平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




石橋山合戦で惨敗した頼朝は、土肥の椙山から真鶴半島へと辿り、
土肥実平が手配した船で岩海岸から安房へと船出しました。


真鶴湾の遊覧船乗場駐車場前の切りたった崖の前に、
頼朝に従った土肥実平・遠平父子、岡崎義実、安達盛長、田代信綱、
土屋宗達、新開忠氏の名を書いた旗が翻っています。
真鶴港


崖にある鵐窟(しとどのいわや)跡は、
源頼朝が治承4年8月(1180)石橋山の戦いに敗れたとき、
この地にあった岩屋に一時かくれて難をのがれました。
その時、大庭景親の追手があやしんで中をのぞくと
「シトド(ほおじろ)」といわれる鳥が急にが飛び出たので
人影はないものと立ち去った。ということから鵐窟といわれ、
かつては高さ2メートル深さ10メートル以上の大きさがありました。

度々の地震で崩れ、また第2次世界大戦中の軍用採石によって、
今は僅かに痕跡をとどめるだけです。


頼朝が窟に安置したという観音像を祀る観音堂

 鵐の窟は湯河原にもあり、湯河原駅から元箱根行バスに乗り
「バス停・しとどの窟」下車、20分ほどジグザグ道を下った斜面に
間口12・8m・高さ5m・奥行11・3mの岩穴があります。
付近はかって土肥の椙山(すぎやま)と呼ばれ、石橋合戦後、源頼朝主従が身を
潜めていた所といわれる山深い地で、洞窟内やその付近には多くの石仏があり
こちらの伝承も真鶴とほとんど同じです。

「神奈川県の歴史散歩」には、真鶴海岸の鵐の窟跡と土肥椙山の鵐の窟は、
昭和初期にはその正当性をめぐって吉浜町(現・湯河原町)と真鶴町の間で
激しい論争があったが、各地のこのような隠れ家を転々としながら、
頼朝は虎口(ここう)を脱することに成功したのだろう。」と記されています。


『源平盛衰記』には、この洞の話がドラマチックに描写されています。

「味方が思い思いに落ちていった後には、土肥次郎実平・同男遠平・新開次郎忠氏
土屋三郎宗遠・岡崎四郎義実・藤九郎盛長が残り、倒れた木の洞の中に隠れた。
佐殿その日の装束には、赤地に錦の直垂に赤糸縅の鎧着て裾金物
(鎧の袖や草摺りの端に打った金物)には銀の蝶が翅を広げた形を円にして
数多くつけてあった。暗闇の中で、その蝶がひときわきらきらと輝いて見えた。
大庭・俣野・梶原三千騎が頼朝一行の足跡を辿って山中をくまなく捜す。

大庭が倒れた木の上にのぼり、弓杖をついて『佐殿は確かにここまで

いらっしゃったはずなのに、ここで足跡が消えている。
この臥木(倒木)が怪しい、
中が空洞なれば何人でも身を隠せるぞ。
中に入って捜せ。』と下知する。
大庭景親の従兄弟の梶原景時が
弓を脇にはさみ、太刀に手をかけ進み出て、

臥木の中に入り、中を覗いた途端佐殿の目とかちあった。

佐殿は最早これまで、自害せんと腰刀に手をお掛けになる。

『しばらくおまち下さい。お助け申しあげます。軍にお勝ちになったら
景時を
お忘れなさるな。もし、運悪く敵の手にかかられたなら、
景時の武運を祈りたまえ。』と
申しあげて梶原景時は
蜘蛛の糸を弓や兜に引きかけて洞の中から這い出した。


