平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




緒方三社の一宮八幡社、二宮八幡社は緒方川の右岸、三の宮八幡社は左岸にあります。

緒方三郎惟栄は緒方郷を治めていた宇佐神宮の政策に不満を持ったのか
大胆にも八幡宮総本山である宇佐神宮の焼き討ちを行いました。
しかし、その時ケガを患ったのをきっかけに祭祀(さいし)に目覚め、三つの神社を
建造したと言われています。そのひとつが惟栄自身も祭られている二宮八幡社です。
この三社の祭神は親子同士で、年に一度だけ再会し楽しい一日を過ごします。
これが旧暦の十月中旬に行われる勇壮な川越し祭りです。
(二宮八幡社説明板より)

川越し祭りは、二宮八幡社の境内に一宮社、三宮社の神輿が集います。
三宮社だけが緒方川の左岸にあるため、神輿が松明に先導され
若者たちにかつがれ、川中にたつ鳥居をくぐって川越しを行います。
各社の祭神は、一宮八幡社が父である仲哀天皇、三宮八幡社が母である神功皇后、
二宮八幡社が子である応神天皇です。
毎年、11月の中旬から下旬にかけ2日間行われ、初日の夜に一宮社神輿の行幸、
三宮社神輿の川越しが行われて二宮社に集まり、2日目には三社の神輿ともに
お浜出、直会などの諸行事を執り行い神楽や宴が催されます。
その夜、一宮社の神輿は山を上り、三宮社の神輿は川を渡って元宮に戻ります。
現在は2日間ですが、江戸時代には旧暦の10月7日から15日まで盛大に行われました。
二宮八幡社は原尻の滝近くにあり、滝のすぐ上流に一の鳥居が建っています。



「二宮八幡社」豊後大野市緒方町原尻宮下 祭神は応神天皇・緒方惟栄・大野泰盛

神門


 拝殿

 拝殿奥に本殿

二宮八幡社の社殿傍から一宮八幡社に続く山道があります。
一ノ宮八幡宮入口 これより80㍍の道しるべ



「一宮八幡社」 豊後大野市緒方町久土知 祭神は仲哀天皇

神門

あいにく修理中 



拝殿その奥に本殿 



奉納絵馬

豊後大野市歴史民俗資料館入館パンフレットには、
挿絵が描かれ緒方三郎惟栄絵馬(一宮八幡社)と書かれていますが、
それらしい絵馬は見あたりません。

『歴代鎮西要略』によると、「源頼朝から大友能直(よしなお)が豊後守護職
並びに鎮西奉行に任じられ建久6年(1195)に入国の際、その先鋒を務めた
能直の重臣古庄重吉らとこれに反対した緒方三郎惟榮(これよし)の一族である
大野九郎泰基(やすもと)、惟栄の兄臼杵(うすき)二郎惟隆が戦い(神角寺合戦)
泰基は神角寺(じんかくじ)で自害し、惟隆は降参した。」とあります。
緒方惟栄滅亡後、大野氏が豊後大神(おおが)一族の中心となりましたが、
九郎泰基の謀反で大野氏も衰退していきました。
そして頼朝の寵臣大友能直が守護職に任命され、鎌倉時代から桃山時代までの
400年間、豊後の支配は大友氏に移りました。
戦国時代の宗麟(そうりん)の時には、北九州6ヵ国の守護となりましたが、
日向にて島津義久との戦いに大敗し、豊後1国までに衰退、
さらに朝鮮出兵で失敗し改易されました。

平家追討に貢献した緒方惟栄の功績から、惟栄が豊後守護職に
任命されるべきでしたが、豊後最大の勢力を誇った
惟栄の名は歴史の表舞台から消えていきました。

大友能直が建久年間に豊後守護職並びに鎮西奉行に任命されたことは
学会で否定されている。(『源平の雄 緒方三郎惟栄』)とあり、
能直が守護職に任命されたのはもう少しあとのようです。
この段階の豊後守護は中原親能(ちかよし)で、能直が建久6年に豊後に
赴いたのが真実とすれば、養父中原親能の代官としてであろうといわれています。

