平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



京都の繁華街四条河原町から四条通を西に行くと、寺町通に出る手前に
八坂神社御旅所(祭礼の神輿の休憩所)があります。
その右側にある小さな社が冠者殿社(かじゃでんしゃ)です。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)の荒御魂(あらみたま)を祀るといわれていますが、
俗説では土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)の霊を祀ると伝えられています。

四条通に面して、観光土産物センターと八坂神社御旅所が並んでいます。





土佐坊は頼朝の密命を受けて上洛し、義経に堀川館に呼び出された時、
熊野詣の途中と弁解し、二心がないことを誓紙に書いたにもかかわらず、
誓いを破って義経を襲いました。しかし失敗し、引立てられてきた
土佐坊に義経が「起請文の神罰があたったな。
だが主君の命令を重んじて、自分の命を軽んずる。その志はけなげである。
命が惜しくば助けてやるが、どうだ」と言うと、「武士は名を惜しむ。
この命は鎌倉殿に差し上げた。情けがあるなら、早く首を斬れ。」と
いうので六条河原で処刑されました。(『平家物語全注釈・巻12
』)

死にのぞんで、「こののちは、忠義立てのため偽りの誓いをする者の
罪を救ってやるぞ」という願を立てたといわれています。これに因んで、
土佐坊は「起請返しの神」「誓文祓いの神」として崇められました。

土佐坊を祀る冠者殿社
毎年10月20日には、仕事の上の駆引きで、時には嘘をつかざるをえない
商人や遊女らが神罰を怖れ参詣したという。

「冠者殿社 御祭神 素戔嗚尊の荒魂 祭日十月二十日
冠者殿社は八坂神社の境外末社。 官社殿社と表記されることもある。
祭神は八坂神社と同じだが、ここは荒魂(あらみたま)を祭る。
荒魂とは和魂(にぎみたま)と対をなすもので、神霊のおだやかな
はたらきを和魂、猛々しいはたらきを荒魂といい、
全国の神社の本社には和魂を、荒魂は別に社殿を設け
祭るという例が多い。もとは、烏丸高辻にあった
八坂神社大政所御旅所に鎮座していたが、
天正19年に豊臣秀吉の命により、御旅所が現在地に移転した時、
樋口(万寿寺通)高倉の地に移され(現在の官社殿町)、
さらに慶長のはじめに現在地に移された。
明治45年、四条通拡幅に伴い旧社地より南方に後退している。 

毎年十月二十日の祭りを俗に「誓文払い」という。
昔の商人は神様に商売ができることへの感謝と、
利益を得ることに対する償いの意識をもっていた。
この感謝と償いの意識により年一回の大安売りをして、
お客様に利益を還元する商道徳がしっかり守られていた。
この本来の誓文払いの精神を継ぎ、商人の方々は商売繁盛を、
一般の方々は神様の清き心を戴き家内安全で過ごせるよう願って
十月二十日に大勢参拝されます。
八坂神社」(説明板より)

弁慶昌俊相騎図(べんけいしょうしゅんそうきず)絵馬(重要文化財)
京都北野天満宮所蔵   
京都国立博物館2010・4・10~5・9に開催された
「長谷川等伯展 没後400年特別展覧会」博物館パンフレットより転載。
1面 板地金地著色 縦275.0・横407.0 桃山時代(1608)制作

この巨大な絵馬は長い間、作者が分からないまま、北野天満宮の
絵馬所に懸けられていましたが、調査の結果、長谷川等伯70歳の時、
最晩年の作品と分かり、現在は宝物館に安置されています。

武蔵坊弁慶が源義経の命を狙った土佐坊昌俊の宿舎に乗りこみ
捕らえて堀川館へ引っ立てていく場面を描いた絵馬です。
(『義経記・巻4・土佐坊が義経を討ちに上京』)
土佐坊昌俊(土佐坊昌俊邸址)  
『アクセス』
「冠者殿社」京都市下京区四条通寺町東入御旅宮本町
阪急「京都河原町駅」下車 徒歩約3分 京阪本線「祇園四条駅」下車 徒歩約8分
『参考資料』
武村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂、昭和59年
「源義経と源平の京都」ユニプラン、2004年
富倉徳次郎「平家物語全注釈」(下2)角川書店、昭和52年
現代語訳「義経記」河出文庫、2004年

 

 

 



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壇ノ浦で生けどりとなった人々が義経に護送されて鳥羽に着くと、
この行列を見ようと鳥羽離宮の南門から鳥羽の作り道まで都人だけでなく、
近国、遠国からも多くの人々が集まってきて大混雑しました。

小八葉(こはちよう)の車は、前後のすだれを上げ、左右の物見を開き、
外から見えるようにしてあります。先頭の車に乗っているのが宗盛、
その嫡男清宗の車が続きます。次に平大納言時忠、
後ろに続くのは20余人の侍です。後白河法皇も当時の院御所
六条西洞院(
にしのとういん)に近い六条東洞院に車を停め、
身を潜めてこの無惨な引き廻しをご覧になりました。
元暦2年(1185)4月26日のことです。
かつて宗盛が内大臣となった際には、拝賀式の儀式が盛大に行われ、
多くの公卿・殿上人たちが従いましたが、
今は、やはり生け捕りの身となった侍らが従うのでした。

『平家物語絵巻』一門大路わたされより転載。

一行は六条通りを東へ、賀茂河原まで渡されて、それから引き返し、
六条堀川にある義経の邸で宗盛父子を預かりました。
六条堀川一帯には、源氏累代の邸があった所で、
源氏堀川館と(六条堀川館とも)いいます。
源頼義が西洞院左女牛(さめが)小路に館を構えて以来、
義家、為義、義朝、義経まで六条堀川を拠点にしましたが、
義経が兄頼朝に追われ、京都を逃れたあと焼き払われ、
その後は再建されることはありませんでした。
ちなみに六条通リは、平安京の六条大路にあたりますが、
現在の六条通は狭い道路となっています。

義経の館について『吾妻鏡」』には、六条室町」と記されています。
どちらにしても、この付近は河内源氏代々の館があった地であり、
義経がこの地を邸宅に選んだことはごく自然なことと思われます。
また、六条西洞院 にあった後白河法皇の院御所(六条殿)の
近隣ということも義経が六条を邸宅とした理由のひとつと考えられます。

この屋敷内にあった名水「左女牛井(さめがい」」だけが残り、
江戸時代には茶の湯に用いられましたが、堀川通の拡張で
井戸は破却されました。
堀川通の東に左女牛井町の町名が残り、
堀川通に建つ「左女牛井之跡」の石碑が唯一の遺跡です。

石碑は京都東急ホテル東南すぐ、堀川通の緑地帯にあります。

側面には「源義経堀川御所用水と伝えられ、足利時代既に名あり。
元和二年在銘の井戸稀なり。第二次世界大戦に際し昭和二十年疎開の為撤去さる。
当学区醒泉の名は之に由来する。井筒雅風」と刻まれています。


宗盛には、嫡男清宗の下に腹違いの副将(能宗=よしむね)という名の
息子がいました。生捕の中に8歳の童がいることを知った宗盛は、
敗戦後、離れ離れになったわが子副将に違いないと鎌倉へ下向する
前日の元暦2年(1185)5月6日、一目会わせてほしいと
源義経に懇願し、許されました。
2人の女房に付き添われて久しぶりに父を見た副将は、
喜んで宗盛の膝に上ります。宗盛は副将の髪を撫で、
涙ながらに「この子の母親は、産後の肥立が悪く亡くなりました。
今わの際にどうかこの子を自分の形見として可愛がってくれ。と言うので、
清宗を朝敵を討伐する際の大将軍に、能宗を副将軍にという
思いから副将と名づけ、不憫さにこの子を溺愛し、
片時も離さず育てた。」と警護の武士らに語ると、
武士達はこぞって涙にくれ、その場にいた
清宗、乳母たちも涙せぬものはいませんでした。
日が暮れて別れの時が来ましたが、副将は泣いて
宗盛の袖に取りすがり、帰ろうとしません。
清宗がこの様子を見かねて「すぐここに客人がおいでになるので、
早くお帰り。また明日おいで。」となだめますが、
父にすがって離れません。それを乳母が抱き取って
御車に乗せて帰ると、見送った宗盛は「このつらさに比べれば、
日頃の悲しさはものの数ではない」と嘆きました。

その夜、副将を預かった河越小太郎重房は、「この暑い時節に
幼い者を引連れて鎌倉まで行くに及ばない。
京でよきように計らえ。」との義経の命を受けました。
翌日、副将は迎えの車に「また昨日のように父上のところへ参るのか」と
喜んで乗ると、
車は六条通りを東へ向かい、六条河原へ到着しました。

