平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




屋島合戦の史跡は高松から琴平電鉄に乗り、
八栗駅で下りるとほとんど歩いてまわることができます。


八栗駅の北100mほど行った所に見上げるほど大きな「源平合戦総門碑」と
総門があります。ここは高松市の東はずれの石の町、牟礼町です。
庵治(あじ)・牟礼(むれ)両町は、日本三大石材産地のひとつ、
町の石材店からは石を刻む音が聞こえてきます。



平家は海側からの敵に備えて、六万寺の安徳天皇を守る総門を海岸に構えていました。
現在の門は初代高松藩主・松平頼重が再建し、その遺構を今に伝えています。
当時の六万寺は広大な寺領を有し、勢力を誇っていました。
しかし、天正11年(1583)、長曾我部元親の八栗城攻めの際に伽藍は焼失し、
現在の六万寺は寺の鎮守「愛宕権現」の地に松平頼重が再興したと伝えています。
六萬寺HPによると、源平合戦総門は六萬寺の大門跡とのこと。

その後、平氏の本陣は屋島の東麓、海岸近くに移され、総門も現在地の西に設けられました。

明治36年に牟礼保勝会が建てた「源平合戦総門碑」です。

「明治三十有六年龍集癸卯三月初一日
陸軍大将従二位 伯爵野津道貫 題額 高松欣堂 黒木安雄撰并書

距門 安徳天皇六萬寺行宮遺蹟  東南十三町
  佐藤継信墓及名馬太夫驪塚 正南二町  那須宗高射扇處祈石及駒立石 正北五町 
 雨龍岡源義経陣趾 東南四町  州崎  州崎堂今稱州崎寺正北二町」とも彫られています。
総門から史跡への直線距離、ちなみに一町は約109メートルです。

「総門 寿永二年九月、平氏は安徳天皇を奉じて六万寺を行在所として
(屋島檀の浦の行宮のできるまで)ここで門を構えて、海辺の防備に備えました。
総門はこの遺跡です。後、檀の浦に行宮をうつしてからも、
この門を南部の重鎮として大いに源氏軍を防ごうとしましたが、
ついに源氏の占領するところとなりました。当時この付近は海浜でした。
標木は松平頼重の建てたもの、野津大将題、黒木欣堂撰書
 “夏草や”の碑は久保不如帰氏作。 高松市教育委員会」(現地説明板より)





手前の句碑には 
  ♪夏草や ここにもひとつ 髑髏(されこうべ)久保不如帰
その左に
  ♪お遍路の 行きつつ 髪を束ねけり 久保五峰

平氏の主力は源氏方の河野通信を討つため伊予に出陣しているので、屋島は
手薄であると近藤親家から聞いた義経の軍勢は徹夜で馬を走らせ屋島に迫りました。
一方、平氏は正面の海から源氏は船を連ねて渡ってくるであろうと、
海からの攻撃に備えて陣を構えます。讃岐北部の浦々、島々に軍勢を置き、
牟礼や庵治浦の島陰には兵船を隠しました。
瀬戸内海に向けて城郭を檀の浦の奥深くに構えたのもそのためでした。

義経といえども船戦なら負けることはない。と平氏は高をくくっていました。
ところが阿波に上陸した義経勢は陸伝いに大坂峠から攻め寄せてきたのです。
平家方は慌てて内裏を放棄し、総門の前につないであった船に乗り沖へ漕ぎ出しました。
海上の船から大将の宗盛は、姿を現した義経勢が意外に少ないのを見て悔しがり、
やすやすと内裏を焼かせたことを悔やみましたが、いまさらどうしようもありません。
こうして安徳天皇はじめ平家一門は船をねぐらにすることになります。
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『アクセス』
「源平合戦総門碑」高松市牟礼町 琴電「八栗駅」を降り、旧道を北へ向かいます。
『参考資料』

「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年 「香川県の地名」平凡社、1989年
奥富敬之「源義経の時代」日本放送出版協会、2004年 「平家物語図典」小学館、2010年



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 安徳天皇の行宮所跡が屋島周辺に二つあります。一つは源氏ヶ峯の南麓、牟礼の六万寺です。
一門が屋島にやって来た当初、行在所となった寺で古戦場の東の方にあります。
もう一つは屋島の東麓、安徳天皇社の辺りに置かれ、六万寺から寺の西方にかけて
建てられていた建礼門院や一門の住まいをその周囲に移して御所としました。



