平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




悪源太らは大内裏の門から逃げ行く平家を追って六波羅に押し寄せますが、
その途中六条河原には、兵庫頭源頼政が三百余騎にてひかえていました。
「我らが負けたら、平家につこうと機会を窺っているとしか思われぬ。
憎い奴め!」と悪源太は、凄まじい闘志で頼政の陣近くまで迫ります。
「おい兵庫頭よ!源氏が勝ったら一門であるから内裏へ参り、平家が勝てば
六波羅へ参上しようと模様眺めをしているように見えるのは間違いか。
源氏のならいは二心ないものなのに、お前のお陰で家名に傷がつくのが
口惜しい。寄れ、勝負しよう。」と罵り頼政の陣中に割って入り、
縦横無尽に駆け巡り追い立て追いたて戦いました。

頼政配下の渡辺党の武士は、日頃は百騎千騎も相手に戦うと
云っていましたが、悪源太に攻められ寄って組む武士は一騎もいません。
その後悪源太は、六波羅門内へと駆け入りましたが、源氏勢は今朝からの疲れ武者、
平家は新手の武者が次々駆け出でて戦うので、さすがの悪源太も力つきて
鴨川を西へと渡り、六条河原を落ちていく様子が『平治物語』に語られます。

平治の乱で、頼政は当初義朝側に加わっていましたが、
二条天皇が平清盛の六波羅第にお入りになったことを知り、
戦闘開始前にこの陣を去り、独自の行動をとります。

その理由ははっきりしませんが、頼政は美福門院や二条天皇に近い存在で、
天皇の命に従い反乱軍を討つ立場にあり、義朝とは源氏同士の
連帯感はあるものの、摂津源氏の祖頼光から頼政は四代目、
一方の義朝は頼光の弟で河内源氏の祖頼信から五代目にあたり、
親近感はあっても、頼政の立場と利害を超えるものではなかったようです。

また武芸には優れていますが、政局に疎く政略に拙い義朝が、
清盛を相手に戦っても、勝ち目がないことも知っていたのでしょう。

義平が鴨川を渡り落ち延びるのを見て、義朝が「討ち死にせん。」と
駆け出すので鎌田正清はこれを押しとどめ「昔から源平両家弓矢をとっては
勝ち負けなしといいますが、中でも源氏をば、つわもの揃いと世間の人々は
申しています。ここで討たれ、主君の遺骸を敵の馬のひずめにでも
駆けられることがあれば口惜しい。ここは一先ず落ち延びなされませ。
身をお隠しになって御名ばかりあとに残しおいて敵に心配させるというのも
一考かと存じます。」と説得し無理に馬の口を北の方に向けたので、
義朝は仕方なく東国へと落ち延びることになります。
東国は朝廷の目も届きにくく、義朝の郎党たちも多くいるので
身を隠すこともできると鎌田正清は判断したのでしょう。

「汝に預けておいた姫はどうしたか。父が戦いに負けて落ちたと聞けば
どれ程心配するだろう。殺して来てくれ。」と義朝は涙をかくし
鎌田正清に命じます。馬の鞭をあげ六条堀川の館に戻ると、
誰もいない館の中に、持仏道で一人お経を読む姫君の声がします。

鎌田正清の来たのを見るや否や「軍はいかに」とお尋ねになる。
「父君は負けて落ち延びられます。」姫は「敵に捜しだされて義朝の娘よと
恥を見るのが、わらわには堪えられない。あはれ身分の高きも卑しきも
女の身ほど口惜しいものはない。残し置かれる身が悲しい。
頼朝殿は13歳であるが、男なれば父の供をして落ち延びられるのが羨ましい。
すぐにわらわを殺して父君の見参にいれよ。」と仰るので
「殿も姫が今仰った通りの仰せでございました。」と申すと、
それではとお経を巻いて納め仏前に向かい手を合わせて念仏を唱えれば、
鎌田正清は近寄って姫君を討とうとしますが、産屋の中から抱いて
お世話した姫をどうして愛おしくないはずがあろう。
涙にくれて刀のうちどころも分からず泣入れば、「敵が近づく早く、
早くいたせ。」と急き立てられ、仕方なく首をうち落としました。

