一ノ谷合戦で命を落とした人達を祀る塚や塔を集めたものでしょうか。

三草山の夜戦後、播磨の三木の辺で義経と別れ、
明石方面から迂回した土肥実平軍は、2月7日の午前6時の
開戦に遅れまいと進軍し、一の谷・西の木戸に着きましたが、
すでに義経別動隊に加わっていた熊谷次郎直実父子と
平山武者所季重(すえしげ)がこの木戸におし寄せ、
一ノ谷の城郭を攻撃していました。
直実と季重は、義経隊は馬で一ノ谷背後の崖を一斉に駆け下りるので、
先陣はねらえないと合戦前夜、功名を競ってひそかに隊を抜け出し、
鵯越の蛙岩から白川、多井畑、下畑を経て塩屋付近に出て、
未明、西の木戸口に現れたのです。

先陣の功名をあげようと、本隊を抜け、本隊よりも先に
単独で攻撃を仕掛けることを「抜け駆け」といいます。
出世は手柄に比例するため功名争いは熾烈でした。

 平氏搦手が陣取る一の谷は、狭い谷あいの地形で前面が海、
西北は絶壁が迫っている場所でした。 この攻撃が難しい地に
城郭を構えていた平氏は、防備体制に自信を持ち、
敵が現れるはずがない山頂部には兵を配備していませんでした。

義経は70騎の精鋭を従え徹夜の行軍で、7日午前8時頃、鉄拐山を東に越え
鉢伏山・礒の途(鉄拐山から鉢伏山へと続く尾根)に到着し、
一ノ谷の城郭を眼下に見下ろす崖の上に出ました。
東西の木戸(生田の森・一ノ谷)で午前6時に開始された合戦は、
今やたけなわ、戦況を見守ると一進一退の膠着状態です。

義経みずから先頭にたち、 躊躇する坂東武者らを叱咤し
険峻な崖から中段の平坦地まで一気に駆け下りました。
そこから先はさらに険しく垂直の壁のような崖がそそり立っています。
さすがの義経も怯みましたが、三浦の佐原義連が進み出て
「このような崖は我が故郷では馬場のようなもの」と言うなり駆け下りました。
これを見て勇気を得た武者らが続き、鬨の声を挙げました。
これが今に「鵯越の逆落とし」として
語り伝えられている義経の奇襲戦法です。

こうして一ノ谷合戦の命運が決まったとされています。

防備が手薄な城郭の背後を突かれた平氏軍は大混乱に陥り、
一門の多くを失い海上を屋島へと敗走しました。

義経の奇襲によって一ノ谷の陣が大混乱に陥っていたころ、鵯越の麓、山の手陣の
木戸口にも義経隊から分かれた摂津源氏の流れを汲む多田行綱軍が攻め寄せ、
越前三位通盛・能登守教経・越中前司盛俊らを攻め落としていました。
義経の鵯越の逆落し(須磨浦公園)  
鵯越から一ノ谷へ義経進軍(藍那の辻・相談が辻・義経馬つなぎの松跡・蛙岩)  
『アクセス』
「義経腰かけの松」兵庫県神戸市須磨区多井畑
JR山陽電車「須磨駅」または、神戸市営地下鉄「妙法寺駅」
神戸市営地下鉄「名谷(みょうだに)駅」から
市バス71(一部)・72・74・88系統「多井畑厄神」下車、西南へ徒歩約3分
『参考資料』
野村貴郎「北神戸歴史の道を歩く」神戸新聞総合出版センター、2002年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年 
安田元久「源義経」新人物往来社、2004年
菱沼一憲「源義経の合戦と戦略」角川選書、平成17年
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社、平成16年
神戸史談会「源平と神戸」神戸新聞出版センター、昭和56年
「兵庫県の地名」平凡社、1989年
都市研究会編「地図と地形で楽しむ 神戸歴史散歩」洋泉社、2018年

 



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三草山合戦で平資盛らの軍勢に勝利した義経は、三木から鵯越に向かい、
一ノ谷合戦の前日、寿永3年(1184)2月6日藍那(あいな)に
軍を進めました。そこから一ノ谷の陣の背後に向かいます。
『平家物語』によると、案内者となったのは、
この山の猟師の息子、鷲尾三郎義久(経春とも)だったという。

その経路は必ずしも明らかではありませんが、藍那を南下し
六甲山系を高尾山の西で越え、鵯越から多井畑(たいのはた)を経て
薩摩守忠度が守る西木戸の背後に出たと思われます。
鵯越とは、三木方面から藍那、高尾山(403m)の中腹を通り、
福原や大輪田泊へ出る山中の古道の呼び名です。

一ノ谷合戦で問題となるのは、鵯越という地名と一ノ谷との関係です。
『平家物語』には琵琶法師の語った詞章(音楽的要素のある作品の文章)を
そのまま記した「語り本」と現在の小説のような読み物として
普及してきた「読み本」があります。
語り本系の『平家物語』では、一ノ谷の背後鵯越から
義経軍が急峻な崖を駆け下り、逆落とししたとし、
一ノ谷と鵯越が間近にあるように描いています。

また『吾妻鏡』元暦元年(1184)2月7日条には、
「源九郎義経は、特に勇敢な武士70余騎を引連れ
一ノ谷の 後の山(鵯越と号す)に到着し、猪・鹿以外は
通ることのできないほど 険しいこの山から攻撃した。」とあり、
鵯越は平家城郭の後方の山として用いられています。
これについて富倉徳次郎氏は「吾妻鏡の編者の地名に対する大雑把な
書きぶりによるものと考えるべきものである。」と述べておられます。
(『平家物語全注釈(下巻1)』)
鵯越と一ノ谷とは直線距離にして約8kmも離れています。
こんなに遠いのでは、崖からの奇襲攻撃などできるはずありません。

一方、読み本系の『延慶本』では、「九郎義経は一ノ谷の上 
鉢伏・蟻(あり)の戸という所へ上って見給へば、軍(いくさ)は盛りと見たり。
下を見下ろせば、十丈ばかりの谷もあり、或いは二十丈の崖もあり」とあり、
義経が鉢伏山・蟻の戸という所から逆落としをしたと明記した上で、
鵯越という地名は平家陣地の北方の山々をいう名として用いられています。

