平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




倶利伽羅合戦で木曽義仲軍に大敗した平家は、加賀平野を南下し、
篠原の地(現、加賀市篠原町)で陣を立て直し、
義仲軍に再び挑みますが、敗れて次々と戦場を落ちていきます。
その中にただ一騎だけ踏みとどまって戦う老武者がいました。
大蔵合戦で父義賢を討たれた駒王丸(木曽義仲)を
木曽の中原兼遠のもとへ送り届けた長井斉藤別当実盛です。

かつて不憫に思って命を助けた幼い駒王丸が今成長し、敵方の将軍として
兵を進めてくる。その中で恩人として情けを受けることを潔しとせず、
実盛は平家方の一武士として見事な最期を遂げます。
ここで『巻7・実盛最期の事』のあらすじをご紹介します。                              

斉藤実盛は味方の軍勢が総崩れになる中で、ただ一騎引き返し、
引き返しては戦っていました。
実盛この日の装束は、将軍が着る赤地の
錦の直垂(ひたたれ)に
若武者のような萌黄縅(もえぎおどし)の鎧を着け、
鍬形(兜の角)打った兜の緒を締め、黄金作りの太刀をはき、
切斑(きりふ)の矢(白羽に黒褐色の斑紋がある鷲の羽の矢)を負い
滋藤(しげどう)の弓(漆で黒く塗り白い藤を点々と巻いた弓)を持ち、
銭形のまだら毛の馬に黄覆輪(金)の鞍を置き、
何から何まで立派な大将軍のいでたちでした。

義仲配下の手塚太郎光盛がこれに目をつけ戦いを挑み
「信濃国の住人手塚太郎金刺光盛」と名乗ります。
「手塚」は姓、「金刺」は源・平・藤・橘などと同様の氏のよび方で
諏訪神社の神職の家柄です。

戦場では互いに名乗り合って勝負するのが礼儀ですが、
斉藤実盛は「
存ずるむねがある」といって名乗りません。
そこへ手塚の郎党が割り込んできて組みつきますが、
たちまち実盛に首をかき斬られました。

手塚はその隙を見て、実盛の左手にまわり、鎧の草ずり
(胴の下にたらして腰や腹をまもる)を引上げて
刀を突き立て、
馬から組み落としました。
さすがの実盛も激しい戦いで疲れ、手傷も負いその上、
何よりも老武者であるため、若い手塚にとうとう組み敷かれてしまいました。
手塚は相手が中々の勇者であるので、自分でしとめずに
組み敷いたまま、駆けつけてきた郎党に首をとらせました。


義仲の御前にその首を差し出すと、実盛をよく知る樋口次郎兼光は
一目見るなり
「あなむざんやな、斉藤別当にてそうろう」と
涙をはらはらと流し次のように語りました。

「六十も過ぎて戦場に向かう時は、若武者と白髪頭で先陣を争うのも見苦しいし、
老武者と相手に侮られるのもいやだから、髪や髭を黒く染めて、
若く見せて出かけたい。と実盛は常々申していました。
実盛に相違ありません。」討ち取った首を洗わせてみると、
はたして真っ白な髪があらわれました。


実盛が錦の直垂を着ていたわけは、北陸合戦の前に平宗盛を訪ねた時、
富士川合戦で水鳥の羽音に驚いて逃げ戻ったことを恥じ、
この汚名を挽回するために故郷である北国で討死する覚悟を申し述べ
「故郷へは錦を着て帰れ」という
例えに因んで
錦の直垂の着用をお許し下さい。とお願いして
宗盛から特別の許しを得ていたのでした。