14歳の姫の見事な最期、女とはいいながらさすが源家の血を引く娘。
正清は涙ながらに遺骸を深く埋めて馳せ戻り、姫の首級を義朝に見せると、
一目見るなり涙に咽び、手厚く弔いをしてくれるようにと頼ませ、
東山辺の知り合いの僧のもとへと届けさせます。
おりから降りしきる吹雪の中を、主従三十余騎
(実際は二十騎に満たなかった)で、おちのびることになりますが、
その前途にはさらに過酷な運命が待ち受けています。
源義朝敗走(碊観音寺 駒飛石)  
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 日下力「平治物語」岩波書店
日下力「平治物語の成立と展開」汲古書院 多賀宗隼「源頼政」吉川弘文館
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス 


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待賢門(たいけんもん)合戦は、平治元年 (1159) 12月の平治の乱で
平安京大内裏の待賢門に陣取った源義朝軍と平重盛軍との
紫宸殿前の大庭で繰り広げられる戦いをいい、
義朝の長子、義平率いる17騎に追い立てられ、重盛は危うく逃れました。
待賢門は中御門ともいい、大内裏の東面中央に設けられた御門をいいいます。

平清盛の熊野詣の隙を狙って藤原信頼と源義朝が
兵を挙げました。保元の乱の3年後のことです。
『平治物語』によると、熊野参詣の途中でこの知らせを受けた清盛は、
都に戻るかそれともこのまま熊野参詣に向かうか思い悩みましたが、
同行していた重盛のとっさの判断で都にとって帰すことになりました。
こうして平家一門は、都で信頼・義朝らに戦いを挑むことになります。
清盛は次男の基盛と三男の宗盛、侍15人を引き連れての参詣であり、
『愚管抄』によると、重盛は同道していなかったという。

まず源義平(よしひら)や義平率いる郎党と藤原信頼、
平家軍の主な登場人物をご紹介します。
悪源太義平と戦う平重盛の勇姿 (矢先稲荷神社蔵)

悪源太義平平治の乱出陣図(矢先稲荷神社蔵)

◆源義平(1141~60)
源義朝の長子として誕生、母は三浦義明の娘
(橋本宿の遊女とも)という。
父義朝は少年時代に東国に下り、
相模(神奈川県)を本拠として、
南坂東一帯に勢力を広げて活躍します。

その後、義朝は築いた東国の地盤を義平に任せ、
自身は京へ出仕して
仁平3年(1153)、下野守に任じられます。

源為義(義朝の父)の次男義賢(よしかた)は、
皇太子体仁親王(近衛天皇)を警固する
帯刀の長・
東宮帯刀長を務め、帯刀先生(たちはきせんじょう)と呼ばれます。

しかし一年後には、滝口源備殺害事件の犯人をかくまいその職を解任され、
藤原頼長の側近となり、頼長の荘園を管理する身となります。

兄義朝が下野守に任じられた年に義賢は、上野国(群馬県)多胡郡に下向し、
武蔵の豪族秩父重隆の養子となり、甥の義平と土地争いで衝突します。

保元の乱の前年(1155)、僅か15歳の義平が武蔵国大蔵館
(埼玉県の義賢の館)を
襲い、叔父の義賢を討ち(大蔵合戦)、
大いに武名をあげ
「悪源太」「鎌倉悪源太」とよばれました。
この「悪」は、悪人という意味ではなく剛勇という意味です、
この時、義賢の子で2歳の駒王丸(義仲)は、母(乳母とも)とともに
木曽に逃れ、中原兼遠の許で成人します。