鉢伏山は一ノ谷の背後、鉄拐山(てっかいさん)の西南に位置する山、
蟻の戸は、鉄拐山から鉢伏山へ続く途中の尾根と推測されています。

義経の進軍ルートを『大日本地名辞書』は、「鵯越の本路は
山田村藍那より東南夢野、若しくは長田に出づべきも、
藍那より南に出でて、多井畑に至り以て一谷に臨む別路あり、
九郎は此別路を取りしに似たり」と推定し、
鵯越より西に赴き、多井畑から一ノ谷に進軍したとしています。
このことからも、義経が逆落としを敢行したのは、鵯越ではなく、
『延慶本』が記すように、 須磨の裏手、鉢伏山・鉄拐山からと考えられます。

そこでこのルートに残る義経進軍にまつわる伝承地を
2回に分けてご案内させていただきます。




神戸電鉄藍那駅から急坂を上ると、藍那集落を抜け鵯越に出ます。



藍那の辻の宝篋印塔
藍那を通る鵯越の傍らに南北朝時代の宝篋印塔が残されています。
現在の鵯越周辺は、大規模な宅地開発が行われたり、墓苑がつくられたりと
町の様子は大きく変化していますが、この辺には昔の面影が残っています。





相談ヶ辻は道が左右に分岐しており、義経が進路を左にとり
鵯越に出るか右にとり白川に出るかと軍議を開いた場所と伝えられています。
右へ行けば白川から一ノ谷へ、左へ行けば鵯越から福原へ向かうこととなります。

神戸市立鵯越墓苑HP 墓苑図より一部転載

星和台住宅を通りすぎ、鵯越墓園の北門辺から墓苑内へ入り南へ進みます。



高尾地蔵院



高尾山(標高403m)への登り口にある高尾地蔵院(標高372m)境内には、
「義経馬つなぎの松跡」があります。



害虫被害にあい、今は切り株を残すだけとなっていますが、
義経が鵯越進軍の途中ここで休憩し、境内の松に馬をつないだといわれています。


1184年2月6日(現3月26日)晩、福原に集まった平家の10万の
軍勢を攻めるため、義経の軍勢がここに集まり、合戦の相談をした。
 高尾山山頂より眼下を見下ろすと、和田岬の周辺には総大将宗盛と
安徳天皇を守る平家の軍勢が篝火を焚き、火の海をつくっていた。
 義経は平家がつくる火の海を海女が藻塩を焼いている火と見なし、
「海女に逢うのに武具はいらいない」と笑いとばした。
山頂から戻った義経が、武者たちが囲む焚き火の中に加わると、
枝ノ源三が、翁と16才と13才の兄弟を連れて来た。
 義経はこの兄弟を道案内人として戦うことに決め、70騎の逆落しの部隊と、
逆落しを助ける岡崎四郎の軍勢とに分けた。 翌朝、わずか70騎で
10万の平家を敗走させる、「鵯越の逆落し」と呼ばれる有名な戦いが行われた。
無数の軍勢に立ち向かう勇気と、危険な崖から逆落しをした義経の勇気は、
後々まで語り継がれている。 後に、ここは「義経公御陣の跡」と呼ばれ、
ここにあった古松を「判官松」または「義経馬つなぎ松」と呼び伝え、
昔の人が大切にしていた。文責:兵庫歴史研究会 設置:墓園管理センター』

神戸市立博物館蔵

高尾地蔵からさらに南下すると、墓苑内の新芝生地区の小さな駐車場の背後に
蛙岩(神戸市北区山田町下谷上)があります。



蛙岩は鵯越と白川方面へ向かう山道との分岐点にある大きな岩で、
複雑な形に風化した岩が、数匹の大蛙と多くの小蛙のように見えるという奇岩です。

この岩は夜になると起き上がり、巨大な蛙となって旅人を襲ったといわれ、
昔の鵯越が物騒だったことを物語っています。

義経はこの辺りで再び軍勢を二分し、多田行綱に主力を預けて鵯越を進ませ、
自身は僅か70騎の精兵を率いて西南に折れ、一ノ谷の平家城郭の背後に向かいます。
鵯越の坂道を一挙に南下した行綱は、能登守教経・越中前司盛俊の山手陣を攻略しました。

ここで進路を西にとればひよどり台・白川・多井畑を経て一ノ谷に通じています。



下るとひよどり台4丁目です。

鵯越の進軍路をめぐる諸説の中には、ここで熊谷直実父子と
平山季重(すえしげ)らが義経の部隊を秘かに抜け出し、
須磨一ノ谷方面へと向かったとするものもあります。
熊谷・平山一二の懸(熊谷直実、平山武者所季重の先陣争い)  
義経一ノ谷へ進軍(義経腰掛の松 ほんがんさん)  

『アクセス』
「相談が辻」神戸市北区山田町藍那 神戸電鉄粟生線「藍那」駅より約1㎞

「神戸市立鵯越墓園」神戸市北区山田町下谷上字中一里山12
神戸鉄道有馬線「鵯越駅」下車 南門まで徒歩約10分 
墓参バスが墓園内を運行しています。
「高尾地蔵院」神戸市北区山田町下谷上「藍那駅」より約3900m
神戸鉄道有馬線「鵯越駅」下車徒歩約50分

『参考資料』
野村貴郎「北神戸歴史の道を歩く」神戸新聞総合出版センター、2002年 
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年 
「大日本地名辞書」(第2巻)冨山房、平成4年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
安田元久「源義経」新人物往来社、2004年

 

 



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鷲尾三郎義久(?~1189 熊王丸・経春)は、義経に一ノ谷を案内し、
衣川の合戦で最期をともにした郎党です。

寿永3年(1184)2月5日、三草山合戦(加東市)で敵陣を撃破した後、
義経は敗走する敵を追いながら南下し、6日朝には播磨の小野・三木辺まで進みました。
ここで軍を二つに分け土肥実平に7千の兵を預け、一ノ谷の西木戸(城戸)を
西方から攻撃させ、自身は山越えをして一ノ谷の背後に出ようとします。