佐殿両手を合せ、景時の後姿を三度拝んで『我が出世したなら、
この恩は決して
忘れないぞ。たとえ滅びても七代までは景時を守るぞ。』と
誓われた。
景時は『この洞には、蟻・オケラ一匹もいないが、
こうもりが多く飛び騒いでいます。それ、あそこをご覧あれ。
真鶴を駆けて行く武者七、八騎きっと佐殿一行であろう。あれを追え。』と
下知すると、大庭景親は海の方を見やって
『いや、あれは佐殿ではない。やはりこの臥木が怪しい。
景親が中に入ってもう一度捜してみよう。』と臥木から飛び降り、
洞に入ろうとする。その行く手に梶原景時が立ちふさがり『やや、大庭殿。
今は平家の御代でありますぞ。源氏は戦に負けて落ちていきました。
源氏の大将の首を取って、手柄にしたいと思わない者がござりましょうか。
景時の捜しようが足りないといわれるのか、
それともこの景時に二心があると疑われるのか。
中に人が隠れていたらこのように兜や弓に蜘蛛の糸がかかりましょうや。
お疑いになるのであれば、景時面目なし、自害しまする。』と詰め寄ったので、
大庭もそれ以上は何もいわなかった。


しかしやはり洞が気になり、中に弓を差し入れてからりからりと、

二、三度さぐると弓の先が佐殿の鎧の袖にあたった。
佐殿はひたすら『八幡大菩薩、八幡大菩薩』と念ずるとその験であろうか。
臥木の中から八幡神の使者である山鳩が二羽はたはたと飛び出した。

人が中にいるのなら鳩はいまいと大庭は思ったが、やはり臥木が気にかかる。
『斧、鉞をもってきて臥木を切ろう。』といい終わらぬうちに

今まで晴れていた空が俄かに掻き曇り、雷が鳴り響き大雨が降りしきった。
仕方がないので臥木を切るのは、雨が止んでからのことにしようと大きな石を
7、8人がかりで押し寄せ臥木の口を塞いで帰った。」
(巻第21 兵衛佐殿臥木に隠る附梶原景時佐殿を助くる事)

『吾妻鏡』には、「ここに梶原平三景時という者があり、確かに頼朝の御在所を

知っていたが、情に思うところがあって、この山に人が入った痕跡はない
と偽って景親の手勢を引き連れ傍らの峯に登っていった。」とあり、
頼朝が洞に隠れた話はありませんが、『源平盛衰記』と同様、梶原景時が
頼朝の窮地を救う人物として記されています。

これがのち、梶原景時が頼朝に仕える機縁となり、

景時は鎌倉幕府で大活躍します。
しかし源義経と対立して、あることないことを頼朝に告げ口して、
兄弟仲たがいの原因をつくったともいわれる人物です。

なぜ梶原景時は、頼朝を見逃したのでしょうか。
『鎌倉時代』には、次のように書かれています。

「明敏な景時は、平氏の盛運に影がさしはじめ、この流人が東国を
支配する日がくるかもしれないことを感じとり、頼朝に賭けたのであろう。」
しとどの窟 (湯河原町)


『アクセス』
「鵐の窟」神奈川県真鶴町真鶴
真鶴駅から箱根登山バス・伊豆箱根バスケープ真鶴行「魚市場前」下車すぐ
 又は真鶴駅より徒歩20分位
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 「源平盛衰記」(三)新人物往来社
上横手雅敬「鎌倉時代」吉川弘文館 「源頼朝のすべて」新人物往来社
 

 

 
 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )





石橋山合戦で敗れた頼朝主従は、土肥椙山中を転々とし真鶴半島へ駆け込みました。
危機を脱した土肥実平が喜びのあまり思わず頼朝の御前で舞を舞ったと伝える
謡坂が真鶴駅から岩海岸へと続く道の途中にあります。
うたい坂の一つ手前のバス停は土肥道、バス停うたい坂から岩海岸までは
ゆるい下り坂になっていて頼朝にまつわる故事を偲ぶことができます。
岩海岸は頼朝が房総へ船出した「頼朝船出の浜」とされています。


