平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



法性山(ほっしょうざん)般若寺(真言律宗)は、奈良市の北部に位置し、
奈良坂(京街道)に面して建っています。般若寺バス停から坂道を北へ上ると、
優美な楼門(鎌倉時代・国宝)がまず目に入り、楼門(二階造りの門)からは
十三重の石塔(国重文)の均整の取れた美しい造形が望めます。

般若寺楼門
正門は南大門・中大門でしたが戦国時代の兵火で失われ、楼門だけが残りました。


般若寺の創建ははっきりしませんが、寺伝によると、飛鳥時代の629年に
高句麗の慧灌(えかん)が開いたとしています。
その他にも奈良時代の聖武天皇建立説や行基開基説など諸説があります。
どちらにしても、天平勝宝8年(756)の東大寺の古図に記されているので、
それ以前に創建されたことは確かです。

現在、奈良県庁の東をR369が南北に走っています。
この道を北に行くと京都に通じるので、京街道ともよばれ、かつて奈良と
京都の往来に頻繁に利用されていました。奈良坂はその途中にあり、
般若寺楼門の前から北上して木津(現京都府木津川市)・京都へ向かう道を
奈良坂越え(般若寺越え)とよぶ交通の要衝でした。
そのため、般若寺付近は平重衡の南都焼討、徳政一揆、
およそ半年間にわたり繰り広げられた松永久秀の
東大寺大仏殿の戦い・多門城の戦いの兵火にかかるなど、
多くの合戦の舞台となりました。

般若寺HPより転載した境内図に文字入れしました。

受付・拝観入口

楼門(鎌倉時代)国宝
般若寺楼門は1897(明治30)年に「古社寺保存法」により
(旧)国宝に指定され、戦後も「文化財保護法」(1950)施行と同時に
再び「国宝」に指定されました。
鎌倉時代、叡尊上人らによる
文永(1267頃)の際、文殊金堂と十三重石塔を囲む廻廊の西門として
建てられ、かつての境内の真ん中を貫く京街道に面して建っています。
室町・戦国時代には度重なる合戦の渦中におかれながらも
奇跡的に兵火をのがれました。楼閣づくりという意味の「楼門」
建築では日本最古の遺構です。はばたく鳥のつばさのような
軽やかな屋根のそりをもち、小さいながらも均等のとれた姿は
「最も美しい楼門」とたとえられています。全体の伝統の和様式で、
蟇股(かえるまた)や屋根を支える木組の肘木(ひじき)などに
新しく伝来した「大仏様」(だいぶつよう、天竺様とも)が折衷され、
二階の扉や欄干などにも軽快で繊細な感覚が見られます。
明治41年と昭和33年の大修理が行われましたが、
現在も各所に傷みが進行し修理が必要となっています。(
説明板より)



十三重石宝塔 重要文化財
(花崗岩製、総高14.2メートル、基壇辺12.3メートル)
奈良時代、平城京のため聖武天皇が大般若経を地底に収め
塔を建てたと伝えるが、現存の塔は東大寺の鎌倉復興に渡来した宋人の
石大工 伊行末(いぎょうまつ)が建長5年(1253)頃に建立した。
発願者は「大善功の人」としか判明しないが、完成させたのは
観良房良慧(かんりょうぼうりょうけい)で、続いて伽藍を再建し、
般若寺再興の願主上人と称された。以後数度の大地震や兵火、
廃仏毀釈の嵐に見舞われるも、昭和39年(1964)大修理を施し現在に至る。
初重軸には東面薬師、西面に阿弥陀、南面に釈迦、北面に
弥勒の四方仏を刻む。なお修理の際、塔内から発見の白鳳金銅阿弥陀仏と
その胎内仏は秘仏として、特別公開の時のみ公開される。(説明板より)

