平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



屋島合戦後、源義経は阿波や讃岐の武士たちを
味方につけ、逃げる平氏を追って西へ向かい、
「奥津(追津=おいつ)」辺りに結集しました。
義経の水軍が近づいてくると聞いて、
彦島(引島)に集結していた平氏軍は出撃することになり、
全軍を三手に分け、第一陣に山鹿秀遠(ひでとお)軍、
松浦(まつら)党の水軍が第二陣、第三陣として平氏一門の軍船が出発し、
田ノ浦(文字関の港・現、北九州市門司区)に陣取りました。
両陣営を隔てる距離は4㎞ほどです。

田ノ浦は、潮流の影響を受けないため、
船の潮待ちするのに適した場所とされています。

『平家物語』(巻11・壇浦合戦)に「平家は
長門国(山口県)引島(ひくしま)にぞ着きにける。
平家引島に着くと聞こえしかば、源氏は同国
追津(おいつ)につくこそ不思議なれ。」とあり、
追い迫る源氏を「追津」、平家が陣を布く彦島のことを
「引島(引き退く)」とよんで、語呂あわせをし
壇ノ浦合戦の勝敗を暗示しています。

奥津(追津)とは、長府の沖合にある満珠(まんじゅ)島・
干珠(かんじゅ)島の古称で、下関市の
忌宮神社(いみのみやじんじゃ)の飛地境内です。
原生林に覆われた島は、国の天然記念物に
指定され、立ち入り禁止になっています。

伝承によれば、神功皇后が朝鮮出兵の際、龍神から
潮の干満を操ることのできる潮満珠(しおみつるたま)と
潮干珠(しおひるたま)を授かり、凱旋の後、
海に沈めると満珠島・干珠島になったという。
二島のうちどちらが満珠・干珠かについては両説あり、
はっきりしていないようです。
忌宮神社は、仲哀天皇が熊襲征伐のために
設けた豊浦宮(とよらのみや)跡といわれています。

晴れた日には、火の山公園展望台からも
これらの島は遠望できますが、近くに見える
豊功(とよとこ)神社と御船手(おふなて)海岸に向かいました。

国道9号線沿いのサンデン交通「松原」バス停

バス停近くに建つ「城下町長府観光案内図」





松原バス停を下車すると、国道9号線沿いに豊浦高校があります。
同校のグラウンド横を海に向かうと、戦国時代ここにあった
串崎城(大内氏の家臣内藤隆春築城)跡の石垣が見えます。

壇ノ浦合戦の時、義経は串崎(現、下関市長府宮崎町)の漁師から
12艘の串崎船を取立て、関門海峡の潮流に詳しい
漁師とも海賊ともいわれる人たちを味方につけています。
このことからも早くからこの地には、
地の利を生かした海上勢力の拠点があったと考えられています。






拝殿
豊功神社は明治元年(1868)旧藩主毛利家の霊屋として創建されました。

豊功神社は、満珠島・干珠島が寄り添うように望める絶景スポットです。

七福神像
この像の背方向の満珠・干珠神の二島の浮かぶ豊浦湾は古来龍宮世界に
つながる聖なる海としていろいろな神話や伝説に富んでいます。
当神社の境内にも太古より龍神が祭られ今に龍神社として崇められております。
この像はまさしく壽・福・富をもたらす七福神が宝船ならぬ龍神船に同乗して
龍宮の神都に向かうめでたい瑞祥と形象して七福神に献納されました。
崇敬の皆様方に七福の瑞祥あらたかならんことを祈念致します。(碑文より)

高台にある境内からは満珠・干珠を眼下に眺められ、
初日の出の名所としても有名です。



見はるかす 二つの島の あはひより 宝船入り 福神祀る 秋月





豊功神社から御船手海岸に向かいます。

長府宮崎町6



下関市の大歳神社(源義経戦勝祈願の地)  

