平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




源頼朝の挙兵は我国中世の幕開けといわれています。
その時、三浦一族とともに頼朝を助けて働いたのは土肥実平です。
実平(さねひら)は相模国の豪族中村庄司宗平の次男で
土肥郷(現、湯河原町・真鶴町一帯)を本拠地としていました。

石橋山合戦で惨敗した頼朝は、平家方大庭景親のきびしい追撃をのがれ、

土肥椙山(すぎやま)から山伝いに箱根権現に至り、そこに匿われその後、
真鶴崎より
安房へと脱出するまでの間、実平の道案内で椙山山中に身を隠しました。
その間、追い詰められて自害まで決意した頼朝を沈着冷静に守りぬいたのが実平でした。

湯河原町観光案内所でいただいたパンフレットには、
JR湯河原駅から
土肥氏の菩提寺城願寺辺りにかけて実平の館があったと書かれています。
湯河原駅前のロータリーには、土肥氏館趾の碑や土肥実平と
実平を支えた妻の銅像が建っています。


土肥氏館趾の碑には、「乾坤一擲
 源頼朝が覇業を天下に成したるは 治承4年(1180)八月その崛起にあたり 
湘西における筥根外輪山南麓の嶺渓土肥椙山々中の巌窟など複離なる地利と此の地の
豪族土肥實平等一族竝びに行實坊・永實坊・僧純海など志を源家に寄せたる人の和と
天運に依る 石橋山の挙兵地・山中の合戦場・椙山隠潜の巌窟(源平盛衰記に謂う
「しとどの岩屋」)・小道の地蔵堂・安房を指して解纜した真鶴崎など まさに
千載画期の史跡である 茲に挙兵七百八十年を記念して 土肥氏館阯に碑を
建立するにあたり文を需めらる仍って誌す  昭和三十五年八月二十三日 
神奈川県文化財専門委員・武相学園長石野瑛」と記されています。

乾坤一擲(けんこんいってき)とは、のるかそるかの大勝負をすることで、
行實坊・永實坊とは、頼朝を助けた箱根権現の別当行実とその弟永実です。

『鎌倉幕府開運街道』によると、「純海和尚は石橋山の合戦に敗れた
頼朝主従七騎は、杉山山中をさまよいようやく星ヶ山中腹に純海の
お堂を発見した。堂主の純海和尚は、頼朝一行を堂の床下の穴の中に隠し、
自分は何喰わぬ顔をして夕勤行の座禅をしていた。
そこへ追手の大庭景親の軍勢が来て、「頼朝が隠れているだろう」と
青竹で純海を責めたが、ついに白状せず、息絶えてしまった。
間もなく追手は退散し、あたりは静まり返った。頼朝が
そっと床下から出てみると、哀れな純海の姿があったので、
愛憐の涙をこぼした。その頼朝の涙が純海の喉に落ち、彼は息を吹き返した。
頼朝はやがて鎌倉に政権を握るといち早く純海の忠誠に報いるため、
寺領を与え、お堂を建て、頼朝山小道寺の称を贈ったと伝えられている」とあります。




由来(プレート文面より)
土肥實平公は中世日本史上に活躍した郷土の武将である。
治承4年(1180)源頼朝公伊豆に興るや、いち早くこれを援け、石橋山合戦には、
土肥杉山にその危急を救い、鎌倉幕府草創に当っては、軍艦、追捕使、宿老として
多くの功績を残した。公はまた領民を慰撫し、その敬慕を受けたことは、
全国諸所に残る墳墓、伝説がこれを物語っている。
公の夫人は民や農民に姿を変えて敵を欺き、杉山に潜む頼朝主従に食糧を運び、
消息を伝えるなど、その"心さかさかしき"(源平盛衰記)は
武人の妻の鏡として後世にまでたたえられている。ここに、源頼朝旗揚げより800年を
迎え、土肥会創設50周年を併せ、記念として公並びに夫人の遺徳を後人に伝えんため、
土肥實平公銅像建立実行委員会を結成し、町内外の有志の協賛を得て、
その館跡、御庭平の地にこの銅像を建立したものである。
城願寺(土肥実平一族の菩提寺)  
『参考資料』
「鎌倉幕府開運街道」湯河原町観光案内所でいただきました。