相輪だけが別に置かれています。
現在、頂上部分に置かれているのは後に補われたものです。
石造相輪(そうりん)
この相輪は十三重石塔の最上部に置かれる部分である。
石塔創建時(鎌倉時代、765年前)に造られた初代作で
大地震(南北朝か室町)で墜落し、三つに割れている。
昭和の初めに、国道(現県道)が般若寺旧境内を分断する形で
造られた時、工事現場で発見された。相輪は下から
露盤・覆鉢(ふくばち)・請花(うけばな)・九輪・
水煙・龍車・宝珠の七つの部分からなる。
二代目は本山西大寺の本坊庭に現存。
三代目(元禄16年作)は青銅製で当山に現存。
四代目は昭和の大修理の際、初代を模して新調された。
当相輪は、過去の大地震を記録する証しである。(説明板より)

戦国時代、旧金堂が焼けたあと寛文7年(1667)に再建された本堂。
本堂に安置されている本尊八字文殊菩薩騎獅(きし)像(
国重文)は、
再建の際に経蔵の秘仏本尊を移したものです。
文殊菩薩は、通常頭髪の結びを、
五髻(ごけい=五か所を結って髻が5
つある髪形)に
結っているのに対して、八字
文殊は八髻に結い、
真言も八字
で表されることからこの名がつけられています。

本堂前の般若寺型石灯籠
石灯籠(鎌倉時代、花崗岩製、総高3,14)
古来「般若寺型」あるいは「文殊型」と呼ばれる著名な石灯籠。
竿と笠部分は後補であるが、基台、中台、火袋、宝珠部は当初のもので、豊かな
装飾性を持つ。火袋部には鳳凰、獅子、牡丹唐草を浮彫りする。(説明板より)
灯籠の火を点す所を火袋(ひぶくろ)といいます。

重要文化財 笠塔婆(かさとうば)二基 (花崗岩製 南塔総高4,46m 北塔4,76m)

笠塔婆形式の石塔では日本最古最大の作例。また刻まれた
梵字漢字は鎌倉時代独特の雄渾な「薬研彫り」の代表作とされる。
弘長元年(1261))7月、宋人石工、伊行吉(いぎょうきち、いのゆきよし)が
父伊行末の一周忌にあたり、その追善と現存の悲母の供養のために建立した。
両塔の前面下部に伊行末の出身地、東大寺再建に従事したことなどその業績を記す。
当初は寺の南方にあったた般若野五三味(南都の惣墓)の入口、
京街道に面して建っていたが、明治初年の廃仏毀釈に遭い破壊され
明治25年に境内へ移設再建される。能の謡曲「笠卒塔婆」は本塔を題材にした
平重衡の修羅もので室町の頃は重衡の墓と見られていた。(説明板より)

2020年1月にスタートしたNHKの大河ドラマ『麒麟がくる』にも
初回から登場する
下剋上の代表的人物として悪名高い松永久秀。
その居城多門山城(たもんやまじょう)の部材が般若寺に残されています。

石塔部材群(鎌倉、室町、戦国時代)
戦国時代、般若寺の近く(南西700m)に松永弾正久秀が築いた
多門山城(現在市立若草中学校敷地)という城があって、
日本で最初の天守閣(四層櫓と推定される)を備え、壮麗な城構えは
ヨーロッパにまで名を知られていたといいます。松永は織田信長に敗れ、
城は信長の命令で打ち壊され、建物は京都へ、城壁石材は郡山城移されました。
石垣には寺の礎石や「般若野」(般若寺の南側にあった奈良の惣墓所)の墓石、
石仏などが徴発利用され、今も郡山城に多数残っています。
般若寺境内に散在する五輪塔、宝篋印塔、石仏などの部材は、
多門山城跡の住宅地(城の北側空堀跡・現在の呉竹町など)から
寺に奉納されたもので、元の「般若野」から運ばれたものと推定される。
 現在も若草中の南入口近くには大量の石仏などが集められている。
(階段下の右側にあり)
(説明板より)

松永久秀は三好長慶の家臣として頭角を現しますが、その権力を奪おうと
長慶の子の義興(よしおき)を暗殺します。さらに室町幕府
13代将軍足利義輝を暗殺して14代将軍に義栄(よしひで)を
擁立し、
畿内の支配者となりました。織田信長が上洛してくると、いち早く降伏して
その家臣となります。のちに謀叛を起こした久秀は、
居城信貴山城(奈良県生駒郡)に籠城しますが、織田信忠に攻め落とされ、
信長が欲しがっていた天下の名物「平蜘蛛の釜」とともに自爆して果てました。

