平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



毎年、5月2~4日の3日間にわたり「先帝祭」が赤間神宮で行われます。
この祭りは、関門海峡に入水した安徳天皇の御霊(みたま)を慰めるために、
女臈に身をおとした平家の官女たちが安徳天皇の命日に
御陵を参拝したという故事によるものです。
これにあわせて5月3日に「しものせき海峡まつり」が催され、
赤間神宮・関門海峡一帯を彩る歴史絵巻が華やかに繰り広げられます。

新型コロナウイルス感染防止のため、令和2年5月に開催予定だった
このまつりは中止されることになりました。
10年近く前に行われた先帝祭・下関海峡まつりの画像を掲載します。

先帝祭については、古くから伝わる歌謡に
「関の先帝 小倉の祇園 雨が降らなきゃ金が降る(風が吹く)」 と
いわれるほど、下関で最もにぎわう祭りです。
稚児・警固(けご)・禿(かむろ)・女臈(太夫)たちが
下関市内を上臈道中と称し、外八文字(そとはちもんじ)を
踏みながら練り歩いて赤間神宮に到着し、臨時に架けられた
天橋(てんきょう)の上を通って女臈が参拝するというものです。


会場周辺は多くの人々で賑わっていました。

郷土芸能「平家踊り」を伝承する八音会(はっとんかい)
 下関平家おどり保存会




竜宮城を模した水天門から拝殿まで、華やかな衣装をまとった
5人の太夫の道行きは、絢爛豪華な絵巻を思わせます。









先帝祭の由緒
壇ノ浦に平家滅亡の際、中島四郎太夫正則(伊崎町、中島家の祖)という武士、
安徳天皇の御遺骸を奉葬し、郎党を率いて赤間関西端王城山に籠もり、
再興を諮ったが機運遂に至らず、漁業を営むに至り、やがて例年
先帝御命日には威儀を正して参拝を続け今日に至っているものです。

また、数多の女官上臈達、赤間関在住の有志に助けられ、
山野の花を手折っては港に泊まる船人に売り生計を立てるに
毎年先帝御命日を迎える毎に閼伽を汲み、香花を手向け、
威儀を正して礼拝を続けたものが上臈参拝の源です。

爾来連綿と続いてきたこの礼拝はさらに発展し、
官女に警固、稚児が従い、上臈に禿(かむろ)の随う
美しい列立は遠く平安の昔、宮中で舞われた五節舞姫の形に倣い、
絢爛豪華な外八文字道中は実に天下の壮観として観者に固唾を
呑ましめ将に西日本唯一の行事と称えられおります。(無形文化財指定)
赤間神宮発行「先帝祭」より一部転載。

上臈参拝後、神楽奉納。




5月3日の先帝祭にあわせて、海峡まつりが開催されており、
この中で源氏と平家の最後の戦いを再現した源平船合戦も行われています。
海上パレードが始まるころ、急に雲行きが怪しくなり、
今にも雨が降り出しそうになりました。


紅白の旗や幟をたなびかせて、鎧武者や官女に扮した人たちが
乗り込んだ80隻あまりのいくさ船(漁船)が関門海峡で
壇ノ浦合戦の模様を再現しパレードします。









弁慶や義経、静御前もいますよ。


このパレードの模様は唐戸地区の
ボードウォーク(唐戸市場横)より一望できます。

姉妹都市ひろば特設ステージ・源平ドラマページェント(野外劇)

『しものせき海峡まつり』の開催場所は
「姉妹都市ひろば・赤間神宮など市内各所」です。

先帝祭5月3日 9:30~11:30
上臈道中外八文字披露 伊崎町西部公民館~唐戸商店街 
10:00~12:30 本殿祭・奉納行事 赤間神宮
13:00~15:00 上臈参拝 赤間神宮

源平船合戦(海上パレード) 5月3日11:15~11:55
唐戸沖~赤間神宮沖を周回

源平まつり5月3日 9:30~17:00
 姉妹都市ひろば特設ステージ
赤間神宮・安徳天皇陵・芳一堂・平家一門の墓  
『アクセス』
「赤間神宮」〒750-0003 山口県下関市阿弥陀寺町4−1 
電話: 083-231-4138
JR下関駅からバス10分→ 「赤間神宮前」バス停下車すぐ。
「姉妹都市ひろば」は、赤間神宮のすぐそばです。
『参考資料』
「山口県の歴史散歩」山川出版社、2006年 「先帝祭」赤間神宮







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屋島の合戦で義経に追い落とされ海上に逃亡した平氏は、
長門国彦島(山口県下関市)に集結し、いよいよ最終決戦に
挑むことになりました。一方、源氏軍は瀬戸内海の水軍に続き、
熊野水軍をも味方に引き入れることに成功し、
『平家物語』によると、元暦2年(1185)3月、
三千艘の大水軍が周防大島(山口県の南東部)に到着しました。