緒方一族を討ち滅ぼしたあと、原尻の滝で洪水や暴風雨が相次ぎ、
泰基の霊の祟りではないかと恐れた能直は、
二宮八幡社に緒方惟栄と大野泰基の霊を祀ったとされています。

大友能直の母は波多野経家(つねいえ)の娘、父は相模古庄郷司の
近藤能成(よしなり)です。相模の豪族波多野氏と源氏は深い関係にあり、
一族の波多野義通の妹は源義朝の妾となり、頼朝の兄、
朝長(ともなが)をもうけています。平治の乱に敗れた義朝一行と共に
東国へ逃れる途中、朝長は深手を負い父の介錯により命を絶っています。

能直は、はじめ古庄(ふるしょう)氏を称し、次いで近藤を名のり、
のち母の姉の夫である中原親能の養子となり、中原能直と名のっています。
中原親能は幼少時から波多野経家に養育され、
のち頼朝の代官となり、義経のお目付け役として上洛しています。


母方の波多野経家には実子の実秀がありましたが、
実秀に子供がなかったので、外孫の能直に相模国足柄下郡大友郷を継がせ、
能直は大友能直と称しました。

能直の源頼朝落胤説は諸大友系図などによって広く知られています。
『九州治乱記』によると、能直の母は波多野経家の娘利根局で、
伊豆で頼朝に仕え頼朝の子を懐妊したため、局は姉婿の中原親能に下され、
そこで能直を生んだという。しかし『近藤系図』や
『大友系図』(群書系図)では、落胤説については記述されず、
能直の実父は近藤能成で、中原親能の養子となり大友姓を継いだとしています。
対して諸系図の中でも最も信憑性が高いとされる
『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』では、能直を頼朝の子として、
島津忠久・忠季兄弟とともに頼家、実朝と並び載せています。
しかし確証はありません。
『緒方三社川越し祭り』
 旧暦10月14日・15日に近い土曜日・日曜日に行われます。
お問い合わせ 豊後大野市緒方支所(電話0974-42-2111)
『参考資料』
「県史44大分県の歴史」山川出版社、1997年 渡辺澄夫「源平の雄 緒方三郎惟栄」第一法規、昭和56年
  湯山学「波多野氏と波多野庄 興亡の歴史をたどる」夢工房、2008年 
「大分県の地名」平凡社、1995年 鈴木かほる「相模三浦氏とその周辺史」新人物往来社、2007年 
本郷恵子「日本の歴史 京・鎌倉ふたつの王権」小学館、2008年



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緒方町には緒方三社とよばれる一宮八幡社、二宮八幡社、
三宮八幡社の三つの八幡宮が鎮座しています。

江戸時代後期に岡藩の唐橋世済(せいさい)が編纂した
『豊後国誌』には、治承2年(1178)に緒方惟栄(これよし)

三社とも建てたと記されていますが未詳です。

一宮八幡社の社伝によると、惟栄は宇佐八幡宮を焼き討ちにした際に流れ矢にあたり、
どうしてもこれを抜くことができません。そこで、自領に宇佐八幡を勧請して
150町を寄進することを誓ったところ矢が抜け傷もたちまち癒えたといいます。
緒方に帰った惟栄は、台地の上にある元宮八幡(緒方町大字宮尾)から矢を射て、
第一矢のあたったところに一宮八幡社、第二矢のあたったところに二宮八幡社、
第三矢のあたったところに三宮八幡社を勧請したという。

緒方三社は、緒方川に近い緒方盆地の中心辺りにあります。

緒方惟栄館跡から三宮八幡社に向かいます。



米どころ緒方町には、緒方川と平行に井路(灌漑用水路)が流れ、
古い土塀の民家や水車が並ぶ独特の景観をつくりだしています。










三宮八幡社は緒方平野を見下ろす高台にあります。

三宮八幡社 祭神神功(じんぐう)皇后 大分県豊後大野市緒方町上自在414番

晩秋に行われる「緒方三社川越し祭り」の時には、ここから三宮神輿が降りてきます。

高い石段の上にたつ神門

 