樋口次郎兼光は中原兼遠の次男で、武蔵の児玉党と縁を結び、信濃から武蔵へ
よく出かけていたので、義仲を逃がしてくれた実盛を知っていたのです。
 
なお、実盛は「謡曲実盛」や浄瑠璃などの文芸作品にも取り上げられています。

首洗池
篠原古戦場は片山津温泉の北方、
加賀三湖の一つ柴山潟と片山津海岸の間一帯をいう。

柴山潟から日本海に注ぐ新堀川にかかる源平橋のたもとにある小公園に
斉藤実盛の首を洗ったと伝える首洗池があります。
池の中には首洗池の標柱が立ち、池の畔には実盛の首級を抱く義仲と
樋口次郎、手塚太郎の銅像や
芭蕉の句碑がたっています。






実盛塚 

篠原合戦で討死した斉藤実盛の首塚と伝え、大正6年(1917)に整備されました。
大きな土盛の塚で、一本の見事な老松が大きく枝を広げ、
その下には「南無阿弥陀仏」と刻まれた供養塔がたっています。








斎藤実盛(?~1183)は『今昔物語の芋粥』で有名な鎮守府将軍・
藤原利仁の流れを汲み、火打城で義仲を裏切った
平泉寺長吏斉明とはふたいとこの間柄です。
越前国の生まれ父は斎藤実直(さねなお)で、
祖父実遠(さねとお)の猶子となり、後に武蔵国長井庄に移住し、
長井斎藤別当実盛と改名しました。

「別当」とは荘園の管理職をいい、
斉藤氏は利仁の子・叙用が斎宮寮頭に任じられたことに始まるという。

保元の乱、平治の乱では源義朝の郎党として参戦し、特に平治の乱では、
東国へ敗走する途中、落ち武者を狙う比叡山の僧兵に妨げられましたが、
実盛の気転により一行は無事逃れることができました。
洛北から竜華越えして堅田に逃れ勢多まで来た時、
義朝は郎党二十余人に国で再起を待つよう申し渡し、
子息義平・朝長・頼朝らとともに僅か八騎の勢で雪の夜道を落ちて行きました。
暇を出された郎党は思い思いに下り、実盛は長井庄へ帰りました。

源氏が滅びて長井庄が平家の所領となると、実盛も時勢には勝てず
平宗盛に仕え、関東の平家荘園管領別当職に任じられました。
やがて源頼朝が挙兵し、東国で勢力を拡張しながら
数万騎を率いて鎌倉に入っても態度を変えませんでした。

富士川の合戦で大将軍平維盛に東国武士の実態を尋ねられ
その勇猛さを述べて味方を怖気づかせたという逸話があります。
死を覚悟していた実盛は、二人の息子・斉藤五・斉藤六をあえて都に留まらせ、
この後、兄弟は維盛・六代父子に仕える武士として登場し、
維盛都落ちの後は六代母子を守って忠誠を尽くします。

多太(ただ)神社には、義仲が奉納した斉藤実盛の甲が保存されています。
むざんやな甲の下のきりぎりす(小松市多太神社)
幼い義仲の命を救った斎藤実盛の館跡実盛塚(武蔵国長井庄)  
大蔵合戦 (大蔵館跡・木曽義仲生誕地) 
『アクセス』
「首洗い池」石川県加賀市手塚町 JR加賀温泉駅下車
海まわり「キャン・バス」約15分 雪の科学館下車徒歩10分
「実盛塚」加賀市篠原新町 首洗い池から約2k、新堀川沿いの道を
海岸の方へ辿り左手の松林と民家の裏手に入った所にあります。
『参考資料』

新潮日本古典集成「平家物語」(中)(下)新潮社 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 水原一「平家物語の世界」(上)日本放送出版協会
 「南関東」(武蔵七党の興亡)世界文化社 「木曽義仲のすべて」新人物往来社
 日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館
成迫政則「武蔵武士(下)」まつやま書房「石川県の地名」平凡社 「石川県の歴史散歩」山川出版社

 

 



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倶利伽羅古戦場の加賀(石川県)側には、倶利伽羅合戦の兵火によって
焼失した長楽寺の後身、倶利伽羅不動寺山頂本堂があり、
境内には長楽寺跡や食堂があります。