平氏の背後には範頼に従った三浦義澄が、北九州には範頼軍がいます。
東からは義経軍が迫り、彦島の平氏は完全に包囲され、
土壇場に追い込まれていきました。

熊野水軍の裏切りは平氏にとって大きな痛手となりました。
源氏・平氏双方より助力を請われた湛増は、
平家に重恩のある身でありながら、急に心変わりして迷い、
熊野権現に神意を占うと、源氏に味方せよとの託宣を受けた。
なおも疑って、紅白それぞれ7羽の鶏を戦わせ
白い鶏が勝ったので、神託にまちがいなしというわけで、
源氏につくことになった。占いをするまで湛増は、源平どちらに
味方すべきか迷っていたと『平家物語』は語っています。

湛増は始めから負け戦の平家を見限って源氏に味方すると
決めていました。しかし、揺れ動く熊野の人々を納得させるために、
わざわざこのような面倒な儀式をおこなったと思われます。

二千人余の兵を二百艘余の兵船に乗りこませ、壇ノ浦に
湛増が姿を現しました。この時、若王子(熊野十二所権現のひとつ)の
御神体を船に乗せ、旗には熊野権現の守護神・金剛童子が
描かれていたため、源氏も平家も伏し拝んだという。
両軍ともこの船団が敵か味方かと固唾を呑んで見守っていましたが、
源氏についたとわかると平家はたちまち興ざめして士気を失いました。

無類の強さを誇る熊野水軍は、源平合戦で源氏に
勝利をもたらせたことでも知られています。
この水軍は熊野海賊とも呼ばれる海の領主の集まりで、
彼らを統括したのが熊野三山、そのトップが熊野別当です。
熊野別当湛増は、表面上は
神仏習合(仏教と神道が結びついた)時代に
神社を管理した寺の僧侶ですが、宗教的には熊野権現の名において
山伏を統率する熊野修験道の管長であり、
いざとなると熊野水軍を操るリーダーだったのです。

熊野三山には、那智を含む新宮別当家と本宮から拠点を田辺に移した
田辺別当家という二つの家があり、源平双方と関わっていました。
源為義の娘、立田腹の女房(鳥居禅尼)は、湛快に嫁いで
21代別当湛増を生み、湛快の死後、行範(鳥居法眼)を婿にして
19代別当とし、22代別当行快を生みます。

平家は湛増を味方にするために多大の恩顧を与え、さらに
湛増の妹は平家の公達、平忠度の妻となっていました。そのため、
頼朝が挙兵したころは、湛増は平家方として源氏軍と戦いました。
新宮家は源氏と、田辺家は平家とつながりを持っていたため、
両家の争いは次第に激しくなっていました。そのような情勢の中、
熊野別当に就任したのが田辺家の湛増でした。


田辺市役所前左手、扇ヶ浜公園の噴水近くに
「熊野水軍出陣之地」と刻まれた自然石の大きな石碑があります。
田辺市観光協会が昭和47年10月に建立したものです。

平家に深い縁がある湛増のもとに源氏からも援護の要請が入り、
壇ノ浦の戦いでは湛増が源氏方につき、源氏を勝利に導きました。
熊野別当の軍勢は、動乱の時代において、
戦いの趨勢まで左右する鍵を握っていたのです。

扇を広げたかのようななだらかな砂浜が続く公園。
田辺湛増は200艘の軍船を田辺湾に浮かべ、
2000余の軍勢を率いて壇ノ浦に攻め寄せました。

紀伊田辺の絵図は「平家物語を歩く」より転載。

田辺市役所前に弁慶松と弁慶産湯の井戸が復元されています。

弁慶の誕生を記念して植えられたという弁慶松も六代目となりました。
三代目弁慶松は江戸時代、藩主の安藤氏が闘鶏神社の
裏山から移植したもので、高さ15メートル、周囲4メートルの
巨木となっていましたが、昭和50年に枯れました。
その種子から育った弁慶松が現在、田辺市役所前や
岩手県平泉の弁慶の森で育っています。


弁慶産湯の井
弁慶の産湯の水を汲んだと伝えられている産湯の井戸は、
昭和35年まで
湛増の屋敷跡の田辺第一小学校校庭にありましたが、
その上にプールが造られたので、平成元年現在地に復元されました。