平家の陣を背後から襲おうと、義経勢は阿波勝浦から難所の大坂峠を越え、
屋島内裏の対岸に到着しました。当時の屋島は海に浮かぶ小島でした。
引き潮の時は馬でもこの島へ容易に渡ることができると知った義経は、
小勢であることを悟られないために、屋島対岸の牟礼、古高松の道筋の家々に
火をかけながら進軍し、大軍の襲来をよそおいます。そして黒煙が天を覆おう中、
小分けにした兵をいくつも繰り出して、浅瀬を渡り一気に屋島内裏へと攻め込みました。

ちょうどその時、屋島の陣では平家に叛いた伊予の河野通信を討つため
出撃していた田口成良(重能)の子、田内教能から送られてきた通信の郎党、
百余人の首実検をしていましたが、巻き上がる炎に源氏の大軍が
押しよせてきたと勘違いし、慌てふためき陣地を捨て船に飛び乗りました。

この様子が『平家物語絵巻・大坂越』に描かれています。
右は在家に火をかけ突入する源氏軍。
左上は大将平宗盛の宿所で首実検が行われている最中です。
左下は思いがけない急襲に大軍と勘違いした平氏は、
建礼門院・二位の尼はじめ、女房たちも急いで船に乗り、沖へ逃げだします。
一の谷合戦の1年後、平家は一ノ谷に続いて、またも義経に背後から奇襲されたのでした。

義経配下の後藤兵衛実基・基清父子らは海上に逃れた平家が放置した城郭に乱入し、
平家を屋島に戻らせないように火をつけてまわり
ます。田口成良がやっとの思いで
造営した内裏や御所を、あっというまに焼き尽くしてしまいました。

内裏を焼き払った実基は、義経の父源義朝に仕え、平治の乱では義朝の長子義平に従って
活躍しました。乱後は義朝の娘(坊門姫)をひそかに養育して一条能保に嫁がせています。
屋島の合戦では、義経の老練な参謀格として登場し、扇の的の射手に弓の名手、
那須与一を推挙します。基清は実基の婿養子で西行の甥にあたり、
後に基清は京都守護となった一条能保にも仕えます。

琴電八栗駅から北へ行き、相引川を渡って県道150線を北へ進みます。
能登守
教経の童・菊王丸の墓からさらにV字路

左に進むと
安徳天皇社があります。
分かれ道には「源平屋島合戦800年祭」昭和55年3月に建てられた
左手安徳天皇社400m、佐藤継信の墓600m」と刻んだ道標がたっています。


安徳天皇の行宮は屋島合戦で焼かれ、跡地に安徳天皇社が建っています。


「安徳天皇社 寿永二年(1183)、平宗盛は、安徳天皇を奉じて一の谷から屋島に着ました。
ここは檀の浦の入江にのぞみ、後ろに険しい屋島の峰、東に八栗の山をひかえ、
戦には地の利を得たところであったので宗盛は、行宮を建て将士の陣営をつくりました。
安徳天皇社のあたりが行宮跡であったといわれています。
高松市 高松観光協会」(現地説明板より)

 屋島の東にそびえる五剣山の中腹には、四国八十八ヶ所第85番札所
八栗寺があるため、この山を八栗山ともいいます。

所々岩肌が見える対岸の五剣山(八栗山)

安徳天皇社は相引川河口の小高い場所にあります。





境内の奥には、屋島合戦で戦死した武士たちの墓があります。 

 「寿永四年二月(1185)早春、この地で繰り広げられた源平屋島合戦は、
滅びゆくものの哀れと、追うものの雄々しさを描く一巻の絵物語として、今に伝えられている。

この戦いで散ったつわものたちの墓があちらこちらに散らばっていたものを、
いつのころからか里人たちが、安徳天皇ゆかりのこの社の本殿裏に集められていたものを、
この地へ移設のうえ供養したものである。」(碑文より)

◆菊王丸の墓(高松市屋島東町 屋島東小学校北隣辺)

「菊王丸の墓  源平合戦(1185)のとき、源氏の勇将佐藤継信は、大将義経の
身代わりとして能登守教経の強弓に倒れました。そのとき教経に仕えていた菊王丸は、
継信に駆けより首を切り落とそうとしましたが、そうはさせまいとする継信の弟
忠信の弓によって倒されました。菊王丸は、教経に抱きかかえられ、
自らの軍船に帰りましたが、息をひきとりました。教経は、菊王丸をあわれんで
この地に葬ったとつたえられています。 高松市 高松観光協会」(現地説明板より)