大塔宮護良親王が唐櫃に隠れ危難を逃れた経蔵。

重要文化財 経蔵 (鎌倉時代)
お経の全集である一切経(大蔵経)を収納するお堂。
建物は当初、床のない全面開放の形式で建てられ
何に使われたかは不明であるが、鎌倉末期に改造された。
収蔵のお経は中国で南宋から元の時代に大普寧寺で開版された
「元版一切経」(5500巻)で800巻余が現存している。
般若寺の一切経は仏教の教学研究に利用されるとともに、
毎年4月25日(旧3月)の「文殊会式」では一週間かけて
「一切経転読供養」が営まれ滅罪生善の利益を授けることにも供された。
『太平記』によると「元弘の乱」のとき、後醍醐天皇の子息、
大塔宮護良親王が南都において討幕の活動をして敵方の探索にあい、
般若寺にかくまわれた際、当経蔵にあった大般若経の唐櫃に潜み
危難をのがれることができたという。本尊は旧超昇寺の脇仏であった
十一面観音菩薩像(室町時代)(説明板より)

三つの唐櫃のうち、大塔宮は蓋の開いているひとつに身を潜め、経で身を覆った。
『太平記絵巻』(埼玉県立博物館蔵)『太平記2』より転載。

大塔宮が隠れたという大般若経が納めてあった唐櫃(からびつ)
般若寺蔵 『太平記2』より転載。

『太平記』は、南北朝の動乱を描いた軍記物です。
後醍醐天皇の第3皇子、大塔宮護良(もりなが)親王は、11歳で
比叡山延暦寺に入り、法名を尊雲(そんうん)と号し、天台座主を
4年間務めました。比叡山の大塔に住んだことから、大塔宮と称され、
「修学修行」(=学びを深め、それを実際に行動で示すこと)をよそに、
武芸にばかり励む血気にはやる異色の門主でした。
天皇親政の時代を招くため、父の討幕計画の推進力となって活躍し、
後醍醐天皇にとって最も頼もしい皇子でした。

『太平記(巻5)大塔宮熊野落ちの事』によると、討幕計画がもれ、
後醍醐天皇が還幸されていた笠置山が幕府の大軍に攻められると
いち早く抜け出した大塔宮護良親王は、
信貴山毘沙門堂にひそみ、さらに奈良の般若寺に隠れました。
これを知った幕府方の追手興福寺の塔頭一乗院に仕える侍者、
按察法眼好専(あぜちのほうげんこうせん)は、五百余騎を率いて
未明に般若寺に攻め寄せてきました。大塔宮は防戦しようにも、
その時つき従う者が1人もなく、もはやこれまでと自害を決意しましたが、
その前にあるいは助かるかも知れぬ、隠れて見ようと思い返し、
お経を入れた唐櫃の中に身を隠して難をのがれました。
こうなっては奈良近辺は危ういので、般若寺を出て
赤松則祐(のりすけ)、村上義光ら9人のお供とともに
山伏姿に身をやつし、十津川、吉野、紀州熊野などを転々とし、
還俗してゲリラ戦を展開しました。

その後、倒幕に成功して建武の中興とよばれる天皇の親政による
天下の和平が訪れましたが、それも長くは続きませんでした。
父・後醍醐天皇のもとで大塔宮は、征夷大将軍に任じられながら、
最後は鎮守府将軍足利尊氏と対立して鎌倉に送られ、
東光寺の土牢に長期幽閉された末に殺害されました。
明治になって東光寺跡に大塔宮の霊を祀る
鎌倉宮が創建され、土牢が復元されています。

大塔宮が追手を逃れるため経蔵の唐櫃に
潜んだということをふまえて詠まれた和歌や俳句です。
♪般若寺は 端ぢかき寺 仇の手を 
            のがれわびけむ 皇子しおもほゆ 森鴎外
♪般若櫃 うつろの秋の ふかさかな 阿波野青畝(せいほ)