拝殿



拝殿の背後に本殿

江戸時代、三宮八幡社の境内から平安末期の銅経筒と古刀が出土しています。
刀は朽ちていましたが、経筒は形をとどめ銘文がありました。

それによると、永久3年(1115)4月18日、願主僧定長が父母孝養のために埋納し、
鋳師は橘是貞と記されていました。報告を受けた藩主中川久貞は
「父母孝養」の銘文に感激し、久貞の命で経筒は元のように埋められ、
その上に「古器を埋める」の碑が建てられました。
経筒は昭和42年に大分県指定文化財となり、現在は三宮社の氏子によって管理されています。
したがって、十二世紀はじめには三宮八幡社は緒方に勧請されていたと考えられます。
惟栄が勧請したという伝承はともかく、緒方荘の人々の崇敬を集めていた社でした。

石碑を建てた65年後、再び文字を書いた多数の白い小石とともに経筒を掘り出しました。
藩主中川久教は曾祖父と同様に経筒を掘り当てたことを喜び、
「白小石を埋める」の碑を建立しました。三宮八幡社の裏山に碑が前後に並んで建っています。

緒方町の南は祖母山地の峰々に連なり宮崎県高千穂町に接し、
西は阿蘇くじゅう国立公園の山並みに連なる竹田市に接しています。
緒方惟栄らは三万騎を率いて大宰府を攻撃し、平家方の軍と衝突し
大宰府を陥落させましたが、
なぜ緒方軍が大宰府を落とすことができたのでしょうか。
三万騎という大軍は誇張されているのでしょうが、
それは九重山系の裾野に広がる大草原地帯を駆けまわって養われた
強力な騎馬軍団と下関と並ぶ豊後水道で活動する
海賊衆の掌握にあったとされています。

天長3年(826)の太政官符には、「豊後大野(豊後大野市など)直入(竹田市など)
両郡、騎猟(きりょう)の児(じ)を出す。兵において要(かなめ)となす。」とあり、
はやくも豊後武士萌芽のきざしがみえます。やがて両郡は豊後武士団棟梁の
大神(おおが)氏を生みだし、平安時代中期より大野直入(なおいり)地方の
広大な原野が放牧や狩猟の舞台となり、登場してきたのが豊後武士団です。
源平合戦時の緒方惟栄を筆頭に大神氏一族は大野・直入・臼杵などに
分かれ強大な武士団を形成しました。

竹田市には、義経が頼朝との関係が悪化した時、
惟栄が義経を迎え入れようとした岡城跡があります。
この城は名曲「荒城の月」を生んでいます。
参考資料』
渡辺澄夫「源平の雄 緒方三郎惟栄」第一法規、昭和56年
 「大分県の地名」平凡社、1995年 
「大分県の歴史散歩」山川出版社、2000年
県史44「大分県の歴史」山川出版社、1997年



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豊後大野市は大分県の南西部に位置し、標高1700㍍の祖母(そぼ)山系を
源流とする大野川が流れ、別府湾に注いでいます。

緒方惟栄(よし)の本拠地、緒方町は豊後大野市西部の山間部にあり、
町の南部は祖母山系に連なり、大野川支流の緒方川が町内を流れています。
その流域に緒方盆地がひらけ、「緒方五千石」とうたわれた米どころとして知られています。

緒方惟栄(これよし・生没年不詳)は惟義、惟能ともいい、祖母(姥)岳大明神を祖と仰ぎ、
大蛇の末裔という伝説をもつ大神(おおが)惟基の子孫です。
惟基は大和国大神(おおみわ)氏が下向し土着したとも、宇佐八幡宮創始に関わった
宇佐大神(おおが)氏ともいい、代々大野郡の郡司であったと考えられています。

平氏の大宰府掌握後、惟栄は重盛(清盛嫡男)と主従関係を結び、
緒方荘の荘官から豊後武士団の棟梁となり、優れた指導力を発揮しますが、
九州に支配力を強めていた平家に反発し、頼朝挙兵後、重盛の家人でありながら
兵を挙げ、反平氏の中心的人物として目覚ましい活躍をしました。
緒方荘は祖母山北西一帯にあり、中世には108村を併せ持つ大領でした。

