平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




衣笠城は三浦一族が本拠をおく三浦半島のほぼ中央部に位置し、
半島各地に一族が支城を築いて防備を固め、
半島全体が城郭の役割を果たしていました。

桓武平氏の流れをくむ村岡平太夫為通が、前九年の役の恩賞として
三浦の地を
与えられて三浦氏を名のり、築いた衣笠城は、
大谷戸川と深山川を
自然の堀として、斜面に土塁、堀切を造り
自然の地形を上手く利用した山城です。
衣笠城を一躍有名にしたのは、治承4年(1180)8月の衣笠合戦です。



頼朝が伊豆で挙兵すると、それに
呼応した三浦一族が衣笠城において、
平氏方の畠山重忠らと戦って敗北し、三浦一族は
海上を安房へと逃れ、
一人城内に残った三浦大介義明が討ち死にしました。

丘陵の頂が本丸跡で、現在の大善寺の地が二の丸跡と伝えられています。

大手口から住宅が立ち並ぶ大手道を上りきった所に不動井戸があり、
その傍の説明板には、
「天平元年(728)行基がこの山に金峯蔵王権現と、

自ら彫刻した不動明王を祀り、その別当として建てられたのが大善寺である。
そのときおはらいをする水に困った行基が、杖で岩を打つと清水がわき出た。
その場所が不動井戸の辺りであるといわれ、居館は水の便のよい
この平場附近にあったのではないか。」と記されています。

不動井戸



不動井戸の右側にある石段を上ると、三浦一族の学問や仏教信仰の
中心的な役割を
果たした大善寺(曹洞宗)があります。
現在の本尊、不動明王は衣笠城主三浦為継が、後三年合戦で
義家に従って出陣した際、敵の矢を除けたという伝承があります。


本堂の左手から裏山に上ると、この城の最期の拠点となる
詰の城(本丸)といわれる平場です。
丘陵の頂には物見岩があり、
この下からは経筒、鏡、刀子などが発見され
平安末期の経塚であると考えられています。


「衣笠城跡 横須賀市指定史跡  昭和四十一年六月十五日 指定
 山麓の右側を流れる大谷戸川と左手の深山川に挟まれて
東に突き出た半島状の丘陵一帯が衣笠城跡である。
源頼義に従って前九年の役に出陣した村岡平太夫為通が戦功によって
三浦の地を与えられ、所領となった三浦の中心地域である要害堅固のこの地に、
両川を自然の堀として、康平年間(一〇五八~一〇六四)に築城されたといわれ、
以後為継・義継・義明の四代にわたり三浦半島経営の中心地であった。

 治承四年(一一八〇)八月源頼朝の旗揚げに呼応して、
この城に平家側の大軍を迎えての攻防戦は、いわゆる衣笠合戦として名高い。
丘陵状の一番裾が衣笠城の大手口で、ゆるやかな坂を登って滝不動に達する。
居館は水の便のよいこの附近の平場にあったかと推定され、
一段上に不動堂と別当大善寺がある。さらに、その裏山が
この城の最後の拠点となる詰の城であったと伝えられる平場で、
金峯山蔵王権現を祀った社が存在した。また、その西方の最も高い場所が、
一般に物見岩と呼ばれる大岩があり、その西が急峻な谷になっている。
要害の地形を利用して、一部に土塁や空堀の跡が残っている。

 このように、この地一帯は平安後期から鎌倉前期の山城で、
鎌倉時代の幕開けを物語る貴重な史跡である。

 平成三年三月   横須賀市教育委員会」(現地説明板)

大善寺から平場への途中に立つ三浦同族会建立の「衣笠城趾」の碑

詰の城(本丸)といわれる平場

平場はかなりの広さがあり、桜の木などが植えられています

「衣笠城址案内板」の横に建つ「三浦大介義明八百記念碑」

平場に祀られている御霊神社

説明板横の石段を上ると物見岩といわれる大きな岩があります。
かつてここから周囲が見渡せたそうですが、
今は木々に覆われて鬱蒼としています。

物見岩の横に建つ「衣笠城址」の石碑
物見岩の西は急峻な谷となっていて、
谷の背後にある平作に通じる坂道が搦手といわれています。
衣笠合戦の時、畠山重忠がこの搦手に押し寄せ、守ったのが
義明の孫和田義盛と義明の娘婿の金田頼次でした。


