平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




六波羅は、北は五条大路(現、松原通)から南は七条大路(現、七条通)、
西は鴨川東岸から東は東山麓に及ぶ広大な地域をいいます。
最盛期には、清盛の邸宅泉殿を中心に鴨川の東、
五条から六条付近にかけて平家一門の館が建ち並んでいました。
小松殿とよばれた重盛の邸は、小松谷の入口
(現、東山区馬町交差点辺)から東にかけてあり、一門の邸宅の中では
後白河院の法住寺殿に一番近いところにありました。

当時、この地は郊外で、古代からの葬送地である鳥辺野に隣接し、
鳥辺野への道筋でした。五条大路末が清水寺へ通じていたこともあり、
信仰の場として発展し、六波羅蜜寺・六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)・
念仏寺などが建ち並び、冥界への入口といわれていました。
六波羅密寺や六道珍皇寺、六道の辻の碑などは今も残っています。

この地に目をつけた
清盛の祖父・正盛が天仁3年(1110)に
六道珍皇寺の土地の一角を借り、常光寺(正盛堂)を建てたのが始まりです。
清盛の父の忠盛そして清盛へと受け継がれ、
平氏一門の邸宅が軒を連ねる六波羅へと展開していきました。

正盛時代には一町四方ほどの地でしたが、平治の乱勝利後、平家の勢いが
急速に強大となり、最盛期には二十余町(約9万坪)に及ぶようになり、
平安時代末になると、六波羅密寺付近一帯には平家一門の館が建ち並んでいました。
死者を葬る鳥辺野に近い土地を敢て選んだのは、地価が安かったことや
渋谷越を経て東国、伊賀、伊勢へ行くのに便利な場所だったからです。

伊賀伊勢地方は伊勢平氏の出身地で、一族が勢力を築いた地です。
平家都落ちの朝、邸宅は一門の手で焼き払われ、
今はわずかに残る町名が当時を偲ぶよすがとなっています。

(京都アスニー展示・京都市歴史資料館蔵 『平清盛院政と京の変革』より転載。)
南から見た状況。中央近くに見えるのが六波羅蜜寺、西側の池がある邸宅が頼盛の池殿です。
六波羅邸の西側は鴨川東岸の河原まで広がっていたと推定されています。



平安時代の葬送の地、鳥辺野の入口にあたる六道珍皇寺門前の「六道の辻」の碑。
珍皇寺の門前は賽河原(さいのかわら)と伝えられ、
あの世とこの世の境界とされていました。

京都の人たちは、珍皇寺で行われる精霊迎えの六道詣りのことを
「六道さん」とよんでいます。
普段はひっそりしている境内も露店がたち並び、
迎え鐘をつく人や高野槙(こうやまき)を求めて精霊迎えする人々で賑わいます。

西福寺前、鳥辺野への道筋に建つ「六道之辻」の碑。
この辻を南へ曲がると、すぐに六波羅密寺が見えてきます。
西福寺は六道物語の絵解きで知られています。

◆三盛町(柿町通六波羅裏門通西入)は、もと泉殿町とよばれ、
広い庭園がある清盛の邸・泉殿跡です。

泉殿南方の◆池殿町(六波羅裏門通西入)は、忠盛が晩年住んでいた邸で、
忠盛の死後、後妻の頼盛の母(池ノ禅尼)が
伝領した池殿があった所です。
後に頼盛が住み、この邸宅はしばしば御所となりました。
池殿は泉殿より規模が大きく、
清盛の娘徳子が安徳天皇を生んだのも
高倉天皇が崩御したのもこの邸です。安徳天皇産湯の井(妙順寺)  


多門町・北御門町・西御門町・弓矢町も平家ゆかりの町名といわれています。
◆多門町(六波羅裏通東入)
六波羅の総門は東に向って開かれており、多門町 は総門にちなむ地とされています。
◆北御門町(大黒町通松原下一丁目)は、平氏六波羅の北の総門跡。