この合戦に勝利した義朝・義平の地盤は、坂東において
磐石なものとなりますが、
義平が義賢を討ったことから
義朝は兄弟の中で孤立し、父子兄弟の仲は険悪でした。
保元の乱では、義朝は後白河天皇方について
崇徳院方に従った弟たちを処刑し、
やはり敵方についた父為義も義朝によって処刑されました。
その三年後の平治の乱で悪源太は上京し、
清盛の嫡男重盛と死闘を展開します。
◆藤原信頼
後白河院の寵を後ろ盾にして、26歳で正三位に至るという
急激な昇進を遂げましたが、院の乳母(紀二位)の夫である
信西と対立し、義朝と結んで清盛の熊野詣の最中に
平治の乱を起こし、信西を敗死に追い込んだものの、
敗れ六条河原で処刑されました。
悪源太義平率いる郎党
◆鎌田兵衛正清
祖父以来の源家重代の家臣で、平治の乱後、義朝とともに
東国に落ちる途中、立ち寄った尾張国野間で主君とともに、
舅の長田忠致(ただむね)に討たれました。
平治の乱の際の藤原信頼の行った臨時の除目で
左兵衛尉となり、政家と改名しています。
◆山内首藤刑部俊通・俊綱
源家譜代の家人、俊通の妻は頼朝の乳母です。
平治の乱で敗れた義朝を逃す戦いで俊通は討たれ、
その子の俊綱は頼政軍との戦いの中で討死します。
◆長井斎藤(別当)実盛 
源義平が叔父の義賢を討った大蔵合戦の後、
義賢の子・駒王丸(義仲)を信濃国中原兼遠のもとに送り届けます。
保元・平治の乱では上洛して源義朝の郎党として参戦し、
平治の乱後、落ちのびた武蔵国長井荘が
平宗盛の所領となったため実盛は平氏に従いました。
◆岡部六弥太
武蔵国住人の岡部六弥太は一ノ谷の合戦で、清盛の末弟
薩摩守忠度に首を取られそうになりましたが、
六弥太の郎党が忠度の利き腕を斬りおとします。
覚悟した忠度は、西方に向かい念仏を唱えながら討たれました。
◆熊谷次郎直実
武蔵国の住人、平治の乱では義朝に従って戦い、
乱後は平知盛に仕えますが治承4年の頼朝挙兵の際には頼朝の下に参陣し、
一ノ谷合戦では涙ながらに平敦盛を討ち、
のち出家して法然の門に入り蓮生房と名乗ります。
◆猪俣小平六(いのまたこんぺいろく・範綱、則綱とも)
一ノ谷合戦で平家の侍大将の盛俊に一旦、組み伏せられましたが、
言葉巧みに盛俊をだまして討ちとりました。

平家軍
平重盛
平清盛の嫡男重盛の母は高階基章の娘、
妻は藤原成親(なりちか)の妹です。
小松谷(京都市東山区)に住み、小松殿と称され、
19歳で参加した保元の乱では、強弓で武名を馳せた鎮西八郎為朝の
前に果敢に進み出る姿が『保元物語』に語られています。

◆三河守頼盛 
清盛の異母弟、頼盛の母である池禅尼は平治の乱後、
捕えられた頼朝の命乞いを清盛に嘆願します。
平家一門の都落ちに途中から引き返して、
京に留まり頼朝に厚遇され一族は栄えます。
◆淡路守教盛
清盛の弟、門脇殿と呼ばれ六波羅総門脇に邸がありました。
◆右衛門尉貞能(さだよし)
桓武平氏の血を引く忠実な郎党、
特に重盛に心服していた人物として描かれ
一門の都落ちに際して、重盛の墓所からその遺骨を
掘り起こして高野山に送ったことが、平家物語に見えます。
◆主馬(しゅめ)判官盛国 
平家物語では壇ノ浦で生け捕られた宗盛とともに鎌倉に下向します。
◆左衛門尉盛俊 
平盛国の子、盛俊は一ノ谷合戦で一旦は組み伏せた
猪俣小平六に騙され討死します。
◆与三左衛門景泰 
平治の乱で自分を逃がすために亡くなった
景泰の死を悼んだ重盛は、幼い景泰の子を手許で育て、
「重」の一字を与えて重景と名乗らせます。 
重景は重盛の嫡子維盛と共に那智の海で入水したと
『平家物語』に語られています。
◆難波次郎経遠
備前の豪族で平治の乱後、悪源太義平を捕え処刑し、
『平家物語』では、備前有木の別所で
藤原成親を惨殺する役で登場します。
◆瀬尾(妹尾)太郎兼康
備中妹尾(せのお)の土豪で、藤原成親の子成経を
備中に配流した時、ついて行った人物で、
平家に二心のない武将として『平家物語』に描かれています。