六条河原は、現在の五条大橋より南、正面橋辺りまでの鴨川の河原をいい、
処刑の場として度々『平家物語』に登場します。


車を降りた副将は不審に思い、重房の郎党に斬られそうになると
逃げ出して乳母のふところに隠れました。
乳母たちは副将を抱きかかえて泣き叫ぶので武士らは憐れみましたが、
涙を抑え重房が「今となってはどうしようもない。さあ早く」と促し、
武士たちは乳母の懐から副将を取り首を掻き切りました。
さすがにそのいたましさにみな鎧の袖を濡らしました。
その首は検分のため、鎌倉へ下向する途中の義経に届けられました。
乳母たちは義経一行をはだしで追いかけ、
後世を弔いたいと必死に願い、首を取り戻しました。
数日後、桂川から2人の女房の死体があがりました。
乳母が副将の首をふところに、付き添いの女房が
遺骸を抱きかかえていました。(巻11・副将誅=きられ)

『延慶本』では、副将殺害の場所を賀茂河原でなく、桂川とし、
刀で殺害するのでなく、石を入れた籠の中に入れ沈める
柴漬(ふしづけ)にして殺され、二人の女房は尼となって
法華寺に入ったとされています。

河越重房 (1168-1185)は、 武蔵国の豪族
河越太郎重頼の嫡男で母は比企尼の娘です。
姉妹に源義経の正室の郷御前(さとごぜん)がいます。
彼女は頼朝の命により義経に嫁ぎ、頼朝と義経が対立したのちも
義経の逃避行に従い、最期を共にした女性です。

平清盛は平治の乱で敗死した源義朝の遺児たちを助けました。
斬罪の頼朝を助命し、常盤が生んだ3人の幼い子
(今若・乙若・牛若)も助けています。
この助命した遺児たちに平氏は滅ぼされるのです。
頼朝は自身の経験から、平家の血筋を根絶やしにしようとしたのです。
源氏堀川館・左女牛井之跡・若宮八幡宮
『アクセス』
「左女牛井之跡(さめがいのあと)」の石碑
市バス「堀川五条」下車徒歩約5分 
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
竹村俊則「京の史跡めぐり」京都新聞社、1987年 
元木泰雄「源義経」吉川弘文館、2007年
林原美術館編「平家物語絵巻」クレオ、1998年
図説「源平合戦人物伝」学研、2004年
「平家物語図典」小学館、2010年




 

 



 

 

 

 

 



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烏丸三条交差点の北東角に若者に人気のファッションビル新風館があります。
この地は、院政期には政治的・文化的中心地のひとつであった三条東殿址です。

三条東殿は、もとは大治元年(1126)に白河法皇が造営した院御所で、
法皇が崩御後、鳥羽上皇と待賢門院の御所となり、
その後、後白河法皇の御所となりました。

最寄りの
京都市営地下鉄烏丸御池駅

平治元年(1159)12月、後白河上皇が三条東殿を御所としていた時、
平治の乱が勃発しました。
藤原信頼と源義朝の軍勢数百騎が急襲、
上皇を連れだし、邸内に火を放って多くの人々を殺戮したことで知られています。

烏丸三条

新風館

新風館の敷地の北東角、姉小路通りに面して
「三条東殿遺址(いせき)」の碑がたっています。

外資系の有名ホテルの建設ラッシュが続く京都で、
昨年、新風館の前を通りかかると再建工事中で覆いがかけられていました。


新型コロナウイルスの影響で開業が遅れていた新風館が2020年6月に
米国ホテルグループの「エースホテル京都」とミニシアター「アップリンク京都」を
はじめ、商業複合施設としてオープンしたことをテレビのニュースで知り、
「三条東殿遺址」の碑がどこに建てられたのか確かめに行ってきました。



説明の駒札や石碑は元の場所
にありました。

三条東殿址・信西邸跡(平治の乱のはじまり)  
『アクセス』
「新風館」京都市中京区姉小路通烏丸東入
京都市営地下鉄烏丸線・東西線烏丸御池駅(5番出口)から徒歩1分。

『参考資料』
武村俊則「京の史跡めぐり」京都新聞社、1987年

 



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浄教寺が寺院とホテルの複合施設として建て替えられたことを
テレビのニュースを見て知りました。
地上9階建てで、1階はロビーと浄教寺本堂が同居。
2~9階はホテルとして運営し、
2020年9月28日にオープンしました。



四条通りから寺町通りを南に進むと、
左側に三井ガーデンホテル京都河原町浄教寺があります。





浄教寺は、重盛が小松谷の邸宅内に建立した
燈籠堂に起源をもつ浄土宗の寺院です。
平家都落ちの際、邸は炎上し燈篭堂だけが残りました。
その後、灯篭堂は、下京区東洞院通松原付近に再興され、
天正年間(1573~92)に現在地に移されました。





平重盛の顕彰碑 と重盛が勧請したという熊野権現を祀った社。

有栖川宮熾仁(たるひと)親王の揮毫(きごう)。
「内大臣平重盛公之碑」と彫られています。
重盛は父清盛の躍進に伴って累進していき、内大臣にまで出世しました。

浄教寺 平重盛(1)  
『アクセス』
「三井ガーデンホテル京都河原町浄教寺」
京都市下京区貞安前之町620番
阪急電車・四条河原町駅下車約5分
 「四条河原町」バス停から徒歩約2分
『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図絵」(洛中) 駿々堂、昭和59年

 

 

 

 



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栢杜(かやのもり)遺跡は、一言寺(金剛王院)の南にある
平安時代後期から鎌倉時代にかけての寺院跡です。

醍醐寺の南方約1㎞、醍醐山(笠取山)の西麓、標高40~50mの台地上にあり、
栢杜堂あるいは大蔵卿堂と呼ばれた醍醐寺の子院並びに庭園遺跡です。

昭和48年(1973)この付近一帯の宅地造成される際に発掘調査が行われ、
大蔵卿と呼ばれた村上源氏の源師行(もろゆき)の
八角堂(径14.3m)の遺構が検出されました。
更にその南側からは正方形の仏堂跡(一辺22.5m)も発見され、
昭和58年には国の史跡に指定されました。

重源の事蹟を著した『南無阿弥陀仏作善(さぜん)集』には、
重源が「栢杜堂一宇」を造り、丈六の阿弥陀如来像を9体、
金色の三尺立像などを安置した事が記されています。





栢杜遺跡は陽当たりの良い高台にあり、
周囲には緩やかな傾斜地に添って建つ住宅地が広がっています。





昭和57年11月、京都洛東ライオンズクラブ寄贈の
「史跡 醍醐寺境内栢杜遺跡」の石標と説明碑。

平氏の南都焼討により東大寺の伽藍の大半が失われました。
その復興にあたり大勧進職(総責任者)に任命された
重源が堂塔再建を成功させた要因のひとつは、
その人的ネットワークや人脈の広さにあるとされ、
村上源氏一族や平治の乱で非業の最期を遂げた
信西(藤原通憲)の子孫との深い関係があげられます。
重源は醍醐寺で出家し、密教を学びましたが、醍醐寺のネットワークには
村上源氏が多く関係し、この寺の大檀那は村上源氏でした。

村上源氏とは、村上天皇の子孫で臣籍に降下し、源姓を賜った諸家のことで、
平安時代以降、藤原氏摂関家に次ぐ高い格式を帯びた家柄でした。
文才が豊かで和歌や漢詩文に優れた村上天皇の皇子具平(ともひら)親王の子
師房(もろふさ)系統が最も繁栄し、多くの上級公卿を輩出しました。

この流れを汲む源師時(もろとき)は、村上源氏の嫡流
左大臣源俊房(子の勝覚は醍醐寺座主)の次男です。
その息源師行(?~1172)は、鳥羽天皇の皇后美福門院の
従兄弟にあたることから、久安5年(1152)には、
美福門院別当及び大蔵卿に任じられますが、
程なく出家して醍醐寺に隠退し、久寿2年(1155)には、
重源と共に同寺に八角円堂(大蔵卿堂)を建立しました。

泉福寺(和歌山県紀美野町)の梵鐘(重要文化財)は、
重源上人が勧進して高野山西院谷の延寿院に奉納され、
その後この寺に移されました。銘文によって
僧照静・聖慶(師行の子)・源時房(師行の子)らのために
制作されたもので、1176年重源によって鋳造され、
和歌山県で最も古い梵鐘ということが判明しました。

さらに重源上人が中心となって造立した東大寺南大門
金剛力士像の像内銘にも、多くの村上源氏の人々の名がみえます。

仏師快慶の作った仏像の銘文に重源と深い関係にあった
信西の息子勝賢・明遍、孫の恵敏(えびん)・貞慶(じょうけい)の
名が記されています。
快慶もやはり重源と関係が深く、
重源関係の造像が多いことで知られています。