バス停うたい坂の向かい側の路傍に「謡坂」「謡坂之記」と題する碑が二基あります。





このうち「謡坂之記」の方は、この地の謡坂荘主高井徳造氏が謡坂の由来を知り、
頼朝の遺跡を顕彰するために昭和9年1月にお建てになった碑です。
長い碑文を要約すると「治承4年8月23日、石橋山合戦に敗れ8月28日に
ここまで逃れてきた頼朝主従が土肥実平の館のある西の方を望むと土肥村から兵火が
上がり炎が空を覆った。実平は之を見て頼朝が危険を脱したことを喜び、併せて
その前途を祝福し『土肥に三つの光あり。第一には、八幡大菩薩、我君を守り給う
和光の光と覚えたり。第二には、我君平家を討ち亡ぼし、一天四海を照らし給う光なり。
第三には、実平より始めて、君に志ある人々の、御恩によりて子孫繁昌の光なり。
嬉しや水、水、鳴るは瀧の水。悦び開けて照らしたる土肥の光の貴さよ。
我家は何度も焼かば焼け。君が世にお出になったら広い土肥の椙山に茂る木を伐って
邸など何度でも造りかえる。君を始めて万歳楽我等も共に万歳楽』と
勇み踊り謡った地であり爾来此地は謡坂と称されるようになった。
この十二年後、頼朝公は建久三年征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府をお開きになった。
公の史跡は天下に多いけれども、この地は挙兵の当初、
敵の虎口を脱した地であることを石に刻んで後世に伝えるものである。」

「和光の光」とは仏が日本の地に神として顕れるその光をいい、
土肥実平が自分の家が敵勢に焼かれるのを見て「あの光は、我が君や我々の
未来を照らす光だ。」と謡い舞ったという『源平盛衰記』にちなむ話です。

「神奈川県の地名」によると、岩村について敵の追跡を免れた頼朝が
喜びのあまり「祝村」と命名したという村民の伝承を記しています。

頼朝主従が房総半島へ向けて船出した岩海岸





「源頼朝開帆處の碑」は「船出の浜碑」と背中あわせに建っています。

頼朝が安房へと船出したと伝えられる岩海岸の傍には
「源頼朝船出の浜」「源頼朝開帆處」と題する石碑が建てられています。
このうちの一基「源頼朝開帆處」の碑文は、文字変換するのも一苦労です。
そこで真鶴町生涯学習課にこの碑の解説をお願いしました。

源頼朝開帆處
 誓復父讎擧義兵石橋山  上決輸贏佐公雖昔開帆
 處謡曲長傳七騎名     文學博士 鹽谷 温 題   
            昭和十二年十一月建設 岩村保勝會

読み下しは、「誓って父の讎(あだ)を復さんと義兵を挙げ
石橋山に上(のぼ)りて輸贏(ゆえい)を決す  
佐公(さこう)昔を維(つな)ぐ開帆の処 謡曲長く七騎の名を伝う」
意味は、「(頼朝が)父(義朝)の名誉を回復しよう(汚名を晴らそう)と
兵を挙げて、石橋山にて(平家に)勝負を挑んだ。この場所は(敗れた)
佐公(頼朝)が再起を図り船出した昔を結びつける場所である。そのことは謡曲の中で、
長い間、(頼朝の船出の際に助け従った)七騎の名を伝えていることからも分かる。」

ここで『源平盛衰記』から頼朝船出の様子をご紹介します。
土肥実平は海人から小船を借りて、真鶴岩ケ崎から漕げや、急げ、とて4、5町ばかり
漕ぎ出して浦の方をふりかえると、伊東入道50余騎が馳せ来たり「あれ、あれ」と
叫び騒いでいる。背後には大庭三郎景親千余騎が続き、間一髪のところであった。
一行が安房の国洲崎(すのさき)を目指して舟を漕ぐうち、突然の強風にあおられ、
いずことも知れぬ渚に漂着しました。「ここはいずくやらん」と頼朝。
土肥実平が舷(ふなばた)に立ち見廻すと早川の河口。(小田原と石橋の間)
しかも、大庭勢3千余騎が土肥椙山で頼朝捜索の帰途、汀に幕を引き七か所に
篝火をたき、酒盛りをしている敵陣に吹きつけられたのでした。
幸い平家方は頼朝に気づいていません。土肥椙山で滅ぶはずの身が大菩薩の御加護で
ここまで生き延びたのに、終に八幡様にも見捨てられたのかと思いながらも
頼朝は懸命に祈られた。実平は「この辺には自分の家人でない者はいない」
酒肴を探してこようと船から飛び降り、片手に弓矢をもって走り廻り、「我が君が
この浦にお着きになった。実平に志あらんものは酒肴参らすべし」と大声で言うと、
或る者は徳利に、或る者は桶にと、我も我もと船に酒肴、食糧を運んで来ました。
敵の篝火の灯りを頼りに酒を呑むと全員飢えも休まった。
実に八幡大菩薩のお陰です。やがて風もおさまり波も静かになったので、
舟を出し安房の国洲崎にと向かいます。巻第二十二(佐殿三浦に漕ぎ会ふ事)