大内裏へと向かう平家の軍勢は、今日の戦の大将軍・
左衛門佐(さえもんのすけ)重盛、生年23、
それに続く三河守頼盛、淡路守教盛、武士たちでは筑後守家貞、
子息の右衛門尉貞能、主馬(しゅめ)判官盛国、子息左衛門尉盛俊、
与三左衛門尉景泰、新藤左衛門家泰、難波二郎経遠、
同三郎経房、妹尾太郎兼康、伊藤武者景綱、楯太郎直泰、
同十郎貞景をはじめとして、都合その軍勢は三千騎以上。

重盛その日の装束は 赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、
平氏家紋の蝶の裾金物を打った
櫨(はじ)の匂縅(においおどし)鎧(平家重代の唐皮の鎧)に、
龍頭(たつがしら)の兜に小烏(こがらす)の太刀をはき、
黄鴾毛(きつきげ)の馬に金覆輪の鞍、
絢爛たる大将軍のいでたちです。
「櫨匂」とは袖の上部は橙色濃、下部は橙色淡を配置し、
橙色のグラデーションとなったもの。

重盛は「年号は平治也、花の都は平安城、われらは平家也、
三つも「平」の字が重なっている。
今度の戦に勝たんことなんの疑かあるべき。」
(年号は平治だ。都は平安城だ。われらは平家だ。
戦に勝つこと間違いないぞ。)と部下たちを鼓舞し、
三千余の軍勢を三手に分け、近衛、中御門、大炊御門の各通りから、
東大宮大路に押し寄せました。
平安京の道路は広く、当時の東大宮大路の道路幅は約21m。
そこを三千余騎が進軍したといいます。

信頼・義朝が籠る大内裏では三方の門をがっちり閉ざし、
その東面の陽明門、待賢門、郁芳(ゆうほう)門を開いて待ち構えています。
それとともに承明門、建礼門も開いて、大庭には源氏の白旗が
二十あまり風に翻り、馬が百頭ほど引き立てられました。
梅壺、桐壺、竹の壺、籬(まがき)の壺、紫宸殿の前後の壺まで、
武士たちがぎっしりと並んでいました。
大宮面には平家の赤旗三十あまりたなびき、勇み進む三千数騎が
一度に鬨の声をどっとあげ、その声は内裏中に響きわたります。

今まで堂々と見えていた信頼は、鬨の声を聞くや顔面蒼白になり、
紫宸殿の南の階(きざはし)に下りようとしますが、
膝が震えて下りられません。馬に乗ろうとしますが、
いきり立った駿馬が前へ進もうとするので、
舎人七、八人が駆けつけて馬を押さえました。
「早くお乗りください」といって武士二人が信頼を押し上げますが
強く押しすぎたのだろうか、頭からどうと落ちてしまいました。
顔に砂が一面について、鼻血が流れすっかり怖気づいている様子です。
この有様を見ていた義朝は「日頃は大将と崇めていたが、
愚かな臆病者め!」とののしり、日華門(にっかもん)を
出て郁芳門に向かいました。
信頼も鼻血をふき馬に乗せられて待賢門に向かいますが、
とても役に立つようには見えません。

重盛は率いる千騎のうち五百騎を大宮面に残して、
五百騎で待賢門に押し寄せ大声で名乗りをあげました。
「この門の大将軍は、信頼卿と見るは間違いか。
こう申すは桓武天皇の末裔、太宰大弐清盛の嫡子、
左衛門佐重盛、生年二十二」と名乗ると、
怖気づいた信頼は返事もせずに「それ防げ、武士ども」といって
自分はさっさと退くので、皆先を争って逃げてしまいます。
これを見た平家の軍勢は勇んで大庭の椋の木の下まで攻め入ります。
「悪源太はいないか、臆病者の信頼が、待賢門を破られてしまったぞ。
早く平家を追い出せ」と義朝が大声で叫ぶので、
敵の大将平重盛めがけて義平は一目散に駆け出します。