 

 

 

 
 

 

 
 





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来迎寺は源頼朝が衣笠城で戦死した三浦大介義明の霊を弔うために
建久五年(1194)真言宗能蔵寺を建立、その後、建武二年(1335)時宗に改宗し

寺号も来迎寺と改められました。
来迎寺は坂東33観音第14番札所です



本堂には三浦義明の守護仏、本尊の阿弥陀三尊像と聖観音像が安置され、
本堂の右手には鎌倉末から南北朝時代のものといわれる高さ2m程の五輪塔が
2基並んでいます。三浦義明とその孫多々良三郎重春の墓です。

多々良三郎重春は、石橋山敗戦後に三浦一族と共に本拠地衣笠へ引き返す途中、
由比ヶ浜で遭遇した当時平家方だった畠山重忠と戦い犠牲となった武将で、

多々良(横須賀市鴨居字多々羅浜)を本拠地とする多々良義春の子息です。





頼朝は源氏再興で犠牲となった三浦大介義明のために
満昌寺(横須賀市大矢部)と来迎寺を建立したことになります。
また石橋山合戦で討死にした岡崎義実の嫡子佐奈田義忠(三浦義明の甥)の

菩提を弔うために真言宗証菩提寺(横浜市栄区上郷)を創建しています。

証菩提寺の略縁起によれば石橋山で戦死した佐奈田与一義忠の霊を弔うため、
文治五年(1189)に頼朝が開いたと伝えています。このように頼朝は挙兵の際、
戦死した三浦一族のために三ヶ寺を建立し手厚く祀っています。
石橋山合戦では北条時政の長男宗時が伊東祐親の手勢に討たれていますが、
頼朝が宗時を弔う寺を建てたという記録はありません。


三浦義明が名乗っていた大介(おおすけ)というのは、
国司の次官の名称で、職掌はすべて守(長官)と同じですが、
平家の世においては、義明が源氏より与えられた相模大介職は
官名ばかりで実権を伴わないものであったと思われます。
新潮社の『平家物語(中)』の頭注には、
「大介」とは、
在地の役人の職と書かれています。

(三浦大介義明は、)治承4年(1180)頼朝の召に応じて子義澄らを遣わしたが、
石橋山の敗戦で帰郷の途次、畠山重忠の軍を襲った為、重忠らに三浦の居城
衣笠城を包囲された。防守の望みを失ったので、義澄らの一族を脱出させて
頼朝のもとに赴かせひとり城に留まって善戦したが、ついに陥落して
悲壮な最期を遂げ、源氏のために忠を尽した。
石橋山の戦いで平家に敗れた頼朝は、海路安房に渡り再挙を図り、
関東各地の源氏家人の加勢を得、義澄らとともに鎌倉に拠って
策源地と定めた。後、征夷大将軍となり鎌倉幕府を創建したのである。
この国家大業の成就の陰には義明の先見の叡智と偉大な人徳によるところ
ただいである。鎌倉幕府の成否は義明によって決したと断ずるも過言ではない。
後に頼朝が義明あるいは一族に対する報謝の意が実に数々の
温情の行業に伺われる。義明が後に「三浦大介百六ツ」と呼ばれる由来は、
頼朝が衣笠の満昌寺において義明の17回忌法要を供養したとき、
義明がまだ存命して加護していてくれるのだ。という心からの事で
自刃したときの89才と17年を加えた数と思われる。
(来迎寺説明板より抜粋しました)
満昌寺(三浦大介義明の墓)  
 
『アクセス』
「来迎寺」鎌倉市材木座2-9-19
JR鎌倉駅東口から九品寺循環バス「五所神社」下車徒歩約5分
バス停向かいの薬屋と駄菓子屋の間の路地を入り
突き当りを左に曲がります。
『参考資料』
「神奈川県の歴史散歩」(下)山川出版社 「三浦一族の史跡道」三浦一族会鈴木かほる
「三浦一族と相模武士」神奈川新聞社 鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社
「神奈川県の地名」平凡社 「官職要解」講談社学術文庫
新潮日本古典集成「平家物語(中)」新潮社
 