般若寺中興願主上人 観良坊 良慧大徳 追慕塔
戦火のため廃墟と化してした般若寺を復興した中興の祖、
観良上人を追慕するために建てられた五輪塔です。





♪般若寺のつり鐘ほそし秋の風 子規
般若寺の平重衡供養塔・藤原頼長供養塔  
『アクセス』
「般若寺」奈良市般若寺町221
JR・近鉄奈良駅よりバス青山住宅行「般若寺前」下車徒歩約5分
拝観時間9:00~17:00(最終受付16:30)
短縮拝観時間(1月・2月・7月・8月・12月)9:00 〜 16:00
拝観料金 大人500円 中・高生200円 小学生100円

聖武天皇が奉納と伝える秘仏阿弥陀如来公開
4月29日~5月10日  9月20日~11月11日
『参考資料』
「奈良県の歴史散歩(上)」山川出版社、2007年
 野島博之「図解日本史」成美堂出版、2007年
徳永真一郎「物語と史跡をたずねて 太平記物語」成美堂出版、昭和53年
日本の古典を見る「太平記(2)」世界文化社、2002年

 



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南都焼討の指揮を執った平重衡、保元の乱で戦死した
藤原頼長の供養塔が平成22年、般若寺に建てられました。

最寄りのJR奈良駅


平家による南都焼討は、治承4年(1181)12月のことでした。
4万余騎を率いて南都に向かった平重衡を、南都の僧兵7千余人が
奈良坂や般若寺に砦を築いて待ち構えていましたが、数にまさる
平家軍はこれらをたちまち陥落させ、戦いは夜戦となりました。
同年12月28日は闇夜、同士討ちを避けようと、
般若寺の門前で「火を出せ」と命じた重衡の一言が
のちの彼の運命を悲惨なものに変えました。
重衡の軍勢が松明のつもりで民家に放った火が、
強風に煽られ瞬く間に奈良の寺々の伽藍をのみつくしてしまい、
重衡は仏敵として恨みをかうことになります。

般若寺HPより転載した境内図に文字入れしました。

楼門(国宝)を入ると、すぐ傍に重衡の供養塔があります。



平重衡公供養塔
平清盛の五男。三位の中将。治承4年(1181)5月、
「以仁王の乱「を平定した後、12月11日には滋賀園城寺を焼討し、
同月25日に大軍を率いて南都へ向かう。
興福寺衆徒は奈良坂般若寺に垣楯、逆茂木を廻らせ迎え撃った。
28日、平家勢4万、南都勢7千が般若寺の地で戦い、
夜分に入り総大将重衡が般若寺の門前に立って「夜戦さになって、
暗さもくらし、さらば火を出だせ」と明かりを採る火を命じたのだが、
折からの北風にあおられた火は般若寺を焼き、東大寺興福寺など
南都の大伽藍を焼く尽くしました。後日、「一の谷」で平氏は源氏に敗れ、
重衡は「須磨」で囚われの身になり鎌倉に送られました。
しかし重衡を恨んでいた南都の大衆は身柄を引き取り、
木津川の河原で処刑し、その首を持ち帰り般若寺の門前に曝したという。
かつて般若寺の東の山裾に「重衡の首塚」と伝える塚があったが今は不明。
墓と伝えるものは京都伏見区日野、木津川市安福寺、高野山にもある。
武勇に優れた重衡は、また「なまめかしくきよらか」と評判で、
宮廷の女房方にも
人気のある公達でした。保元2年(1157)生。
文治元年(1185)6月23日示寂。享年29歳。(説明板より)

処刑された重衡の首については諸説あります。
『覚一本』によると、
木津川の畔で処刑された重衡の首は
南都僧兵によって般若寺の門前に曝されたという。

「奈良坂に懸けた。」(『愚管抄・巻5』)(『玉葉』元暦2年6月23日)
「首をば般若寺の大卒塔婆の前に釘付けにこそかけられけれ」
(『百二十句本』、『延慶本』)

