屋島を抜けだし高野山で出家した維盛は、滝口入道の案内で熊野三山の
参詣を終え、那智の浜の宮王子から一艘の小舟で海へ出て遥か沖の
山成島に漕ぎよせました。松の木を削り「祖父太政大臣平朝臣清盛公、
法名浄海、親父(しんぷ)内大臣左大将重盛公、法名浄蓮、その子
三位中将維盛、法名浄円、生年27歳、寿永3年(1184)3月28日、
那智沖にて入水す。」と書きつけさらに沖へこぎ出しました。
ころは3月末のこととて、海路はるかに霞わたり哀れを感じさせる情景も、
今わの時になると、さすがに恨めしく思われます。波間に浮いたり沈んだりする
沖の釣り船を見ると、わが身のように思われ、列をなして鳴きゆく雁を見ると、
妻子への文を託したくなり、それからそれへと思いは尽きません。
覚悟をきめた死出の舟路とはいえ、妻子の面影が浮かび念仏は途絶え、
現世への未練を「ああ、妻子というものは、持つべきではないぞ。
この世で愁いの種となるばかりでなく、後世菩提の妨げとなる。このようなことを
思っていてはとても往生できまい。」と懺悔し弱くなる心を訴えます。
滝口入道は哀れに思いますが、彼もまた愛する女をふり捨てて
今の境地に至った聖です。心を鬼にして
「身分の高い低いにかかわらず、恩愛の絆はどうにもならぬものです。
早い遅いの違いがあっても誰にでも妻子との別れの時は必ずきます。
どんな罪深い者でも出家をし、念仏を唱えれば阿弥陀仏が救ってくれるのです。
身は海の底に沈んでも霊魂は雲の上に上り、仏となって悟りを開いた暁には、
ふたたび娑婆世界に帰り、迷える衆生を救い、妻子を浄土に導くことができます。」と
説き、しきりに鉦をうちならして念仏を勧めると、維盛はすぐさま邪念を捨て、
西方に向かい声高らかに念仏を百遍ほど唱えながら「南無」の声とともに
波間に身を躍らせました。与三郎兵衛も石童丸もつづいて飛び込みます。
一人残された武里はあまりの悲しさに続こうとしましたが、滝口入道が
「ご遺言にそむくのか。」と叱ってひきとどめます。やがて夕暮がせまり、滝口入道は
高野に帰り、武里は屋島に戻り、一門の人々に一部始終を報告しました。
資盛(すけもり)に維盛からの手紙を渡すと「ああ情けない。私が頼みにしていたほどに
兄上は私を思って下さらなかったのか。那智沖で入水されるのであれば、どうして
一緒に連れて下さらなかったのか。兄弟離ればなれの場所で死ぬのは悲しい。
何かご遺言はなかったのか。」と問われ「豊前国柳浦では、弟の
左中将清経(重盛3男)が入水し、一の谷でも、備中守師盛(重盛5男)が討死した。
その上、私までが入水するということになれば、さぞ心細く思うであろう。
それから平将軍貞盛の時代から当家に伝わる唐皮の鎧と小烏(こがらす)の太刀を
形見に残していくので、万が一平家の運が開けるようなことがあったなら、
どうか我が子六代にお授けくださいますよう。」など細々と申しあげると
「こうなっては生き永らえる気がしない。」と顔に袖をおしあててさめざめと泣かれる
様子も憐れなことでした。宗盛も二位殿(清盛の妻)も維盛が頼盛のように、
頼朝に心を通わせ都へ行ったと疑っていたことを後悔し、涙にくれたのでした。
『平家物語巻10・維盛の入水の事』
観光船「紀の松島めぐり」に乗船すると山成島(やまなりじま)を
近くに見ることができるというので、桟橋へ行きましたが、
あいにく台風が接近しているため、船は終日欠航となっています。
紀伊勝浦駅1Fにある観光協会で「山成島」について尋ねると、
「ホテル浦島山上館」が所有している狼煙山(のろしやま)山頂に作られている
遊歩道先端の展望所からこの島が見えるとのことでした。
山成島にはかつて松が生茂っていましたが、
今は台風で倒れ松の木は1本もないそうです。
佐藤春夫(新宮市生まれ)の「秋刀魚の歌」の詩碑のあるJR紀伊勝浦駅前から
商店街のアーケードをまっすぐに進むと勝浦港にでます。
桟橋発の那智山や熊野三山めぐりコースの定期観光バスに
紀伊勝浦駅前からも乗車できます。
生鮮マグロの水揚げ日本一を誇る勝浦港。
観光桟橋は港の左手にあります。
波が荒く漁船は何本ものロープで岸壁にしっかりつながれています。
平維盛入水(浜の宮王子跡・振分石) 平維盛供養塔(補陀洛山寺)
『アクセス』
「紀伊勝浦観光桟橋」JR紀伊勝浦駅下車徒歩約7分
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
水原一「平家物語の世界」日本放送出版協会 「検証・日本史の舞台」東京堂出版