 
 
 

 

 
 





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三浦大介義明の廟所がある満昌寺前の道を向かい側に渡り、
小道に入ると木立に囲まれた鎌倉円覚寺末寺の清雲寺(臨済宗)があります。
この寺は、三浦義継が父為継の冥福を祈って建立したと伝えられ、
本堂裏にある廟所には、中央に三浦為継墓、
父為通、子義継の墓と伝えられる五輪塔が三基あります。

左右の二基は、昭和14年(1939)旧日本軍の施設をつくるために接収され
廃寺となった付近の円通寺跡から和田九十三将のものといわれる
五輪塔とともに移されたものです。左右いずれが為通、義継の墓か不明ですが、
いずれも擬灰岩製で鎌倉時代の様式を示しています。


本堂

本堂裏に墓所があります。


中央が三浦為継、左右が父の為通、子の義継の五輪塔と伝えられ、
ともに鎌倉期のものです。

為通は桓武平氏の流れをくみ、康平六年(1063)源義家より三浦の地を賜り、
衣笠城を築いた武将で、為継、義継も源氏に従い
共に武勇に優れた武将でした。


本尊の滝見観音像(国重文)は三浦氏が宋から
請来したといわれている渡来仏です。もとは円通寺の本尊でしたが、
江戸後期この寺に移され、その後、清雲寺の本尊となりました。
像は中国産の桜桃の寄木造で膝を立てた半跏(はんか)像です。

本堂内滝見観音像脇に安置されているもとの本尊である毘沙門天像は、
運慶派の仏師の手になる鎌倉後期の作とされ、
和田合戦の時に姿を現して敵の矢をうけたことで
「箭請(やうけ)毘沙門天」とよばれています。

和田合戦とは侍所別当和田義盛一族が滅亡した戦いです。
その発端となったのは、建保元年(1213)二月信濃の武士
泉親衡(ちかひら)が二代将軍頼家の遺児の一人千寿を
将軍に擁立しようとして失敗し、この事件に関係した和田義盛の息子
義直・義重、甥和田 胤長らが捕えられました。
上総伊北庄にいた義盛は鎌倉に駆けつけて実朝に懇願すると、
実朝はこれまでの義盛の功に免じて息子二人を釈放しましたが、
甥の胤長は事件の張本人であるとして許されず陸奥へ流罪となりました。

この事件を北条義時は、和田義盛を滅ぼす好機ととらえ、
策謀をめぐらし義盛が謀反を起こすように追い込んでいきました。
建保元年(1213)五月、義時の挑発にのってとうとう和田義盛が幕府、
義時邸を襲いました。ところがこの合戦の前に起請文まで出していた
三浦義村が北条氏に分があるとみて直前になって北条側に寝返ったため、
合戦は二日間で終結し義盛は討たれ一族は壊滅しました。
後年、三浦義村と下総の豪族千葉介胤綱の間に口論があった際、
「三浦の犬は友を喰うぞ。」と吐きすてたという。
これは義村が従兄弟義盛を土壇場で裏切り、
北条方に寝返ったことへの皮肉です。

『アクセス』
「清雲寺」神奈川県横須賀市大矢部5-9 満昌寺の西南の地にあります。
JR横須賀駅より三崎・長井行き衣笠城趾下車 徒歩約17分
満昌寺前から次の信号、自動車修理工場と民家の間の路地をはいります。
『参考資料』
「神奈川県の歴史散歩」(上)山川出版 「神奈川県の地名」平凡社 
上横手雅敬「鎌倉時代」吉川弘文館 「三浦一族の史跡道」三浦一族研究会鈴木かほる
 鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社

 

 
 
 



 

 

 
 

 

 

 

 

 



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「衣笠城趾」でバスを下り、バスの進行方向に歩くとやがて見えてくる信号を左折し
しばらく進むと道路沿いに臨済宗義明山満昌寺があります。
満昌寺は、衣笠城で戦死した三浦大介義明を弔うために源頼朝が建立し、
寺号は義明の法号に因み
「満昌寺」と名付けられました。

