平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




山内首藤(すどう)俊通(?~1159)は、頼朝の乳父(めのと)、
妻は乳母の山内尼、俊綱、経俊の父です。
その子孫が建てたという
俊通(としみち)の塚がウェスティン都ホテル京都の裏山に残されています。

塚はもと都ホテルの表玄関の西方、旧道に面したところにありましたが、
近年現在地に移されました。

ホテルの方にお断りして、裏山に上らせていただきました。
ホテル内には入らず、玄関西側の山手に通じる駐車場Cの車道から上り、
その一番上から山道に入ります。



上の建物の向い側にある石段を上り、右に入ったところに塚があります。



人1人やっと通れるほどの狭い道です。

「白川東南佳城鬱々(うつうつ) 嗟(ああ)首藤公永居此室」 

裏面には、「享保4年歳次己亥秋七月二十三日 
 世孫長州山内縫殿藤原広道建」と刻まれています。
享保4年は1719年、山内縫殿は長州藩家老山内広通の通称で、
山内氏は藤原秀郷の末裔と称し、藤原氏を名乗っています。
歳次(さいじ)は年のめぐり、己亥(つきのと)は1719年です。

 眼下に仏光寺の墓地、遠くに平安神宮の鳥居が見えます。

山内俊通は、義朝の長子悪源太義平の勇臣17騎の随一といわれ、(『平治物語』)
平治の乱では子の俊綱とともに義朝に従い、敗れた義朝を東国へ逃がすため防戦し、
三条河原で戦死しました。遺骸は東分木町南側の人家の後に葬られ、
江戸時代には、山伏塚とよばれていました。

享保2年にその子孫たちが白川橋近辺を訪ねて、糀屋宇右衛門宅の裏にある
粟田山崖下の山伏塚を探し当てました。享保4年、追善供養を行い、
塚の上に石垣を築き石碑を建てました。

ここで俊通、俊綱父子の最期をご紹介します。
崇徳院と後白河天皇の確執を発端とした保元の乱で、源義朝は
平清盛とともに
後白河天皇に味方して崇徳院方に勝利しましたが、
この恩賞で清盛との差がついていました。
義朝はその恩賞を取り仕切っていた藤原信西に強い怒りを覚えます。
後白河院近臣の藤原信頼もかつて朝廷内で絶大な権力を持っていた
信西に出世の邪魔をされ、やはり信西に恨みを抱いていました。

 平治元年(1159)12月9日、 清盛が熊野詣に出かけている隙に
義朝は、信頼の誘いに乗って
クーデターに踏みきり、
信西を自害(殺害とも)させてしまいます。
その上、二条天皇と後白河院を内裏に幽閉し、政治の実権を握りました。
天皇を擁している者が官軍となり、清盛が兵を挙げれば賊軍です。
知らせを聞いて慌てて都に戻った清盛は、天皇をひそかに六波羅館に
脱出させることに成功し、天皇を奪われた義朝と信頼は賊軍となり、
天皇が六波羅に入ると、天皇親政派の武家が一斉に離脱し、
源氏軍の軍勢は半分以下に減ってしまいました。

信頼・義朝追討の宣旨を受け、清盛は義朝・信頼らが籠る大内裏を
弟の頼盛や嫡男の重盛に攻めさせます。
大内裏の待賢門に陣取った義朝軍と、重盛の軍との戦いで、
悪源太義平(よしひら)に追い立てられて重盛は危く逃れ、
戦場は六波羅に移ります。義平らは六波羅に押し寄せましたが、その勢は
20騎あまりにすぎなかったという。
これに徒歩の武者を加えても5、60人ほどです。

その途中、六条河原に控えていた源頼政の日和見的な態度に怒った義平が
襲いかかって合戦となり、頼政の郎党が盛んに矢を射かけるので、
山内俊綱は引き留まって戦いましたが、
敵の放った矢が首の骨に当たって深手を負い、助からないとみた
義平の指示で斎藤実盛の手にかかって六条河原で亡くなりました。
斎藤実盛は、駒王丸(義仲)を信濃国の中原兼遠のもとに送り届けた武将です。

六波羅館を攻めあぐみ、義朝軍が鴨川の西岸に退いたところを、
平家の兵たちが攻めたて、義朝勢は総崩れとなり河原を北へと退却していきます。
三条河原で、鎌田兵衛正清(義朝の乳母子)が「頭殿(義朝)は思うところあって
落ちて行くので、敵の追撃を阻止せよ。」というので、新羅三郎義光の孫、
平賀四郎義宣(よしのぶ)は、引き返して散々に戦います。
佐々木源三秀義・山内首藤俊通・井沢四郎信景(のぶかげ)をはじめとして、
我も我もと敵の前に馳せ塞がって防いでいましたが、佐々木秀義は、
敵二騎を斬り自身も手傷を負って、近江を指して落ちて行きました。
この佐々木秀義は配流中の頼朝に近侍した定綱、経高、盛綱、高綱の父です。
息子たちは頼朝挙兵後も頼朝に従い、各地で戦功を挙げます。

山内俊通は子息が討たれ、ともに討死しようと思いましたが、
何とか気をとり直し身命を捨てて駆け回り
敵三騎討ち取り、終に討たれました。
甲斐の武将井沢四郎信景は、24本差した矢を以って、今朝の戦いで
敵18騎を射落とし、三条河原で良き敵を4騎射殺したので、
箙には2本の矢が残っていましたが、痛手を負ってしまいました。
知人を頼って遠江(現、静岡県の西部)へ落ち、
そこで疵の手当をし、弓の弦を切って杖に代え、山伝いに
甲斐の井沢(現、山梨県東八代郡石和町)へ落ちて行きました。
源頼朝の乳母山内尼  
『アクセス』
「ウェスティン都ホテル」京都市東山区粟田口華頂町1
地下鉄東西線「蹴上駅」下車 徒歩約2分
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社、1987年 
竹村俊則「昭和京都名所図会(洛東下)」駿々堂、1981年
 日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年 
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス、2004年

 



コメント ( 3 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
何度も戦争があり、火事もあった都ですのに… (yukariko)
2017-09-22 21:09:40
1159年の平治の乱の戦で三条河原で討死し遺骸は東分木町南側の人家の後に葬られ、江戸時代には山伏塚と呼ばれたとか。
京の街中ではないとはいえ、550年後の1717年に子孫がその塚を探し当て、2年後に追善供養をして石塔を立てた…本人が源氏でしかも頼朝の乳母の山内尼の夫とはいえ、はるか後世になって一族の言い伝えを頼りに探し当てた事自体が凄いですね。
 
 
 
凄いですね (sakura)
2017-09-25 09:27:43
最初、山内縫殿は少し西側の三条白川橋近辺を尋ね歩いているので、
戦死の場所はその辺りと伝えられていたのでしょうね。

そこで山伏塚を教えられ、山内氏菩提所洞春院の僧が来て追善供養を行ったようです。
「姓氏家系大辞典」には、「山内縫殿は、
治績多く、その名高し」と記されています。

敵に取られた俊通の首は六条河原に晒されたのでしょうが、
亡骸を埋めたところは古墳となり、山伏塚と呼ばれて
その死を惜しまれていたようです。
源氏に心を寄せる者が埋葬し土盛したのでしょうか。

 
 
 
Unknown (三河の者)
2024-03-21 00:23:22
山内首藤末裔の者です先祖の塚が残っているとは
時間を作って手を合わせに行ってみたいと思います。
 
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