◆門脇町(六波羅裏門通二筋目西入)には、六波羅総門脇に
清盛の弟の
平教盛(のりもり)の門脇殿(かどわきどの)があったとされています。

清盛の嫡男重盛の小松殿は六波羅の東南、
現在の馬町交差点から渋谷通の東側辺にあったと推定されています。
小松谷正林寺の阿弥陀経石 平重盛(2)  
小松殿の庭園跡と推定されている積翠園
積翠園 平重盛(3)  

 
建仁寺勅使門 
六波羅の重盛邸(教盛邸とも)から移したといわれ、
扉に戦乱の矢傷があるので矢ノ根門とも矢立門ともよばれています。

ちなみに建仁寺の町名は小松町です。
また、東福寺本坊伽藍の南にある総門は、平氏の六波羅門とも
六波羅探題の門とも伝えています。

門脇町・池殿町の東側には、洛東中学校があり、
校門傍に「此附近平氏六波羅第 
六波羅探題府」の石碑がたっています。
この付近一帯には平氏一門の邸宅六波羅第とその後、
鎌倉幕府によって設置された六波羅探題がありました

現在、この碑は六波羅蜜寺の境内に移されています。


平家滅亡後、源頼朝は池殿跡に邸を新築して上洛の際の宿舎とし、
これが後の鎌倉幕府の六波羅政庁(探題)となり、京都を抑える拠点となりました。

六波羅蜜寺境内に移された「此附近平氏六波羅第 六波羅探題府」の石碑(平成28年10月撮影)

六波羅密寺は平安中期に浄土教を広めた空也上人開基の寺で、
当初は西光寺とよばれていましたが、
空也上人没後弟子中信が六波羅蜜寺と改めました。その後、清盛の時代になると、
六波羅密寺の境内地を中心にして平家一門の邸宅が建ち並びました。

六波羅での発掘調査は少なく、まだ建物などの跡は見つかっていませんが、
六波羅密寺旧境内の調査で、平安時代後期の瓦などが出土しています。


経を読む入道姿の清盛坐像のポスター

寺は西国三十三ヵ所霊場の第十七番札所としても知られています。



本堂南側に平清盛の塚と平景清の恋人阿古屋塚が並んでいます。

景清の行方を詮議される「阿古屋の琴責め」は
浄瑠璃や歌舞伎の題材となり、人気を博しています。
景清伝説地(阿古屋塚)  

追記:平成23年11月、坂東玉三郎が奉納し、風雨による劣化防止を目的に、
阿古屋塚と平清盛塚を屋根で覆うなど周辺が整備されました。






六波羅蜜寺のある轆轤(ろくろ)町は、六道の辻にあたり、昔は
髑髏(どくろ)町という町名でしたが、江戸時代に現在の名に改められました。

産経新聞2019年5月17日(金)朝刊より追記
京都市東山区で見つかった平安時代末期の
武家屋敷の遺構とみられる堀跡


 京都市東山区で平安時代後期から末期にかけて平家一門が設けたとみられる
武家屋敷の防御用の堀跡が出土したと、
民間調査会社「文化財サービス」が16日に発表した。

平家が拠点として整備した「六波羅(ろくはら)」と呼ばれる一帯にあり、
六波羅から平家に関連する遺構が見つかったのは初めてという。
 現場は世界遺産・清水寺から西に約1キロの地点で、堀跡は幅3メートル、
深さ約1・3メートルの逆台形で東西約15メートルにわたる。
堀の南側を沿ったかたちで堤防状の土塁跡も出土。
堀の西側の約5メートルが土で埋められており、

倒壊防止用の石垣が組まれていた。
石の積み方はほぼ同時期の白河天皇陵の石垣に類似しているという。
 出土した土器や瓦などから、堀は平清盛の祖父、正盛が邸宅を構えるなど
六波羅に拠点を置いた12世紀前半に整備されたと推定される。
当時は世情が不安定で、
平家一門を守る目的だったとみられる。その後、
清盛が政治の実権を握ったことで戦乱が治まり、