『アクセス』
「豊功神社」下関市長府宮崎町4-1
JR長府駅からバス9分「松原」下車、徒歩7分
JR下関駅からバス21分「松原」下車、徒歩7分
「御船手海岸」下関市長府宮崎町7-18
JR長府駅からバス9分「松原」下車、徒歩10分
JR下関駅からバス21分「松原」下車、徒歩10分
『参考資料』
「山口県の地名」平凡社、1988年 「山口県の歴史散歩」山川出版社、2006年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
安田元久「源義経」新人物往来社、2004年
森本繁「史実と伝承を紀行する 源平海の合戦」新人物往来社、2005年
安富静夫「水都(みやこ)の調べ関門海峡源平哀歌」下関郷土会、2004年
「下関観光ガイドブック」下関観光振興課

 

 



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壇ノ浦合戦の際、源義経は有明山(JR下関駅北方)に
小松を植えて大歳神を祀りました。
そして桑の木で弓矢を作り神前に捧げ、
その矢で平知盛の率いる平家軍に開戦の矢文を射込みました。
平家軍は驚き壇ノ浦に軍船を進め、
激しい戦いになりましたが、敢えなく全滅したという。

翌年の文治2年(1186)、竹崎の漁民がこの戦勝の神を
祠に祀ったのが大歳神社の始まりとされています。
以来、武運長久の神として崇められ、高杉晋作が大歳神社の
氏子であった白石正一郎宅にて奇兵隊を結成した時、
旗揚げの軍旗を大歳神社に奉納しました。

境内には七卿落ちの画碑、維新回天の石碑、白石邸で若くして
亡くなった七卿落ちの公卿錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)の
病気平癒を祈願して合祀された蛭子八坂神社(八坂神社)など、
明治維新の史蹟が数多くあります。

大歳神社の旧社地は、JR下関駅のすぐ北方にありましたが、
同駅開設のため、
昭和15年、現在の小山に遷座しています。

JR下関駅



正面の大鳥居は文久2年(1862)に豪商白石正一郎が
攘夷成就を祈念して奉納したものです。

この長い石段は115段あります。昔は123段あり
「一二三(ひふみ)の階段」と呼ばれていました。

源義経と大歳神社
源義経は文治元年、有明山(現JR下関駅辺りの線路敷)にて
大歳御祖神のご神霊を祀り、平家追討の戦捷の祈願を捧げました。
現社殿は昭和十五年に当地に遷座されました。
当時の階段は一二三(ひふみ)段築きお祓い坂としての祈りを込めました。
(現在はその数を留めていません) 社殿の左面には
黒御影石に源義経が弓矢を引く姿を画碑に留めています。
その雄姿をお守りに印し「勝守(かちまもり)」として授与いたしております。

維新の史跡(大鳥居)
明治維新の原動力となった奇兵隊の果たした役割は周知の通りであるが、
創設者高杉晋作を信奉して尊皇討幕の推進に全資産を投入し、
これを援助した豪商志士白石正一郎の功績は計り知れないものがある。
この正一郎は敬神の念厚く文久二年、氏神大歳神社に大鳥居を奉納して
攘夷必勝を祈念した。参道(石段)の下の鳥居がそれであるが、
終始表に出ることなく陰の力に徹した正一郎の足跡を残す数少ない史跡である。
また京都における文久三年八月の政変によって
三条実美ら勤王の公卿七人が西下し、下関巡視の際には白石邸にも宿泊した。
その七卿落ちの有様を画碑として境内に建立している。下関市





拝殿

義経戦捷(せんしょう=かちいくさ)の弓

「平家追討のため西下した義経は、平家の本陣彦島と対峙する
有明山(竹崎町)に大歳神を祭り、桑の木で弓矢を作り、
神前に供えたのちその矢を彦島に向けて射込み、戦勝を祈願したことから、
のち地元の人たちがその地に大歳神社を創建したという。」

摂社五社稲荷神社
 祭神 正一位稲荷五社大明神・上丸三社明神・
静姫明神(しずひめみょうじん)・徳姫明神(とくひめみょうじん)
大歳神社は義経戦勝祈願の足跡をもって創建されたことから、
静姫明神は(静御前)、徳姫明神は(建礼門院=徳子)を思わせます。