惟栄の故郷、緒方町に点在する緒方氏伝承史跡をレンタサイクルでご案内します。

JR緒方駅は無人駅です。

県道 502号線の三郎大橋北交差点西にファミリーマート緒方店があります。

さらに西へ行くと、館跡の案内板が見え、こんもりと茂る木立の中には、
石の祠や鳥居、大きな記念碑などがあります。

館跡は三郎大橋北交差点から西へ100㍍ほどのところにあります。

館跡の南端は、緒方川の北岸で断崖となり、北東部には軸丸川が緒方川に流れ込み、
天然の堀となっています。以前は西部にも堀らしきものがあったようです。


豊後大野市歴史民俗資料館に展示されている緒方三郎惟栄居館想像図、
緒方惟栄像を学芸員の方の了解を得て、撮影させていただきました。

とても小さな座像です

寿永2年(1183)大宰府に下った平氏が原田種直・山鹿秀遠らの軍事力を
背景
に勢力を取り戻すと、豊後守藤原頼輔(よりすけ)から平家を九州から
追い出すようとの命を受け、惟栄はすぐさま反平氏の旗色を強めます。
平家方も重盛の次男資盛(すけもり)に500騎の軍兵をつけ、
大宰府から豊後の緒方まで説得にやってきたのです。

「緒方三郎惟栄館跡 昭和四十七年九月二十九日町史跡指定
緒方三郎惟栄は、緒方荘の荘司で源平合戦の頃、豊後武士団の首領として
華々しい活躍をみせた。当時の緒方荘は、宇佐宮の荘園であり、緒方惟栄は、平重盛の
ご家人であったが、平家や宇佐宮の支配に強く不満を感じていた。平重盛の没後、
惟栄は反旗を翻し、寿永二年(1183)平家が都落ちし大宰府に至ったとき、
藤原頼輔の命により大軍を率い臼杵惟隆とともに大宰府を攻め、平家を追い落とした。
また、源氏が周防灘から豊後に渡り平家を攻める時、惟栄は源頼朝の命に従い、
兵船八十二艘を献上し平家討伐に大いに貢献した。
惟栄は、豊後の国衛機構を支配していたため、周防灘、豊後水道の制海権を
掌握することができ、容易に兵船を集めることができたのだといわれている。
その後、平家は壇ノ浦に追い詰められ、安徳天皇とともに滅亡した。
この功績により、惟栄は鎌倉幕府体制下では有力な御家人となり、
おそらく豊後の守護職に任じられたはずであった。ところが、
元暦元年(1184)七月、惟栄は臼杵惟隆等と共に、宇佐宮を焼き討ちし、
神殿の破壊や宝物、古文章の奪取、神官の殺害などの大罪を犯した。
年貢米未納入による宇佐宮との争いや、平家一返倒であった宇佐公通への
反感が原因と言われている。朝廷側は大いに驚き、神罰を畏れ、
緒方惟栄等を流罪に処し領地も没収することになった。
しかし文治元年(1185)十月突如として非常の赦しが発令された。
平家討伐に多大な貢献をしたための恩赦であろうといわれている。
この頃、源頼朝と義経の仲は決定的な破局をむかえていた。頼朝は義経討伐の
命令を下し、義経は後白河院に強要し頼朝討伐の院宣を下させた。
しかし義経に呼応する者はなく、やむなく九州に降ることを決心した。
義経は、院に対して豊後武士等に協力させるよう要求した。
緒方惟栄等の傑出した戦力を期待した上での要求であった。そして十一月六日、
惟栄は大物浦(現尼崎市)で義経を迎え豊後へ出発しようとした。
しかし、運悪く夜半から大風が吹き荒れ船団は壊滅してしまった。
義経は和泉浦に逃れ、惟栄等は捕らえられた。
文治二年十一月、惟栄は上州沼田荘(現群馬県沼田市)に配流された。
大蛇の子孫であると畏れられ、平家討伐におそるべき能力を発揮した惟栄は、
義経・頼朝の争いに巻き込まれ、あえなくその姿を歴史上から消してしまった。
大神姓佐伯氏系図によると、後に赦され佐伯荘に帰ったとされる。
また、伝承では、赦されて帰る途中、速見群山香郷で平家の崇りにより
落馬して死んだとも云われている。
なお、この地は古くから惟栄館跡と伝承されており、豊後国誌には
「緒方惟栄館跡緒方郷上自在田間二在リ」と記されている。緒方町教育委員会」