堀は13世紀前半に鎌倉幕府が朝廷の監視や西国の支配を目的に
「六波羅探題(たんだい)」を設けたころにはすべて埋め戻された。
 中井均・滋賀県立大学教授(日本考古学)は
「堀は区画を示す考え方もあり、
武家屋敷を方形に囲む
後世の手法につながった可能性もある」と話している。

調査地(東山区五条橋東4丁目450-1他
平氏の拠点六波羅邸の堀跡発見  
『アクセス』 
「六波羅蜜寺」京都市東山区松原通大和大路東入轆轤町 市バス清水道下車 徒歩10分
「建仁寺」京都市東山区大和大路通四条下ル小松町・市バス清水道下車 徒歩10

「洛東中学校」京都市東山区六波羅裏門通り東入多門町 
『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂  竹村俊則「鴨川周辺の史跡を歩く」京都新聞社
石田孝喜「続京都史跡事典」新人物往来社 井上満郎「平安京再現」河出書房新書
加納進「六道の辻」室町書房  別冊太陽「平清盛」平凡社 
京都市埋蔵文化財研究所監修「平清盛 院政と京の変革」ユニプラン
 

 



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崇徳院と後白河天皇の確執を発端とした保元の乱で、源義朝は清盛とともに
後白河天皇に味方し、崇徳院方に勝利しましたが、この恩賞で
清盛との差がついていました。 義朝はその恩賞を取り仕切っていた
藤原信西に強い怒りを覚えます。
後白河院近臣の藤原信頼もかつて朝廷内で絶大な権力を持っていた
信西に出世の邪魔をされ、やはり信西に恨みを抱いていました。

平治元年(1159) 義朝と信頼は手を結び、清盛が熊野詣に出かけ
都を留守にした間に兵をあげ、信西を殺してしまいます。
その上、二条天皇と後白河院を幽閉しました。
清盛が攻め寄せても、天皇がこちらについている以上、
彼らは謀反人となります。知らせを聞いて慌てて都に戻った清盛は、
天皇と院を何とか奪い返すことに成功しました。
天皇、院を奪われ、義朝と信頼は賊軍となり、
清盛が官軍となってしまいました。
 

二条天皇が救い出されて、六波羅が御所になると
関白、太政大臣以下公卿殿上人が続々と参上しました。
内裏にいた武士たちも踵を返し六波羅へと馳せ参じます。
六波羅には車、人、馬が込み合って鴨川の河原まで埋まるほどです。
やがて集まった公卿による詮議がはじまりました。大内裏は
2年前信西の尽力で新築したばかりで炎上させるわけにはいきません。
「負けたように見せかけ大内裏を退き火災のないようにせよ」と
公卿詮議による結果勅命が下されました。

官軍の大将軍は三人です。清盛の嫡男重盛、清盛の弟頼盛・教盛、
清盛は仮の皇居を守るため六波羅に残ります。
その勢三千余騎、六条河原に打ちいで馬の鼻を西へ向てぞひかへたり。
左衛門佐重盛は生年22歳、その出で立ちはというと、大将が身に着ける
赤地の錦の直垂にはじの匂いの鎧、腰から下をおおう草摺は、
家紋の蝶をかたどった金物が打ってある。
冑の緒を締めて平貞盛より代々平家に伝わる小烏という太刀を帯(は)き
切生の矢を負い、重藤の弓を持って、黄鴾(つき)毛の馬に柳桜をすった
貝鞍を置かせて打ち乗った。あっぱれ大将軍かな!
「年号は平治也、花の都は平安城、我らは平家也。三事は相応していて
どうして今日の戦いに勝たないことがあるだろうか。」
(『三事相応』すべてに「平」の字がついていることをいっている)
と重盛が勇ましくはっぱをかけると、兵士たちから気勢がどっとあがった。