大歳(おおとし)神社
御祭神 木花咲耶姫神(コノハナノサクヤヒメノカミ)
大歳神(オオトシノカミ)・御歳神(ミトシノカミ)・若歳神(ワカトシノカミ)
祭日  歳旦祭 一月一日  節分祭 二月三日
例大祭 四月十三日  夏越祭 七月二十四日・二十五日
 秋祭  十月十七日 (御斎祭 旧正月十三日・十四日)
 月次祭 毎月一日・十五日 
御由来
寿永四年(一一八五年)、平家追討の任務を受けた源義経 は、
壇ノ浦の合戦 に
望んで武運の守護神と仰ぐ富士浅間の
大神の御神助を請い、平家 が布陣を整
る彦島を望む
有明山(JR下関駅東口付近)に小松を植え、篝火を焚き、
七日七夜の斎戒沐浴をして戦捷祈願をこめた。
 その後、祈念を注いだ桑の弓矢をもって平知盛 率いる
平家軍に開戦の矢文
射込んだ。
 驚いた平家軍は急遽、壇ノ浦 に軍船を進め一戦を挑んだが、
待機していた
源範頼の軍勢と義経軍との挟み撃ちに合い、
敢え無く滅亡したと云う。
 翌年の文治二年(一一八六年)、
四軒の漁民が義経の祈願の有様を畏敬し
て、
神祠を祀ったことが大歳神社の起源とされる。
 爾来、武運長久の神としての御神威は光輝を益し、
文久三年(一八六三年)、
馬関攘夷戦に際しては、
高杉晋作 の唱導により奇兵隊が氏子・白石正一郎宅
にて結成され、
維新回天の大業に勇名を馳せた。その時の奇兵隊旗揚げの
軍旗
は大歳神社に奉納された。
翌元治元年(一八六四年)折しも四国連合艦隊との
交戦となったが、
正一郎は攘夷成就を祈請して大鳥居を奉納した。
(鳥居横
詳細文有)その後下関の発展とともに
昭和一五年(一九四〇年)関門鉄道トン
ネル工事の際、
社地が鉄道線路敷地に接収され現在の高台に遷座されたが、
神威はいよいよ高く本州最西端の鎮護の神と仰がれている。
 殊に、下関において源氏 と縁のある唯一のお社であることから、
古来より勝
運の神として崇められ、現在は心願成就の
お社としても広く知られている。

摂末社 五社稲荷神社  祭日 春秋の午の日
    蛭子・八坂神社 祭日 十月十日
顕彰祭 七卿顕彰祭   祭日 三月二十七日
祈願各種
奉祭 必勝祈願 厄除開運 交通安全 厄除開運 子授 安産 
初宮詣 
社業隆昌 商売繁盛 地鎮祭 家祓 方位除 他
 各種相談承ります  
受付 083-223-0104

源氏軍が結集した満珠島・干珠島  
赤間宮宮司白石正一郎宅跡・奇兵隊結成の地  
『アクセス』
「大歳神社」〒750-0025 山口県下関市竹崎町1丁目13−284
JR下関駅東口から徒歩約8分
『参考資料』
安富静夫「水都(みやこ)の調べ関門海峡源平哀歌」下関郷土会、2004年
「下関観光ガイドブック」下関観光振興課

 



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下関市竹崎の西部、海岸沿いにある白石正一郎の家は、
高杉晋作が奇兵隊を結成した地です。
当時白石邸の前はすぐ海だったので、
海に向って立派な門が建っていました。

正一郎は回船業で富を築いた豪商で、幼い頃より和歌や
国学に興味をもち、43歳の頃、下関を訪れていた国学者
鈴木重胤(しげたね)の門人となり尊王思想に心酔していき、
明治維新の実現へ裏面で活躍しました。