釘付けにして懸けられたという大卒塔婆には、
『平家物語(下)P321』に次のような頭注が記されています。
「中川の実範上人が般若野の藤原頼長墓の道標として建てた
一丈余の石門(俗に笠卒塔婆)。
般若寺に現存する笠卒塔婆は、弘長元年(1261)宋の石工
伊行末(いのゆきすえ)の墓標として造られた別碑。」
ちなみに実範(しっぱん=中川中将上人とも)は、
藤原忠実・頼長父子が帰依した僧。

藤原頼長供養塔の背後に見える笠卒塔婆(国重文)は、かつて般若寺の
約150m南方の般若野五三昧という墓所にありましたが、
明治時代、この寺の境内に移されました。

この笠卒塔婆は、平重衡の首塚であるといわれたこともありますが、
卒塔婆に刻まれた碑文が解読された結果、
1基は宋人石工伊行吉が建立した父伊行末の墓標、1基は母の
無病息災を祈って弘長元年(1261)に建てたということが判明しました。

経蔵(重要文化財)横手に藤原頼長の供養塔が祀られています。


藤原頼長公供養塔
平安後期の人。摂政関白藤原忠実の次男。若くして内大臣(17歳)、
左大臣(29歳)となり朝廷政治に辣腕をふるう。
「日本一の大学生(だいがくしょう)」と称賛された俊才であったが、
崇徳天皇に仕え、「保元の乱」の謀主とされた。
合戦の最中流れ矢が首に刺さり重傷を負い、
奈良興福寺まで逃れたが落命す。
遺骸は「般若山のほとり」(般若寺南にあった般若野五三昧)に
葬られるも、京都から実検使が来て墓を暴いたという。
保安元年(1120)生まれ、保元元年(1156)7月14日逝去。享年37歳。
お墓は北山十八間の東方の位置だと思われるが、所在不明。(説明板より)

「般若野の五三昧(ごさんまい)」とは、都近くにあった五か所の
火葬場(山城の鳥辺野・船岡山、大和の般若野など)のひとつで、
奈良坂の南、般若寺の南側にあった南都の惣墓所です。
奈良坂は山城国と大和国を結ぶ古代からの街道で、
奈良市の北から京都府木津川市に出る坂道です。

保元元年(1156)秋のはじめ、都を舞台に後白河天皇と
崇徳上皇が敵味方となって保元の乱が勃発しました。
皇室内部では皇位継承に関して不満を持つ崇徳上皇と
後白河天皇が、摂関家では藤原頼長(よりなが)と
兄の忠通(ただみち)とが激しく対立、
皇室・摂関家のふたつの内部対立が絡み合って起こりました。

それでも鳥羽法皇が生きている間はなんとか
抑えられていましたが、その死を契機に
一気に対立は深まり、崇徳上皇と左大臣藤原頼長らは、
京都の鴨川の東、白河殿に立て籠り
源為義・平忠正らの軍勢を招きました。

一方、後白河天皇・藤原忠通側は源義朝・平清盛らを動員しました。
戦いの結果は、崇徳上皇側の敗北に終わりました。
敗れても貴族はじめ主な武士に戦死者がいない中で、
頼長だけが流れ矢を首に受けて深手を負い、それがもとでの死、
上皇は讚岐国(香川県)に配流、
為義・忠正ら武士たちはことごとく殺されました。

乱の10日後、頼長の母方の親戚、興福寺の僧玄顕(げんけん)から
合戦後、行方の分からなかった頼長の消息が朝廷に報告されました。
頼長は合戦で首に矢が刺さる瀕死の重傷を負いながらも、
舟で大堰川(おおいがわ=桂川)を下り、
木津川をさかのぼって南都まで逃げ延び、禅定院にいる
父忠実にすがろうと対面を申し出ましたが、拒絶されたため
興福寺の千覚(頼長の母の兄弟)の坊に担ぎ込まれ、
失意のうちに息をひきとったという。その夜、輿に乗せられ
般若寺付近に葬られました。合戦から3日後のことでした。