つづくは一騎当千の坂東武者十七騎、鎌田兵衛、後藤兵衛、
山内首藤刑部俊通・俊綱、長井斎藤別当、岡部六弥太、猪俣小平六、
熊谷次郎直実、平山武者所、金子十郎、足立右馬允、
上総介八郎、片切小八郎大夫らが、轡(くつわ)を並べて馳せ向かい
大音声(おんじょう)をあげて、「左馬頭義朝の長子、
鎌倉悪源太義平当年とって十九。
名は聞いたことがあるだろうが、今この姿を目に入れよ。

十五の年に、武蔵国大蔵で叔父の太刀帯先生(たちはきせんじょう)
義賢を討って以来、たびたびの合戦で一度も不覚の汚名を
受けたことがない。」と、平家軍五百騎のまんなかに割って入り、
縦横無尽に暴れまわり、敵を蹴散らしました。
「端武者(とるに足らない兵士)どもに目をくれるな。
櫨(はじ)の匂いの鎧に、蝶の裾金物を打って、
黄鴾毛(きつきげ)の馬に乗っているのが大将の重盛だ。
馬を押し並べて組みうちにしろ、生け捕りにしろ。組め!組め!」と
郎党たちに下知するので、重盛の危機とばかりに
与三左衛門景泰、新藤左衛門家泰をはじめとして、
百騎ほどが人垣を作って源氏勢を防ぎます。

紫宸殿前の大庭

十七騎の武士たちは、大庭の椋の木を中にして、左近の桜、
右近の橘を七、八度さらに十度ばかり平家の軍勢を追いまわし、
重盛と組もう組もうともみあい死闘を繰り広げます。
十七騎に駆けたてられ、かなわないと思ったのだろう
たまらず平家軍は門の外へとさっと引きます。

重盛が弓を杖にして、馬の息をつかせているところに、
筑後守家貞がやってきて、「重盛様はご先祖平将軍貞盛の
生まれかわりのようです。」と面と向ってほめるので、
重盛はご先祖にお見せしようと思ったのだろうか。
前の五百騎をとどめ置いて、新手の五百騎を率いて、
また大庭の椋の木のところまで攻め寄せました。

これを見た悪源太は駆け向かい、十七騎を見回して言った
「今向かってきたのは、新手の武士だが大将はもとの重盛だ。
先程は討ち洩らしたが、今度こそ黄鴾毛の馬に押し並べて、
櫨(はじ)の匂いの鎧に組め。」と下知すると、
勇みに勇んだ十七騎が、進む中に平家軍百騎あまりが
割って入り邪魔をします。それをものともせず
悪源太は弓を小脇にかき挟み、鐙をふんばり立ちあがり
両手をあげて、「義平は源氏の長子である。重盛も平氏の長子だ。
敵として何の不足があろう。寄ってこいさあ組もう!」と叫び、
大庭の椋の木の周りを追いまわしました。
重盛は一騎打ちになると面倒なことになると思ったのか、
さっと門の外に退きました。

悪源太が弓を杖にして馬に息をつがせていると、義朝がいらだって
山内首藤俊綱に「義平がしっかり防がないから、敵はたびたび
駆け入ってくるのだ。さっさと追い出してしまえ」と命令しました。
「承知した。進めものども」と、
先ほどと変わらない十七騎で、お宮面に駆け出て
敵五百騎の中にわき目もふらずに追いかけます。
そのものすごい勢いに、平家勢は激しく追い立てられて、
大宮を下り二条を東へと引き退いたので、
「我が子ながら義平は、天晴れな武者だ。
本当によく駆けたものだなあ。」
と義朝は息子の活躍に満足し誉めたたえました。
こうして平家軍は度々内裏に突入しようとしますが、
その都度追い返されてしまいました。

このあと物語は平家の大将軍重盛、郎党二騎が軍勢から孤立して、
二条を東に落ちていき悪源太は、鎌田兵衛とともに
そのあとを追い堀川沿いの地まで来ます。
「そこに落ちいくは重盛か、返されよ!」と悪源太が大声で呼び、
落ち延びさせまいと鎌田兵衛が放った矢が、重盛の馬の
太腹を深く射ると馬はたまらず飛び跳ねます。
冑がずりおち、ざんばら髪になった重盛は、
堀川に積んであった材木の上に跳ね落とされます。