迎え撃つ側は八百余騎、平治元年12月26日
昨日の雪ふりて消えやらず、庭上(ていじょう)に朝日さし、
紫宸殿にうつろひて物の具の金物ども
耀(かがやき)合て、ことに優にぞみえたる。

総大将悪右衛門督信頼卿生年27歳、その内心は分からないが
体格・見目ともによく、その上立派な武具を身に着けているので、
こちらもあっぱれな大将ぶりです。
馬は奥州の基衡が、陸奥国一の名馬といって院に献上した
たくましい黒馬に金覆輪の鞍を置き、
左近の桜の木の下に東向きに引き立てます。

武士の大将・左馬頭義朝生年37歳はというと、薄黄色の直垂に獅子の丸の
裾金物を打った黒糸縅の鎧を着け冑の緒を締め、厳物つくりの太刀を帯き
黒羽の矢を追い、節巻の弓をもって、黒鴾毛の馬に黒鞍を置いて
紫宸殿の大庭の東門に引き立てます。
嫡子悪源太義平は19歳、次男中宮大夫進朝長は16歳、
それぞれ美しい装束に身を固め勇ましげに馬を引き立てます。

三男右兵衛佐頼朝は、絹の直垂に源太が産衣という鎧を着け、
白星の冑の緒を締め髭切の太刀を帯き、12本差したる染羽の矢を負い、
重藤の弓を持ち柏の木にみみずくのとまっている模様を
青貝ですり出した鞍を置いた栗毛の馬を引き立てた。
この源太産衣と髭切の太刀は源氏重代の武具の中でもことに秘蔵の品であった。
かって八幡太郎義家の幼名を源太といい、源太が2歳の時、
院が「源太を連れてまいれ」と仰せられ、急いで鎧を縅、
鎧の袖に源太をのせて参上したので源太が産衣と名付けられました。
鎧の胸板に天照大神、正八幡大菩薩と鋳づけ左右の袖には藤の花が
咲きかかっているさまを縅(おど)したものです。

源太産衣と髭切は、代々嫡子に譲られたので、悪源太義平が賜るはずでしたが、
後に大将となる兆しでもあったのでしょう三男頼朝に授けられました。
※「はじの匂いの鎧」上は赤黄色で下にいくほど、ぼかすように縅した鎧
※「重藤(しげとう)の弓」藤を巻きつけた弓
※「節巻の弓」竹の節を藤で巻いた弓
※「鴾(つき)毛」馬の毛色の一種、地肌は赤みをおびた白い毛で、
       これに黒色・濃褐色の毛が混じっているもの
※「物の具の金物」武具の金具
※「厳物(いかもの)つくり」金具が全部銀製
※「獅子の丸の金物」獅子の形を丸くした模様の金物
頼朝は兄義平、朝長、父の腹心鎌田正清を見まわして「まもなく六波羅より
平家が押し寄せてくる。敵の機先を制してこちらから攻め込みましょう。」と
おっしゃるので13歳とはとても思えず大人びて見えます。
天竺・震旦(しんたん)はいざ知らず、我国において
源義朝の一党に優る武士があるようにも見えません。

「もし今度の合戦に負けたなら東国へ下り、家来を集め後日都に攻め上り
平家を滅ぼし源氏の世にしよう。」と義朝は強がりをいうが、
源頼政や天皇親政派の源光保と光基は
「保元の戦いで藤原頼長の御前で義朝の父為義が同じようなことを
申されましたが、負けてしまわれました。
その時降伏してきた父為義の首を義朝が斬ったが、
平治の今は如何であろうか分からないよ。」と
早くも心変わりしたように見えます。

 大鎧の画像は風俗博物館よりお借りしました。

鎧は札(さね)と呼ぶ短冊形の小片を細い革紐で連結して一段とし、
さらにこれを数段革または絹の紐で通し連結してつくる。(縅・おどす) 
貫(つらぬき)は毛皮の沓(くつ)