『吾妻鏡』治承4年(1180)8月28日条によると「頼朝は実平が土肥の住人である
貞恒に命じて準備させた船に乗り、土肥の真鶴崎から安房国に赴かれた。
頼朝は乗船の前に土肥弥太郎遠平を御使者として政子のもとに遣わされ、
離れ離れになってからの消息を伝えられた。」と記されています。
源頼朝上陸地(鋸南町竜島)  
『アクセス』
「頼朝船出の浜の碑」神奈川県足柄下郡真鶴町岩 
JR真鶴駅より伊豆箱根バス(17、8分)岩海岸下車すぐ
 バスの本数が少ないのでご注意ください。

『参考資料』
「神奈川県の地名」平凡社 新定「源平盛衰記」(第三巻)新人物往来社 
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館





 
 



 
 
 

 

 
 



 

 

 
 

 

 
 


コメント ( 2 ) | Trackback (  )




湯河原で土肥実平の館跡、城願寺などを訪れ、翌朝、湯河原駅前から
箱根登山バスで
箱根神社に向いました。


箱根山は古くから山岳信仰の中心地とされ、奈良時代に山岳修行僧
万巻(満願)によって
堂宇が建立され、箱根権現と呼ばれました。
中世には、修験道の聖地となり多くの僧兵をかかえて繁栄し、

鎌倉時代には、頼朝ら歴代将軍や幕府要人の崇敬を受け発展しました。

前面の芦ノ湖は古くから権現の御手洗池とされ山岳僧たちの修行の場でした。
境内には平安時代征夷大将軍坂上田村磨呂が蝦夷平定の際、
矢を献上したという
矢立杉があります。
前九年の役に出陣した源頼義や義家、頼朝、義経らが
この先例にならって
矢立杉に矢を献じ武運長久を祈ったと伝えられています。

また宝物の中には伝源義経奉納の太刀薄緑丸(うすみどりまる)があります。



芦ノ湖畔を行きます。



参道には杉の大木が聳えています。








吾妻鏡によれば、石橋山合戦で敗れ土肥山中に逃れた頼朝を
箱根権現別当行実、その弟永実が助けています。
行実は武芸に秀でた永実に食糧を持たせ
土肥山中に逃れた頼朝を探させました。全員餓えていたので
永実が献上した食事は千金に値したという。
その夜箱根山の永実の僧坊にかくまわれましたが、山木兼隆の祈祷師だった
行実の弟智蔵坊良暹(りょうせん)が悪徒を集め頼朝を襲おうとしたので、
翌日、頼朝らは土肥椙山に戻りました。

行実がこのように尽すのは、父良尋の代から源氏に仕え
為義から賜った下文には「東国の輩は行実が催促したならばそれに従うように」
義朝の下文には「駿河、伊豆の家人らは行実が催促したなら従うように」と
書かれていました。この縁で頼朝が伊豆に配流後、
箱根と伊豆を往き来して頼朝のために祈祷をし、忠義を尽してきたという。
(吾妻鏡・治承4年8月24日、同年8月25日条)
8月25日、頼朝らは山を下り、3日後には真鶴岬から小舟で安房へ落ちのびます

