元歴2年(1185)2月、阿波勝浦から大坂峠を越えて讃岐に入った義経は、
屋島の対岸に馬を乗り入れ、牟礼、古高松の道筋の民家に火を放ちながら進軍しました。
そして二手に分れ、本隊は総門に向かい、義経はじめ佐藤継信・忠信兄弟、
後藤実基・清基父子ら30余騎の別動隊は、平家の陣があった屋島を目指しました。
現在、屋島は陸続きの半島となっていますが、
当時は瀬戸内海のひとつの島で、主戦場となったのは檀ノ浦一帯でした。
JR屋島駅前
屋島駅にはレンタサイクルがあります。
屋島は尾根線が平たく長く伸び屋根のような形をしていますが、
JR屋島駅北辺、背後から見た屋島は三角形に見えます。
JR屋島駅から北へ進みます。
この奥に屋島を目前にして、義経が一息いれたという場所があります。
義経鞍掛の松は材木店の倉庫裏にあります。
源義経鞍掛の松
「寿永四年(1185)二月平家追討の命をうけた九郎判官義経は、
源氏の精鋭を率いて阿波の勝浦より大坂峠を越えて高松(高松町)の里に入り、
屋島を望むこの地で人馬を整え、平家の陣を攻めたと伝えられています。
その時大将義経がこの松に鞍をかけ休息したというのでこの名が残っています。
高松市 高松観光協会(現地説明板)」
義経鞍掛松歌碑
勇将のその名と共に千代かけて 今にのこれる鞍掛の松
「木田郡誌より」 二00三年三月建立
◆赤牛崎(あかばざき)
義経が屋島に渡る浅瀬を探していた所、源氏勢が放った火に驚いた赤牛が海を渡るのを見て、
浅瀬の場所を知り、そのあとを追って軍勢を進め屋島に攻め入りました。
それが赤牛崎の名の由来と伝えられています。
相引川は延長約5キロ、屋島の南麓、ことでん古高松駅の北を東西に流れています。
源平合戦の頃、ここはすべて海面下にあり、満潮時には海水が東西から満ち、
干潮時には東西に引き分かれたことから相引浦とよばれました。
『平家物語』は古高松と屋島との間の地形について、「陸続きではないが浅海で、
引潮時は馬の腹さえ浸からないで島へ渡ることができるとしています。」
今は小さな川に過ぎませんが、当時は赤牛崎は幅200メートル、相引川の最も狭い所でした。
生駒時代、生駒高俊が相引川に堤を築いて塩田にし、屋島と陸続きとなりましたが、
正保4年(1647)、初代高松藩主松平頼重は古来の妙跡を惜しみ、
ほぼ現況に近い相引川(水路)を復元させたという。(讃岐国大日記)
相引川によって屋島が四国本土と
切り離されているのがお分かりいただけると思います。
見落としましたが、相引川の畔に赤牛崎の説明板がたっています。
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『アクセス』
「源義経鞍掛の松」JR屋島駅より北へ徒歩約3分。
「赤牛崎説明板」高松市屋島東町
ことでん古高松駅より北へ徒歩約3分。 JR屋島駅より徒歩約10分。
『参考資料』
「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59年 「香川県の地名」平凡社、1989年
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年
奥富敬之監修「源義経の時代」日本放送出版協会、2004年
「平家物語図典」小学館、2010年