これを見た鎌田兵衛は、馬から飛び降り重盛に組うちを挑もうとしますが、
主の一大事とばかりに平家の郎党与三左衛門景泰が、鎌田に飛びかかります。
悪源太と一騎打ちをしようとする重盛を、新藤左衛門家泰が押しとどめ、
自分の馬に押し乗せ「のびさせ給へ」と一言いうや
悪源太に討ってかかります。重盛は二人の郎党が討ち死にする間に、
六波羅へとようよう逃げ延びたのでした。

堀川は東大宮大路と西洞院大路の間を流れる川で、この辺り一帯には、
材木商人達が住み、彼らは川を利用して材木を運んでいました。

この頃、頼盛軍千騎余は、郁芳門へ押し寄せ義朝軍二百騎と
一進一退を続けますが、平家は先の勅命もあったので
本拠の六波羅へと退却します。
それを追い駆けて義朝の軍勢は戦います。
一方、一旦は陽明門の警固にあたった源光保・光基軍
三百騎は戦わずして平氏についてしまいます。
彼らは二条天皇の側近ですから
天皇が六波羅に脱出後、官軍についたのは当然のことです。

総大将信頼は、手勢五十余騎とともに鴨川の河原を
北へと落ちていきます。
結局平氏軍三千余騎を相手にして戦ったのは、
義朝軍二百騎と悪源太率いる十七騎のみということになります。
悪源太率いる十七騎がいくら一当千人といわれる
兵(つわもの)揃いでも、勝ち目の薄い
戦いを強いられることになり、この後、六波羅の戦いで
清盛軍に義朝は敗れ去り
平治の乱は終りました。
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 日下力「平治物語」岩波セミナーブックス
上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書 野口実「源氏と坂東武士」吉川弘文館 
橋本治双調平家物語ノート「権力の日本人」講談社 元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス 
元木泰雄「院政の展開と内乱」吉川弘文館 日下力・鈴木彰・出口久徳「平家物語を知る事典」東京堂出版
「図説・源平合戦人物伝」学習研究社


 





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千本丸太町バス停のすぐ西の内野児童公園内に「大極殿遺址」の碑が建っています。

バス停近くに建つ「大極殿遺址道」と刻んだ道標。

碑の裏面には「明治二十八年三月京都市参事会建之」と刻まれています。

この路地を西に進むと内野児童公園です。

小さな公園です

公園内の壇上には、平安京大内裏大極殿の跡を実測によって定め、
その中心地に建てられた高さ3㍍の大極殿遺址の碑があり、

傍に副碑が据えられ建碑の由来が記されています。

副碑は部分的に剥離し読み取れません。
『京の石碑ものがたり』より、この碑の大意を転写しました。
「大極殿遺址碑記
延暦十三年(794)、桓武天皇がこの地を選び、新しい都を建て平安京と呼んだ。
いまの京都のことである。それから千百年、現在に至るまで神州日本の古都であり、
世界に誇る都である。京都市民は桓武天皇の徳と功績を慕い、神社を創建し祭典を行い、
千百年記念の行事を行った。聞くところでは特に桓武天皇の霊を新しい神社に安置し、
官幣大社に列し、平安神宮と名付け、橿原神宮に準ずるという詔勅が出された。
これで京都は永遠に天皇の廟地となり、
周りをとりまく山河も光輝を益すことであろう。このことは実に国家の盛典であり、
京都の光栄である。そもそも大極殿は桓武天皇が特に思いを込めた場所であり、
荘厳な建物は国家の中心である。歴代の天皇が即位し、国民等しく
仰ぎ見る建物でもあった。しかし今では痕跡すら残っていない。
識者はこれを遺憾なことに思っていた。そこで史料を検討し、
実測を加え、その遺跡を確定し、石碑を建てて明らかにすることにした。
また紫宸殿等の遺跡と大内裏に四周を記し、後世に残すものである。
この碑を見れば、平安京の概略はつかめると思う。」
裏面には「明治二十八年十月廿二日」京都市参事会と刻まれています。