信西には優秀な子孫が多くあり、東大寺東南院主の
定範(じょうはん)も信西の孫でした。
定範は桜町中納言藤原成範(なりのり=小督局の父)の子で、
東大寺東南院で出家し、おじの勝賢、兄の成賢(せいげん)に師事して
東南院院主となり、のち東大寺別当、醍醐寺座主をつとめました。
当初重源(1126~1206)は、勝賢(1138~1196)に
譲るつもりでしたが、勝賢が亡くなったため、示寂の9年前、
その甥にあたる定範(1165~1225)に寺領の大半を譲りました。
『アクセス』
「栢ノ杜遺跡」京都市伏見区醍醐栢森町 一言寺(金剛王院)より徒歩約5分
その西の醍醐外山街道町の住宅団地の公園には、
「従三位平重衡卿墓」の碑があります。
『参考資料』
「御遠忌800年記念特別展 大勧進重源」奈良国立博物館、平成18年
「京都市の地名」平凡社、1987年 
「京都府の歴史散歩(中)」山川出版社、2003年
角田文衛「平安京散策」京都新聞社、1991年 
井上満「平安京の風景」文英堂、2006年

 

 

 

 

 



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一言寺(金剛王院)は、真言宗醍醐派の別格本山で、金剛王院流の
祖聖賢(しょうけん)を開山とする醍醐寺の境外塔頭の一つです。
明治28年(1895)この地にあった一言寺跡へ移転しましたが、
一般には一言寺、一言寺観音で親しまれています。







門前の石灯籠横に建つ「阿波内侍念持仏一言寺観世音」と彫られた石碑。



一言寺  高台にある一言寺は、四季折々の花に彩られた静かな寺である。
 この緑に覆れた寺は、高倉天皇の中宮・建礼門院徳子に仕え、「大原女」の
モデルとも言われる阿波内侍(後白河天皇の側近である藤原信西の娘)によって創建された。
 本尊の千手観音は、「ただたのめ仏にうそはなきものぞ二言といわぬ一言寺かな」という
御詠歌で歌われるように、一心に祈れば、一言だけなら願い事が叶う、
ということで、多くの信仰を集めている。  現在の本堂は、江戸時代の再建で、
「一言観音」と呼ばれる千手観音菩薩像や不動明王像等の他、
元禄七年( 一六九四)に造られた阿波内侍像が安置されている。
 山門の近くにある大きなヤマモモの木は、樹齢四〇〇年以上と言われ、
京都市の天然記念物に指定されている。幹の内部が大きく
空洞になっているが、今でも樹勢は衰えることなく、
毎年六月頃には多くの赤い実を付ける。京都市(駒札より)


寺地は見晴らしのよい丘陵台地にあり、長い石段を上ると山科盆地が一望できます。
山門のそばには、京都市登録天然記念物に指定されている大きなヤマモモの木があります。

一言寺  真言宗醍醐派のお寺で金剛王院、通称一言寺と言います。
一八七四年(明治七年)金剛王院の祖聖賢を開山とする
醍醐三流の一つ金剛王院と合併しました。
ご本尊の千手観音さんに一心に祈れば言下に願いがかなうことから、
一言寺の名がおこったと伝えられています。 
「ただたのめ、仏にうそはなきものぞ、二言といわぬ、一言寺かな」の
御詠歌の額が本堂の軒下にあります。  寺伝によれば、
高倉天皇の中宮「建礼門院」に仕えた少納言藤原通憲(信西)の娘「阿波内侍」が出家して
「真阿」(しんな)と名乗リ、清水寺の観音さんの霊告によって、
一言寺を建立したと伝えます。 仁平年中珍海はここに住み、密教の仏画を多く残し、
阿波内侍座像は、元禄七年画像を基に造られたと記録に残されています。
 本堂は、一八一〇年(文化七年)の再建で、江戸時代を代表する建築の一つです。
内陣の中にさらに土蔵造りの奥内陣がある珍しいものです。一言観音と呼ばれる
秘仏千手観世音菩薩像は、この中に安置されています。(説明書より)

ヤマモモは主として照葉樹林に生える常緑の高木です。
このヤマモモは9.2メートルある巨木です。


「紫陽花光生」の石碑、碑の背面には
「奉納梅本光生 平成15年6月吉日 紫陽花3千本植樹記念」などと刻まれています。



同寺は信西の娘阿波内侍が清水寺本尊の霊告によって建立したと伝えています。



「ただたのめ 仏にうそはなきものぞ 二言といわぬ 一言寺かな」の
御詠歌で知られる奉納額が本堂の軒下に掛けられています。

奉納額

◆阿波内侍
阿波内侍の素性は、語りもの系が信西(藤原通憲=みちのり)の
娘とするのに対して、読みもの系は信西の孫、貞憲の娘としています。
信西の妻紀伊二位が後白河法皇の乳母でしたから、
阿波内侍は乳母子ということになりますが、
系図その他には彼女の名が見えないのでその実在を確認できません。

水原一氏は、『平家物語・下・P375(阿波内侍と周辺)』で、
「信西の娘を生母とする源有房の娘、高倉院中納言典侍とよばれた女性で
かつ平宗盛の養女であった瑞子が阿波内侍であろうとされた宮地崇邦氏
(『阿波内侍素性』1979)の説が種々の問題を解決することになった。」と述べられ、
さらに『明月記』嘉禄2年(1226)9月11日によれば、
端子(内侍)は父源有房(村上源氏師行の子)とともに醍醐に住み、
縁ある人に献身的に奉仕する尼であったらしい、
また平宗盛の養子、阿波守平宗親(出家して心戒)は
内侍の兄にあたるのであろう。と推定されています。
崇徳天皇の寵妃阿波内侍は次の記事でご覧ください。
崇徳天皇廟・阿波内侍の塔  

『アクセス』
「一言寺」京都府京都市伏見区醍醐一言寺裏町21
京都市営地下鉄東西線 「醍醐駅」 徒歩約18分
京阪六地蔵駅より京阪バス(22系統、22A系統)一言寺下車 徒歩約10分

『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実(下)」塙新書、1994年
竹村俊則「今昔都名所図会(洛南)」京都書院、1992年
「京都府の歴史散歩(中)」山川出版社、2003年

 

 

 



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醍醐の南、日野にある東光山法界寺(ほうかいじ)は、
真言宗醍醐派の寺で世に日野薬師とよばれ、
古くから安産や授乳祈願の信仰で知られています。
藤原氏の一族である日野家の氏寺で、
先祖伝来の薬師小像を安置したのが始まりです。
薬師堂はじめ観音堂や阿弥陀堂など多くの諸堂が
建立されましたが、
中世の兵火に度々罹災して焼失、
阿弥陀堂は往時の火災を免れた唯一の遺構です。
それ以後、焼け残った阿弥陀堂を本堂としていました。

明治時代、奈良県龍田の伝燈寺(でんとうじ)の建物を
移して本堂としたため、
旧本堂は今は阿弥陀堂(国宝)と称し、
内部には平安時代の代表的な阿弥陀如来坐像(国宝)を安置しています。
本尊の薬師如来立像(重要文化財)は、本堂(重要文化財)の
中央厨子内に置かれています。

日野は日野家出身の親鸞誕生地ともされ、寺の背後の山腹にある
3m四方の大きな石を方丈石とよび、
鴨長明が方丈の庵を結んで念仏三昧にはいったあたりです。
また、ここは山科の勧修寺(かじゅうじ)辺とともに
念仏聖の集まる場所でした。









阿弥陀堂と本堂(薬師堂)

阿弥陀堂



本堂(薬師堂)

京都市指定史跡  法界寺境内
 法界寺は、別名「日野薬師」または「乳薬師」ともよばれ、
授乳祈願の信仰で知られています。
 文献では、この地には
藤原氏の支流である日野家の山荘がありましたが、平安時代の
永承6年(1051)に日野資業が一宇を建立し、
薬師如来像を安置したことに始まると伝えます。

 平安時代末頃にその伽藍は最も荘観を誇っていましたが、
承久3年(1221)に薬師堂ほか一堂を残してことごとくが焼失し、
法界寺は大きな打撃を受けます。その後再建されますが、
中世の兵火などにより度々焼失し、創建期に近い建物は
阿弥陀堂のみとなってしまいました。

 近世における法界寺の具体的な様相は、『都名所図会』から
知ることができます。阿弥陀堂と池とが対面し、東方に鐘楼、
現在の薬師堂の位置に草庵風の建物があり、
鐘楼の脇から坂道が東側の集落に通じていることなど、
全体の佇まいは現在のものと大差ありません。