上自在の後藤圓次郎氏が発起人となり、波多野政男氏の撰文により
昭和12年5月27日海軍記念日に建立された「緒方三郎惟栄館趾之碑」



昭和51年5月27日に緒方洪庵の曾孫(ひまご)にあたる
緒方富雄氏(東大名誉教授・医学博士)ほか二名が発起人となり、
全国に散在する緒方一族を施主として宝篋印塔が建立されました。


緒方惟栄の後裔と称する人は全国に数多くあり、江戸時代末期の蘭学者、
医学者でもあった緒方洪庵もその一人です。

宝篋印塔の発起人・施主に見える緒方一族の名が記されています。

この地には明治26年有志によって建てられた緒方神社もありましたが、
大正年間に火事で焼失し、現在石鳥居だけが残っています。

 小祠には緒方三郎惟栄の石像が祀られています。

祠の背面には緒方村長はじめ近隣の村長の名前が刻まれています。

緒方惟栄顕彰碑には、旧緒方町元町長 元緒方会々長 故波多野正憲
国立遺伝学研究所所長 東京大学名誉教授 医学博 洪庵曾孫故緒方富雄
大分大学名誉教授文学博士歴史学者 故渡辺澄夫などの名が
緒方三郎惟栄の家紋「三つ鱗」とともに彫られています。



淡窓伝光霊流宗家 深田光霊氏の詩碑
 「一片(いっぺん)の孤忠(こちゅう)  至尊(しそん)に酬(むく)い 
英雄骨を埋(うず)む 此の丘原(きょうげん) 緒方氏族惟栄の事
 野草猶(な)留(とど)む 伝説の痕(あと)」

昭和55年11月吉日に建立された緒方惟栄八百年記念碑
平家一門都落ち(緒方惟栄)  
ご先祖は緒方三郎惟栄  
『アクセス』
「緒方三郎惟栄館跡」
大分県豊後大野市緒方町上自在340 豊肥本線JR緒方駅より西方へ

JR大分駅から特急電車が1日に2本ほど緒方駅に停車しますが、
あとは普通電車が1時間に
1本程度停車するだけです。ご注意ください。

「俚楽の郷 (りがくのさと)」豊後大野市緒方町馬場388-1
  JR緒方駅より徒歩10分 
 ℡0974-42-4822 
レンタサイクルの受付貸出を行っています。
1日:500円(保険料込) ◎電動アシスト自転車は200円増です。 休館日:火曜日
郷内には、地元の採れたて野菜をふんだんに使ったレストランが併設されています。

「豊後大野市歴史民俗資料館」豊後大野市緒方町下自在172
開館時間 9時から17時まで(入館は16時30分まで)
休館日 月曜日(祝日・休日の場合はその翌日)、
国民の休日、年末年始(12月28日から1月3日)
入館料 無料
 緒方駅から徒歩約9分 電話:0974-42-4141
『参考資料』
渡辺澄夫「源平の雄 緒方三郎惟栄」第一法規、昭和56年 
「県史44大分県の歴史」山川出版社、1997年

 

 




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摂社東宮(とうぐう)神社の傍から宇佐鳥居をくぐって上宮へ向かう長い石段は、
群生するイチイガシと楠に覆われています。
宇佐神宮では境内の原生林のことを社叢(しゃそう)とよび、
国の天然記念物指定の標柱がたっています。