ちなみに
小野・三木両市には、多くの義経伝承が残されています。
三木市伏山地区には、義経に差し出した大飯の故事にちなみ、
判官さん(義経)を祀ったとされる判官神社や三木市内を流れる美嚢(みのう)川
近くの田の畦道には「弁慶の足跡」とよばれる大きな石が立っています。

『平家物語・巻9・老馬』によると、山中で道に迷った義経は、
武蔵坊弁慶が見つけてきたこの辺りの地理に詳しい
老猟師に案内を命じたところ、猟師は自分の代わりに18歳の
息子熊王を差し出しました。義経はすぐさま熊王を元服させ、
義経の一字を与えて義久と改めさせました。

老猟師鷲尾武久には、太刀一振、陣幕一張、旗日の丸、
武蔵坊弁慶薙刀及太刀、亀井六郎太刀一振を与えたといいます。
武久は桓武平氏平貞衡の末裔で、桑名次郎清綱が初めて鷲尾の姓を名のり、
その次男の武久が山田庄に住んで鷲尾庄司と称したといいますが、
鷲尾家に関する伝承は様々であり不明です。

平家滅亡後も義久は忠実な義経の郎党として奥州までついて行き、
最後は藤原泰衡の軍勢と戦い、5騎の敵を倒した末に
主君と命運をともにしたという。(『義経記』)

ところが、『平家物語』でも古態を示すという延慶本は、
三草山の夜討ちで捕虜となった一人、播磨国安田庄下司の多賀菅六久利の
縄をといて一ノ谷へ道案内させたとしています。
多可郡(現、兵庫県西脇市他)の管六久利は、先祖相伝の所領安田庄の
下司職を平家の侍、越中前司盛俊に横領されたため、長年訴えていましたが、
埒が明かず生活のために猟師をしているという男です。

 神戸市には、山田東下(北区)、須磨区白川、同区多井畑(たいのはた)
鷲尾家が三つあり、六甲山系の南を通って播磨に出るルートを占め、
この付近に勢力を張っていました。本家は鷲尾山の麓、山田東下の鷲尾氏でした。

鷲尾の地名は丹波国多紀郡(現、丹波篠山市)にもあり、鷲尾氏は
丹波篠山市の出身だともいわれ、そこに鷲尾三郎の供養塔があります。

白川には鷲尾一族の祀る山伏山(やまぶしやま)神社があります。
山伏は猟師や山師、木地師(ろくろを使って木製の椀や盆を作る)など、
山の中で暮らしをたてる人々と強く結びついています。
このことからも鷲尾氏は、大きな血縁集団を形成し、
六甲山系から丹波にかけた山岳地帯を支配下におき、
山民の広くて早い情報網を操る有力一族だったと思われます。

野村貴郎氏は「鷲尾一族という交通の要衝を抑えた氏族集団が各地に存在し、
お互いに連絡・協力しあっていたことは想像に難くありません。」と
述べておられます。(『北神戸歴史の道を歩く』)

鷲尾三郎義久の先導により、一ノ谷への逆落としは見事に成功し
義経は大勝利を収めました。この功績によって、
鷲尾氏は山田庄の下村と小河を与えられ栄えましたが、
信長に敵対した三木城の別所氏に味方した罪で
秀吉に領地を没収され衰退しました。それでも明治の中頃までは
旧家としての格式を保って存続していたようです。

『摂津名所図会』には、江戸末期の山田荘、鷲尾氏屋敷が描かれています。
早稲田大学古典籍総合データベース摂津名所図会より転載
請求記号:ル04_03651_0010) 


丹生(にぶ)山田庄を二分するような千年旧屋、鷲尾氏と土地の豪族
栗花落(つゆ)氏の屋敷が描かれています。今は山田東下に鷲尾屋敷はありません。

挿絵には、「一谷逆落としの標者(あないしゃ)鷲尾義久の旧屋は丹生山田東下村にあり。
その時賜し太刀二振を什宝とす。又庭に義経公腰懸石あり。武士の輩ここに至り、
誉を賞じ古戦場の蹟を尋ぬるも多かりき。」と説明書きがあります。

上の挿絵を一部切り取って拡大しました。
来客に什宝の刀を見せている光景です。庭には義経こしかけ石が描かれています。
また『摂津名所図会』は、多井畑の鷲尾家には
義経拝領の兜鎧があると記しています。
丹生神社・鷲尾家邸跡・福田寺・鷲尾家墓所  
鵯越から一ノ谷へ義経進軍(藍那の辻・相談が辻・義経馬つなぎの松跡・蛙岩)  

『参考資料』
野村貴郎「北神戸歴史の道を歩く」神戸新聞総合出版センター、2002年 
「兵庫県の地名」平凡社、1999年
 秋里籬嶌「摂津名所図会」(版本地誌体系)臨川書店刊、1996年 館内閲覧
 「図説・源平合戦人物伝」学習研究社、2004年 
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年 
現代語訳「義経記」河出文庫、2004年

 

 

 

 

 

 

 



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木曽義仲を滅ぼした源範頼・義経軍は、二手に分かれて平氏追討に出発し、
丹波路から一ノ谷に向かった義経は、三草山(加東市)で平氏軍を撃破しました。
この時、敗走する平氏を追う義経の軍勢が小野市を通過したといわれ、
市南部の樫山町には、義経ゆかりの伝説と旧跡が残っています。



最寄りの神戸電鉄樫山駅

義経の腰掛け石は、駅前の旧道から約100m北西にある
民家の間を右側に20mほど入った藪の中にあります。





義経の腰掛石 神戸電鉄樫山駅の西方にある大きな石です。

義経がこの石の上に腰をかけて 一休みしたといわれています。

源平合戦の頃(平安時代末期)、社町の三草とりでを落とした源義経一行は
神戸市一ノ谷へ向かう途中、樫山に立ち寄りました。
樫山町にはあちこちに義経の言い伝えが残っており、
この石も義経が腰掛けてひと休みしたと言われています。
また、同町では、源行家と平教盛が戦ったとも言われています。(説明碑)



義経が老女にもらったハッタイ粉を食べて坂道を登ったと伝わる粉喰坂。
はったい粉をもらった義経は、あまりに美味しかったので、
「これからお前の家は粉喰(こくい)と名乗るがよい。」と言い、
以後、このおばあさんの家は、「粉喰(国位)」と名乗ったという。


