京都国立博物館の南門を入った中庭には、
高さ6メートルほどの「十三重石塔」が二基あります。
もとは東山区馬町に南北並んであり、「馬町十三重塔」とよばれ、
源義経の郎党佐藤継信・忠信の墓と伝えられていました。
継信・忠信兄弟は藤原秀衡の家臣でしたが、
義経が挙兵した兄頼朝のもとに駆けつける時、
秀衡の命で義経に従い、平家追討の戦いで数々の戦功をあげました。
兄の継信は屋島合戦で義経の身代わりとなり戦死し、
弟忠信は頼朝に追われる身となった義経と苦楽を共にします。
義経の片腕となって忠義を尽くした佐藤兄弟は後世まで語り継がれ、
謡曲や歌舞伎などにも登場し、武士の鑑として人気を博しました。
「馬町十三重石塔 二基 北塔(向かって右)無銘
南塔(向かって左)永仁三年(1195)銘 高さ約六メートル 鎌倉時代
この石塔二基は現在地から北東に五百メートルほどの馬町
(東山区渋谷通東大路東入ル)の路地奥にあった。
塚の上に南北に並んで立ち、源義経の家人、佐藤継信・忠信兄弟の
墓と伝えられていた。江戸時代の『都名所図会』に見るように、
北塔は五層、南塔は三層戸なり、地震で落ちたと思われる
上層の石は、塚の土留めとして残されていたという。
昭和十五年(1940)に解体修理が行われ、現在の十三重塔の姿に復元された。
その際、小さな仏像や塔などの納入品が、両塔の初重塔身の石に設けられた
孔の中から発見されている。両塔はともに花崗岩製、南塔(向かって左)の
基礎正面に、永仁三年(1295)二月、願主法西(ほうせい)の刻銘があるが、
北塔に銘文はなく、二基の十三重石塔が造られた経緯は明らかにされていない。」
『都名所図会』、『花洛名勝図会』にも、継信・忠信塔の図が描かれ、
この塔は洛東の名所として広く知られていました。
『都名所図会』に描かれている継信忠信の塔。
画像は国際日本文化センターデーターベース「花洛名所図会継信忠信塔」よりお借りしました。
京都から東国へ向かう道は、粟田口から山科へ抜ける旧東海道とともに、
六波羅の南端から、小松谷を通り山科に出る渋谷街道も
東国への近道としてしばしば利用されました。
馬町は渋谷通を東大路から東へ入ったところをいい、
渋谷街道の入口にあたり、六波羅探題のおかれた鎌倉時代には
馬借たちの馬屋が多いなどの理由で生まれた名とされています。
また、建久4年(1193)に淡路国から源頼朝に献上される9頭の馬がしばらく
ここにつながれてことから馬町とよばれたともいわれています。
昭和15年に所有者の佐藤氏の依頼でこの石塔が解体復元された時、
内部から鎌倉時代の小さな仏像や金銅製五輪塔などの納入物が多数発見され、
南塔には「永仁三年(1295)二月廿日立之、願主法西(ほうせい)」と
刻まれていました。法西がどういう人物であるのか明らかでないため、
この塔を建てた理由も分かりませんが、京都国立博物館は、
「鳥辺野に総供養塔として建立されたという説もある。」とされています。
鳥辺野墓地は、西大谷から清水寺に至る山腹に設けられた
広大な墓地のことで、『都名所図会』に「鳥辺野は北は清水坂、
南は小松谷を限る。むかしより諸宗の墓所なり。」とあるように、
西大谷をはじめ日蓮宗の諸寺の墓石が並んでいます。
高橋慎一朗氏はこの塔が建てられた目的のひとつには、
「渋谷越の脇、六波羅からの出口にあたる場所に建立されていることから、
東国への道中の安全を願う供養塔であったとも思われる。」と
述べておられます。(『都市の中世(六波羅と洛中)』)
この石塔は戦後すぐに撤去され、他所に移されていましたが、
昭和46年京都国立博物館に寄託されました。
平成知新館西側から見下ろした正門。
平成27年4月、狩野派の特別展を見るためこの博物館に入ったところ、
本館前の庭にあるはずの二基の塔がなく、
館内を探すと平成知新館レストラン西側に解体された南塔が展示され、
説明板に北塔は現在補修中と書かれていました。
平成知新館西側から本館を望む。
馬町の佐藤継信 忠信墓 屋島古戦場を歩く(佐藤継信の墓)
『アクセス』
「京都国立博物館」 京都市東山区茶屋町527 市バス博物館・三十三間堂前、東山七条下車すぐ
「平成知新館」三十三間堂の向かいの南門を入ると平成知新館へ向かってアプローチが伸びています。
『参考資料』
五味文彦編「中世を考える 都市の中世」吉川弘文館、平成4年 「京の石造美術めぐり」京都新聞社、1990年
竹村俊則「京の伝説の旅」駿々堂、昭和47年 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂、昭和55年
井上満郎「平安京再現」河出書房新書、1990年 「京都地名語源辞典」東京堂出版、2013年