画像は丸十人形店よりお借りしました。

 『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 古典講読シリーズ日下力「平治物語」岩波セミナーブックス 
鈴木敬三「有職故実図典」吉川弘文館

 

 

 
 
 

 

 
 
 


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京都市上京区の山中油店前に「平安宮一本御書所跡」の碑と駒札が建っています。
平安時代、この付近は内裏の東側にあたり、
一本御書所(いっぽんごしょどころ)があった所です。
これは天皇が読まれる書物を書写し、所蔵した役所で内裏の西北隅にあり、
平治の乱の際、後白河院が藤原信頼・源義朝軍に
院御所の三条東殿から連れ出され幽閉された場所です。この時、
二条天皇は清涼殿の一隅の黒戸御所(くろとのごしょ)に監禁されました。



平安宮一本御書所跡 (現地駒札)
平安時代、この附近は天皇の住まいである内裏の東側に当たり、
一本御書所があった。一本御書所は、平安中期の天暦2年(948)頃から
『貞信公記(ていしんんこうき)』などの文献に現れ、世間に流布した書籍を
各一本(一部)書き写して保管・管理した所で、侍従所の南にあって、公卿別当を
もって長官に任じ、その下にあって預や書手(しょしゅ)などの役があった。
『日本紀略』康保元年(964)10月13日条には、一本御書所で清書した222巻を
大蔵省の野御倉に遷納したころが記されている。また平安時代後期には、
鳥羽天皇や崇徳天皇が度々ここに行幸されている。
『平治物語』によると、平治の乱(1159)に際して、藤原信頼らが後白河上皇を
一本御書所に押し込めたことが書かれ、つとに有名である。なお陽明文庫本
『宮城図』にはこの付近を御書所と記しているが、
『西宮記(さいきゅうき)』によると、内裏外郭北門(朔平門・さくへいもん)
西の式乾門(しきけんもん)の内の東掖門(えきもん)には御書所があったとし、
天皇の書物等を管理する内御所所は内裏内の
承香殿(じょうきょうでん)の
東片廂にあったとする。





山中油店前の道標には「左妙心寺、右ほり川」と刻まれています。

ゆっくりと回る山中油店の水車
三条東殿址・信西邸跡(平治の乱のはじまり)  
『アクセス』
「平安宮一本御書所跡の碑」
京都市上京区下立売通智恵光院西入508「山中油店」前
市バス「丸太町智恵光院」下車徒歩3分 
バス停東側の道を北へ、交番所前を左折してすぐ
『参考資料』
 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 
 石田孝喜「続京都史跡事典」新人物往来社
 古典講読シリーズ日下力「平治物語」岩波セミナーブックス
  
 
 
 





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保元の乱後、政治家として華々しい活躍をした信西(藤原通憲)も
平治の乱(1159)では、宇治田原の山中で命を落とし、
その首が大路を渡され西獄門の樹上にさらされました。

家柄の低い家に生まれた信西が後白河天皇の近臣となり、
政治の中枢に身をおくことになった経緯や保元の乱で
協力して崇徳上皇方を倒したはずの源氏と平氏がなぜ対立し、
平治の乱で敵味方に分かれて戦ったのか
そのきっかけを見てみたいと思います。

信西(1106~59)の家系は、藤原氏傍流の南家出身で
曽祖父、祖父とも文章博士・大学頭をつとめる代々学者の家柄です。
父の文章生(もんじょうせい)蔵人実兼が通憲7歳の時、
28歳の若さで急死したため、祖父藤原季綱(すえつな)のいとこで
富裕な受領高階(たかしな)経敏の養子となり姓を高階に改めます。

待賢門院の判官代さらに鳥羽院の判官代となり、院の側近に
のし上がり、政務の中枢に参画するようになりました。
信西は天文・仏教・詩文さらに管弦などあらゆる道に秀で
当時並ぶ者のない学者でした。
鳥羽院の傍近くに仕えることができたのは、
彼の博識多才のためといいます。