 現在の主な建造物の内、阿弥陀堂(国宝)は、承久3年の
火災後の再建による、鎌倉初期のものと考えられており、
また、薬師堂(重要文化財)は、もとは伝燈寺(奈良県龍田)の
本堂でしたが、明治37(1904)年に法界寺に移築されたものです。

 鎌倉初期の再建と考えられる阿弥陀堂が現存すること及び
絵図などからみて、法界寺境内の中枢部については、
その創建時から現在に至るまで大規模な地形改変を受けずに今日に
至っている可能性が高く、京都の寺院史を研究する上で貴重な史跡です。
平成11年4月1日指定 京都市(説明板より)


南都焼討の大将軍平重衡は、平家滅亡後に木津川畔で処刑され、
その首は奈良坂に架けられましたが、重源の計らいで
重衡の妻大納言典侍(だいなごんのてんじ=大納言佐)のもとに
首はもどり、骸とともに日野において火葬し、
そこに灰塚を築き、骨を高野山に納めることができました。
そして近くの法界寺で追善供養を行いました。
さらに重源は仏教者として慈悲深い対応を見せ、大仏再建のために
重衡が所有していた金銀銅製品を寄進することを許しています。

『東大持続要録 造仏篇』には、「かの妻室、重衡の所持物の内、
金銅具を持って奉らしむ。上人(重源)慈悲を垂れ、
かの銀銅を以って大像を鋳加え奉らんと欲するの処、
炉忽ち破裂せしむ。」
とあり、
東大寺再建の大仏を鋳る時、平重衡の妻は重衡の所持物の内
金銅具を奉納したが、重衡の罪は大仏も許さず
炉が破裂してしまった。と記されています。

★重源と重衡の妻、その姉藤原成子との関係
俊乗坊重源(1121~1206)は、源平の争乱で焼失した
東大寺再建のための勧進上人に抜擢された僧です。
始め醍醐寺で出家し上醍醐寺に居住して密教の
修行に励んだ後、法然から浄土教を学び諸国を遊行し、
三度入宋したといわれています。(入宋を疑う説もあります)

重衡が斬首されたのち、妻の大納言典侍は重源に請うて
その首を貰い受け供養しましたが、彼女が
重源に
頼むことができたのは、姉の成子が重源と親しかったからです。
成子の夫参議藤原成頼は、重源が高野山に建てた専修往生院という
新別所の二十四蓮社友のひとりとなり、高野宰相入道と呼ばれていました。
重源が東大寺へ行って不在の間は、24人の念仏衆が2時間2人ずつで
不断念仏がおこなっていたことが、『発心集』からうかがえます。
重源は高野山で「蓮社(れんしゃ)」という
念仏集団を結成していたのです。

成頼(なりより)の高野隠棲はよほど評判だったらしく、
『平家物語・巻3・関白流罪』は、
平家の悪逆無道に反抗して
出家するものが多かった中に成頼もいたと記していますが、
史実は承安(じょうあん)4年(1174)正月、兄の葉室光頼(みつより)の
一周忌に出家し、高野山に入ったとされています。

文治2年(1186)1月、重源の意向で東大寺再建の成功を祈って
重源ら60名の東大寺の僧が伊勢神宮に赴き、大般若経の
転読供養が行われた時、その一部は平頼盛が料紙を提供し、
一部は成子が1セット(600巻)を提供しました。
ちなみに、頼盛は文治元年(1185)5月、東大寺で出家して
重蓮と名のり、そして翌2年6月に55歳で亡くなりました。

伊勢参宮はさらに建久4年・建久6年の三度に亘り実施さ
れて
大般若経が納入され、建久6年には、貞慶が導師を勤めたという。

貞慶は鎌倉時代前期の法相宗の学僧です。祖父は後白河上皇の
近臣として活躍した藤原南家の藤原通憲(信西)で、
藤原貞憲を父に持ち、興福寺に入って11歳で出家しました。
建仁3年(1203)重源が私財を投じて造立したという
東大寺俊乗堂の阿弥陀如来立像の導師も貞慶
でした。

藤原成子は六条帝の乳母を務め、帝の崩御の9年後、
文治元年(1185)帝の供養を下醍醐で営んだ時、
その導師を勤めたのが仏教界大物の権大僧都
醍醐寺座主勝賢(しょうけん =信西の息)でした。

後白河天皇の乳母子の勝賢は重源上人と親しく、
建久3年(1192)に東大寺別当に就任、以後東大寺復興のため
重源を支え続けた僧侶で、上人に請われ、東大寺の大仏に
舎利を籠めるため、上醍醐で百ケ日の供養を行っています。
『アクセス』
「法界寺」京都府京都市伏見区日野西大道町19
京都市営地下鉄東西線 「石田駅」 徒歩約20分
平重衡の墓のある公園から400mあまり南へ
京阪宇治線・JR奈良線「六地蔵駅」から京阪バス日野薬師下車すぐ。
『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会(洛南)」駿々堂、昭和61年 
竹村俊則「今昔都名所図会(洛南)」京都書院、1992年
 「大勧進重源」奈良国立博物館、平成18年 
中尾 堯編「旅の勧進僧重源」吉川弘文館、平成16年 
角田文衞「平家後抄 落日後の平家(上)」
(第1章三位中将重衡の場合)講談社学術文庫、平成12年
「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
五来重「増補高野聖」角川選書、昭和50年
「平家物語を読む」講師:上横手雅敬氏(2011・2・14テキスト)

 



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京都市伏見区醍醐外山街道町の住宅団地の公園には、
南都攻撃の総大将となった平重衡(1157~85)の墓があります。
小さな五輪塔を寄せ集めたような塚で、傍には
「従三位平重衡卿墓」としるした石標が建っています。

一ノ谷合戦で捕虜となった重衡は、鎌倉に送られ頼朝に厚遇されましたが、
南都の衆徒の強い要求によって木津川の河原で処刑され、奈良坂に首をさらされました。
遺骸は北の方に引取られ、日野で荼毘にふされた後、
火葬地に塚を築き、骨は高野山の奥の院へ納められたという。



公園近くの角に建つ「従三位 平重衡卿墓」の石碑。

墓標は団地に囲まれた小さな公園の一画にあります。
『山城名勝志17』に、「平重衡卿の墓法界寺の北五町許り
茶園の内に在り」とあり、かつて辺りは茶畑だったようです。
 


「平重衡塚
 この地は、平重衡の北ノ方大納言佐局が、平家没落後、
身をよせていたところと伝えられる。
一ノ谷の合戦で捕らえられ、鎌倉に送られた平重衡は、南都大衆の訴えによって
前年の南都焼打の責を問われ、文治元年(1185)鎌倉から奈良に引渡されたが、
途中、この地に立ち寄って大納言佐局と別れを惜しんだ。
その情景は、付近の合場川・琴弾山の名とともに、平家物語に美しく語られている。
木津河原において首をはねられた重衡の遺骸は、すぐさま引取られ、
火葬後、この地に埋葬されたといわれる。 京都市」(説明板より)

奈良へ護送される途中の日野には、北の方大納言佐局(すけのつぼね)

住んでいたので、重衡は守護の武士に頼んで
北の方との最後の別れをしています。
2人は離れ離れになってからこれまでのことを互いに語り、
重衡は自分の髪の毛を食い切って渡し、北の方は重衡が
よれよれのものを着ていたので、新しい浄衣に着替えさせ、
形見に何か書いてほしいと硯をさし出します。

 ♪せきかねて涙のかかる唐衣 のちの形見にぬぎぞかへぬる
(悲しみを抑えられずに涙で濡れてしまった唐衣を、
のちの形見に脱ぎかえておきます。)
と重衡は泣く泣く和歌を一首したためました。

北の方は返歌に
  ♪脱ぎかふる衣も今は何かせむ 今日を限りの形見と思へば
(脱ぎ変えて残してくれた着物も、今となっては何の慰めになりましょう。
今日限りの死出の旅路の形見と思えば。)

重衡は袖にすがって引き止める北の方を振り切り
「生きのびることが許されない身、また来世でお会いしましょう。
ひとつの蓮の上に生まれ変われるようにと祈ってください。
さぁ日も傾きました。武士たちが待っております。」と死地へと赴いたのでした。

後世、『平家物語・巻12・重衡の最後』に見える哀話から、
二人をいたむ伝説が生まれました。
付近を流れる川を合場川「阿以波(あいば)川」といい、
南都に送られる重衡と北の方大納言佐局が別れを惜しんだ場所といわれ、
「琴弾山(合場川の東の小山)」は北の方が平重衡と別れる際、
この山に上って琴を弾き、別離の情を
その音に託したところと伝えています。(『山州名跡誌』)