源平合戦のとき、平家追討の命を受けた源義経は三草山より
一ノ谷へ向かうためこの坂にさしかかった。
行会った老女に道を問い、空腹のため食物を乞うた。
老女は麦をいぶして作ったハッタイ粉を差し出した。
義経らはその粉で腹を満たし、 近くの湧き水で喉を潤し坂道を登った。
以後、この坂を「粉喰坂」、湧き水は
「亀井が淵」と言い伝えられている。(説明碑)



義経一行がはったい粉をご馳走になり飢えをいやして進軍したという粉喰坂。
 竹やぶと雑木に覆われた細い道が続いています。
樫山町から三木市鳥町へ通じる道です。 

 
亀井が淵 こくい坂から山際へあぜ道を辿ると、
直径2m余のくぼ地に湧き水があります。

この湧き水は、当地にやってきた源義経の家臣の亀井六郎という
弓の名手が山麓めがけて矢を放ったところ、
不思議なことに岩間より湧き出したとされています。
この湧き水で喉を潤した義経一行は一ノ谷へ出陣したと伝えられ、その後、
この話は謡曲「清房」にもとり入れられています。また、当地では住吉神社の
神事や大峰山詣の際にはこの湧き水で身を清めたとのことです。(説明碑)

亀井六郎重清は鈴木三郎重家の弟です。重清が弓の名人だったことや
頼朝から領地を与えられていたにもかかわらず重家は、義経の危急を知って
高館に駆けつけ、兄弟とも衣川の戦いで討死したことが『義経記』に見えます。
亀井氏は紀伊の国の豪族、熊野社の禰宜となり鈴木氏と称します。

 
樫山町公民館(樫山町401)に隣接して薬師堂があり、
水路を挟んで国位田碑が建っています。

義経から年貢の免除をうけたこと を示す石碑です。

この石碑には「国位免祖地源御守護神」と記されています。
一ノ谷へ向かう途中、ここ樫山で休んだ源義経一行は、
付近に住むおばあさんから、ハッタイ粉を食べさせてもらい、
一ノ谷を落すことができたそうです。義経は、勝利のお礼に
六畝歩の田と永代に渡る年貢の免除を与えたとのことです。
この付近にその田があり、年貢の免除は
明治九年(1876)まで続いたそうです。(説明碑)
『アクセス』
「こくい坂と亀井ヶ淵」 小野市樫山町 神戸電鉄樫山駅南西約500m
「国位田碑」小野市樫山町 (集落の中心にある樫山町公民館傍) 
『参考資料』
「兵庫県の地名」平凡社、1999年 
NHK神戸放送局編「新兵庫史を歩く」神戸新聞総合出版センター、2008年 
「国史大辞典」吉川弘文館、平成4年 現代語訳「義経記」河出文庫、2004年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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平家は四国の武士団を配下に従えて旧都福原に戻り、
西の一ノ谷に城郭を構え、東の生田の森を
大手の木戸口とするまでに勢力を挽回しました。

これに対して源氏軍は二手に分かれて都を出発、
搦手を攻める義経軍は京から大きく迂回して丹波路を進み、
通常なら2日かかる行程をほぼ1日で駆け抜け、三草山麓の東方
小野原(現、兵庫県丹波篠山市)に陣を布きました。

平家方は、義経軍に備えて平資盛(すけもり)を大将軍に
小松家四兄弟が三草山西麓に陣を張り、その行く手を遮断しました。
三草山は丹波と播磨の国境に近い交通の要衝に位置し、険しい山や
深い谷に囲まれているとともに、周辺の福田荘は平氏の荘園であったと見られ、
平氏が地の利を得るこの場所が防衛拠点として選ばれたようです。

義経は頼朝の代官として付き添っていた土肥実平(どひさねひら)や
田代信綱らを集めて軍議を開いた結果、夜襲を仕掛けることになりました。
それは夜半、小野原の民家に火をかけ、三里(約12㎞)の山中を
この明りを大松明として漆黒の闇の中を進むという無謀な計画でした。

義経の軍勢によって放たれた火がたちまち周辺の山野や民家に燃え広がり、
突然鬨の声とともに源氏の軍勢が襲い掛かると、「合戦は明日だろう」と
信じ熟睡していた平氏軍は、慌てふためいて敗走しました。

義経軍は義仲との合戦を終え、義仲を滅ぼしたばかりで疲労しており、
到着した日の夜半にまさか攻撃を仕掛けてくるとは
平氏諸将は誰一人思いもせず、意表をつかれてたちまち大混乱に陥り、
富士川や倶利伽羅峠での惨敗を再現することになりました。

平資盛・有盛・忠房は面目ないと思ったのか、戦場を逃れ
加古川沿いに南下して高砂より海路で屋島に渡り、
師盛(もろもり)はやっとのことで福原の本陣の許へ戻りました。
この時、師盛はわずか14歳でした。

現在、三草山周辺には、義経伝説とともに「御所谷(平家谷)」や
「御所谷新池」の名が残り当時をしのばせています。

平家軍が陣を布いたとして上鴨川から馬瀬に1キロほど進んだ辺りを
御所谷とか平家谷と呼んでいます。(「加東市観光協会義経伝説ルート」)

平家本陣跡モニュメントは、馬瀬から三草山登り口
(加東市山口)の方へ下ったところにあります。

三草山の西方に布陣した平家は、守備に有利な位置に
兵をそれぞれ配置したようです。
御所谷(加東市馬瀬) 御所谷新池(御所谷の南側、加東市馬瀬御所谷)