宇佐鳥居は宇佐神宮独特の鳥居で額や額束(ガクヅカ)がなく、柱の上部に
黒い台輪が置かれているのが特徴で、境
内の鳥居は全てこの様式にならっています。

鎌倉の元八幡、元鶴岡八幡宮ともよばれる由比若宮の鳥居



西大門  
桃山文化の華やかな唐破風(屋根の湾曲した部分のこと)をした門で、
本殿や勅使門とともに宇佐神宮を代表する建造物の一つです。


西大門から上宮境内へ

縄に結んだ無数のおみくじ

左から春日神社、西中門、八子神社 
 西回廊奥にある春日神社は、一の殿である八幡大神の傍にある脇殿です。
祭神の天児屋根命(あめのこやねのみこと)は春日大明神ともいわれ、
神功皇后を助けたとされる神です。
右手の八子(やこ)神社は、八幡大神の八王子神を祀っています。
社殿の構えはなく、西回廊の楠に鎮まっています。

丘を上り詰めた上宮の屋根は檜皮で葺かれ、壮麗な建物は朱漆塗柱(しゅうるしぬりはしら)に
黄金の金具が打たれ、総本宮にふさわしい威容を誇っています。




左の一の殿、中央の二の殿、右の三の殿の順にお参りします。
神社の拝礼作法は、基本的に、「二拝二拍手一拝」ですが、
ここでは「二礼四拍手一礼」という独特なものです。


三つの本殿を取り囲む勅使門と左右に巡る廻廊。
鎌倉初期までは33年ごとに国家が造替を行ってきましたが、次第に困難となり、
現在の本殿は幕末の造営です。最近では昭和60年に改修されました。 

本殿は八幡造と呼ばれる古い建築様式を今に伝える貴重な建築物として国宝に指定されています。

八幡造は華麗です。建物が軒を接して前後に二棟がセットとなって並び、
中央の大きな金色の樋は共用です。後ろの建物を内院、前の建物を外院といい、
横から見ると屋根がM型となります。内院には御帳台があり、
外院には椅子が置かれ、いずれも神座となっています。
御帳台は神様の夜のご座所であり、椅子は昼のご座所と考えられ、
神様が昼は外院、夜は内院に移動します。そういう二棟セットの社殿が三つあります。

一の殿・二の殿・三の殿が南面して横一列に並び、
一の殿には八幡大神(応神天皇)、二の殿には比売大神(ひめおおかみ)、
三の殿には応神天皇の母である神功皇后が祀られています。

宇佐の地は畿内や出雲同様に早くから開けたところで、
神代に比売大神が大元山とも御許山(おもとやま)ともよばれる山に天降り、
三個の巨石に宿ったとされ、宇佐神宮成立以前から
宇佐国造(くにのみやっこ)である宇佐氏がこの山を氏神として祀っていました。

二の殿

三の殿


  南中楼門(みなみちゅうろうもん)とも勅使門ともよばれる門は
皇族や勅使が通る門で、宇佐神宮を象徴する建造物の一つです。
門の左右に高良大明神、阿蘇大明神の二神が御門の神として祀られています。
八幡神が応神天皇と同一視されるようになり、
宗廟(皇室の祖先を祀った霊廟)
として皇室の信仰を受けるようになりました。

御神木の大楠


上宮から若宮坂を下り若宮神社へ

若宮神社には八幡神(応神天皇)の若宮の仁徳天皇と4人の皇子を祀り、
祭神の5体の神像は国の重要文化財に指定されています。除災難厄難の神様です。

境内入口の神橋(しんきょう)近くにある「神武天皇東遷顕彰碑」
昭和15年、現在の南宇佐一帯の地域が神武天皇聖蹟に指定されました。

『古事記』『日本書紀』によれば、天照大神の命を受け、孫のニニギノミコトは
八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八尺勾玉(やさかのまがたま)の
三種の神器と稲穂を持ち、高天原(たかまがはら)という天上の国から
日向の高千穂の峰に降り立ちました。これが天孫降臨による日本国の始まりです。
そこに宮を建てて住み、初代天皇とされる神武天皇の代になって天下平定の旅にでました。
日向から船出し次々と荒ぶる神を征伐服従させ、瀬戸内海を経てヤマトに入り
都を造ったとされています。これを神武東征といいます。