倶利伽羅合戦で平氏軍は、大軍の強みを発揮できない山中に閉じ込められて惨敗し、
大将軍維盛はじめ僅かに二千余騎が命からがら逃れ、加賀国に退いていきました。
瀬尾(せのお)太郎兼康は武勇に名高い武士でしたが、運が尽きたのか
加賀の倉光成澄(なりずみ)に生け捕りにされ、また火打城で平家方に寝返った
平泉寺の長吏斎明も捕らわれ、義仲の前で即座に首をはねられました。
一方、志保山に向った義仲の叔父行家は、平家に囲まれ苦戦していましが、
義仲が送った援軍によって勝利し、清盛の末子知度(とものり)を討ち取りました。
  
倶利伽羅合戦の敗因について、右大臣九条兼実は、彼の日記『玉葉』に
平氏の侍大将らが主導権争いをして統制を乱したためと記しています。

侍大将として倶利伽羅合戦に参加したのは次のメンバーです。
伊藤忠清の子息(忠綱・忠光・悪七兵衛景清・忠経)、
伊藤忠清の弟飛騨守景家とその子息景高、
越中前司盛俊とその子息(長綱・盛綱・盛嗣)らです。
中でも、上総介判官忠経・飛騨守景家・越中前司盛俊は
「平家第一の勇士」とうたわれていました。

ここで重要なことは、平家の御家人は、一門を構成する各家と
個別に主従関係を結んでいたということです。
小松家の御家人
維盛の父重盛は、清盛の先妻の子であり時子の実子ではありません。
小松谷(現在の小松谷正林寺辺)に住んでいたので小松殿とよばれました。
伊藤忠清は小松家に仕え、維盛の乳母夫でした。
宗盛の御家人
鬼神と称された越中前司盛俊は、清盛・宗盛に仕え、
飛騨守景家は宗盛の乳母夫にあたります。

この合戦には維盛の乳母夫伊藤忠清は従軍せず、
忠清に代わって維盛を補佐したのが、子息の忠経らでした。
清盛の死後、
大黒柱は彼の妻時子であり、その息子宗盛が一門を率いる立場となりました。
嫡流小松家の家人である忠経らは、一門の主流派となった
宗盛の家人と功を争って対立し、軍を統制することができなかったようです。

 倶利迦羅不動寺(真言宗)
平氏軍は倶利伽羅合戦の際、この寺の前身である長楽寺に本陣を布きました。
縁起によると養老2年(718)に元正天皇の勅願により、中国から渡来した
インドの高僧、達磨大師の弟子・善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)法師が、
倶利迦羅不動明王(剣に巻きついた黒竜の姿)を刻み祀ったのが始まりと伝えられ、
このことから、この地を倶利伽羅と呼ぶようになりました。 



それから約100年後、弘法大師空海が諸国巡礼の途中に参詣し、
自作の倶利伽羅竜王像を安置して別当寺・長楽寺を開いたという。
山上には七堂伽藍が建ち並び、塔頭は21ヶ寺を数えましたが
その後、度々兵火にあって衰退し、昭和24年(1949)、
長楽寺跡に堂宇が倶利伽羅不動寺として再建されました。













山頂の倶利伽羅不動寺からバスで移動
平成10年に建てられた倶利伽羅不動寺の西之坊鳳凰殿

道の駅倶利伽羅源平の郷 津幡町字竹橋西
倶利伽羅峠の歴史や文化を知ることができる歴史資料館を始め、
宿泊や研修施設などが完備された倶利伽羅塾などがあります。

火牛の像





倶利伽羅不動寺に通じる道路から倶利伽羅峠一帯は
4月下旬には、7000本余の八重桜が満開になります。
倶利伽羅古戦場(1)埴生護国八幡宮  
倶利伽羅古戦場(2)猿ヶ馬場・源氏ヶ峰・源平供養塔  
瀬尾太郎兼康のその後をご覧ください。
瀬尾(妹尾)太郎兼康の墓  
『アクセス』
「倶利迦羅不動寺」石川県河北郡津幡町字倶利伽羅
「西之坊鳳凰殿」  津幡町字竹橋
JR北陸本線・七尾線 津幡駅下車 タクシー 山頂本堂 20分 鳳凰殿 15分
『参考資料』

