平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



大阪市西淀川区大和田の住吉神社の境内には、
立派な判官松之跡の碑と大和田万葉歌碑があります。

住吉神社(通称名・大和田住吉)の祭神は住吉四神、
元応2年(1320)の創建と伝えられ、付近の漁民や
舟行安全の守り神として信仰されました。
明治43年(1910)に八幡神社、翌年皇大神宮社を合祀。

最寄りの阪神電鉄本線千船駅

千船駅から神崎川に架かる千船大橋を渡ります。






左手に見えるのは修理中の本殿







 拝殿内部

「判官松之跡」という銘は大阪市長坂間棟治(さかまむねじ)の書です。
裏面に碑文が刻まれています。


碑文の大意「史跡判官松紀要 元暦2年(1185)2月16日、
九郎判官は平家追討の軍を率い大物浦を船出し西国に向かうが、
途中暴風雨にあい漂流、大和田浦に着岸。
そこで、当村の住吉大明神に海上安全を祈願し、
松を記念樹として植えたので、里人はこれを判官松と呼んだ。
以後700年、樹容壮麗となり北摂の名勝として遠近に知れわたり、
淀川尻の示標として舟人の親しむところとなったが、
惜しいことに落雷のため明治10年(1877)消失した。
当時は幹の回りが十尺以上、昭和16年11月遺跡が壊滅するのを恐れて
大要を記して後世に伝える。大和田青年団」

元暦2年(1185)2月16日といえば、源氏軍が屋島に立てこもった
平家を追討しようと船出した日です。
源義経が率いるわずか5艘が暴風雨の中、佐藤兄弟、武蔵坊弁慶らが
「命令であるぞ船を早く出せ。出さねば射殺す。」と
恐れ怖がる船頭たちを脅迫し、摂津渡辺津から徳島県勝浦へ
風に乗って矢のように着いた。本当なら3日かかるところを
6時間ばかりで渡った。と『平家物語・巻11・逆櫓』は語っています。
もともと義経は梶原景時とともに150余艘の兵船で渡海する予定でしたが、
その際、義経と景時は舟に逆櫓(さかろ)を立てるかどうかで
争いもの別れしたと物語は伝えています。
だから物語に従うなら漂流はなかったことになりますが、
地元にはこのような伝承が残っているようです。

判官松の由来
平家物語巻第11逆櫓の記述によれば「元暦2年2月3日、
九郎判官義経都をたって摂津国渡辺(今の堀江)より
ふなぞろえして八嶋へすでによせんとす。
三河守範頼も同日都をたって摂津国神埼(今の西淀川)より
兵船をそろえて山陽道におもむかんとす」とある。

平家追討の軍勢は折からの台風の襲来にあり
一時退避を余儀なくされ、陣を張ったのがこの地である。
その時義経はあらためて住吉大明神に海上安全の祈願をし
一本の松の苗を手植えした。それが「判官の松」の由来である。

亦一説に義経の軍が流れ着いた時、大和田の庄屋が
鮒の昆布巻を献上しこまごまと生活の頻事を援助した。
喜んだ義経は食事の箸を地中に立てその意を天に示した。
どうしたことかみるみるうちに生きかえり松の姿に生長した。

尚この庄屋「鮒子多(ふじた)」の姓を与えたとも伝えられている。
(大和田墓地に鮒子多家の塚と墓石が現存している)
爾来この判官の松は年と共に天を突き沖を往き交う
船人たちに航海の指針として親しまれた。
明治10年雷火の為に不幸にも焼失の災にあい
今はその大要を地元青年団が石に刻み後世に伝えている。

大和田住吉神社 万葉歌碑の由来

濱清み浦なつかしき神代より  千船の泊る大和田の浦  
                           読み人しらず

万葉集にかいまみることのできる大和田を歌った古い和歌の碑である
併しこの歌の大和田の地は、神戸市の和田岬に近く、
かつて大和田の泊とよばれた附近をよんだものであるとの
説があるがこれは謬りで、摂津名所図会には、
大和田が「御手村の西北に在り此所尼崎に近くして河海の界なり、
故に魚鱗多し殊に鯉掴むという、なお浦浜古詠あり
兵庫の和田岬とするのは謬也」とことわつている。
尚土佐日記の一文を引用しこの歌をのせているので、
この万葉碑の重要性を再認識したいものである。(境内説明板より)



大和田万葉歌碑
自然石を組んだ台石の上に建つ4㍍ほどの三角型石の正面を
矩形(くけい=四角形)に磨き、正二位二寿基弘の書で、大正7年(1918)建立。
裏面に「施主高橋市蔵、大阪高橋音吉、神戸高橋卯之助、
東京千船崎富蔵」と彫られ、大正七年(1918)の建である。

歌は 浜きよくうらなつかしき神代より  千舟の泊る大和田乃浦 で、
『摂津名所図会』はじめ大抵の本には「読人知らず」と出ているが、
これは『万葉集』巻六の1067番歌で田辺福麿の作、
しかも今の大和田を詠んだものではない。
「敏馬(みぬめ)の浦を過ぐる時に作る歌」と詞書をもった
長歌につけた反歌二首の一つで、敏馬というのは今の神戸市灘区岩屋、
大石付近の海をいい、「敏馬の浦は大国主命の頃から多くの舟人で賑わったが、
本当に今も見事な白砂の浜が続いているよ」との意の長歌の後に、
「大和田の浦は美しいから神代の頃から多くの舟がくるのだなあ」と
反歌をつけたものである。

もともと大輪田の泊りという語は各地にあるが、
単に大輪田といえば今の神戸、つまり和田岬にいだかれた
兵庫港を指すのが常であった。
奈良時代にはすでに瀬戸航路の要津で、
延喜14年(914)の三善清行の『意見封事』に
弘仁三年(812)六月大輪田泊修復と出ており、
『摂津名所図会』等に
「浜清くの古詠兵庫和田岬とするは誤りなり」と
あるのは完全に誤りである。

同社では『摂津名所図会』の記述を引用し、
「大和田浦は当地、重要性を再認識せよ」との意の
説明板を横に建てているが、いかがであろうか。
田辺福麿は天平二十年(748)左大臣橘諸兄の使者として
大伴家持のもとに行ったことと、当時造酒司の令史だった
ことぐらいしか判らないが、江口から新庄迄の
運河が延暦4年(785)にやっと完成しているのをみても、
福麿が今の大和田で詠んだとは到底思われない。
(『大阪史跡辞典・住吉神社大和田万葉歌碑』)
源義経が姓を与えた鮒子多(ふじた)家の墓  
『アクセス』
住吉神社 大阪市西淀川区大和田5-20-20
阪神電鉄本線千船駅下車徒歩約8分。
『参考資料』
三善貞司「大阪史跡辞典」清文堂出版、昭和61年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年

 

 



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