佐保神社は三草山合戦後、義経が軍兵を集めて体制を立て直したという場所です。

社交差点

佐保神社は北播磨有数の神社として知られ、「社町」は当社の門前町として発展してきました。

北播磨有数の大社、佐保神社の瑞神(ずいじん)門 
 二階建ての立派な門が参拝者を出迎えてくれます。

当社は「社」の地名の起源となった旧県社で、
『延喜式(えんぎしき)』神名帳に記す坂合神社とされています。

 能舞台と百度石
 
拝殿

稲荷社の鳥居、拝殿その背後に本殿、本殿左に明神社。

毎年10月の体育の日の前の土・日曜日に開催される秋祭りは、
北播磨地方三大祭のひとつに数えられ、
絢爛豪華な神輿・屋台・獅子舞などが奉納されます。

佐保神社近くにある山氏(やまうじ・やもり)神社には、義経御手植の松があります。
同社は佐保神社を当地に勧請奉斎した山氏一族の氏神です。

境内入口に月極駐車場の看板が立っていたので、
車は近くの喫茶店の駐車場に置かせていただきました。

「三草山合戦で勝利した義経が、社村の豪族多田将監の屋敷で一日だけ休み、
一ノ谷へ向けて出発したそうです。その時、今は山氏神社の境内になっている
多田屋敷の中に、義経が自ら植えたとの伝承の松があります。」
(「加東市観光協会義経伝説ルート」)



玉垣の中に建つ石標には、「九郎判官源義経公御手植の松」と彫られ、
傍に松の若木が植えられています。何代目の松でしょうか。

三草山合戦(平家本陣跡)    平師盛の墓(石水寺)  
鵯越から一ノ谷へ義経進軍(藍那の辻・相談が辻・義経馬つなぎの松跡・蛙岩)
『アクセス』
「佐保神社」 兵庫県加東市社777
JR加古川線「社町駅」下車、神姫バス社方面行きにて約8分「社営業所」下車すぐ。
車 中国自動車道「滝野社IC」から国道175号を南へ約2km、
社総合庁舎前交差点を左折(東進)約700m  駐車場 あり(50台)

「山氏神社」兵庫県加東市社772
 JR加古川線「社町駅」下車約3100m 
神姫バス社方面行きにて約8分「社営業所」下車徒歩約4分
『参考資料』
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館、2012年 県史28「兵庫県の歴史」山川出版社、2011年
「兵庫県の歴史散歩(下)」山川出版社、2006年 「兵庫県の地名」平凡社、1999年
「加東市観光協会義経伝説ルート」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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寿永2年(1183)都落ちした平家は、一旦九州まで逃れましたが、
四国・山陽の豪族たちを次第に従わせ福原(神戸市)にまで迫りました。

これに対して、平氏追討の院宣を受けた源範頼・義経率いる源氏軍は、
平氏が城郭を構える福原に向かいました。軍勢を二手に分け、
大手(生田森)を攻める範頼軍は、山陽道を海岸沿いに、義経軍は都の
西の七条口(丹波口)から老ノ坂(おいのさか)峠を経て丹波路を進み、
山中を迂回して搦手(一ノ谷)を目ざしました。平家はこのことを聞き、
平資盛、有盛、師盛らが三草山の西麓に陣を布き、防備を固めました。

寿永3年(1184)2月4日の早朝、一万余騎を率いた義経は丹波路を進軍、
二日の道のりを一日で駆け、丹波・播磨境の三草山の東麓、
小野原(現、兵庫県丹波篠山市今田町小野原)に辿り着きました。
これより三里(約12㎞)へだてて源平は東西に布陣し、
一ノ谷合戦の前哨戦が、三草山の山麓でくり広げられました。

『平家物語』では、大手範頼軍が五万余騎、搦手義経軍は一万余騎とありますが、
実際はそれぞれ一、二千騎にすぎなかったという。(『玉葉』2月4日条)

京都・丹波篠山方面から加東市社(やしろ)町へ車を走らせると、
国道372号線の右手に
(有)徳澤鉄工所の看板が見えてきます。

その左手前方に平家本陣跡モニュメント(兵庫県加東市上三草)があります。

屏風状の壁に三草山合戦の様子が描かれています。

三草山合戦
平家物語によると、一一八四年(寿永三年)二月、当地の南に位置する
三草山(標高四二四m)を舞台として、源氏と平家の合戦がおこなわれた。
源義経率いる軍勢一万余騎は、丹波路を下り、平資盛を中心として
三草山の麓に守備する約三千騎の平家軍陣地を夜襲した。攻撃は明日であろうと
油断していた平家方に対し、数の上でも勝る源氏軍は一挙に陣を打ち破り、
資盛は讃岐国屋島へ敗走し、義経はその後鵯越へと向かったという
竣工 平成6年3月(モニュメント傍の説明碑)

 


義経軍は一万余騎で三草山の東、小野原に布陣。平資盛をはじめとする
三千余騎の平家軍が西側に布陣したとの情報を得た義経は、
戌の刻(午後八時頃)に土肥次郎実平を呼んで相談をする。
実平の傍らに控えていた田代冠者信綱が夜討を主張し、実平も同調する。
暗さを案じた一行は小野原の在家、野山に火をかけ、昼のような
明るさの中を三里ほど進み、平家一行と対戦する。(『平家物語絵巻)』)
土肥次郎に相談する義経(右手床几に座る)

 土肥実平(どひさねひら)は、現在の湯河原町、真鶴町を本拠としていた武将で、
治承4年(1180)、源頼朝の挙兵以来の腹心的存在です。
石橋山の戦いで大敗した頼朝を真鶴から安房へ渡らせた功によって頼朝に重用され、
義経・範頼が平家追討使となってからは、京都における頼朝の代官となっています。

三草山登山道入口⇒

古くから、三草山の山麓をはしる丹波街道(国道372号線)は、
丹波・播磨の国境の 位置にあったため、しばしば合戦の舞台となりました。
もっとも有名なのが 『平家物語』が語る三草山合戦です。


三草山は播磨小富士ともよばれ標高423.9m、義経が平資盛を夜半に襲撃した
「三草山合戦」の舞台として有名ですが、実際に戦場となったのは
山麓の小野原(丹波篠山市今田町小野原)から社町に通じる山道だったようです。

昭和55年に三草山遊歩道が完成し、畑・三草・鹿野の三つの登山コースには、

それぞれコース案内板、トイレ、駐車場が整備されています。
一番距離の短い畑コースを登りました。



少しし登ると丸太の急階段がありますが、5合目付近からはゆるやかな傾斜です。


クサリ場を過ぎると三草山の稜線が見えてきます。

 

 