しかし、仕えた鳥羽院の近臣の家柄は固定化していたので、
折角の才能を発揮する機会がなく出世は遅れ、
官位をあげてほしいために出家を公言します。
この抗議が実ったのか、翌年、院判官代でしかなかった
通憲(みちのり)は少納言となり藤原氏に復姓しますが、
これ以上の地位は望めぬと思ったのでしょう。
半年後の天養元年(1144)、出世をあきらめ出家し信西と称します。

この頃、左大臣藤原頼長に出家の動機として自分の才能を
生かすことのできない政界への恨みを語っています。
若いころの頼長は、信西を非常に尊敬し学問の師と仰いでいたのですが、
保元の乱では二人は
敵味方にわかれることになります。

出家後の活動は目覚しく、鳥羽院の命で歴史書『本朝世紀』の編纂、
大悲山峯定寺の由来・沿革を著した『大悲山縁起』を完成させたり、
『日本書紀』の注釈書を著し学者として充実した日々を送っています。

やがて後妻に雅仁親王(後白河)の乳母藤原朝子(紀伊局)を
迎えたことから、信西の立場は大きく変わり、
政界の中心人物になっていきます。
当時は乳母の夫も乳母夫(めのと)とよばれ近臣として政治的権力を
振るう者が多く、信西も雅仁親王の後見となります。

鳥羽院の晩年、その寵が近衛天皇を生んだ美福門院に傾き、
不遇な待賢門院が今様や様々な雑芸に楽しみを見つけたのを
間近にみていた雅仁親王は、何となく影響を受けたのでしょう。
好きな今様を一日中うたって気楽に過ごし、
「遊びが派手で即位すべき器でない」と父の鳥羽院を嘆かせています。
このような雅仁親王の即位を画策し、実現させたのが信西です。



鳥羽院が崇徳天皇の皇位を奪い即位させた近衛天皇があとつぎがないまま
17歳で亡くなると、その死は摂関家の藤原忠実(ただざね)・頼長父子が
呪詛したためという噂が流れ、頼長は宮廷内で孤立します。
そのころ摂関家では、忠通(ただみち)と弟の頼長の間で
家長の地位の継承をめぐる争いがあり、
噂は忠実・頼長両人の
失脚を図った忠通が流したといわれています。

近衛天皇没後、美福門院(びふくもんいん)は娘の八条院を
皇位に就けることを望みますが、それが無理ならと
守仁親王(二条天皇)の即位を摂関家の忠通とともに強く推します。
早くに母を亡くした親王は、美福門院に引き取られ養子になっていました。
父の雅仁親王(後白河)と違い賢く帝位に相応しいといわれ、
今様にうつつをぬかす雅仁親王については論外でした。

そうした状況において乳母夫の信西は摂関家の忠通を動かし
「父をさしおいて子が帝位につくのは不当である」と訴えて認められます。
守仁親王に次の皇位を約束した上でリリーフ役として
雅仁親王が皇位に就くことになり、
崇徳上皇の子重仁(しげひと)親王の皇位の望みは絶たれます。
重仁を即位させたかった上皇はこれに強く反発します。
一方、摂関家では頼長の内覧の地位が解かれ失脚します。

後白河天皇が即位した翌年の保元元年(1156)、
鳥羽院が鳥羽殿で没しました。院は死に臨んで近臣の信西に
「摂政・大臣が心をあわせて美福門院を大切にするよう」申し渡され、
「崇徳には死後も自分とは対面させるな。」と遺言したといいます。
後白河天皇の即位に不満をもっていた崇徳上皇は、
乱を起こさざるをえない立場に追い込まれ、さして親しくもない
頼長と結びつき、一方の後白河天皇には忠通が接近しました。

