平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



醍醐の南、日野にある東光山法界寺(ほうかいじ)は、
真言宗醍醐派の寺で世に日野薬師とよばれ、
古くから安産や授乳祈願の信仰で知られています。
藤原氏の一族である日野家の氏寺で、
先祖伝来の薬師小像を安置したのが始まりです。
薬師堂はじめ観音堂や阿弥陀堂など多くの諸堂が
建立されましたが、
中世の兵火に度々罹災して焼失、
阿弥陀堂は往時の火災を免れた唯一の遺構です。
それ以後、焼け残った阿弥陀堂を本堂としていました。

明治時代、奈良県龍田の伝燈寺(でんとうじ)の建物を
移して本堂としたため、
旧本堂は今は阿弥陀堂(国宝)と称し、
内部には平安時代の代表的な阿弥陀如来坐像(国宝)を安置しています。
本尊の薬師如来立像(重要文化財)は、本堂(重要文化財)の
中央厨子内に置かれています。

日野は日野家出身の親鸞誕生地ともされ、寺の背後の山腹にある
3m四方の大きな石を方丈石とよび、
鴨長明が方丈の庵を結んで念仏三昧にはいったあたりです。
また、ここは山科の勧修寺(かじゅうじ)辺とともに
念仏聖の集まる場所でした。









阿弥陀堂と本堂(薬師堂)

阿弥陀堂



本堂(薬師堂)

京都市指定史跡  法界寺境内
 法界寺は、別名「日野薬師」または「乳薬師」ともよばれ、
授乳祈願の信仰で知られています。
 文献では、この地には
藤原氏の支流である日野家の山荘がありましたが、平安時代の
永承6年(1051)に日野資業が一宇を建立し、
薬師如来像を安置したことに始まると伝えます。

 平安時代末頃にその伽藍は最も荘観を誇っていましたが、
承久3年(1221)に薬師堂ほか一堂を残してことごとくが焼失し、
法界寺は大きな打撃を受けます。その後再建されますが、
中世の兵火などにより度々焼失し、創建期に近い建物は
阿弥陀堂のみとなってしまいました。

 近世における法界寺の具体的な様相は、『都名所図会』から
知ることができます。阿弥陀堂と池とが対面し、東方に鐘楼、
現在の薬師堂の位置に草庵風の建物があり、
鐘楼の脇から坂道が東側の集落に通じていることなど、
全体の佇まいは現在のものと大差ありません。

 現在の主な建造物の内、阿弥陀堂(国宝)は、承久3年の
火災後の再建による、鎌倉初期のものと考えられており、
また、薬師堂(重要文化財)は、もとは伝燈寺(奈良県龍田)の
本堂でしたが、明治37(1904)年に法界寺に移築されたものです。

 鎌倉初期の再建と考えられる阿弥陀堂が現存すること及び
絵図などからみて、法界寺境内の中枢部については、
その創建時から現在に至るまで大規模な地形改変を受けずに今日に
至っている可能性が高く、京都の寺院史を研究する上で貴重な史跡です。
平成11年4月1日指定 京都市(説明板より)


南都焼討の大将軍平重衡は、平家滅亡後に木津川畔で処刑され、
その首は奈良坂に架けられましたが、重源の計らいで
重衡の妻大納言典侍(だいなごんのてんじ=大納言佐)のもとに
首はもどり、骸とともに日野において火葬し、
そこに灰塚を築き、骨を高野山に納めることができました。
そして近くの法界寺で追善供養を行いました。
さらに重源は仏教者として慈悲深い対応を見せ、大仏再建のために
重衡が所有していた金銀銅製品を寄進することを許しています。

『東大持続要録 造仏篇』には、「かの妻室、重衡の所持物の内、
金銅具を持って奉らしむ。上人(重源)慈悲を垂れ、
かの銀銅を以って大像を鋳加え奉らんと欲するの処、
炉忽ち破裂せしむ。」
とあり、
東大寺再建の大仏を鋳る時、平重衡の妻は重衡の所持物の内
金銅具を奉納したが、重衡の罪は大仏も許さず
炉が破裂してしまった。と記されています。

★重源と重衡の妻、その姉藤原成子との関係
俊乗坊重源(1121~1206)は、源平の争乱で焼失した
東大寺再建のための勧進上人に抜擢された僧です。
始め醍醐寺で出家し上醍醐寺に居住して密教の
修行に励んだ後、法然から浄土教を学び諸国を遊行し、
三度入宋したといわれています。(入宋を疑う説もあります)

重衡が斬首されたのち、妻の大納言典侍は重源に請うて
その首を貰い受け供養しましたが、彼女が
重源に
頼むことができたのは、姉の成子が重源と親しかったからです。
成子の夫参議藤原成頼は、重源が高野山に建てた専修往生院という
新別所の二十四蓮社友のひとりとなり、高野宰相入道と呼ばれていました。
重源が東大寺へ行って不在の間は、24人の念仏衆が2時間2人ずつで
不断念仏がおこなっていたことが、『発心集』からうかがえます。
重源は高野山で「蓮社(れんしゃ)」という
念仏集団を結成していたのです。