三草山城趾 三草山は播磨平野の北東隅にあり、山麓をはしる街道は、古くから、
播磨と丹波を結び京の都への要路であった。寿永三年二月、平家追討のため、
源九郎義経の率いる一万余騎は、丹波小野原の里に布陣し、夜半、
民家や山野に火を放ち、三草三里の山中を駆け抜け、一挙に平家の陣に突入した。
三草山の西の山口に陣取る小松三位中将資盛、左中将有盛など平家一門七千余騎は、
不意の夜討ちに弓矢を取るいとまもなく、もろくも、屋島をさして敗走していった。
これが世にいう「三草合戦」と「平家物語」などの伝えるところである。
その後、建武三年、赤松出羽守則定がこの地に山城を築いた。
嘉吉元年の騒乱のとき、三草口に赤松方の将宇野能登守国祐が配置され、
また、「嘉吉の乱」の後にも、赤松満政、則尚が三草山城で山名方の軍勢と
一戦を交えて敗れたことなど、三草山にまつわる歴戦の史である。
  新社町発足二十五周年記念事業として、清水・東条湖県立自然公園内のこの地に、
「三草山遊歩道」を新設し、住民こぞって郷土の歴史的遺産を保存し、
学園都市社町のシンボルとすべく、ここに碑を建立するものである。
昭和五十五年四月 三草山に遊歩道をつくる会長 社町長 石古勲(説明プレート)

 山頂からは360度に広がるパノラマの景色を見渡すことができます。

 
 山頂にある三草山神社には、京都から勧請した菅原 道真が祀られています。
「三草山城臺(だい)標」と記されています。

源義経一ノ谷へ出陣(七条口・老ノ坂峠・那須与市堂・義経腰掛岩)  
義経進軍三草山合戦から一ノ谷(佐保神社・山氏神社)  
『アクセス』
「三草山」兵庫県加東市上三草
畑コース 登山道を1時間ほど歩くと山頂に到着します。
お問い合わせ 加東市観光協会 0795-48-0995
加東市商工観光課 0795-43-0530
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年 近藤好和「源義経」ミネルヴァ書房、2005年 
「平家物語絵巻」林原美術館、1998年 「平家物語図典」小学館、2010年
「兵庫県大百科事典」神戸新聞社、昭和58年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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JR西脇市駅の近くに「猪早太(いのはやた)供養碑」があります。
猪早太の末裔によって建てられ、
現在もその一族の人達により供養が続けられています。



JR西脇市駅前広場から通りへ出て、JR加古川駅の方向へ少し進みます。



本家の敷地内に建つ猪野早太の供養碑。

猪早太之塔
背面には「昭和四年五月 後裔長井伊作建」と刻まれています。
撮影していると、分家の方が通りかかられて
お声をかけていただき、お宅へ案内して下さいました。

供養碑の近くにある猪早太のご子孫のお宅の
仏壇を拝ませていただきました。お仏壇に祀られているお位牌。

源頼政の郎党猪早太(太田伊豆八郎廣政の息)は、多田源氏の支流です。
遠江国(静岡県)猪鼻湖(浜名湖の支湖)西岸または
近江国猪鼻(滋賀県甲賀市)を領したことから本姓は猪鼻という。
江戸時代の地誌『播磨鑑』によると、播磨国野村(現、兵庫県西脇市)の産とされます。
頼政の墓がある長明寺の川向うにある野村付近一帯も頼政の所領で、
猪早太は野村に住んだといわれています。


『平家物語』は、頼政が宮中で怪鳥鵺を射おとした時、
猪早太がこれにとどめを刺した。と語っています。

西脇市の高松山長明寺の本堂に頼政の鵺退治の絵馬が掲げてあります。







近衛天皇の御代、丑の刻(午前2時頃)に東三条の森の方から黒雲がわき立って
御殿の上を覆い、天皇が脅え苦しむことがありました。
目にも見えない変化の物を退治することを命じられた頼政は、深く信頼している
家来の猪早太に黒母衣を背負わせ、ただ1人連れていきました。。

母衣(ほろ)とは後方から矢などを防御するため、
鎧の背に袋のような布をつけて風で膨らませるもの。

頼政は山鳥の尾羽根に鋭い矢じりをつけた2本の矢と滋藤(しげどう)の弓を携えて
紫宸殿の広庭に控え、変化の物が現われるのを待ちました。

承明門より見る紫宸殿と広庭。 

あえて矢を2本持ったのは失敗した時、残った1本で
「変化の物を討ちとることのできるのは、頼政だけです。」と
自分を推薦した源雅頼(まさより)を射抜くためです。
頼政は射損じて、生き恥をさらすくらいなら潔く自刃しよう。
その代わり雅頼も生かしてはおかないぞという
強い覚悟を胸に秘めていたのです。

真夜中、いつものように東三条の森の方から黒雲が湧き上がり
御殿の上にたなびき、雲の中に怪しい物の姿があります。
頼政が南無八幡大菩薩と念じて黒雲目掛けて矢を放ち、落ちるところを
猪早太がさっと走り寄り取って押さえ、続けさまに刀で九たびまで刺しました。
火をとぼして見ると、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、
手足は虎の姿で鳴く声は鵺に似ていました。

頼政は褒美に「獅子王」という剣を賜った時、左大臣藤原頼長に
歌を詠みかけられて即答し、
文武両道の達人ぶりを発揮しました。

『平家物語』ではこの後、二条天皇が鵺という化鳥に悩まされた時も、
暗闇の中、鏑矢の音で鳥を驚かせ、その鳴き声で所在を確かめ見事射落とし、
宮中が沸きかえった様子を描き、頼政の傑出した弓技を強く印象づけています。
 亀岡の頼政塚(源頼政の子孫)
宇治川の合戦で自刃した頼政の亡骸を、猪早太が
頼政の領地矢代荘に持ち帰り葬ったという。

また『日本人名大事典』によると、「猪早太が頼政の首を収め、
頼政の領地下総国古河(こが)に到りこれを葬る。
(一説には下河辺行平これを保管して東下すと)」とあります。