禅定院は、興福寺の僧成源が元興寺の子院として創建した寺です。
忠実は内乱に巻き込まれるのを避けて宇治にいましたが、
崇徳上皇方の敗北を聞き禅定院に逃れたのです。

頼長の末路が朝廷に報告されると、すぐに検視の役人が派遣され、
般若野に埋められていた頼長の死体を掘り暴きその死骸を確認しました。
これは後白河天皇方のブレーンであった信西(藤原通憲=みちのり)の
さしがねによるものだといわれています。
こうして死骸は般若野に捨てられたままになってしまいました。

頼長がまだ若いころ、尊敬していた信西にあなたは摂関家の
息子さんなのだから学問に励みなさいと勧められ、
信西を学問の師としましたが、学才優れた頼長は4年で
この大学者の信西を凌いでしまったとか、
信西が立身を諦めて出家する時、頼長がそれを惜しんで
泣いたというというエピソードが残っています。
それが保元の乱では相争うこととなったのですから、
考えてみれば皮肉な運命です。

藤原忠実(ただざね)は、優秀な次男の藤原頼長を溺愛し、
長男藤原忠通(ただみち)に関白職を弟に譲るよう迫りましたが、
応じなかったことから、「氏長者(藤原氏の本家)」を
忠通から強引に奪い、頼長に与えました。この結果、
忠実・頼長と忠通との対立が決定的となりました。
忠実は保元の乱の際には、表立っては関わりませんが、
頼長の後ろ盾とも黒幕ともいえる人物なのです。

あれほど頼長を可愛がっていたはずなのに、
忠実は藤原摂関家を守るために中立の立場を取り
我が子を見捨てました。このあと、
『保元物語』(左府御最後付けたり大相国御欺きの事)は、
忠実は心強く頼長を追い返したものの、
人の親として悲しみを語り、涙にくれる姿を記しています。

般若寺の門前で放った火が寒風に煽られて大きく燃え広がり、
奈良坂を駆け下り、東大寺・興福寺などを焼き尽くしてしまいました。

前回参拝した時は、楼門前の道を南へ進み、
坂を下って東大寺まで歩きました。(平成19年12月撮影)
↑奈良公園 ←柳生の標識
この坂こそ治承4年(1181)12月、平家方が放った火が駆け下った道です。

転害門(てがいもん)前(東大寺)の標識
平重衡南都焼討ち(般若寺・奈良坂・東大寺・興福寺)  
京都市の相国寺に藤原頼長の墓があります。
崇徳地蔵・崇徳天皇廟・藤原頼長桜塚・白峯神宮(保元の乱ゆかりの地3)  
『アクセス』
「般若寺」奈良市般若寺町221
JR・近鉄奈良駅よりバス青山住宅行「般若寺前」下車徒歩約5分
拝観時間9:00~17:00(最終受付16:30)
短縮拝観時間(1月・2月・7月・8月・12月)9:00 〜 16:00
拝観料金 大人500円 中・高生200円 小学生100円
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年 
倉富徳次郎「平家物語(下巻2)」角川書店、昭和52年
 日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」日本放送出版協会、平成16年
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年

 

 

 

 



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玉龍山泉橋寺(せんきょうじ)は山城町の南端、泉大橋の北詰、
木津川の堤防下にある浄土宗の寺で俗に橋寺とよんでいます。

天平13年(741)に行基が泉川(木津川)に橋を架けた時、
供養のために建立した橋寺で、これに因んで寺名を泉橋寺としました。
以後、行基が建てた五畿内四十九院の一つとして長く橋の管理にあたりました。
往時は寺域も広く、本堂以下五重塔・鐘楼・経蔵・鎮守社
・方丈など多くの建物がありましたが、
治承4年(1180)平重衡の南都攻めの時に焼失しました。
その後金堂・講堂などが再建され、東・北・西の3方に堀をめぐらし
堀の外北東には五重の塔があったという。
しかし、寺は中世の兵火で次第に衰微していきました。