弁慶の腰掛石
くぼみのついた弁慶の腰掛石は、田辺第一小学校
(田辺市上屋敷1丁目2−1)の裏手、八坂神社の社殿前にあります。

田辺第一小学校裏手



芭蕉の門人榎並舎羅(えなみしゃら)の句碑。
♪幟(のぼり)立つ 弁慶松の 右ひだり
この碑は弁慶松のところにありましたが、いつかここに移されたという。



闘鶏神社(熊野水軍本拠地)  
『アクセス』
「熊野水軍出陣の地」和歌山県田辺市1 JR紀伊田辺駅から徒歩約15分
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
佐藤和夫「海と水軍の日本史(上)」原書房、1995年
森本繁「源平海の合戦」新人物往来社、2005年
五来重「熊野詣 三山信仰と文化」講談社学術文庫、2013年
荒俣宏監修「聖地伊勢・熊野の謎」宝島社、2014年
神坂次郎「熊野まんだら街道(105弁慶のふるさと)新潮文庫、平成12年
見延典子「平家物語を歩く」(歩く旅シリーズ歴史文学)山と渓谷社、2005年

 



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平安時代より熊野詣の要衝の地として栄えた田辺には、
弁慶にまつわる伝説が多くあり、
弁慶や熊野別当湛増(たんぞう)ゆかりの史跡が点在しています。

平治の乱の際、熊野参詣中だった清盛に湛快(湛増の父)が武具を提供し
京へ馳せ帰らせたように、熊野別当と平氏の関係は親密でしたが、
平家都落ち後、湛増は平家を離れ、義経の要請を受けて
熊野水軍を率いて源氏に味方しました。

『平家物語・巻11・壇ノ浦合戦』に壇ノ浦合戦直前の
熊野水軍の動向がドラマチックに語られています。
義経の誘いを受けた熊野別当湛増は、平家に深い恩恵を
受けた身でしたが、平家につくべきか、源氏につくべきか迷い、
新(いま)熊野権現(現、闘鶏神社)の神意をうかがうと
「白旗に味方せよ。」との神托でした。念には念をいれて、
赤い鶏と白い鶏を7羽ずつ権現の御前で戦わせたところ、
赤い鶏(赤旗を旗印とする平氏)が1羽も勝たず、みんな負けて
逃げてしまったので、湛増は源氏への味方を決意したという。

JR紀伊田辺駅前



牛と馬にまたがる花山法皇の熊野詣姿という牛馬(ぎゅうば)童子像の
モニュメント(紀伊田辺駅前で2009年10月撮影)

熊野地方の入り口である田辺は、口熊野(くちくまの)とも呼ばれ、
熊野三山を巡る中辺路(東の山中を進み本宮に向かう)と
大辺路(海岸線を南下し新宮に出、本宮を終点)の分岐点であり、
熊野水軍の本拠地です。


駅に降り立つと薙刀を構えた僧衣姿の弁慶が迎えてくれます。



「弁慶誕生の地  源平時代その武勇機略を以って活躍した
快傑武蔵坊弁慶は 熊野の別当湛増の子としてこの田辺の地にうまれた
 市内には弁慶井戸、生湯の釜、弁慶松、腰掛石等が遺っている
 弁慶衣川に死して既に七百八十二年 今ここに弁慶を顕彰するため
橘堅次郎氏の篤志により高岡市の彫刻家米治一氏に依頼し
昭和四十六年九月この像を建てた 田辺市 田辺市観光協会」
弁慶の出生地伝説は各地にありますが、弁慶は当地出身で
湛増の次男鬼若丸といい、田辺は弁慶誕生の地をうたっています。

お伽草子の『橋弁慶』は、「弁慶は熊野権現の申し子で
懐妊3年で生まれた異常児なので山奥に捨てられ、
虎や狼と遊んで成長した。
京の五条の新大納言が夢のお告げで熊野詣の途中、
拾い育てたのが弁慶である。」と記しています。

駅前通りを300mほど進んで左折し、150mほど行くと
闘鶏神社の一の鳥居があります。

二の鳥居

「闘鶏神社に熊野権現をまつり田辺の宮と称したが、熊野別当湛増が
社前で紅白の鶏を闘わせ白鶏が勝ったので. 源氏に味方して、
屋島壇ノ浦の戦に源氏を援けたことから
この名前が付いたと云われています。なお毎年七月二十四日・二十五日両日
紀南の大祭として田辺祭が行われます。 田辺市 田辺市観光協会」

二の鳥居をくぐると、右手に拝殿、その背後には
熊野造りの古い名残をみせる六棟の社殿
(西殿、本殿、上殿、中殿、下殿、八百萬殿)が連なり、
本殿には伊邪那美命(いざなみのみこと)が祀られています。

境内には、この他にも藤厳(とうがん)神社、
玉置神社、戎神社、弁慶社などがあります。

闘鶏神社は「権現さん」と呼ばれて親しまれ、壇ノ浦合戦で
源氏を勝利に導いた熊野水軍の伝説が今に伝わる神社です。

社伝によると419年(允恭天皇8年)の創建としていますが、
12C中頃、湛増の父湛快が口熊野の拠点として
田辺に本拠を定めた時、熊野三所権現(熊野三山の主祭神)を
勧請し、古くは「田辺の宮」「新(いま)熊野十二所権現」
「新熊野鶏合(とりあわせ)権現」などと
呼ばれましたが、明治初年に現在の社名に改めました。
社宝に弁慶産湯の釜、源義経遺愛の横笛白竜などがあります。