宇佐は日向を発った神武天皇一行が上陸した地です。
豊後水道の難所を通り抜けた一行を
宇佐国造の祖である
菟狭津彦(ウサツヒコ)とその妹菟狭津姫(ウサツヒメ)が饗応するため、
一柱騰宮(アシヒトツノアガリミヤ)を建てご馳走を奉った後、
一行は筑前の岡の水門(遠賀川河口)に向けて出発し、
岡田宮(北九州市八幡西区)で1年過ごしました。

説明碑には「一柱騰宮跡は寄藻川に架かる呉橋の南側の高台と伝えられ、
この一帯は騰隈(とうのくま)とよばれています」と刻まれています。

「宇佐八幡神輿」(碑文より)
天平勝宝4(752)年 聖武天皇の進めた東大寺大仏造立事業が完成しました。
八幡神はこの事業を支援したため、輿に乗って入京し完成間近の大仏を拝しました。
これが神輿の起源とされています。
宇佐八幡神輿フェスタは、1250年の時空を超えて八幡神輿の大仏参拝を再現し、
「神仏習合と神輿発祥の地・宇佐」を全国にアピールすることを目的に計画されました。
2002年10月5日、児童生徒を含む宇佐市民など約500人の行列が、
宇佐八幡神輿を奉じて東大寺を参拝しました。多くの人々の協力によって、
歴史に残る大事業が見事に達成されたことをここに記します。
2003年8月2日 宇佐八幡神輿フェスタ振興協議会 会長(宇佐市長)時枝正昭」

種田山頭火句碑(碑文より)
  自由律俳人・種田山頭火、本名・正一 明治十五年山口県防府市に生まれる。
 早稲田大学を病気中退し帰郷、結婚して父と酒造場を開業する。
一方、荻原井泉水が創刊した新傾向俳句誌「層雲」に投句し入門、
やがて同人・選者として活躍した。大正五年に酒造場は失敗、破産する。
 熊本へ移り無軌道な酒に浸って市電を止める事故を起こしたのを機に出家得度。
九州をはじめ東北地方まで全国を行乞漂泊の旅を続けた。
ここ宇佐神宮には、昭和四年と十三年に訪れており、禅僧でありながらも
殊のほか敬虔なおもいで参拝している。昭和十四年四国霊場巡拝を終え、
愛媛県松山市に「一草庵」を結んだが、昭和十五年十月十一日同庵に没した。
山頭火は、花鳥諷詠や季語を約束とする五・七・五の定型俳句とは異なり、
「俳句といふものは…魂の歌だ、こころのあらはれを外して俳句の本質はない」と言い、
その人生や俳句においても、より真実なるものを模索し非定型を貫いた。
行乞流転の旅にあって詠んだ数々の日本語独特な口語のリズムを生かした自由律作品は、
いまも多くの人のこころを捉えている。

 宇佐神宮
 松から朝日が赤い大鳥居  春霜にあとつけて詣でる  山頭火

宇佐神宮の祭礼
 仲秋祭(放生会)10月第2月曜日を含む土・日・月曜日
養老4年(720)大宰府より大隈隼人の叛乱が奏上され、
歌人としても知られる大伴旅人が征隼人持節大将軍に任命されました。
この時、宇佐八幡の神軍も出陣し官軍を応援し乱を鎮めましたが、
その後、病気が流行し凶作が続いたことから隼人の霊の祟りだと恐れられます。
隼人の霊を慰めるために、蜷や貝を海に放ったのが宇佐神宮放生会の起こりです。

 御神幸祭(ごしんこうさい)7月27日以降の金・土・日曜日
『参考資料』
「大分県の歴史散歩」山川出版社、2000年 「日本の神社」日本文芸社、平成19年
「大分県の地名」平凡社、1995年 「神社とお寺の基本がわかる本」宝島新書、2007年 
「歴史読本 古事記・日本書紀と謎の神々」(2001年2月号)新人物往来社、平成13年 
「歴史と旅 古事記神話の風景」(2001年8月号)秋田書店、平成13年





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