 牡丹の花にたとえられる平重衡(清盛の5男)は明るくて社交的、宮中でも
人気の好青年でした。一ノ谷合戦で生田の森の副将軍を務めた重衡が敗走する途中に
須磨で生捕りにされたのは、平氏滅亡の1年前の寿永3年(1184)のことです。
都で引き回された後、鎌倉に送られ頼朝と対面した重衡は、
東大寺・興福寺を焼く意図はなかったこと、しかしその罪は負うつもりであるといい、
「情けがあるなら一刻も早く我が首を刎ねてほしい」とだけ述べ
それ以上はいっさいの申し開きをしませんでした。
頼朝はその凛とした態度に感じ入って助命を考え丁重にもてなしました。

平家滅亡後、南都焼討の所業を憎む奈良の衆徒たちからの強引な
引き渡しの要求に結局、頼朝はこれに応じて奈良に下しました。
都に近づいて、大津から逢坂の関を越え、山科を経て醍醐路を通過すると、
日野(京都市伏見区日野)にさしかかります。

重衡の妻・藤原輔子( ほし=大納言藤原邦綱の次女)は、
安徳天皇の乳母をつとめ、
従三位典侍・大納言典侍・大納言佐などと称しました。
壇ノ浦合戦で安徳天皇のあとを追い入水しようとしたところを
捕らわれて京に連れ戻され、日野にいる姉の
大夫三位(邦綱の長女成子)のもとに身を寄せていました。

姉の成子は六条天皇(安元2年=1176年崩御)の乳母で、夫の
藤原(葉室)成頼は、承安4年(1174)に出家し高野山に入りました。
成子は夫の出家、六条天皇の退位(5歳)、崩御(13歳)の
後に尼となり、醍醐と法界寺の境の日野に住んでいました。

『醍醐雑事記・巻10』によると、
邦綱は醍醐寺と法界寺(伏見区日野)との境にお堂を建てるための
敷地を購入しています。このことから邦綱がこの地に建てた
お堂に成子が住んでいたのではないかと思われます。

姉妹の父の藤原邦綱は、諸国の国司を歴任して財力を蓄えた
人物として知られています。財力を基盤に平氏と結びつきを強め、
娘たちが六条・高倉(邦子)・安徳天皇の乳母を務め、権勢をふるいました。

治承4年(1180)11月、清盛が反平氏の拠点となった南都を抑えるために
重衡に命じて攻撃させた時、重衡を総大将とする平家軍は、邦綱の山荘
若松亭(現、京都市小松谷正林寺東側の清閑寺池田町)に集合しています。

若松亭(東山亭とも)の苑池・若松池の一部が江戸中期まで
残っていましたが、今は埋没して跡形もありません。
この地を清閑寺池田町と呼んでいるのは、若松池によるものと思われ、
山荘はそうとう広かったようです。
平重衡とらわれの松跡    
平重衡終焉の地(安福寺・不成柿・首洗池) 
平重衡南都焼討ち(般若寺・奈良坂・東大寺・興福寺)   
般若寺の平重衡供養塔・藤原頼長供養塔  
『アクセス』
「平重衡の墓」京都市伏見区醍醐外山街道町15-10
京阪バス「合場バス停」下車徒歩約7分
(バスの本数が少ないのでご注意下さい。)
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語(下巻2)」角川書店、昭和52年 
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年 
 斎藤幸雄「木津川歴史散歩」かもがわ選書6、1993年
 武村俊則「昭和京都名所図会(洛南)」駿々堂、昭和61年
武村俊則「昭和京都名所図会(洛東上)」駿々堂、昭和55年 
「京都市の地名」平凡社、1987年 
「平家物語を読む」講師:上横手雅敬氏
(2011・1・17 2011・2・14テキスト)

 

 

 

 

 



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平氏一門の館は六波羅にありますが、清盛は西八条殿(どの)も営んでいました。
六波羅は東国や伊勢平氏の本拠地伊勢・伊賀にアクセスするのには
便利でしたが、京都政界を掌握するには不十分でした。
そこで比較的六波羅に近い、東寺の北側付近に
西八条第(てい)をつくりました。西八条は七条町
(現、京都駅北側一帯)に近く、西国へ通じる交通の要衝にあります。
ちなみに一ノ谷合戦出陣の際には、義経が摂津国の
軍勢を七条口(丹波口)に集結させています。

清盛と西八条の関係は、承安3年(1173)に清盛の妻
時子が持仏堂を建立したことに始まります。

全盛期には六町(約2万6千坪)という広大なもので、
現在の梅小路公園の南部分とJRの線路部分に位置しています。
清盛が内大臣になった頃から、整備・拡張がすすめられたようで、
ひと続きではなく一町(約109m)ごとに独立した邸宅が集まっていました。
清盛は太政大臣を辞任してから、福原(神戸市)に居を移しましたが、
上京の際にはこの邸宅を使用しています。

『平家物語図典』(左京四条以南略図より一部転載し、文字入れしました。)

清盛の西八条第の一町おいた東、八条二坊五町には、小松殿とよばれた
清盛の嫡男・
重盛(1138~79)邸、西八条第の南隣には重衡邸、
八条大路沿いには頼盛邸、宗盛邸が存在したことが記録に残っています。

不動産開発に伴い、重盛邸があった平安京の左京八条二坊五町
(南区猪熊通八条上ル戒光寺町)の一部で実施された
発掘調査で庭園の池跡が発見されました。


JR京都駅前



八条通リを西へ進みます。

戒光寺公園前を通り過ぎてさらに西へ

猪熊通りを北へ

調査地 南区猪熊通八条上ル戒光寺町

平家滅亡後、重盛邸跡には宋から帰国した曇照(どんしょう)律師が
戒光寺(かいこうじ)を建てましたが、応仁の乱に被災後、市内を転々として
江戸時代に現在の泉涌寺の山内に移され塔頭となりました。
現在も戒光寺町としてその名を残しています。

調査地付近の猪熊通りから南を眺む

小松殿池跡出土のニュースを伝える京都新聞

平清盛嫡男・重盛の邸宅「小松殿」の一部か、南区で発掘調査 庭園の池跡
平重盛の邸宅「小松殿」の推定地で見つかった池跡(京都市南区)
 平清盛の嫡男・重盛(1138~79年)が平安時代末期に構えた邸宅
「小松殿」の一部とみられる庭園の池跡が、京都市南区猪熊通八条上ルの
発掘調査で24日までに見つかった。担当した民間調査会社は、権勢を拡大した
平氏が平安京郊外の軍事拠点・六波羅に加え、平安京内でも
政治的な拠点を形成したことを裏付ける遺構としている。

 平氏は平治の乱(1159年)で勝利し、軍事貴族として確固とした地位を獲得。
清盛は現在の梅小路公園(下京区)一帯に「西八条第」を築いた。
文献では近くに一門の邸宅群もあったとされ、今回調査した
平安京左京八条二坊五町が小松殿の推定地とされる。不動産開発に伴い、
文化財サービス(伏見区)が21日まで約225平方メートルを調べていた。

 池跡は幅が東西12メートル、南北11メートルで、水深は最大0・3メートル。
池の東側に石などを用いて盛り土し、岸や陸部に向かうような傾斜があった。
一帯は平安後期ごろから急速に開発が盛んになるが、それまでは
鴨川の氾濫が及ぶエリアで、湿地帯に手を加えて池にしていたとみられる。
 池跡を覆う土からは平安末期から鎌倉時代初期の瓦や土器が出土。
この時期に集中し、同社は鎌倉初期ごろに一気に埋められたとみる。
池底に近い粘土層などに松ぼっくりが多く含まれることから
クロマツが近くに植えられていたと分析する。 同社の大西晃靖さんは
「多くの松ぼっくりが池底に堆積し、中にはネズミがかじった痕跡もあった。
一時の栄華に終わった平氏の没落を受け、
邸宅の庭や池も放置されていたようだ」と説明する。
 
重盛は平氏軍政の中心を担って清盛から棟梁(とうりょう)を継ぎ、
平家物語では文武に優れた温和な人物として描かれた。
だが79年に父より早く死去し一門の衰亡にも影響した。
源氏挙兵を受けた都落ち(1183年)で西八条第一帯は焼き払われたとされる。