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『アクセス』

「安徳天皇社」高松市屋島東町557-1 琴電八栗駅下車 徒歩約30分
『参考資料』
「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年 別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社、2004年
 林原美術館「平家物語絵巻」株式会社クレオ、1998年 火坂雅志「西行 その聖と俗」PHP研究所、2012年
「平家物語図典」小学館、2010年

 



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寿永2年(1183)7月、北陸で木曽義仲に大敗した平家は、安徳天皇を奉じて
西海へ落ちていきました。
屋島合戦の1年半ほど前のことです。
都を捨てた平家一門は九州に落ちのび、清盛が対宋貿易の拠点としていた大宰府に
内裏を造り再起を図ろうとしました。しかし、九州の武士たちは源氏が都を制したと知るや
次々に源氏方に寝返り、一門は海上に漂う身となりました。
その後、阿波(徳島県)の豪族田口成良(重能)のはからいで四国屋島に落ち着き、
内裏が完成するまでの間、六万寺を安徳天皇の御所としていました。

やがて勢いを挽回した平家は、一ノ谷に陣を張って都をうかがいましたが、
義経の奇襲攻撃に惨敗し、ふたたび屋島に退きました。その頃、平家は
東の屋島と西の彦島を押えて瀬戸内海を掌握しようと、知盛(清盛の4男)が
長門国(山口県)に向かい、彦島に砦を築き門司関を固めました。

六万寺周辺図は、六万寺HPよりお借りしました。

六万寺は屋島古戦場の東、源氏ヶ峯の南麓にあります。源氏ヶ峯には、義経が山上に登っ
攻め手を考えたとか、見張りをたて平家軍を見下ろしたいう伝承があります。






開発が進むこのあたりには、高層団地が建ち並んでいます。

六万寺駅から北東へ向かうゆるやかな坂道を1kmほど上ると
高台に寺の甍が見えてきます。



石碑には、「源平屋島合戦古戦場」、「東讃七箇所霊場六萬寺」と刻まれています。



かつての六万寺は四十二もの支(子)院を持ち、そのひとつに洲崎寺がありました。

寺には一門が六万寺を行在所にしていた時に詠んだ歌が3首残されています。
      嬉しくも遠山寺に尋ね来て 後のうき世を洩らしつる哉
                         三位中将 平 重衡
        
        世の中は昔語りになれぬれど 紅葉の色はみしよなりけり

                         但馬守  平 経政

      いざさらば此山寺にすみ染の 衣の色を深くそめなむ
                         経誦坊  祐円

都落ちする一行の中に「経受坊の阿闍梨祐円」の名が見えます。(巻7・平家一門都落ち)

祐円は清盛の異母弟平経盛の子といわれます。

かつての大寺をしのばせる
大鐘楼。

「愛宕大権現」の扁額が架かる鳥居。
中世の兵火で焼失した六万寺は、寺の鎮守「愛宕権現」の社地に再興されました。

境内の一角、小高い場所に「安徳天皇生母徳子之碑」と
安徳天皇と建礼門院徳子を祀る祠があります。 

『アクセス』
「六万寺」高松市牟礼町牟礼  
琴電「六万寺」駅から 徒歩17、8分

安徳天皇慰霊祭 例年5月第4日曜日 13:00~
法要のあとには、コンサートや牟礼の子供たちによる演舞などが行われます。 
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『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年 安田元久「平家の群像」塙新書、1982年 
「香川県の地名」平凡社、1989年「香川県の歴史」山川出版社、1997年
 「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年 「平家物語図典」小学館、2010年





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元歴2年(1185)2月19日、源義経率いる源氏軍は阿波勝浦から陸路を駆けて
屋島に進軍し、一ノ谷合戦で敗退した平氏軍を討ちました。
海からの攻撃に備えて陣を構えていた平氏は、陸路から急襲され海上に兵を後退させました。
海の平氏と陸の源氏との間で行われた合戦の主戦場となったのが屋島の麓の入江、
現在の屋島東小学校ある檀ノ浦一帯の海と陸でした。周辺には平家が軍船を隠した
「船隠し」や義経を守って敵の矢を受け戦死した「佐藤継信の墓」、
那須与一の「扇の的」などがあり、合戦のエピソードを伝える史跡が数多く残っています。