高橋昌明「平家の群像」岩波新書 高橋昌明編「別冊太陽・平清盛」平凡社 
高橋昌明「平清盛福原の夢」講談社選書メチエ 角田文衛「平家後抄」(上)講談社学術文庫 
「石川県の地名」平凡社 「富山県の歴史散歩」山川出版社

 

 

 



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寿永2年(1183)5月11日朝、平家軍は倶利伽羅峠に到着し、
長楽寺(現、倶利伽羅不動寺)
を本陣とし、猿ヶ馬場から砺波山一帯に陣を布きました。
一方、
義仲が率いるのは平氏軍の半分の5万騎。義仲は大軍に対して
小勢が平地で戦うは不利と、
敵を山中に釘付けにしておいて夜襲をかけ、
倶利伽羅峠に追い込む作戦をたてました。
そして
義仲が埴生護国八幡宮に奉納した願文が八幡神に
届いたかと思われるような大勝利が
源平倶利伽羅合戦です。

倶利伽羅古戦場跡には、猿ヶ馬場・源氏ヶ峰・塔の橋・矢立山・
砺波の関などがあり、倶利伽羅県定公園に指定されています。



源氏ヶ峯・猿ヶ馬場・倶利伽羅不動寺に布陣した平氏軍、
義仲軍の最前線はそこからわずか数百m隔てた矢立山です。

猿ヶ馬場
「源平倶利伽羅合戦」と刻まれた石碑がブナ林の中に高く立ち、
その前には作戦を練ったといわれる大きな軍議石があります。
傍の駒札には維盛以下、行盛・忠度ら諸将の席次が記されています。



源氏ヶ峯
平氏軍の陣地だったこの峯を源義仲が占領したので
この名がつけられたという。
稜線はなだらかですが谷は深い。


地獄谷
源氏ヶ峯の西の深い谷で平氏軍が馬もろともおちていったという地。
この谷から死骸の膿が流れ出たので谷の渓流を膿川という。
矢立山
義仲軍の最前線だったところ、300mほど隔てた平氏軍の最前線、
塔の橋から射た矢が林のように突き刺さったことから矢立山と呼ばれます。

昼間、両陣は互いに矢を射交わしますが相手方に届かず、間の山に突き刺さったという。
両陣ともに勇み立ちますが、義仲はわざと進撃させず時間かせぎをして
別動隊が平氏軍の背後に回るのを
待ちます。これが源氏の策略とは知らずに、
一日中
矢合わせをしたのは実に哀れなことでした。

日が落ちた。突如、迂回していた義仲隊が白旗を雲のように掲げ、
箙の箱を叩き、大声で鬨の声をあげます。義仲本隊からも、
あちこちに隠れていた軍勢も一斉にどっと鬨の声を合わせます。
わめき上げた声は山も川も崩れ落ちるかと思われるばかり。

四方岩石のこの山の地形から搦め手から攻められる恐れはないと
安心していた平氏方は不意をつかれ、大軍に囲まれたと錯覚し
大混乱となり、「返せ、返せ」と維盛が声を涸らしても、
浮き足立った兵は止められず陣は総崩れ。

濃い闇が視界をさえぎり地理に不案内の平氏方は、義仲があえて
軍勢を配置してなかった地獄谷に我先にとなだれ落ちていきました。
その結果、「馬には人が、人には馬が、落ち重なり、落ち重なり、
さしも深い谷一つを平家の軍勢七万余騎で埋めつくしました。
谷川は血の流れとなり、死骸は積み重なって丘のようになりました。
 