 龍谷大の國下多美樹教授(考古学)は「小松殿は六波羅にある
同名の邸宅が知られるが本格調査はされておらず、別の場所とはいえ
初めて考古的に存在を明らかにできた。貴族邸宅の造りとすれば、
今回は池の南西端が検出されたとみられ、
北東側に建物跡があったと想定される」と話している。(日山正紀)
西八条第跡(西八条第跡の石碑)
  アクセス』
「平重盛邸跡」京都市南区猪熊通八条上ル戒光寺町
京都駅八条口下車徒歩約15分。
『参考資料』
「京都新聞朝刊」2019年6月25日
 京都市埋蔵文化財研究所監修「平清盛 院政と京の変革」ユニプラン、2012年 
高橋昌明編「別冊太陽平清盛 王朝への挑戦」平凡社、2011年 「平家物語図典」小学館、2010年
「京都市の地名」平凡社、1987年 竹村俊則「昭和京都名所図会(洛東上)」駿々堂、昭和55年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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六波羅邸堀跡出土のニュースがテレビや新聞などで報道されました。
遺構が見つかったのは、清水寺から1キロほど西方にある
京都市東山区の六波羅と呼ばれる地域で、ホテル建設に伴い民間の発掘調査会社が
昨年12月から調査を進め、平家一門の屋敷の一部とみられる堀の跡などが発見されました。



産経新聞2019年5月17日(金)朝刊
武家屋敷の防御用の堀跡が出土したと、民間調査会社「文化財サービス」が16日に発表した。
平家が拠点として整備した「六波羅(ろくはら)」と呼ばれる一帯にあり、
六波羅から平家に関連する遺構が見つかったのは初めてという。
現場は世界遺産・清水寺から西に約1キロの地点で、堀跡は幅3メートル、
深さ約1・3メートルの逆台形で東西約15メートルにわたる。
堀の南側を沿ったかたちで堤防状の土塁跡も出土。
堀の西側の約5メートルが土で埋められており、倒壊防止用の石垣が組まれていた。

石の積み方はほぼ同時期の白河天皇陵の石垣に類似しているという。
出土した土器や瓦などから、堀は平清盛の祖父、正盛が邸宅を構えるなど
六波羅に拠点を置いた12世紀前半に整備されたと推定される。
当時は世情が不安定で、平家一門を守る目的だったとみられる。
その後、清盛が政治の実権を握ったことで戦乱が治まり、
堀は13世紀前半に鎌倉幕府が朝廷の監視や西国の支配を目的に
「六波羅探題(たんだい)」を設けたころにはすべて埋め戻された。
 中井均・滋賀県立大学教授(日本考古学)は「堀は区画を示す考え方もあり、
武家屋敷を方形に囲む後世の手法につながった可能性もある」と話している。
現地説明会は19日午前10時から正午まで

六波羅から出土した平家が防御用に築いたとみられる堀と清盛時代に築かれた石垣。
堀跡の幅は3メートル深さ約1・3メートルですが、
深くなるほど狭くなっています。

5月19日に行われた現地説明会には参加できませんでしたが、
先日調査地付近を訪ねてきました。
調査地:東山区五条橋東4丁目450-1他(京都市役所文化財保護課新田氏に確認)



右手に見えるのは山科方面へ続く高架橋

五条通リに面しています。

平安京における平氏の拠点は、六波羅と西八条第(殿)に築かれました。

六波羅の地は、渋谷越(しぶたにごえ)から山科を経て東国や
伊勢平氏の本拠である伊勢・伊賀方面へ通じる交通・軍事の要地でした。
西八条第(現、梅小路公園南半部からJRの線路の位置)も、
西国への出入口である七条町(現、京都駅北側一帯)に接していました。
一ノ谷合戦の際に義経が摂津国の軍勢を七条口(丹波口)に集結させて出陣していることから、
西八条第も権門勢力の拠点にふさわしい地であったことがうかがえます。

六波羅・法住寺殿復元図(山田邦和作成の原図による)
『別冊太陽平清盛』より転載。


六波羅は平安京の葬送の地であった鳥辺野(とりべの)の入口に位置し、
五条大路末が清水寺へ通じていたこともあり信仰の場として発展し、
六波羅蜜寺・珍皇寺(ちんのうじ、ちんこうじ)・念仏寺などの寺院が立ち並び、
冥界への入口といわれました。

六波羅密寺旧境内の調査で、平安時代後期の瓦などが出土していますが、
六波羅での発掘調査は少なく、建物などの跡は見つかっていませんでした。

六波羅と平氏の関りは、天仁2年(1110)に清盛の祖父の正盛が
珍皇寺付近に邸宅を構え、仏堂(常光院)を建立したことに始まり、
一門の邸宅の所在は現存する町名から推定することができます。
多門町には、六波羅邸の東に向かって開かれた惣門があり、
門脇町には平教盛(のりもり)邸の門脇殿があったとされます。
三盛町(旧泉殿町)には、敷地内に常光院を取り込む形で清盛の泉殿がありました。
南方の池殿町には、清盛の継母池禅尼の邸宅池殿があり、
息子の池大納言頼盛に引き継がれました。
池殿は泉殿より規模が大きく、清盛の娘徳子が安徳天皇を出産したのもこの邸宅でした。
小松殿とよばれた重盛の邸は、小松谷の入口(現、東山区常磐町・馬町交差点辺)から
東にかけてあり、一門の邸宅の中では後白河院の法住寺殿に一番近いところにありました。
玉をみがき、金銀をちりばめて建設され、50棟もの建物があったという西八条第、
一族郎党の屋敷が5200余宇にもおよぶ平家の一大集落であった六波羅、
寿永2年(1183)7月の平氏都落ちに際して、どちらもすべて焼失してしまいました。
『参考資料』
京都市埋蔵文化財研究所監修「平清盛 院政と京の変革」ユニプラン、2012年
高橋昌明編「別冊太陽平清盛」平凡社 、2011年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 

 

 

 



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二条城の南に位置する神泉苑(国史跡)には、雨乞いの儀式で舞を奉納していた
静御前を義経が見初めたという伝説が残っています。

「後白河法皇は神泉苑の池の畔で、白拍子に雨乞いの舞を舞わせました。
その時、静は水干太刀烏帽子の舞姿を義経に見初められ六条堀川の
屋敷に召されたという。」(『義経記・巻6・静の鎌倉くだり』)

静が義経の側室となったきっかけについて、五味文彦氏は
次のように述べておられます。「白拍子の磯禅師(いそのぜんじ)は
白拍子を育成し、派遣する京のセンターのような仕事をしており、
その娘である静は、センターの一員でもあることから義経に召され、やがて
妾(しょう)になったものと考えられる。」(『物語の舞台を歩く義経記』)

『徒然草』225段には、楽人の多久資(おおのひさすけ)から聞いたという
白拍子舞の起源が語られています。「藤原通憲(信西)がつくった舞を
舞の名手磯禅師に教えて舞わせた。白装束に鍔(つば)のない短刀を腰に差し、
黒烏帽子という姿で演じたので男舞と呼んだ。娘の静が母の舞を
引き継いだのだ。これが白拍子の始まりである。
後鳥羽院作の台本もあり、それを亀菊という芸妓に舞わせた。」
信西は後白河天皇の腹心として保元の乱で活躍しましたが、
平治元年(1189)の平治の乱で処刑されています。
亀菊(伊賀局)は後鳥羽院に寵愛された舞女で、
この寵愛が承久の乱の引き金になったとされ、乱後、
亀菊は隠岐の島に配流された後鳥羽院につき従っています。

神泉苑は平安京造営のとき、湖沼の一部を利用して
禁苑(きんえん)にしたところで、つねに池の湧水が涸れることが
なかったところからこの名がつけられました。
禁苑とは天皇御遊の庭園のことで、桓武天皇がはじめて行幸して以来、
歴代天皇の多くがここに行幸し華やかな宴が開かれました。

その面積は約13万㎡もあり、北は二条通より南は三条通まで、
東は大宮通より西は壬生大路に面した南北四町(400メートル)、
東西二町(200メートル)にわたる広大なものでしたが、
今は4400㎡ほどしかありません。

平安末期以降衰退し、さらに南北朝の戦乱や応仁の乱で荒廃し、
徳川家康が二条城を築城の際、多くの地を割き取ったので、
往時の面影はまったく見られなくなり、今は真言宗東寺派の寺院として
命脈を保っています。これはむかし弘法大師が
雨乞い祈願をしたという縁によるものです。
また、疫病流行の原因を怨霊(おんりょう)によるものと考え、その霊を
鎮めるために行われたのが現在の祇園祭の発祥となる神泉苑御霊会です。

平成21年5月3日の夕方静御前の舞が奉納されました。












境内図は竹村俊則画(『昭和京都名所図会』より転載、一部文字入れしました。



朱色の法成橋と法成池とのコントラストが美しい神泉苑の桜

御池通に面した南側から入ると、正面に法成池(放生池)が広がり、
右手に空海が雨乞いの際に勧請した善女龍王を祀る善女龍王社と恵方社があります。

長元年(824)の大干魃の時、東寺の弘法大師が祈雨の修法(ずほう)を
神泉苑で行って以来、次第に祈雨の霊場となり、
善女龍王の棲家になったと伝えられています。



毎年5月初めの神泉苑祭には、水の神である善女龍王社に
神の依代(よりしろ)として鉾が立てられています。

法成池の周囲には、藤やツツジなどの四季折々の花が見られ、
参拝者を楽しませてくれます。

弁財天社
その右奥にある八剱(やつるぎ)大明神社










 