大正7年(1918)の発掘調査で寺より東北100mの畑の中に
創建当時の塔心礎が発見されています。

京都と大阪を結ぶ国道24号線の木津川に架けられた泉大橋。
行基によって泉橋寺の門前に架けられた橋は、川の流れが早いため、
洪水の際、たびたび流されるので、貞観18年(1893)朝廷は
船三艘を購入して泉橋寺に施入し、人馬の渡しに備えていました。

桂川、宇治川、木津川が合流し、淀川になる三川合流地
右岸側を大山崎という。三川合流地点から25㎞。


表門

日文研HP 『拾遺名所都図会』巻四 画像66より転載。

江戸後期の『拾遺名所都図会』の挿絵で見る寺は地蔵堂を主とし、
表門・庫裡および地蔵石仏からなっていますが、
現在は地蔵堂は観音堂となり、新たに本堂兼庫裡が建っています。
本堂には、鎌倉時代作の本尊地蔵菩薩立像を安置しています。
この像は上半身は裸形で、下半身に
裳(も=腰部につけるスカート状の衣服)をまとっている珍しいものです。

観音堂

本堂兼庫裡

『拾遺名所都図会』の挿絵に「神功皇后塔」としるした石塔、
かつて光明皇后の遺髪塔といわれた五輪石塔は、境内の東南隅にあります。

南都焼討の犠牲者を供養した五輪塔(重要文化財、鎌倉時代、高さ 2・4m)

基壇の側面を二区に分かち、格狭間を入れ、四方とも束・羽目・地覆を
一石で組み立てているのを特色とする。古来光明皇后の
遺髪塔といわれてきたが、先年移転に際して多くの遺骨が発掘され、
治承四年(1180)平重衡の南都攻めの折の犠牲者の
供養塔であることが分かった。(『新撰京都名所圖會 巻6・洛南2』)

「格狭間(こうざま)」須弥壇 (しゅみだん) や仏壇などの
基壇部の側面を装飾するために施された刳 (く) り物。

「壇上積」直角に加工した石材を規則的に積み上げた基壇です。
積み上げる石は、もっとも下層が「地覆石(じふくいし)」、
次に「羽目石(はめいし)」「束石(つかいし)」、
そしてその上に「葛石(かつらいし)」と積層構造になっています。
「反花(かえりばな)座」 仏像の蓮華座で上向きについた蓮弁。


寺の入口西側(左手)の山城大仏と称される地蔵石仏は
鎌倉時代作の花崗岩の巨大な丈六(458Cm)座像です。兵火を浴びて
仏身は焼けただれていますが、なお鎌倉時代の様式をとどめています。



泉橋寺
泉橋寺は、奈良時代の高僧・行基によって、木津川に架けられた
泉大橋を守護・管理するために建立された寺院である。
その門前にある地蔵石仏は、永仁三年(1295)に石材が切り始められて、
その十三年後の徳治三年(1308)に地蔵堂が上棟・供養されたもので、
またその願主は般若寺の真円上人であった。その時、
地蔵石仏の本体は ほぼ完成していたとみられるが、台座と光背は、
その後に完成が目指されたもので、この地蔵石仏の造立が
いかに大がかりなものであったかが偲ばれる。
一四七0年頃から応仁の乱の影響が南山城地域にも及び、
文明三年(1471)に大内政弘の軍勢が木津や上狛を攻めて
焼き払った際に、泉橋寺地蔵堂も焼かれて石仏も焼損、それ以来
地蔵石仏は露座のままとなっている。現在みる地蔵石仏の頭部と両腕は、
元禄三年(1690)に補われたものである。(説明板より)

平重衡南都焼討ち(般若寺・奈良坂・東大寺・興福寺)  
『アクセス』
「泉橋寺」 京都府木津川市山城町上狛西下55
JR上狛(かみこま)駅より徒歩約17分。
または、コミュニティーバスで山城線(木津駅行きのみ停車)泉大橋下車、徒歩約3分。

『参考資料』
竹村俊則「新撰京都名所圖會 巻6・洛南2」白川書院、昭和40年
竹村俊則「今昔都名所図会(洛南)」京都書院、1992年
「京都府の歴史散歩(下)」山川出版社、1999年

 

 

 



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