白石家に出入りした維新の志士は400人にのぼるといわれ、
高杉晋作をはじめとする志士の多くが白石家を宿とするなど、
志士たちを物心両面から支援しました。
奇兵隊は文久3年(1863)6月8日、白石邸で結成され、
正一郎は弟の廉作(れんさく)とともに隊士として参加しました。
結成後、奇兵隊は数日で100人を数え、白石邸では手狭となったため、
阿弥陀寺(現、赤間神宮)に本陣を移しています。

廉作は過激な直接行動に身を投じ、生野の変に参加し、
敗れて自害しましたが、正一郎自身は
決して表面に出ることなく、高杉晋作が亡くなった
慶応3年(1867)以後は志士としての活動から遠ざかりました。
明治維新後、中央への招聘を断って赤間宮の初代宮司となり、
世俗とは距離をおいた生活を送り、
明治13年、69歳でその生涯を終えました。

赤間神宮は、江戸時代までは阿弥陀寺と称していましたが、
明治維新の神仏分離令により「安徳天皇社」となりました。
その後、
明治天皇の勅定で「赤間宮」と改められ
社殿の造営が始まり、安徳天皇695年祭の明治13年、
御廟所から安徳天皇の尊像が遷されました。
正一郎は社殿の改築に尽力したのち、同年8月亡くなっています。

赤間神宮の海辺の灯篭には、
「白石資風(正一郎の名)」の文字が刻まれているそうです。

ちなみに、赤間宮は昭和15年(1940)には、
官幣大社となって赤間神宮と改称されました。
現在は阿弥陀寺町という地名が、往時の名残をとどめています。

中国電力 下関営業所前に白石正一郎邸跡・奇兵隊結成の地の石碑があります。
白石正一郎邸内にあった浜門は、白石邸が取り壊される時、
下関市長府町松小田に移築され、今も保存されています。

白石正一郎
文化九年(1812)三月七日、この地に生れ、明治十三年(1880)八月三十一日、
六十九歳で世を去った。
正一郎は、回船問屋小倉屋の主人として
家業にたずさわるかたわら、国学に深い関心を持 ち、四十三歳の頃
国学者鈴木重胤の門下に入って、尊皇攘夷論の熱心な信奉者となった。
また「橘園」の号をもつ歌人でもある。

彼の残した日記は、明治維新研究にとって第一級の貴重な資料といわれる。
その中には、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎) の
いわゆる維新の三傑をはじめ、坂本龍馬、
梅田雲浜など志士四百人余の名を数えることができる。
また、明治天皇の叔父 中山忠光卿、
三条実美卿ら七卿も白石家に滞在している。

文久三年(1863)六月、白石家で奇兵隊 が結成されたことは、
あまりにも有名であり、以来、彼も奇兵隊員として、
また商人として高杉晋作と親交を深めるとともに奇兵隊を援助した。

このあたりに白石家の浜門があって、海へ通じており、
志士たちはここから出入した。 白石家の海へ降りる門は
新しい時代へ向う黎明の門だったといえる。 中国電力株式会社

高杉晋作 奇兵隊結成の地
長州藩を明治維新へと推し進めたのは奇兵隊であるが
 さらに明治維新を解明する鍵が奇兵隊にあるともいわれている
奇兵隊は文久三年六月 この地の回船問屋白石正一郎家で結成された
 正一郎は結成と同時に入隊し 高杉晋作を援けた
年齢も身分も
まったく違う二人のかたい結びつきが奇兵隊をささえたということができる
題字 山根寛作書
『アクセス』
山口県下関市竹崎町3-8-13 JR下関駅から徒歩5分
下関市竹崎町 中国電力下関営業所敷地内にあります。
『参考資料』
「山口県の地名」平凡社、1988年「山口県の歴史散歩」山川出版社、2006年
安富静夫「水都(みやこ)の調べ関門海峡源平哀歌」下関郷土会、2004年
古川薫「長州歴史散歩 維新のあしあと」創元社、昭和47年
「下関観光ガイドブック」下関観光振興課

 

 

 

 

 