法成池と龍頭船(りゅうとうせん)
平安時代に貴族が池に浮かべ、詩歌管絃(しいかかんげん)の遊びに
興じた龍頭鷁首(りゅうとうげきす)の船が再現されています。

蕪村の句碑 ♪名月や神泉苑の魚おどる 

静御前と鎌倉(静の舞・静桜)  
『アクセス』

「神泉苑」京都市中京区御池通神泉苑東入門前町167 TEL  (075)821-1466
神泉苑祭 拝観料……境内自由 
 庭園拝観時間:8:30~20:00  寺務所(授与所・御朱印):9:00~17:00

 ・阪急四条大宮駅より徒歩10分  ・JR二条駅より徒歩10分
  ・JR京都駅→地下鉄→地下鉄東西線「二条城前駅」下車徒歩2分
  ・市バス15 「神泉苑前」 からすぐ ・市バス9、50 「堀川御池」 から徒歩5分

『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会(洛中)」駿々堂、1984年 
「京都府の歴史散歩(上)」山川出版社、1995年 「徒然草」岩波書店、2001年 
五味文彦「物語の舞台を歩く 義経記」山川出版社、2005年 
高木卓訳「義経記」河出書房、2004年


 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 



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若狭街道(国道367号線)を北上すると、大原の入口にあたる
花尻(はなじり)橋の東北隅に花尻の森が広がっています。


花尻橋の手前右手に大原名産の柴漬を売る
土井志ば漬本舗の看板が見えます。

花尻の森は高野川に架かる花尻橋のたもとにあります。

「大原村社 江文神社御旅所」と刻まれています。
 
花尻の森には、猿多彦神を祀った小野源太夫社と称する小社があり、
江文(えふみ)神社の御旅所となっています。
昔からのいい伝えによると、ここは源頼朝が寂光院に隠棲した
建礼門院の動静を見張らせた松田源太夫の屋敷址という。
また一説にむかし大原村井出の大淵(おおぶち)という池に
悪蛇がいて、時々村に現れて人を害するので、村人が退治し、
その蛇の尾を埋めたところといい、頭は寂光院近くの
草生村(草生町)のおつうが森に埋めたといわれています。
(『昭和京都名所図会』)

 現地説明板より「大原の昔ばなし
 むかし昔、大原の里におつうという娘が住んでおりました。
ある日上洛の若狭の殿さまの目にふれ、おつうは玉の輿、
殿さまの国元に召されたのです。それはそれは夢ごこちの
毎日を過ごしていたのですが、やがておつうが病にかかると
殿さまの心も変って、おつうは戻されてしまったのです。
  おつうは悲しみのあまり大原川の女郎淵に身を投じました。
するとたちまち、その美しい姿は大蛇に変わりました。
そしてある日、都入りする殿さまの行列が大原の
花尻橋を通りかかったところを襲ったのです。
あばれ狂う大蛇は家来によって一刀のもとに切り捨てられましたが、
その夜から激しい雷雨や悲鳴に見舞われました。
恐れおののいた里人たちは、大蛇の頭をおつうが森に埋め、
尻尾を花尻の森に埋めて霊を鎮めました。
今でも、大原の里にかかる朝もやは大蛇の姿に棚引いていますし、
花尻の森ではおつうの鎮魂の行事が残っています。」

森には椿が多く植えられており、3月下旬〜4月上旬には
落椿(おちつばき)を愛でる人が訪れます。

 京都から大原へは、高野川を遡って八瀬・大原に出る若狭街道と
賀茂川沿いに北上し、鞍馬の手前、市原で右にまわって
静原・江文峠を通り大原へ入る鞍馬道とふたつのルートがあります。

新潮日本古典集成(巻12)371㌻頭注より
転載し、一部文字入れしました。

壇ノ浦合戦から1年2ヶ月後、建礼門院が寂光院に入って
7ヶ月目の文治2年(1186)4月、
後白河法皇はまだ夜が明けきらぬうちに出発し、
建礼門院の庵をひそかに訪問しています。
『平家物語大原御幸』によると、
御幸の経路は迂回路の鞍馬道となっています。
後白河法皇は頼朝を憚ったのでしょうか。
ちなみに下鴨静原大原線は、
かつては大原御幸の道とよばれていました。
『アクセス』
「花尻の森」京都市左京区大原戸寺町 
京都バス「四条河原町」からバス停「花尻橋」まで約50
 花尻橋のすぐ
『参考資料』
武村俊則「昭和京都名所図会(洛北)」駿々堂、1989
 「京都府の歴史散歩(中)」山川出版社、2003
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下2)」角川書店、昭和52
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15

 



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平家一門の都落ち直前、資盛(重盛の次男)は、
別れを惜しんで建礼門院右京大夫の許をひそかに訪れました。
「万事につけこれからは死んだものとお思いください。
あなたとは長いつきあいなので、後世を弔ってほしい。」と言い残し、
都を捨て西国へと落ちていったのは寿永2年(1183)7月のことです。

それからの右京大夫は、平家の人々の悲報を聞くにつけ
資盛の安否を心配していましたが、資盛から便りが来ないことを、
この世に未練を残さないようにしているのだと思い、
手紙を書き送りたい気持ちをおさえていました。

平家は一旦九州の大宰府へ落ち延び、しばらく状況をうかがっていましたが、
九州の豪族たちが次々と背き、かつて小松家の家人であった
豊後の緒方惟義(これよし)までもが攻め寄せると知り、
資盛は500騎の軍勢を率いて説得にあたりました。
惟義は「昔は昔、今は今」と言い放ち資盛を撃退したので、
平家は大宰府を捨てて山鹿秀遠が籠る遠賀川河口の山鹿城に辿りつきました。
しかしそこにも敵が押し寄せると聞き、豊前柳ヶ浦
(現、大分県宇佐市)から舟に乗り海上に漂いました。

その時、資盛の弟清経(重盛の三男)は行く末を悲観し、
横笛を吹き念仏を唱え海に身を投げ、
翌寿永3年(1184)には、兄の維盛が熊野で入水しています。
これを知った右京大夫は、資盛を心配して手紙を書き、
兄弟の悲報にふれて ♪思ふことを 思ひやるにぞ 思ひ砕く 
思ひに添へて いとど悲しき
(あなたのお気持ちを、想像するにつけ心が砕けるようです。
察すれば察するほどいっそう悲しくなります。)
などの和歌を贈りました。

資盛は手紙を嬉しく受け取ったと礼を述べ、
今はすべてをあきらめ、今日明日の命と覚悟しています。
として次の歌を書き添えました。

♪あるほどが あるにもあらぬ うちになほ 
 かく憂きことを 見るぞ悲しき
(生きていても、生きていなくても同じであるような
たよりない生活であっても、
このような兄弟たちの
情けない事を見るのは本当に悲しいことであるよ。)

資盛からの文を受け取ってほどなく平家は壇ノ浦で滅亡し、
愛する資盛までも失ったことを知った右京大夫は、
呆然としてただ涙にくれるだけでした。
折にふれ資盛のことを思いだしては嘆き悲しみ、
ため息をついては涙し、資盛が右京大夫に託した最後の言葉を守り、
菩提を弔っていました。いつまでも悲しいのは、
住んでいる場所のせいなのかと、都を逃れ琵琶湖の畔の坂本に
隠棲しましたが、ここも良くなかったらしく、やがて戻り
兄の尊円(比叡山延暦寺の僧)の許に身を寄せていました。
建久7年(1196)ごろ、知人の勧めで後鳥羽天皇付きの女房として
再出仕(42歳?)しましたが、高倉天皇の中宮建礼門院に
仕えた頃のような感慨はありませんでした。
初めて宮仕えした頃の平家は栄華を極め、一族で高位高官を独占し、
清盛の娘たちはみな権門勢家に嫁ぎ、
宮中はまぶしいほど美しく、輝くばかりでした。
17、8歳の右京大夫にとって、胸ときめく日々でした。

その後、建礼門院が亡くなり、後鳥羽院は承久の乱に敗れ
隠岐に流されてしまいました。
『新勅撰和歌集』の選者となった藤原定家は
「建礼門院に仕えた時の女房名か、後鳥羽院に仕えてからの名か、
どちらで撰集に載せましょうか。」と右京大夫に尋ねてきました。