平家が城郭を築いていた屋島(標高280m)は、南嶺と北嶺の二つの峰からなる
溶岩台地で、
山頂がたいらで屋根のように見えることから屋島とよばれ、
遠浅の海に浮かぶ島でした。江戸時代になると干拓が進んで陸続きとなり、
現在、相引川がわずかに当時の面影を残しているだけです。

合戦の舞台となった檀ノ浦は壇ノ浦合戦の壇ノ浦と同じ名前です。
古代、わが国は白村江の戦いで大敗後、新羅・唐の侵攻に備えて北九州から
大和にかけて数ヶ所に山城を築いて防衛しました。
讃岐国(香川県)には屋島城(やしまのき)、現在の下関市には長門城が築かれ
軍団が置かれました。
軍団を備えた「団ノ浦」が
「檀ノ浦」、「壇ノ浦」に転じたとされています。

源平の遺跡をたずねる前に先ず屋島山上に登って屋島古戦場を眺めましょう。
山上にある屋島寺は、真言宗の寺で8C半ば鑑真が北嶺に小堂を建てたのが始まりとされ、
その後、空海が南嶺に伽藍を移して本尊十一面千手観音(重文)を安置しました。

屋島寺境内図は「四国八十八ヶ所Ⅱ」より引用させていただきました。

東大門

四天門

鎌倉時代の和様建築の本堂(重文)

屋島寺は四国霊場第84番札所で、お遍路さんたちの姿が多くみられます。

大師堂

貞応2年(1223)の銘がある左手の梵鐘も重文に指定されています。

広い境内の一角にある「瑠璃宝池」は、源平合戦の時、檀ノ浦で戦った
武士たちが血刀を洗ったところ、池の水が真っ赤に染まったことから
「血の池」とも呼ばれています。



源平屋島合戦800年祭記念の供養塔と合戦の模様を描いたレリーフ


屋島山頂の談古嶺展望台から見渡すと、向い側に五剣山がそびえ
眼下には相引川がゆるやかに流れています。かつてこの川は
屋島と陸地を隔てる海峡で、
源氏と平氏の両軍がこの海峡を挟んで対峙しました。

中央の山の向こう側に見えるのが平家が船を隠した船隠し
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『アクセス』
「屋島寺」高松市屋島東町 
JR屋島駅 ⇔ 琴電屋島 ⇔ 屋島山上 下車 徒歩2分

上記経由の屋島山上行きシャトルバスが毎日運行しています。片道100円
また、山麓の琴電潟元駅から屋島寺仁王門に至る遍路道もあります。
『参考資料』
「香川県の歴史」山川出版社、1997年 「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年
「山口県の歴史」山川出版社、1998年  「日本地名大辞典」(6)平凡社、昭和13年
 週刊古寺をゆく「四国八十八ヶ所Ⅱ 愛媛・香川」小学館、2002年
「平家物語図典」小学館、2010年



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一ノ谷合戦で惨敗した平氏は、かつて陣を布いていた屋島へ退いていました。
それを追って義経はわずか150騎ばかりの手勢を率いて
嵐のなかで船を進め、元歴2年(1185)2月18日、阿波勝浦に上陸し、
そこから休む間もなく海岸沿いを走り抜けて
勝浦川の対岸に渡り、平家方の桜間城を突破しました。
ここまでは「義経阿波から屋島へ進軍1~4」で、紹介させていただきました。
義経阿波から屋島へ進軍1  

ここから義経は現在の徳島市を北上し、
吉野川を渡って板野町に入り屋島に迫ります。
通常2日かかるといわれた讃岐への道を徹夜で騎馬を走らせ、
大坂峠を越え翌朝、讃岐牟礼(むれ)
に姿を現しました。
阿讃山脈の最東端に位置する標高270mの
大坂峠(板野郡板野町大坂)は、阿波と讃岐との国境にあり、
阿波から讃岐に最短距離で入るルートですが、
険しいつづら折れの道が続きます。

この峠入口の板野郡は、西光の四男広長が清盛の命を受けた
田口成良に攻殺された時、難を逃れた六男親家(ちかいえ)が
潜伏した地(板野郡臼井)とされ、親家が築いた
板西(ばんざい)城(板野郡板野町)があった所です。
この辺りの地理に詳しい親家の案内があったからこそ、
義経勢は深夜の難路を行軍できたと思われます。