行実の恩に報いるため、鎌倉に本拠を構えた頼朝は箱根権現に
相模国早河本庄を寄進しています。(吾妻鏡・治承4年10月16日条)


頼家も建仁二年(1202)には早河庄を中分(折半)し、土肥弥太郎遠平の
知行を停止し箱根権現に寄進しました。(吾妻鏡・建仁二年10月16日条)
寿永元年(1182)8月頼朝は政子安産祈祷のため、土肥遠平を奉幣の
使者として箱根権現に遣わし、この時誕生したのが後の二代将軍頼家です。
以来、箱根権現・伊豆権現を関東の鎮護神として崇拝し、二所詣と称し
鎌倉幕府歴代の将軍みずから参詣、奉幣をおこなうのが恒例となりました。

とくに三代将軍実朝の参詣は八度を数え、その旅で十国峠から
相模灘に浮かぶ沖の小島(初島)を見て詠んだ和歌が残っています。
箱根路を我が越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ〔金槐和歌集〕

長い間神仏習合の時代が続きましたが、明治になって外来の仏教を
排斥しようという流れがあり、明治元年神仏分離令により
箱根権現の別当寺金剛王院東福寺は廃寺となりました。
別当職は廃止され、別当は神主と改められ箱根神社と称するようになります。
なお金剛王院東福寺は、箱根神社境内駐車場付近にあったと推定されています。


箱根神社御由緒 (現地説明板より)
「御祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・彦火火出見尊(ひこほほでのみこと)
木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)箱根神社は、古来関東総鎮守

箱根大権現と尊崇されてきた名社で、「交通安全・心願成就・開運厄除」に
御神徳の高い運開きの神様として信仰されています。
当神社は、人皇第五代孝昭天皇の御代(二四〇〇年前)、
聖占仙人が箱根山の駒ケ岳より、主体の神山を神体山として
お祀りされて以来、関東における山岳信仰の一大霊場となりました。
奈良朝の初期(1200年前)、萬巻上人は、ご神託により現在の地に里宮を建て、
箱根三所権現と称え奉り、仏教とりわけ修験道と習合しました。

平安朝初期、箱根道が開通しますと、往来の旅人は道中安全を祈願しました。
鎌倉期、源頼朝は深く当神社を信仰し、ニ所詣(当社と伊豆山権現参詣)の
風儀を生み、執権北条氏や戦国武将の徳川家康等、
武家による崇敬の篤いお社として栄えてきました。
近世、官道としての箱根道が整備され、箱根宿や関所が設けられますと、
東西交通の要(道中安全の守護神)として当神社の崇敬は益々盛んになり、
庶民信仰の聖地と変貌しました。こうして天下の険箱根山を駕籠で往来する時代から、
やがて車社会に変る近代日本へと移行しますが、その明治の初年には、

神仏分離により関東総鎮守箱根権現は、箱根神社と改称されました。
爾来、明治六年、明治天皇・昭憲皇太后両陛下の御参拝をはじめ、

大正・昭和・平成の現代に至るまで、各皇族方の御参拝は相次いで行われました。
最近では、昭和五十五年、昭和天皇・皇太后両陛下の御親拝に続いて、
翌五十六年、皇太子浩宮殿下も御参拝になりました。

現在箱根に訪れる年間二千万人を越える内外の観光客を迎えて、
ご社頭は益々殷賑を加えているのも、箱根大神の御神威によるものであります。」
『アクセス』
「箱根神社」神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80
箱根登山バス湯河原駅から終点元箱根まで約1時間 
元箱根バス停から二の鳥居まで約5分 
バスの本数が少ないのでご注意下さい。
『参考資料』
「神奈川県の地名」平凡社 「神奈川県の歴史散歩」(下)山川出版社 
奥富敬之「源頼朝のすべて」吉川弘文堂 現代語訳「吾妻鏡」(1)(7)吉川弘文堂
 
 
 


コメント ( 2 ) | Trackback (  )