下関市竹崎の西部、海岸沿いにある白石正一郎の家は、
高杉晋作が奇兵隊を結成した地です。
当時白石邸の前はすぐ海だったので、
海に向って立派な門が建っていました。
正一郎は回船業で富を築いた豪商で、幼い頃より和歌や
国学に興味をもち、43歳の頃、下関を訪れていた国学者
鈴木重胤(しげたね)の門人となり尊王思想に心酔していき、
明治維新の実現へ裏面で活躍しました。
白石家に出入りした維新の志士は400人にのぼるといわれ、
高杉晋作をはじめとする志士の多くが白石家を宿とするなど、
志士たちを物心両面から支援しました。
奇兵隊は文久3年(1863)6月8日、白石邸で結成され、
正一郎は弟の廉作(れんさく)とともに隊士として参加しました。
結成後、奇兵隊は数日で100人を数え、白石邸では手狭となったため、
阿弥陀寺(現、赤間神宮)に本陣を移しています。
廉作は過激な直接行動に身を投じ、生野の変に参加し、
敗れて自害しましたが、正一郎自身は
決して表面に出ることなく、高杉晋作が亡くなった
慶応3年(1867)以後は志士としての活動から遠ざかりました。
明治維新後、中央への招聘を断って赤間宮の初代宮司となり、
世俗とは距離をおいた生活を送り、
明治13年、69歳でその生涯を終えました。
赤間神宮は、江戸時代までは阿弥陀寺と称していましたが、
明治維新の神仏分離令により「安徳天皇社」となりました。
その後、明治天皇の勅定で「赤間宮」と改められ
社殿の造営が始まり、安徳天皇695年祭の明治13年、
御廟所から安徳天皇の尊像が遷されました。
正一郎は社殿の改築に尽力したのち、同年8月亡くなっています。
赤間神宮の海辺の灯篭には、
「白石資風(正一郎の名)」の文字が刻まれているそうです。
ちなみに、赤間宮は昭和15年(1940)には、
官幣大社となって赤間神宮と改称されました。
現在は阿弥陀寺町という地名が、往時の名残をとどめています。
中国電力 下関営業所前に白石正一郎邸跡・奇兵隊結成の地の石碑があります。
白石正一郎邸内にあった浜門は、白石邸が取り壊される時、
下関市長府町松小田に移築され、今も保存されています。
白石正一郎
文化九年(1812)三月七日、この地に生れ、明治十三年(1880)八月三十一日、
六十九歳で世を去った。正一郎は、回船問屋小倉屋の主人として
家業にたずさわるかたわら、国学に深い関心を持 ち、四十三歳の頃
国学者鈴木重胤の門下に入って、尊皇攘夷論の熱心な信奉者となった。
また「橘園」の号をもつ歌人でもある。
彼の残した日記は、明治維新研究にとって第一級の貴重な資料といわれる。
その中には、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎) の
いわゆる維新の三傑をはじめ、坂本龍馬、
梅田雲浜など志士四百人余の名を数えることができる。
また、明治天皇の叔父 中山忠光卿、
三条実美卿ら七卿も白石家に滞在している。
文久三年(1863)六月、白石家で奇兵隊 が結成されたことは、
あまりにも有名であり、以来、彼も奇兵隊員として、
また商人として高杉晋作と親交を深めるとともに奇兵隊を援助した。
このあたりに白石家の浜門があって、海へ通じており、
志士たちはここから出入した。 白石家の海へ降りる門は
新しい時代へ向う黎明の門だったといえる。 中国電力株式会社
高杉晋作 奇兵隊結成の地
長州藩を明治維新へと推し進めたのは奇兵隊であるが
さらに明治維新を解明する鍵が奇兵隊にあるともいわれている
奇兵隊は文久三年六月 この地の回船問屋白石正一郎家で結成された
正一郎は結成と同時に入隊し 高杉晋作を援けた年齢も身分も
まったく違う二人のかたい結びつきが奇兵隊をささえたということができる
題字 山根寛作書
『アクセス』
山口県下関市竹崎町3-8-13 JR下関駅から徒歩5分
下関市竹崎町 中国電力下関営業所敷地内にあります。
『参考資料』
「山口県の地名」平凡社、1988年「山口県の歴史散歩」山川出版社、2006年
安富静夫「水都(みやこ)の調べ関門海峡源平哀歌」下関郷土会、2004年
古川薫「長州歴史散歩 維新のあしあと」創元社、昭和47年
「下関観光ガイドブック」下関観光振興課