最寄りのJR板野駅

県道122号線と徳島自動車道が交わる少し南に板西城跡600㍍の道標があります。









現在、大坂峠には板野町側に「あせび公園」があり、
瀬戸内海国立公園を眼下に見下ろす展望台が設けられ、
引田(ひけた)までの峠道は遊歩道として整備されています。

『平家物語』には、「その日は阿波の板東、板西(板野郡の東部・西部)を
行き過ぎて、大坂山を越え引田で馬を休め、
丹生野(にうの)、白鳥、古高松うち過ぎうち過ぎ、
屋島内裏の対岸牟礼に騎馬を乗り入れた。」とあり、これらの地名はJR高徳線
「引田」「讃岐白鳥」「丹生」や琴電「古高松」の駅名に残っています。



牟礼の六万寺辺り、横から撮影した屋島



疾風怒濤のように義経が屋島へと駆けたルートの周辺には、
義経にまつわる伝説や説話が数多く残されています。
その中のいくつかをご紹介させていただきます。
◆勝占(かつら)神社 (徳島市勝占町)
『源平盛衰記』によると、「田口成良(しげよし)の子
田内教能(でんないのりよし)を田内成直(しげなお)とし、
その居城を「勝宮」としています。そして
田内成良を大将とする主力軍が河野通信(みちのぶ)を攻めに
伊予に出陣していると親家から知らされた義経は、
わずかに残っていた残留部隊を散々に蹴散らしました。
義経は勝浦の「勝」に勝宮の「勝」どちらも「かつ」とよむという
縁起を担いで士気を鼓舞した
。」と記しています。
勝宮は熊山城に程近い勝占神社であると考えられており、
この社には成直が奉納したという木像の狛犬と義経が奉納したと
伝えられる雁股(かりまた)の矢じりがあるといわれています。


◆伏拝(ふしおがみ)神社(徳島市一宮町)
この地を通りがかった義経が源氏の氏神である八幡神社を見つけ、
社前に下馬して平家追討の祈願を行ったことから
伏拝神社と呼ばれるようになったという。

◆舌洗池(したらいいけ)(徳島市国府町観音寺)
義経が馬に水を飲ませた池との伝承から、
舌洗池と呼ばれるようになったとされます。

◆住吉神社(板野郡藍住町住吉)
社伝によると、阿波勝浦から讃岐に向かう義経一行の行く手を、
増水した吉野川が遮り、途方にくれた義経が住吉神社に
一心に祈願したところ、にわかに白鷺が舞い降りて来て、
浅瀬の位置を教え川を渡ることができました。
屋島合戦後、義経は社殿を造営しその恩に報いたという。

◆四国霊場3番札所金泉寺 (板野郡板野町)

『源平盛衰記』によると、義経が金泉(こんせん)寺を通りかかると、
寺では近くの住民が集まり、折しも盛大な観音講が催され
宴会が始まろうとしていました。
しかし一行の軍馬の音に驚いて村人は逃げてしまい、
義経らが酒肴を食べて峠越えの腹ごしらえをしたという
話が載っています。義経が弁慶に力試しに持ち上げさせたという
「弁慶の力石」が方丈前の池の畔にあります。

◆鎧橋 大坂峠に向かう道筋に架かる鎧橋は、
一行が休憩のために鎧を脱ぎ
木にかけたと伝えられています。

◆馬宿(うまやど)
阿波から大阪峠を越えて、讃岐に入って
最初の駅家(うまや)があったところです。
義経軍もここで馬を休めたといわれています。
屋島古戦場を歩く(屋島寺)  
『アクセス』
「板西城跡」
徳島県板野郡板野町古城 JR高徳線・板野駅から徒歩約30分
「大坂峠登り口」JR高徳線阿波大宮駅北へ約1,5K
板野町商工会  http://www.itano.biz/
『参考資料』
「徳島県の歴史散歩」山川出版社、2009年 新定「源平盛衰記」(5)新人物往来社、1991年
「図説徳島県の歴史」河出書房新社、1994年 
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年
 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年 
角田文衛「平家後抄 落日後の平家」(上)講談社学術文庫、2001年
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社、平成16年 「平家物語図典」小学館、2010年



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