「衣笠城の搦手にあたる大善寺下の坂道を上りつめたところに
土塁の一部が残っている。」と『三浦一族の史跡道』に記されています。




そこで大善寺下の坂道を辿ってみましたが、
土塁跡を記す説明板はどこにもありませんでした。


源氏再興のために忠誠を尽した三浦一族は、鎌倉幕府に取り立てられて
繁栄しますが、
その後、執権北条氏との対立が深まり、鎌倉時代中期、

合戦に備えて山の斜面を削って急な崖にし、平場を廻すなど衣笠城を大改造し、
大矢部城・怒田城・佐原城など周辺の支城を含めた防衛施設を作りました。
宝治元年(1247)、鎌倉で三浦泰村が北条時頼に破れて滅んだあと、
衣笠城はさらに「戦国時代に後北条氏によって整備・拡充された。」と
『源平合戦の虚像を剥ぐ』に
あり、「平成12年には三浦縦貫道路の建設によって、

高さ3m、長さ35mほどあった土塁が崩され、大善寺下に
土塁の一部が残るのみ、
空堀も三浦縦貫道路建設の際消えてしまった。
『三浦一族の史跡道』に記されているように
現在の衣笠城は、当時の城郭とは大分異なっているようです。

衣 笠 合 戦
由比ヶ浜・小坪で戦った三浦義澄、和田義盛から軍の次第を聞いた
衣笠城主の三浦大介義明は「敵はきっと明日にでも押し寄せてくるであろう。
急いで戦の準備をしろ。」と下知しました。
『源平盛衰記』によると、この時、三浦義澄は「怒田(ぬた)城を拠点にすべきだ。」と提案します。
それは、この城(横須賀市吉井台先)の周りが岩山で守りやすく、
一方が海に面した要害堅固な地にあったからです。しかし、
父の義明は
「無名の怒田城よりも名所の衣笠城での決戦」とこれを退けました。
「先祖の聞こゆる館にて討死せむ」と
義明は曾祖父為通が築いたというこの城で死ぬ覚悟でした。

小坪合戦二日後の治承4年(1180)8月26日、畠山重忠、河越重頼、江戸重長、武蔵七党ら
三千余騎が小坪合戦の屈辱と平氏重恩のため、三浦半島に攻め込んだという
知らせが衣笠城に入りました。
この時、三浦軍の兵力は四百五十余騎、兵力に差がありすぎて
野外で戦っても勝ち目はない。義明は一族を集め
軍議を開き衣笠城籠城と決定しました。


大介義明89歳は敵を迎え撃つために次々と指図します。
「射芸の得意な者は弓を二張・三張、矢は四腰・五腰も用意しろ。
敵は大手(正門)、
搦手(裏門)二手に分かれて押し寄せるぞ。
木戸は三重にこしらえよ。大手口の方には道をつくれ、道幅はせいぜい馬二頭が
通れるほどにしろ。道幅を広くすると、敵が一気に押しよせてきて防ぎきれないぞ。
道の片側は沼であるからそのままにし、もう一方には大堀を掘れ、
道を三重に掘りきって、一の堀には広い橋を渡せ、中堀には細橋を架けろ、
堀には逆茂木(さかもぎ)をひき、堀ごとに掻楯(かいだて)を構え、櫓(やぐら)を築け。」

当時、堀は豊かに水をたたえた近世の城郭の堀とは異なり、ほとんどの場合空堀です。
逆茂木とはトゲのある木の枝を垣のように結い、搔楯は楯を垣根のように並べて、
いずれも敵の進路を遮断するために築かれたバリケード。この時期の城郭は
歩兵集団でなく騎馬隊の攻撃を防ぐために築かれた軍事施設です。

「馬は逆茂木、掻楯や段差のある堀を越えることができない。そうしておいて
敵が最初の橋を渡って細橋まで進入して来たら馬の太腹を狙って射よ。馬を射れば

武者は落馬し沼や堀に落ちるであろう。それを狙って竹やぶに隠れていた者が
出てきて杖で打ち殺せ。櫓に上っている者は矢を射よ。」というのです。

大手門の木戸口を三浦大介義明の次男義澄と末子佐原十郎義連が守り、
城の西側にある搦手にも三重の木戸が作られました。そこを防衛したのが
義明の孫和田義盛、義明の娘婿金田頼次でした。中陣は義明の息子長江義景と
大多和義久が担当し、衣笠籠城の支度はすべて整えられました。