成頼(なりより)の高野隠棲はよほど評判だったらしく、
『平家物語・巻3・関白流罪』は、
平家の悪逆無道に反抗して
出家するものが多かった中に成頼もいたと記していますが、
史実は承安(じょうあん)4年(1174)正月、兄の葉室光頼(みつより)の
一周忌に出家し、高野山に入ったとされています。

文治2年(1186)1月、重源の意向で東大寺再建の成功を祈って
重源ら60名の東大寺の僧が伊勢神宮に赴き、大般若経の
転読供養が行われた時、その一部は平頼盛が料紙を提供し、
一部は成子が1セット(600巻)を提供しました。
ちなみに、頼盛は文治元年(1185)5月、東大寺で出家して
重蓮と名のり、そして翌2年6月に55歳で亡くなりました。

伊勢参宮はさらに建久4年・建久6年の三度に亘り実施さ
れて
大般若経が納入され、建久6年には、貞慶が導師を勤めたという。

貞慶は鎌倉時代前期の法相宗の学僧です。祖父は後白河上皇の
近臣として活躍した藤原南家の藤原通憲(信西)で、
藤原貞憲を父に持ち、興福寺に入って11歳で出家しました。
建仁3年(1203)重源が私財を投じて造立したという
東大寺俊乗堂の阿弥陀如来立像の導師も貞慶
でした。

藤原成子は六条帝の乳母を務め、帝の崩御の9年後、
文治元年(1185)帝の供養を下醍醐で営んだ時、
その導師を勤めたのが仏教界大物の権大僧都
醍醐寺座主勝賢(しょうけん =信西の息)でした。

後白河天皇の乳母子の勝賢は重源上人と親しく、
建久3年(1192)に東大寺別当に就任、以後東大寺復興のため
重源を支え続けた僧侶で、上人に請われ、東大寺の大仏に
舎利を籠めるため、上醍醐で百ケ日の供養を行っています。
『アクセス』
「法界寺」京都府京都市伏見区日野西大道町19
京都市営地下鉄東西線 「石田駅」 徒歩約20分
平重衡の墓のある公園から400mあまり南へ
京阪宇治線・JR奈良線「六地蔵駅」から京阪バス日野薬師下車すぐ。
『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会(洛南)」駿々堂、昭和61年 
竹村俊則「今昔都名所図会(洛南)」京都書院、1992年
 「大勧進重源」奈良国立博物館、平成18年 
中尾 堯編「旅の勧進僧重源」吉川弘文館、平成16年 
角田文衞「平家後抄 落日後の平家(上)」
(第1章三位中将重衡の場合)講談社学術文庫、平成12年
「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
五来重「増補高野聖」角川選書、昭和50年
「平家物語を読む」講師:上横手雅敬氏(2011・2・14テキスト)

 



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JR木津駅の東北に心道山安福寺(あんぷくじ=浄土宗西山派)があります。

最寄りの木津駅

安福寺は木津河原で処刑された平重衡の菩提を弔うために建立されたと伝え、
これにちなんで哀堂(あわれんどう)とも呼び、
山門前には「平重衡卿之墓」と標した石碑が建っています。



山門を入って左手に建つ十三重の石塔(重要美術品・鎌倉時代作)は、
重衡の供養塔と伝えられ高さは4・5mあります。
小ぶりで細身の石塔は花崗岩製で、十三重目と相輪は
当初のものではありませんが、各層の屋根の勾配はゆるく、
軒反りもおだやかで、鎌倉時代中期の様式をよくあらわしています。

平重衡卿之墓と刻まれています。

本堂に安置する本尊阿弥陀如来像(非公開)は、平重衡の引導仏といわれています。

寺宝に狩衣姿で合掌する紙本淡彩(しほんたんさい)
「平重衡像」(江戸時代作)を蔵し、重衡との関係を示しています。

また、江戸時代の紙本著色仏涅槃図が残っています。

『山州名跡誌』は、この寺の北に重衡の首を洗ったという首洗池、
重衡が斬首される前、勧められて柿を食べ、後世その地に柿を植えたが
実がならないという不成柿(ならずのかき)などを記しています。

不成柿・首洗い池へは、安福寺からJR奈良線をくぐって1筋目、
47号線沿いにある吉川医院の角を北へ進みます。

土堤の下、民家の庭先の脇にある柿の木は、もとの木の何代目かにあたります。
傍には、池というより水たまりのようなくぼみがあるだけです。
地元の人のお話によると、昔、池はこの場所から少し離れたところにあったそうです。