熊野三山の別宮的な存在として信仰を集め、当社から
本宮への中辺路は山中の道になるので、ここに参詣して
三山参詣に代え、引き返す人々もいたようです。

湛増は田辺に住んで田辺別当と称され、田辺は彼の統率する
熊野水軍の根拠地ともなりました。
境内の一角に闘鶏を並んで見守る湛増、弁慶父子の像があります。

源氏と平氏の戦いは、一の谷の合戦から海上戦に移り、当時最強を誇った
熊野水軍の動向がその勝敗に大きな影響を与えることになり、
熊野水軍の統率者である熊野別当湛増に対する源平双方の
働きかけが激しさをきわめた。義経の命を受けた弁慶は、
急いで田辺に帰り、父 湛増の説得に成功。
湛増は白い鶏七羽と紅い鶏七羽を闘わせて神意を確かめ、
湛増指揮のもと、弁慶を先頭に若王子の御正体を奉持、
金剛童子の旗をなびかせて総勢二千余人、二百余の舟に乗って
堂々と壇ノ浦に向かって出陣、源氏の勝利に大きな役割を果たした。
時に文治元年(1185年)三月のことであった。
昭和六十二年五月三日 武蔵坊弁慶・熊野水軍出陣八百年祭実行委員会
(説明碑より)

表参道から境内に入って左手、藤巌神社(とうがんじんじゃ)近くに
聳える
神木の大楠。 二度の落雷により中央部を失いましたが樹高14m、
樹齢約1200年と推測されています。歯病平癒の御利益があるとされ、
楠の下に立って楠の葉を患部につけ、祈願すると平癒するとか。 
(田辺市指定大樹天然記念物)


大楠の後方にある田辺藩初代藩主安藤直次(なおつぐ)を祭神とする藤巌神社。


武蔵坊弁慶を祭神とする弁慶社

弁慶社について
西塔の武蔵坊弁慶は中世の傑僧である。その生涯は、
悲運の武将源義経に仕え、
一の家臣として幾多の危機、
苦難から救ったことで知られている。
 後世、その様子は文学、芸能に表れ、智、仁、勇を体現した
日本人の典型として大きな影響を与えた。
出生地について諸説があるが、江戸時代の
正徳三年(1713年)に刊行をみた「和漢三才図会」では、
諸説を比較校合した結果、弁慶は熊野三山の
別当湛増(一名湛真)の子に生まれたとの記述があり、
また、当地においては、大庄屋の記録「万代記」(闘鶏神社蔵)に、
熊野別当の家系に異形の童子が生まれ、幼時に都の公家に養われ、
比叡山で修行した子が後の弁慶だと記されている。
田辺地域には、弁慶誕生にまつわる産湯の井戸、
産湯の釜、腰掛石などの遺跡が数多く残されている。
なかでも「弁慶松」は、弁慶が奥州衣川で義経を守り
壮烈な立ち往生を遂げた報を聞き、
その生涯を讃えて地元の人が植えたものと言われている。
弁慶松は初代から五代目まで、片町の一角に植えられており、
松の根方に弁慶大神のお社が設けられ、広く市民に
親しまれていたが昭和50年に枯死し、現在市庁舎前に
植え継がれている。五代目弁慶松の伐採以降、
弁慶松の根方にあった弁慶大神のお社は、
その後、有志の手により三十年の長きにわたり護られてきた。
今回、新たに弁慶社を建立したことにより、
その精神を引き継ぎ崇め、ひいては、田辺生まれの
弁慶が将来ともに語り継がれるよすがとなれば幸いである。
    平成十七年九月十二日  弁慶社建立推進協議会


戎神社 (御祭神 戎大黒二神)

玉置神社 
御祭神 手置帆負命(たおきほおいのみこと)建築・造船・大工の守護神
熊野水軍出陣の地(田辺湛増壇ノ浦へ)  
『アクセス』
「闘鶏神社」和歌山県田辺市東陽1-1 JR紀勢本線紀伊田辺駅下車 徒歩約8分
駐車場‎: ‎あり(約100台 60分100円)

電話番号‎: ‎0739-22-0155 ‎拝観料:無料
『参考資料』
「和歌山県の歴史散歩」山川出版社、1995年 
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
 佐藤和夫「海と水軍の日本史(上)」原書房、1995年 
五来重「熊野詣 三山信仰と文化」講談社学術文庫、2013年






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