『吾妻鏡』によると、8月26日の早朝、大手口から河越重頼、
搦手からは畠山重忠らあわせて三千騎が喚き叫んで押しよせました。
攻防一日、三浦軍は何とか城を守りぬいきましたが、二日前に小坪合戦があり、
今日は終日戦い続け、兵たちは疲れきり矢も尽きました。
いよいよ明日は討死と誰もが覚悟をきめたとき、

大介義明が一族を集めて口を開きました。

「私は源家累代の家人として、幸いにもその貴種再興の時にめぐりあうことができた。
こんなに喜ばしいことがあるだろうか。生きながらにしてすでに八十有余年。
これから先を数えても幾ばくもない。今は私の老いた命を頼朝に捧げ、

子孫の手柄にしたいと思う。汝らはすぐに退却し、頼朝の安否を
おたずね申しあげるように。私は一人この城に残り、軍勢が多くいるように
河越重頼に見せてやろう。」みずからの老齢を理由に自分一人を城に残して逃げよ。
生死も定かでない
頼朝の生存を信じ、落ちのびて頼朝の再起に全力をつくせ。」という。

義明の言葉に子や孫は涙を流してとりみだしましたが、
やむなく命令に従って城を出て、闇にまぎれて久里浜から安房へと船出し、
海上で頼朝らと合流、房総半島に上陸しました。
大介義明は一人城に留まり、翌日城と運命を共にしています。

ところが、衣笠合戦について『源平盛衰記』には
『吾妻鏡』とはかなり違った内容の話が見えます。
大介義明が一族をさとし、城を脱出させたところまでは同じですが、
「城で討ち死にするという義明を郎党がむりやり手輿に乗せて連れ出したが、
一里ほど行ったところで敵が近づいてきた。すると郎党たちは怖ろしくなり輿を捨てて、
散り散りに逃げ出してしまった。敵の下僕たちは、義明を輿から引き出して
太刀、鎧、直垂にいたるまで身ぐるみ剥ぎ取り裸にしてしまった。
せめて義明は外孫の畠山重忠に討たれて手柄を立てさせてやりたいと思ったが、
それもかなわず江戸重頼に斬られ、惨めな最期を遂げた。」と記されています。
衣笠城址(1)小坪合戦  
三浦義明の墓が近くの満昌寺にあります。
鎌倉市材木座の来迎寺には、義明と小坪合戦で戦死した
その孫の多々良重春の墓があります。
満昌寺(三浦大介義明の墓)   来迎寺(三浦大介義明の墓)  
『アクセス』
「衣笠城址」横須賀市衣笠町756(大善寺境内)
衣笠城址」バス停から横断歩道を渡り、道標に従って左折し、
太田和(おおたわ)街道入口手前の横断歩道を渡り、山科台方面に少し進み、
案内板を右折すると
城の大手口(正面)にでます。
そこから坂を上り、「衣笠城物見岩」までバス停から約35分
『参考資料』
新定「源平盛衰記」(3)新人物往来社 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館

 川合康「源平合戦の虚像を剥ぐ」講談社 奥富敬之・奥富雅子「鎌倉古戦場を歩く」新人物往来社
 三浦一族研究会鈴木かおる「三浦一族の史跡道」横須賀市
「神奈川県の地名」平凡社 「神奈川県の歴史散歩(上)」山川
出版社
「検証・日本史の舞台」東京堂出版 「平家物語図典」小学館



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衣笠城は三浦為通(ためみち)が源頼義に従った前九年合戦の功により、
三浦の地を領して三浦氏と称し、康平6年(1063)に築いたとされる山城です。
その子為継、孫義継は、ともに頼義・八幡太郎義家に臣従し、
奥州へ出陣し勇名を馳せました。

衣笠城址バス停から横断歩道を渡り、道標に従って左折し、
太田和街道入口手前の横断歩道を渡り、山科台方面に少し進み、
案内板を右折すると衣笠城址への上り口、
城の大手口(正面)にでます。
ここから坂を上ります。