松尾芭蕉の句碑
江戸時代、芭蕉は埴生護国八幡宮を参拝し、倶利伽羅峠を越え、
金沢・小松から今庄の宿の外れの火打城(燧城)の下に出ています。(おくの細道)

 ♪義仲の寝覚の山か 月悲し
(燧城を眺めていると義仲の悲しい運命がしのばれ、月も悲しげに見えることだ。)

これは芭蕉の弟子、宮崎荊口の『荊口(けいこう)句帳』にあり、
芭蕉が福井から敦賀までの名所にからませて月を詠んだ十五句の中の
一句で「燧城」と前書きがあります。芭蕉が記している燧城跡は
源平古戦場の一つで今庄町の西にある愛宕山山頂(270m)にあります。
平氏の追討軍を義仲勢がここで迎え撃ちましたが、
平泉寺長吏斉明の寝返りにより義仲勢は敗退しました。


句碑は津幡出身の俳人河合見風が宝暦年間に義仲ゆかりの地、
猿ヶ馬場に往時を偲んで建立、後に金城馬佛が再建したものです。
風化が激しく碑に刻まれた文字は殆んど読みとれません。
火牛の像
猿ヶ馬場のすぐ西に、雪囲いした二頭の火牛の像や
源氏の笹りんどう紋と平家の揚羽蝶紋を描いた扇があります。



『源平盛衰記』には、義仲は数百頭の牛を集め夜陰に乗じ、
角に松明をつけて放ち、平氏軍を混乱させたと記されていますが、
義仲がこの戦術を実際に使ったかどうかは疑問視されています。

この物語は中国の『史記(列伝22)』にみえる戦国時代の斉国(せいこく)の将

田単(でんたん)の牛の角に剣・尾に松明をつけて敵軍に走らせたという
「火牛の計」の故事にもとづいて作られたといわれ、図柄としては
尾に松明をつけるより角に松明をつけた方が、ずっとインパクトがありますが、
極度に
火を怖れる牛の角に松明をつけるとは考えられないので
『源平盛衰記』の火牛の計は、
田単の故事をもとにして
脚色されたフィクションであると考えられています。


源平供養塔
火牛の像の傍の供養塔は、合戦で犠牲となった源平両軍の霊を弔うために
昭和49に建立された五輪塔。毎年5月12日に法要が営まれています。
その背後には、かって石動町の法務局出張所近くの民家の庭にあった塚で、
平為盛の供養塔と伝えられる五輪塔があります。

源平供養塔の背後にある平為盛の墓


    『為盛は池の大納言平頼盛の子として生まれ、寿永2年(1183年)
砺波山の源平合戦に平家の総帥平維盛の部将として出陣、
5月11日源氏の夜襲に敗れ、加賀国に逃れ翌12日未明、手兵50騎を
ひきいて源氏に逆襲したが、義仲の部将樋口兼光に首をはねられた。
この塚は、勇敢な部将為盛を弔うたもので、墓は地、水、火、風、空を
表す五輪の塔で、高さ1.6m、鎌倉時代の建設である。
市は昭和44年9月20日、この史蹟を文化財に指定した。
昭和46年12月小矢部市教育委員会』(現地説明板)
 
旧北陸道(倶利伽羅古道)
平氏の大軍が駆け上ってきた道、また参勤交代に使われた道でもある。
(源平供養塔付近の古道を撮影)
倶利伽羅古戦場(1)埴生護国八幡宮  倶利伽羅古戦場(3)倶利伽羅不動寺  

 『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
 「源平倶利伽羅合戦記」埴生護国八幡宮社務所 「新定・源平盛衰記」(4)新人物往来社
河合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館 上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館
 「検証・日本史の舞台」東京堂出版 「富山県の地名」平凡社 「富山県の歴史散歩」山川出版社

金森敦子「芭蕉はどんな旅をしたのか」晶文社 新編日本古典文学全集「松尾芭蕉」(1)小学館 

 



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