 

『吾妻鏡』建久5年(11949月29日条によると頼朝は義明を弔うために、
三浦矢部郷内に一堂を建立しようとして、仲原仲業に候補地の検分を命じています。
これが満昌寺の創建の基といわれています。


山門をくぐると本堂左手前に頼朝手植えといわれる大きなツツジの木があります。

本堂には本尊の宝冠釈迦如来坐像が安置されています。

御霊神社
境内裏山には建暦二年(1212)、和田義盛が建立したと伝える御霊(明)神社があり、
堂内は宝物殿も兼ねていて三浦義明の坐像が祀られています。


御霊神社の裏手、瓦塀に囲まれた義明の廟所には、義明の宝篋印塔、
右側の五輪塔が義明の妻の供養塔、左側に板碑が一基あり、
いずれも鎌倉時代のものです。

板碑(いたび)とは中世、主に関東で死者の追善のために立てられた
平らに加工された石で作られた卒塔婆をいいます。

義明の首塚といわれる宝篋印塔

(義明像は境内説明板の写真を撮影しました)

木像三浦義明坐像(国指定重要文化財)は、満昌寺の境内にある
御霊明神社に伝蔵されている。三浦義明は後三年の役で八幡太郎義家に
したがって勇名をはせた為継の孫で、治承四年(1180)頼朝の平家追討の
旗上げのさい源氏側に立ち、同年八月、平家勢の攻撃をうけ衣笠の地で
八十九歳で戦死。その後の三浦一族の繁栄の礎となった。
像は玉眼入り寄せ木造り、八十一・四㎝。両手先及び両足先などは差込み、
彩色は殆ど剥落(はくらく)している。頭頂に冠をのせ、右手に笏(しゃく)を
もって安坐し、腰にはたちを佩(は)く。長い顎ひげをはやした面部は、
気迫のこもった老人の表情をたくみに表出する。

特につりあがった目、頬から口元にかけての写実的な彫技は
この像をいきいきとさせている。制作の時期は鎌倉時代末期と
推定されており、
武人俗躰肖像彫刻として類例まれな等身大の
この像は、極めて貴重な存在であり、
没後祖霊として祀られ
神格化された、やや異質な武人彫像の古例としても重要である。

横須賀市教育委員会  (境内説明板より)
尚、宝物殿拝観には事前の予約が必要です。

寛延二年(1749)三浦氏の子孫三浦志摩守義次が満昌寺を整備し、
寛政十年(1798)には同じく子孫の三浦長門守為積が満昌寺に参詣し、
御霊神社に石灯籠を献じた。(義明廟所内手前の石灯籠)
また三浦氏の子孫には、徳川家康の側室となって紀伊藩祖頼宣、

水戸藩祖頼房を生んだ三浦於万(おまん)がいます。
水戸光圀は於万の孫にあたります。宝治の乱で三浦氏嫡流は滅亡しましたが、
北条氏側について生き残った盛連が宗家の三浦介を継ぎました。
盛連の父佐原十郎義連は三浦義明の末子で、
武勇と思慮を兼ね備えた人物として知られています。
この盛連の子孫が新井城主三浦義同(よしあつ)であり、
その義同の後胤が養珠院於万というわけです。伊豆韮山の代官江川太郎左衛門の

養女となった於万は、三島本陣における宴席で
徳川家康の目にとまり側室となって大奥に入ったという。
来迎寺(三浦大介義明の墓)  
『アクセス』
「満昌寺」神奈川県横須賀市大矢部一丁目 
JR横須賀市駅より三崎又は長井行きバス「衣笠城趾」下車 徒歩約10分
『参考資料』
「神奈川県の地名」平凡社 「神奈川県の歴史散歩」(上)山川出版社 
現代語訳「吾妻鏡」(6)吉川弘文館 鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社
 「三浦一族の史跡道」三浦一族研究会鈴木かほる
 

 

 
 
 
 





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