平重衡首洗い池は、生垣で囲んであります。



「平重衡首洗池・不成柿(ならずかき) 平清盛の五男、平重衡は、
治承四年(1180年)十二月二十八日、源氏に味方する
東大寺・興福寺を焼き打ちしました。 その後、一ノ谷の戦いで
源氏に敗れた重衡は、虜囚となって鎌倉の源頼朝の
もとへ送られましたが、南都の衆徒の強い引き渡し要求に頼朝も折れ、
元暦二年(1185年)六月二十三日、木津の地まで送られてきました。
南都の衆徒は、木津川の河原で、念仏を唱える重衡の首をはね、
奈良の般若寺にさらしました。 その際、
この池で首を洗い持参したと伝えられています。
その後、重衡を哀れんだ土地の人々は柿の木を植えましたが
一向に実のらず、このことから不成柿と称せられています。
 国鉄奈良線の東側にある安福寺には、重衡の引導仏という
いわれをもつ阿弥陀如来を納めた哀堂と十三重の供養塔があります。
昭和五十三年三月 木津川町教育委員会」(説明板より)

十二(上)重衡被斬 元暦二年(1185)六月
『平家物語絵巻』より転載。

木津川は南山城盆地を流れる淀川の支流をいい、
京都府・大阪府の境付近で宇治川・桂川と合流し淀川にそそぎます。



平氏滅亡後、南都大衆の要求にとうとう屈した頼朝は、
重衡の身柄を引き渡すことにしました。鎌倉から日野まで戻ってきた重衡は、
北の方大納言典侍(だいなごんのてんじ)と今生の別れをします。
重衡が長年召し使っていた木工右馬允知時(もくうまのじょうともとき)という
侍がいました。今は八条の女院(鳥羽天皇皇女)に仕えていますが、
かつての主が木津川の畔で処刑されると聞き、
急いで都から駆けつけると、重衡は喜んで「仏を拝んで死にたいと思うが、
何とかならぬか。」と頼みます。知時は警護の武士に相談をして、
付近から阿弥陀仏(来世の救済を約束する)を捜し出し、河原の砂の上に据えました。
知時は自身の狩衣の袖口に通したくくり紐を引き抜いて仏の手にかけ、
重衡にその紐を持たせると、重衡は仏に向かってやむなく犯した
自分の罪の大きさを申し述べ、仏縁によって極楽浄土に導かれますようにと
高らかに念仏を唱えながら首を差しのべて斬られたという。

この様子に警護の武士、見物の群衆、南都の僧侶らまでもが
涙を流しその死を悼みました。
『愚管抄』は、頼朝が南都の要求に屈し、重衡を南都に引き渡したことの非情さを、
人々は忌々しく思いながら重衡が通り過ぎるのを見送ったと記しています。

首は重衡が南都攻めの時、戦いの指揮をとった般若寺の大鳥居の前に
釘付けにされましたが、重衡の北の方はせめて骸だけでも
とりよせて供養しようと思い、輿をむかえにやって日野に連れてこさせました。
「生きておられた昨日までは、立派であったけれども
暑いさなかのこととて(現在の暦で7月28日)、

もう目もあてられぬ姿になっておられた。」と遺骸が
腐敗していく様を平家物語は生々しく語っています。

『延慶本』によると、八条院は石金丸に重衡の最後の
有様を見てくるよう鎌倉に護送される重衡の供をさせています。
石金丸ももとは重衡に仕えていた舎人(使用人)でした。
莫大な荘園をもつ八条院暲子内親王は、以仁王(もちひとおう)の後ろ盾となり、
その遺児(北陸宮)に心を寄せ、重衡の運命にも深い同情を寄せ動いたようです。
人々は彼の罪を憎んでも、その明るい思いやりのある
人柄のよさは愛したのだと思われます。

『高野春秋』元暦元年七月には、「法然上人を介して重衡の首をもらい受けて

日野に送ったこと、木工右馬允知時が 重衡の髑髏を高野山の奥の院におさめ、
往生院(蓮華谷)三宝院に宿泊した。」ことが記載されているが、
法然上人でなく、東大寺大勧進の任に当たった重源が衆徒を説得して、
重衡の首を
奈良から日野に渡されたというのが実伝であろう。
(『平家物語(下2)』P30)
平重衡の供養を行った法界寺(重衡の妻と重源)  
『アクセス』
「安福寺」
 京都府木津川市木津宮ノ裏274 JR関西本線・奈良線・学研都市線木津駅から
400mほど北に行き、右折してJR奈良線をくぐるとあります。(約10分)
「不成柿・首洗池」 木津川市木津宮ノ裏 安福寺から約5分
『参考資料』
角田文衞「平家後抄 落日後の平家(上)」講談社学術文庫、平成12年
富倉徳次郎「平家物語(下巻2)」角川書店、昭和52年 
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年 
斎藤幸雄「木津川歴史散歩」かもがわ選書6、1993年
武村俊則「昭和京都名所図会(南山城)」駿々堂、1989年
武村俊則・加登藤信「京の石造美術品めぐり」京都新聞社、1990年
林原美術館「平家物語絵巻」㈱クレオ、1998年
「図説 源平合戦人物伝」学習研究社、2004年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 



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