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下関には二つの厳島神社があります。 一つは長門厳島神社です。
平家一門は安芸国の嚴島神社の分霊を平家の守護神として
軍船に祀っていましたが、壇ノ浦敗戦後、磯辺に漂着していた神霊を
村人が拾い上げ、文治元年(1185)社殿を建立し、祀ったとされ、
のち、厳島神社から再び分霊を勧請したという。
現在は下関市西部の氏神として、崇敬されています。
また、高杉晋作が維新成就を祈願した社でもあります。
境内の大太鼓は、小倉戦争に勝利した戦利品として、
晋作が小倉城の櫓(やぐら)に吊るされていたものを
持ち帰り、奉納したといわれています。


もう一つは、伊崎町の高台にある伊崎厳島神社です。

長門厳島神社と同様な由緒をもち、境内の鈴ヶ森稲荷神社は、
安徳天皇の守護神として奉祀されたといわれています。
社伝によると、源平時代、平家は安芸国の嚴島大明神を
船中に祀っていましたが、壇ノ浦合戦に敗れた時、
平家の一人が秘かに持ち出し、伊崎浦の岩の上に安置しました。
のち伊崎の人々が、日和山中腹に小社を建立して
ご神体を安置したことに始まります。


長門厳島神社


拝殿 

本殿


厳島神社由緒略記
 天照大神の御子神 
御祭神 
市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
            田心姫神 (たごりひめのかみ)
            湍津姫神 (たぎつひめのかみ)
一.由緒
厳島神社の三社の御祭神は畏くも皇祖天照大神の御子神であらせられ
[厳島神社記録帳]によると安芸国厳島神社の御分霊を平家の守護神として
安徳天皇の御座船におまつりされていたが、壇ノ浦の合戦後
この近くの磯辺に放棄されていたのを里人に神託があった
「吾は厳島姫の神也、早く祭るべし、かしこの磐之上にあり」と
不思議に思いながらそこに行ってみると磯辺に御鏡太刀様の者を見つけ
文治元年(西暦一一八五年)里人たちが現在地に社殿を建立し
更に安芸国厳島神社より御分霊をあらためて勧請し今に至っております。
一.御神徳
海上安全・交通安全・家内安全・無病息災・開運招福・
商売繁盛・安産祈願・病気平癒・方位災除・学業成就など
一.祭日  節分祭 二月節分の日
          夏越祭 七月 第三土・日曜日
          例祭  十月 第三土・日曜日 
          

一.境内末社 貴船神社 
本社は京都市左京区貴船に鎮座する貴船社で
御祭神は高淤加美神(たかおかみのかみ)と言います。
水神様として親しまれ商売繁盛・
開運の神として人々に崇敬されています。

一.高杉晋作の大太鼓
この地は幕末明治維新の大きな原動力となった高杉晋作を始め
奇兵隊諸士が活躍した明治維新発祥の地であります。
高杉晋作は維新成就を祈願した当神社に、大太鼓を奉納しました。
この大太鼓はケヤキ材のくり貫きで直径一一0cm・
重量三九〇kgあり、明治維新の象徴であります。
この大太鼓を通して先人を顕彰し、その歴史に学ぶことを目的に
毎年九月第一土曜日太鼓祭を執り行っています。
平成十七年十二月記す

『アクセス』
「長門厳島神社」山口県下関市上新地町1丁目1-11 
JR下関駅からサンデンバス乗車5分、「厳島神社前」バス停下車徒すぐ
「伊崎厳島神社」山口県下関市伊崎町1丁目7-23
下関市駅西出口より徒歩約10分
※しものせき観光1日フリー乗車券を利用すると便利です。
ご利用可能区間(途中乗降ができない区間がありますのでご注意ください)
サンデン交通バス 料金 大人 730円、小児 370円

『参考資料』
「山口県の歴史散歩」山川出版社、2006年

安富静夫「水都(みやこ)の調べ関門海峡源平哀歌」下関郷土会、2004年
全国平家会編「平家伝承地総覧」新人物往来社、2005年
「下関観光ガイドブック」下関観光振興課

 

 

      

        

    

 

 

 



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