そこで源頼政の領地下総国古河を検索してみました。
「頼政神社茨城県古河市錦町9-5
正一位頼政(よりまさ)大明神といい、源三位(げんざんみ)頼政が
祀(まつ)られている。治承4年(1180)、源頼政は
平家と宇治で戦ったが、利あらず自刃した。
そのとき従者に遺言して「我が首を持ち諸国をまわれ、
我れ止まらんと思う時、必ず異変が起きよう。
その時その場所へ埋めよ」といった。
従者は、諸国をめぐって下総国古河まできて休息した。
再び立とうとしたが、その首が急に重くなって持ち上がらなかった。
不思議に思ったが、遺言どおりその地に塚を築いた。
これが頼政郭だという。 この場所は古河城内南端にあたり
竜崎郭(たつざき ぐるわ)ともいったが、
明治時代末に渡良瀬川改修工事のため
削り取られて川底になってしまうことから、
現在の地に移された。その時、神社跡から古墳の副葬品と思われる
金環・管玉(くだたま)・小玉・矢の根・大刀の断片が発掘され、
現在は社宝として保存されている(市指定文化財)。」
(茨城県古河市HPより転写しました。)
『アクセス』
「猪早太供養碑」兵庫県西脇市野村 
JR加古川線の西脇市駅下車約2分
『参考資料』

 富倉徳次郎「平家物語全注釈(上巻)」角川書店、昭和62年 
新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
「静岡県の地名」平凡社、2000年「日本人名大事典」平凡社、1990年
「日本人名大辞典」講談社、2001年 別冊太陽「平家物語絵巻」平凡社、1975年
「源三位頼政公ゆかりの歴史の里見て歩き」源三位頼政公奉賛会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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西脇市の長明寺周辺は「頼政公ゆかりの里」として整備され、
和歌の名手としても知られた頼政を偲ぶ歌碑の路や
頼政が使ったという矢竹が残っています。

源頼政(1104~1180)は歌人としても知られる仲政(正)の子で、
酒呑童子退治で武名を馳せた頼光の流れを汲む摂津源氏の武将です。
保元の乱では、後白河天皇方に与して勝利を得、平治の乱では初め
同族の源義朝の陣営に加わりましたが、機を見て平清盛に味方して
勝利に貢献しました。以後は二条・六条・高倉天皇に仕え、
源氏として唯一人六波羅政権下で生きのびることになります。
武人でありながら、優れた歌人でもあった頼政の和歌は、
『勅撰和歌集』や『源三位頼政集』に多く残っています。

以仁王の平家打倒の挙兵計画は露見し、宇治橋の戦いで
頼政は敗死しましたが、この事件が源平争乱の幕開けとなりました。
以仁王の令旨を受けた源頼朝・木曽義仲は、まもなく伊豆・木曽で挙兵し、
頼朝が鎌倉幕府を開き中世の到来を告げました。
頼政はその口火を切る立役者となったのです。

頼政は77歳で自害し、その介錯を渡辺長七唱(ちょうしちとなう)が務め、
首を石にくくりつけ宇治川の深みに沈めました。
当時、唱は摂津国渡辺(現、大阪市中央区八軒屋付近)を本拠地とした
渡辺党の代表者で、すでに出家した身でした。

渡辺党は平安時代末期より摂津渡辺を本拠地とした武士団で、
渡辺氏(嵯峨源氏系)と遠藤氏(藤原氏系)の2つの家系がありました。
渡辺氏は、渡辺番(つがう)、渡辺緩(ゆるう)などの一字の名を用い
「渡辺一文字の輩(ともがら)」とよばれています。
この一族は源頼光の四天王の一人渡辺綱(つな)を祖とし、
代々摂津源氏に仕え頼政軍の中心的戦力として、保元・平治の乱を戦い、
宇治川合戦にも平氏の大軍に対して頼政以下、
省(はぶく)・授(さずく)・競(きおう)らが勇猛果敢に戦いました。

遠藤氏は渡辺氏と姻戚関係を結びながら渡辺党を構成し、
普通に二字名を名のっています。源頼朝と非常に密接な
関係をもった遠藤盛遠(文覚)が知られています。

源姓渡辺、遠藤姓渡辺両氏は伝統的に弓矢の名手の家柄であったため、
メンバーの多くが渡辺に基盤をもちながら、一方では滝口として
宮中の滝口近くで宿直番(とのいばん)として天皇に仕えました。

本堂の向かって左に建つ「鵺退治の由来」の駒札と歌碑。
♪深山木の その梢とも 見えざりし 
桜は花に あらはれにけり  源三位頼政公
頼政祭第三十回記念 平成二十一年四月吉日
頼政祭実行委員会 重春まちづくり協議会建立
西脇市長 来住壽一書
 
(深山木のなかにあって見えなかった桜の梢であるが、
春がおとずれて花を咲かせ、はじめて桜とわかったことだ。)

近藤師高(もろたか)・師経(もろつね)兄弟
(後白河院の近臣西光の息)は、加賀国(石川県)の国司と目代でした。
この兄弟が延暦寺を総本山とする白山の鵜川(うがわ)寺の
堂宇を焼き討ちしたことをきっかけにして、怒った比叡山の
大衆(だいしゅ)が日吉(ひえ)社の神輿を担いで入京し、
頼政軍と対峙した時、三塔一の口利きとして知られた老僧が進みでました。
頼政卿は「深山木のその梢とも見えざりし… 」の和歌を詠んで
近衛天皇の御感(ぎょかん)にあずかったと承っている。
それほど風雅のたしなみのある人にどうして恥辱を与えられようか。
引き返そう。と提議したところ、大衆はもっともだと賛成した。という
逸話があります。(『平家物語・巻1・神輿振(みこしぶり)』)

本堂裏手の坂を上り、石段を上がったところに頼政の墓所があります。
「源三位頼政公墓所」と刻まれた碑。

石段傍に歌碑が建っています。
源三位頼政公辞世句 ♪埋もれ木の 花さくこともなかりしに
みのなるはてぞ 哀れなりける   榎倉香邨筆
(わが生涯は埋れ木のようで、花の咲くようなこともなかったが、
その最後もまたいたましいものである。)

急所の左の膝頭を射られて平等院に退いた頼政は、
渡辺長七唱(となう)を呼び寄せ「わが首をうて」と命じました。
しかし唱は主の首を生きながらうつことの悲しさに、
「とてもこの身につとまるとも思えません。ご自害なさったなら、
そのあとでお首を頂戴いたしましょう。」 と言うので西に向かって手を合わせ、
声高く十度念仏を唱えて最後の歌を詠みました。(『巻4・頼政最後』)