鳥羽院が没するのを待っていたように、対立する二つの勢力は、
源平一族を巻き込んで保元の乱(1156年)を引きおこしました。
この乱で辣腕を振るった信西は源平の武士を采配し、源義朝が提言した
夜討ちに賛同し、崇徳上皇方を破り後白河天皇を勝利に導きました。

夜襲を提案しめざましい活躍をした下野守源義朝は、
昇殿を許され左馬頭(さまのかみ)に昇進しましたが、
所領は増えませんでした。その上、信西のさしがねで父為義や
弟為朝などの助命はかなわず一族の多くの武将を失います。
恩賞は平家一門に手厚いものでした。
その恩恵を取り仕切っていたのが信西です。
清盛が播磨守に出世して所領を増やし、弟たちまでも
高位高官につかせ羽振りがいいことに、親兄弟まで敵に回して
戦った義朝は不満をもち、源平の対立が芽吹き始めます。

保元の乱に勝利し、後白河天皇の地位が固まると、
すぐに信西は次々と政治改革を行い、
彼の学問は政治の現場に生かされていきます。
荘園整理をはじめとする「新制7ヶ条」を設け、
豪族や寺社が勝手に所領を増やすのを防ぎました。
また、すっかり老朽化していた大内裏を2年もかからずに再建し、
新造なった内裏で天皇と公卿・殿上人が宴を楽しむ宮中儀式を再興、
相撲節会(すもうせちえ)を30余年ぶりに復活するなども
信西の手腕によるところが大きく、
その改革政策に対して人々から高い評価を受けていました。

保元3年(1158)8月、後白河天皇は筋書き通り
息子の守仁親王(二条天皇)に譲位して院政を行いますが、
実際に政治を行ったのは大した家柄でもない信西とその子供たちでした。
長男俊憲(としのり)は参議に任ぜられて公卿の仲間入りをはたし、
その弟貞憲(さだのり)は従四位下権右中弁、是憲(これのり)は少納言、
後妻の生んだ成範(しげのり)は
正四位下・左中将にそれぞれ就任し活躍しました。

保元の乱で父の為義・弟の為朝などの有力一族の武将を失い
勢力を弱めた義朝は、時の実力者信西と縁を結んで挽回を図ろうと
信西の息子是憲を娘の婿にと申しいれました。
しかし信西は「自分の子は武家にはふさわしくない」と断る一方で
息子の成範と清盛の娘を婚約させたので、
面目をつぶされた義朝は信西を恨むようになります。
その信西の前に強力なライバル藤原信頼が現われます。



藤原信頼(1133~59)の家系は、道長の兄道隆流の藤原氏、
信西と比べはるかに高い名門の院近臣の家柄です。
信頼の姉妹は、藤原忠通の嫡子関白基実に嫁ぎ基通を生み、
叔母は後白河天皇の乳母となりました。
信頼は『平治物語』に「文にあらず武にあらず。
能もなく芸もなく、
只朝恩(ちょうおん)にのみほこり、」と評されるような人物でした。
後白河院とは男色関係にあったと推測され、周囲から
「あさましき程の寵愛あり」といわれるまでになり、
異例の昇進をしながら、さらに一流貴族でなければ難しい
武官最高位の近衛大将を望み、いろいろと後白河院に働きかけます。
院はこれをかなえてやろうとしますが、信西にこれを阻止され、
信頼は信西を深く恨むようになります。

中国の唐代、玄宗皇帝は楊貴妃とその一族を寵愛し、
皇帝の寵臣である安禄山が安史(あんし)の乱を起こし唐は傾きました。
この玄宗皇帝と楊貴妃のエピソードを白楽天が長恨歌にうたっています。
信西は信頼を安禄山になぞらえ『長恨歌絵巻』を描いて献上し、
後白河院を諌めますが、受け入れてもらえませんでした。

安禄山は玄宗皇帝に忠誠を誓って信用させておきながら、
謀反を起こした人物で、『平家物語』の序文「祇園精舎」の中にも
「遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高(ちょうこう)・
漢の王莽(おうもう)・梁(りょう)の朱异(しゅい)・
唐の禄山(ろくさん)」とその名を挙げられています。
この絵巻は平治の乱の1ヶ月前に信西がこの乱を予知し、
作ったことが藤原兼実の日記『玉葉』によって知ることができます。