平安京の大内裏の位置は、現在の京都御所より西へ約2k近く離れた所にあり、
千本通を中心として東西1・1k(御前通から大宮通)、
南北1・5k(二条通から一条通)の広さをもち、
その中には内裏をはじめとして
朝堂院・豊楽(ぶらく)院以下、
二官八省の役所が建ち並んでいました。

皇居である内裏の位置は、現在の千本丸太町の東北、政務が執行される
最も重要な場である大極殿は千本丸太町辺にあたります。

大極殿は安元三年(1177)大火によって焼けてしまい、
以後国家的儀式は紫宸殿で行われるようになりました。
長い年月の間に大内裏は火災や台風・地震によって荒廃し、
平安時代中頃から有力貴族の邸宅を仮御所に利用することが多くなります。

これを里内裏と呼び次第に元の内裏は使用されなくなり、
里内裏が日常の皇居とされるようになります。
内裏跡は、中世になると内野とよばれる荒野になってしまいました。
今の平安神宮の拝殿は、大極殿を模造したものですが、
規模は当時の三分の二にすぎないといわれます。

内野公園内の平安宮朝堂院大極殿跡説明板




◆京都御所

現在の京都御所は、元は藤原邦綱の土御門東洞院殿のあったところで

北朝の光厳天皇が土御門東洞院殿で即位されて以来、明治二年までの
500年間皇居として用いられました。当時の皇居の規模は小さいものでしたが、
信長、秀吉、家康によって整備拡張され、現在の建物は安政二年(1855)に
再建されたものです。京都御所は平安京内裏そのままではありませんが、
平安時代の宮廷生活や儀式、古典文学の世界を偲ぶことができます。

京都御所略図は宮内庁のhpよりお借りしました。

◆お車寄 昇殿を許された者が参内する時の玄関です。

◆回廊東面にある日華門と西面にある月華門

◆回廊南面中央の承明門と紫宸殿

◆紫宸殿 即位礼、節会などの儀式が行われた皇居の正殿。
 扁額のかかっている真下を「額の間」といいます。

◆清涼殿・御常御殿 平安京内裏では、当初天皇の日常のお住まいとして、
 紫宸殿の背後に仁寿殿があったが、宇多天皇の頃から
 清涼殿が日常の御殿になったといわれます。
 時代がさらに下がると御常御殿が別に構えられ清涼殿も儀式用の御殿となります。

清涼殿の背面にたつ御常御殿

◆滝口 清涼殿の東庭にあり御溝水(みかわみず)の落ち口の所に、
 滝口の陣(詰所)があり天皇を警固しました。
 横笛の悲恋で知られる滝口入道も元は斉藤時頼という滝口の武士でした。

◆小御所 主に皇太子の元服や立太子礼に用いられました。

◆御涼所(おすずみしょ)夏を涼しく過ごすために風通しがよいように工夫されています。

◆飛香舎(ひぎょうしゃ)
藤壺皇后陛下の正殿、晴の式はここで行われました。
 飛香舎の南庭に藤棚があるので藤壺ともいいます。

沓脱(くつぬぎ)の部分  飛香舎の南簀子と南廂が見えます。
◆御池庭(おいけにわ)

◆ 御内庭(ごないてい)

◆皇后宮常御殿
16世紀末頃から皇后の日常のお住まいとして使用された御殿です。

◆御所車(牛車)

◆大極殿 平安神宮は平安宮朝堂院を模して建てられ、大内裏朝堂院の
正門 応天門を模して平安神宮応天門、大内裏朝堂院の正殿である
 大極殿を少し縮小して復元したものが平安神宮大極殿です。
『アクセス』
「大極殿遺趾碑」 京都市上京区千本通丸太町上ル西入(内野児童公園内)
市バス「千本丸太町」停下車すぐ
「京都御所」地下鉄丸太町駅又は地下鉄今出川駅下車
  拝観は毎年春、秋の一般拝観日
『参考資料』
井上満郎「平安京再現」河出書房新社 京都造形芸術大学編「京都学への招待」角川書店
井上満郎「平安京の風景」文英堂 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂
竹村俊則「京の史跡めぐり」京都新聞社 「御所・離宮」(財)菊葉文化協会

 

 
 

 



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