 墓地前を過ぎて山の方に向かうと、「高松頼政池」と名付けられた溜池があります。









♪花咲かば 告げよと言ひし 山守の
 来る音すなり 馬に鞍おけ  源三位頼政公
頼政祭第二十回記念 平成十一年四月吉日
頼政祭実行委員会建立 西脇市長 内橋直昭書

(桜の花が咲いたら真っ先に知らせよと申しつけておいた
あの山守の馬蹄の音が近づいてくる。
いざ馬に鞍を置いて出で立とう。鞍の用意をいたせ。)
命令形の「馬に鞍おけ」がいかにも武人らしく爽快です。



頼政が播磨地頭として高松町を治めていたころ、矢の材料となる
良質の竹が高松山に群生していました。
頼政はこの矢竹を気に入り、ほとんど自分の矢はそれを使ったという。
頼朝が鎌倉幕府を開いてから、本格的に全国におかれるようになりますが、
平氏が台頭する以前から、地頭という役職はありました。

高松谷川に架かる鵺野橋を渡ります。

頼政が崇拝したという八幡神社



白玉稲荷大明神の裏手の矢竹、昔この辺に矢竹藪があり、
扶竹(ふちく=ふたまた竹)が生えていました。

今はまばらに生えている程度です。
源頼政の墓・鵺退治像(長明寺1)  
『アクセス』
「長明寺」 兵庫県西脇市高松町504-1
 JR加古川線「西脇市」駅で下車、徒歩約20分

 『参考資料』
加地宏江「中世の大阪 水の里の兵たち」松籟社、1984年
 富倉徳次郎「平家物語全注釈(上巻)」角川書店、昭和62年 
多賀宗隼「人物叢書 源頼政」吉川弘文館、平成9年 
上宇都ゆりほ「源平の武将歌人」笠間書院、2012年
 塚本邦雄「王朝百首」講談社文芸文庫、2012年 
「源三位頼政公ゆかりの歴史の里見て歩き」源三位頼政公奉賛会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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西脇市北西部にある高松山長明寺(高野山真言宗)は、寺記によると、
白雉(はくち)年間(650~654)に法道が開基したと伝えています。
かつては今よりも東方の金城山(古高松)にあり、坊舎が軒を並べていましたが、
室町時代、嘉吉の乱の兵火にあい伽藍僧坊すべて焼失し、寺地を現在地に移したという。
今は宝光院・宝仙院・仲正院の三ヶ寺と多くの坊屋敷跡があり、往時を偲ばせます。

頼政は摂津・伊豆など各地に荘園をもっていました。
この地方もその所領のひとつで、西脇市の高松には
頼政に関わりのある地名や伝承が数多く残っています。

平治の乱では、当初頼政は源義朝側についていましたが、
最終的には清盛に味方して勝利に貢献しました。
このことから清盛の信頼を得て、源氏としては破格の従三位にまで昇進し、
「源三位(げんざんみ)頼政」とよばれました。
しかし平家の専横を良しとせず、平家打倒に立ち上がります。
計画はすぐに露見し、武運つたなく宇治川の戦いで敗れました。
自害する際に郎党の渡辺長七唱(ちょうしちとなう)に自分の亡骸を
播磨国高松山の麓に葬るように命じ、
その遺言にしたがって塚と阿弥陀堂が造られたと伝えています。
江戸時代の地誌『播磨鑑(はりまかがみ)』は、
長明寺本堂の裏山に頼政塚があると記しています。

天正11年(1583)には、羽柴秀吉の家臣小堀正次は寺領37石を寄進し、
池田輝政の家臣中村主殿助(とのものすけ)正勝が
寺領3町5反余を寄進しています。

戦国時代、この地は豊臣(羽柴)秀吉によって平定され、
秀吉の天下統一の後には兵庫県のほとんどが秀吉の領地となります。
江戸時代になると、関ヶ原合戦に功のあった
池田輝政が播磨国を与えられました。

北はりま田園空間博物館(頼政公ゆかりの里を歩く頼政公と高松)によると、
「頼政は宇治平等院の戦いで敗れ76歳の時自害、一旦宇治平等院に葬られますが
遺言に従って郎党により遺骨の一部が長明寺阿弥陀堂の近くに葬られました。
時たって慶長年間(1600年頃)池田輝政が長明寺境内に
溜池の造成を命じたことで墳墓と石槨が破壊、その折、
頼政の人骨とひと振りの剣が発見されおおよそ100年後に
円形古墳上部に頼政公の墓が再建されました。」とあります。

最寄りのJR加古川線「西脇市」駅

⇒長明寺









山門の両脇にたつ仁王像



正面の本堂には、本尊の十一面観世音菩薩像が祀られています。




『平家物語・巻4・鵺』には、鵺が夜ごと宮中に出没し天皇を悩ませていましたが、
弓の名手頼政が見事射落としたという話を二つ載せています。

本堂の向かって左手に阿弥陀堂があります。



源三位頼政公鵺退治之像

昭和五十五年五月二十五日 源三位頼政公奉賛会による
頼政公八百年記念事業として鵺退治の勇姿を再現した像と
源三位頼政公像建立由来のプレート

毎年4月29日には頼政公をしのび地元住民により「頼政祭」が開催されます。

頼政の鵺退治は二度あり、一つは怪獣、一つは鵺という化鳥(けちょう)です。





明治年間に近隣篤志家の寄進による玉垣。

「源三位院院殿建法澤山頼圓大居士」
墓碑は部分ごとに年代が違うようで、
墓石の基部には、元禄13年再建立と刻まれています。

頼政の側室菖蒲(あやめ)御前の供養塔
源頼政の歌碑・矢竹(長明寺2)  
源頼政の史跡(平等院扇の芝・頼政の墓)  
『アクセス』
「長明寺」 兵庫県西脇市高松町504-1
 JR加古川線「西脇市」駅で下車、徒歩約20分
 『参考資料』
「兵庫県の地名」平凡社、1990年 
富倉徳次郎「平家物語全注釈(上巻)」角川書店、昭和62年
新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
「源三位頼政公ゆかりの歴史の里見て歩き」源三位頼政公奉賛会
NPO法人 北はりま田園空間博物館

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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