バス停から横断歩道を渡ると衣笠城趾の道しるべがあります

石垣は割と遠くからでも見えるので、これを目標にして進みます

この坂道は、衣笠合戦の時に武蔵の武士団が押し寄せた大手道です。

大手口の一角に衣笠城追手口遺址」と刻まれた碑が建っています。
上る時には、この碑を見逃しましたが、本丸跡で出会った全国各地の
城址を訪ね歩いているという方に教えていただき帰りに撮影しました。

大手道傍のお地蔵さん

小坪合戦
治承4年(1180)8月、源頼朝が伊豆で挙兵し、石橋山に陣を布くと、
源氏にゆかりの深い三浦大介義明は三浦義澄ら300余騎を
加勢に向わせましたが、大雨による増水のため
酒匂
(さかわ)川を渡れず頼朝軍と合流できませんでした。
その頃、頼朝は大庭景親(かげちか)の軍勢に敗れ、真鶴から海路
房総半島に向かっていました。ところが三浦軍は
「頼朝軍敗北、前武衛頼朝殿の存否も確かならず。」との悲報を受け、
やむなく本拠地に引き上げました。その途中、
鎌倉由比が浜で平家方の畠山重忠一族と遭遇しました。

三浦軍が目の前を通り過ぎるのを黙って見ているわけにはいかない。
平家に知られたら困ったことになると、重忠は三浦軍の背後から攻めました。
重忠は父重能が京都大番中であったので、この時父に代わって弱冠17歳で
一族を率いて、遅れて石橋山に向かう途中でした。
京都大番役は、諸国の武士が三年交代で京都に滞在し、宮廷、京都警固の役に
あたったものをいいいますが、危急の時には人質にもなります。

畠山重忠は「今、我が父重能、京都に当参して平氏の六波羅邸に在り。されば、
源氏に方人(かとうど)する貴軍を眼前にして、なすことなくんば、平家の聞こえ、
父が安否、ともにもって憚りあり。なれば、そのためになせし一反の攻め、
すでに後聞に充分なり。しかるを、まだ戦わんとするや否や、
子細のほど承るべし。」と和睦を申し入れました。
三浦軍の和田義盛は「畠山殿は三浦大介義明には娘婿の子なり。
某はまた大介の孫なり。母方、父方の別はあれども、
大介の孫たるにおいては別の儀なし。
もしこのまま敵対に及ばゝ、ともにもって後の悔いに及ぶべし」と
和睦交渉はまとまり双方通過しようとしました。

畠山重忠は三浦義明の娘が重能に嫁いで生んだ子です。
和田義盛は、三浦義明の長男義宗の子、どちらも大介義明の孫です。
義盛は義明の長男義宗の嫡子ですが、
義宗が安房国長狭氏との合戦の際、討死にしたため叔父義澄が嫡流となり、
義盛は衣笠城の東南、現在の三浦市初声(はつせ)和田を本拠地としていました。

しかしこの時、思いがけない手違いが起こりました。
和田義盛から危急の知らせをうけた義盛の弟和田義茂が和睦を知らずに
杉本城(現・鎌倉市杉本寺)から畠山勢に突っ込みました。
「三浦が者共にたばかりにけり。こは心安からず。」と畠山重忠は激怒して
合戦となりこの時、三浦軍は4名が犠牲となり、畠山勢は50名余が討死しました。
畠山重忠は一旦退き、三浦軍はそのまま衣笠城へ戻りましたが、
重忠はじめ平家方が衣笠城へ押し寄せてくるのは時間の問題でした。

 衣笠城址(2) 衣笠合戦 
小坪合戦の地(由比ヶ浜)  
『アクセス』
「衣笠城址」神奈川県横須賀市衣笠町756 
JR横須賀よりバス三崎行または長井行「衣笠城址」下車
大手口まで徒歩約10分
『参考資料』
奥富敬之・奥富雅子「鎌倉古戦場を歩く」新人物往来社 「三浦一族の史跡道」横須賀市
新定「源平盛衰記」(三)新人物往来社 
佐藤和夫「海と水軍の日本史」原書房 野口実「源氏と坂東武士」吉川弘文館 
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成 「平家物語」(中)新潮社
「木曽義仲のすべて」新人物往来社 新訂「官職要解」講談社学術文庫
 「神奈川県の歴史散歩」(上)山川出版社 現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 



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