この他、政権内には後白河院政派に対して新興勢力の信西一門
躍進に対する反発から堅主の誉れ高い二条天皇の親政を望む勢力・
親政派が拡大し、信頼を中心に結束していきます。
その中心人物は、姉が二条天皇の生母であった藤原経宗(つねむね)や
母が天皇の乳母であった藤原惟方(これかた)です。
武士でも摂津源氏の流れを汲む源光保(みつやす)は、
娘が鳥羽院晩年の寵愛を受け、二条天皇の乳母にも
なっていたことから天皇の側近となり親政派に属していました。

信頼は後白河院の寵臣でありながら、二条親政派と提携し、
さらに藤原成親(なりちか)の妹が妻となっていた関係から
成親も味方に引き入れるなど、信頼には多くの味方する者が現れました。
親政派と後白河院政派の中心にいた信西、
朝廷内はにわかに対立が目立つようになりました。

◆鳥羽法皇の荘園
亡き鳥羽法皇所有の王家領荘園のほとんどを美福門院と
娘の八条院が相続し、両人は大荘園領主でしたが、
後白河天皇は鳥羽法皇から荘園を全く相続できませんでした。
信西は保元の乱の敗者の頼長の所領を没収し、後白河天皇領としますが、
美福門院に比べてその経済的基盤ははるかに弱いものでした。
中継ぎの後白河天皇は政治的権力、経済力どちらにも欠けていたことになります。

◆藤原信頼と源義朝
信頼が久安6年(1150)から保元2年(1157)まで知行国としていた
武蔵国は、勅旨牧(朝廷で使用する馬を飼育する牧場)が多く存在し、
古くから重要視されていた土地です。
保元3年、信頼は院のもとに全国から集められた駿馬を掌握し、
在京軍事貴族(武家貴族)の統轄者の役職
「院御厩(みまや)別当」に任じられます。御厩=御馬屋
このことから官牧(国有の牧場)の支配を職務とする
左馬頭義朝とは密接な間柄であったことが知られます。

信頼の兄基成(もとなり)は、陸奥守を二期務め、
娘を平泉の藤原秀衛に嫁がせ孫の泰衡が生まれています。
陸奥は武蔵と並ぶ駿馬の産地であり、鷲羽・海豹(あざらし)皮など
武士にとって必要不可欠な武器・武具の材料の供給地でした。
信頼は兄を通してこれらの財宝を掌握していたのです。
平泉藤原氏のもとに近江の佐々木秀義を遣わし、鷲羽・馬・砂金などを
購入していた義朝に信頼は影響力を強めていきます。
頼朝の挙兵を助けた佐々木四兄弟 (定綱・経高・盛綱・高綱)の
父秀義は、叔母が藤原秀衡の妻となっていたことから
秀衡との親密な関係がうかがわれます。

このようにして、藤原信頼が天皇親政派を抱き込み、保元の乱の
論功行賞(ろんこうこうしょう)で不満をもつ源義朝を動員して
信西を滅ぼす武力衝突、平治の乱を招くこととなりました。
信西54歳、信頼27歳、義朝37歳、清盛42歳、後白河院33歳の時のことです。
三条東殿址・信西邸跡(平治の乱のはじまり)  
信西入道塚(信西最期の地)  


『参考資料』
竹内理三「日本の歴史」中公文庫 保立道久「義経の登場」日本放送出版協会
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 棚橋光男「後白河法皇」講談社
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店

 橋本義彦編「古文書の語る日本史」(平安)筑摩書房
古代学協会編「後白河院」吉川弘文館 元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス 
野口実「源氏と坂東武士」吉川弘文館 石田孝喜「続京都史跡事典」新人物往来社


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