♪ことの葉の もし世に散らば しのばしき
 昔の名こそ とめまほしけれ

(私のような者の歌でも、もし世に広がるのでしたら、
忘れがたい昔の名前こそ、それに書き残していただきとう存じます。)
「それなら昔の名を後の世まで残しましょう。」と
定家は答えてくれたという。
この時、彼女は76歳になっていました。
そこで右京大夫は『建礼門院右京大夫集』を終えています。
後年、後鳥羽院の宮中に再度出仕し20年以上使っていた女房名ではなく、
若いころ、数年でしたが用いていた時の忘れがたい名を選びました。

彼女の和歌は定家によって『新勅撰和歌集』に
二首選ばれたのをはじめとして、玉葉に九首、新千載に一首、
新拾遺に一首、新後拾遺に一首、新続古今に二首、
合計二十二首が勅撰集に載せられていますが、
これらの和歌はすべてこの家集から採られています。

境内図は寂光院HPよりお借りしました。
建礼門院に対する鎌倉方の監視の目もまだ厳しく、
大原の入口には監視所が置かれていた頃、
右京大夫は寂光院に女院を見舞っています。
昔の主といっても右京大夫が仕えていたのは僅か5、6年間です。
比叡山の麓にある大原は、今でも京都駅からバスで1時間はかかり、
当時は都からはるかに遠い場所と思われていました。
それを監視の目をくぐりぬけ、訪れる人とてない
奥山里の庵をあえて訪問したというのです。

京都バスの終点大原で下り、西に草生(くさお)川の
上流に向かって進むと寂光院への道です。

本堂

寂光院の傍らに庵を結んだ建礼門院の庵室跡に建つ石碑

汀の池の畔に文化5年(1808)3月建立
「阿波内侍、右京大夫、
大納言佐局、治部卿局古墳、是より三丁ばかり」と彫られた石標があります。
女院に仕えた女官たちの墓への道標です。

寂光院を右手に見て100mほど進むと左側に駒札が建っています。

草生川に架かる橋を渡り石段を上ると、
女官たちの墓が並んでいます。



阿波内侍は、語り物系の『平家物語』が藤原信西の娘としているのに対し
読み物系は信西の孫としています。
治部卿局(じぶきょうのつぼね)は、平知盛の室、
大納言佐局(だいなごんのすけのつぼね)は、
藤原邦綱の娘で平重衡の室です。
壇ノ浦から都に戻され、
日野にいた姉の許に忍び住んでいましたが、
やがて寂光院の女院に仕えました。
右京大夫(うきょうのだいぶ)は、平資盛の恋人です。
女院を慕う後世の人々がお傍に仕えた
彼女たちを供養したものと思われます。
建礼門院を監視する頼朝 花尻の森  
平資盛と建礼門院右京大夫(資盛の住吉詣) 
『アクセス』
「寂光院」京都市左京区大原草生町676 (午前9時~午後5時)
TEL.075-744-3341
京都駅前から17番(18番) 〔C3のりばから〕
京阪電車「出町柳駅」前から10番・16番・17番
市営地下鉄「国際会館駅」から19番
京都バス「大原」下車 徒歩15分
京都バス「寂光院道」下車 徒歩約20分
『参考資料』
新潮日本古典集成「建礼門院右京大夫集」新潮社、昭和54年
村井順「建礼門院右京大夫集評解」有精堂、昭和63年
日本古典文学大系「平安鎌倉私家集(建礼門院右京大夫集)」岩波書店、1979年
糸賀きみ江「建礼門院右京大夫集」講談社学術文庫、2016年

富倉徳次郎「平家物語全注釈(下2)」角川書店、昭和52年

 

 

 

 



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京の夏を彩る祇園祭は、千百年の伝統を持つ八坂神社の祭礼です。
山鉾巡行は、平成26年に7月17日の前祭(さきまつり)と7月24日の後祭(あとまつり)の
2度の巡行が49年ぶりに復活し、前祭は23基、後祭は10基の山鉾が巡行します。


後祭の中には、『平家物語』と縁の深い山が二基あります。
一つは六角通に建つ浄妙山、もう一つは蛸薬師通に建つ橋弁慶山です。
浄妙山は宇治川の橋合戦で、三井寺の僧兵一来法師(いちらいほうし)が
筒井浄妙の頭上を飛び越える様子が躍動感あふれる御神体(人形)であらわされ、
山鉾巡行においても人気を博しています。

橋弁慶山は謡曲『橋弁慶』を題材にして作られ、義経伝説の中でも
特によく知られている弁慶と牛若丸が五条橋で戦う姿をあらわしています

牛若丸と弁慶との出会いを描いた作品には『義経記』や
『弁慶物語』、『御伽草子』などがありますが、
それらには千本の太刀を集めるために辻斬りをしているのは弁慶で、
その弁慶を降参させるのが牛若丸となっています。

一方、謡曲『橋弁慶』では、牛若丸が辻斬りとして登場します。
比叡山の僧、武蔵坊弁慶が天神へ丑の刻詣に行こうとすると、
従者から五条橋辺で、化け物のような人斬りの少年が出没するので、
参詣を思いとどまるよう言われました。いったんは参詣を断念しましたが、
思いかえして長刀を担いで五条橋に向かいました。五条橋では、
牛若丸が明日は鞍馬山に帰るので辻斬りも今夜が最後と待ち構えていました。

そこに弁慶がやってきて斬り合いになりますが、人間とは思えない技を持つ
牛若丸に弁慶は歯が立たず、ついにうち負かされました。
そして牛若は身分を明かし、二人は主従の契りを結ぶのでした。
古くはこのように牛若丸が悪行をするという物語もあったようです。

後祭の山鉾は、7月18日頃の鉾建てから24日の山鉾巡行まで、
1週間ほど京の町に風雅で勇壮な姿を見せてくれます。

橋弁慶山会所  京都市中京区蛸薬師通室町東入ル橋弁慶町231 

橋弁慶山の会所には、山を飾る金色の擬宝珠(ぎぼし)をあしらった五条橋や前掛、
銅掛、
巡行時の写真パネルなどが展示してあります。



御神体の弁慶と牛若丸が置かれている会所の2階へは上れませんが、
蛸薬師通からその豪壮な姿を見上げることができます。

巡行に出発します。
後祭の巡行マップは、KYOTOdesignよりお借りしました。



 銅掛に描かれた「賀茂葵祭図」は、円山応挙の下絵です。

前掛と後掛は、中国明頃の雲龍波涛文(はとうもん)の綴錦です。
20数基ある山の中でも、橋弁慶山は古い形を残し、
山には神霊が宿る神籬(かみまがき)も真松(しんまつ)もありません。

牛若丸の人形は、天文6年(1537)平安大仏師康運(こううん)の銘、
弁慶の人形も同じ作者で、永禄6年(1563)の古い銘が刻まれていて貴重です。


武蔵坊弁慶は鎧姿に大長刀を斜めにかまえ、牛若丸は五条橋の
擬宝珠の上に前歯一枚の高下駄で立ち、
金具1本でこれを支えています。
片足を曲げ、右手には太刀を持ち、まさに今飛び跳ねたという
臨場感あふれる姿が表現されています。
昔は人間が「山」に乗って演技をしていたという。

宵山の期間中には、屏風祭(びょうぶまつり)が催され、
民家の家々の格子戸が取り外され、
家宝の屏風などが公開されて祭気分を盛り上げています。

六角館 (新町通六角下ル)では、『平家物語』の屏風を見ることができます。
極彩色の二双の屏風に描かれているのは、屋島合戦と鵯越の逆落しです。





牛若丸・弁慶像(五条大橋)  祇園祭浄妙山(筒井浄妙と一来法師)  
祇園祭保昌山(平井保昌と和泉式部)  
『参考資料』
「平成21年度祇園祭山鉾参観案内書」(財)祇園祭山鉾連合会
天野文雄「能楽名作選(下)」角川書店、2017年

 

 



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京都市の新京極三条を150㍍ほど西へ進むと、
三条通に面した北側の弁慶石町に弁慶石があります。

かつてこの付近には、天台宗延暦寺に属する京極寺があり、
境内には鎮守八幡宮が祀られていました。
伝説によると、弁慶は幼少の頃、京極寺に住んでいたといわれ、
弁慶石は弁慶を慕う後世の人が、伝承にちなんで作ったものと云われています。

当社の神輿は、延暦寺の僧兵の強訴に用いられていました。

治承元年(1177)4月13日、山門の僧兵たちは日吉の祭礼
(この年の山王祭は、15日に行われる予定でした。)を中止して、
比叡山の末社、祇園社(現、
八坂神社)・京極寺の神輿を賀茂河原で待ち受け、
力をあわせて神輿を振りたて、大内裏の北の門である
達智門(だっちもん)を目ざして押し寄せ、
朝廷に強訴したという。
この時、朝廷は源平両家に大内裏の四方を守るよう命令し、
平家は小松内大臣重盛が陽明門を固め、源氏には、
兵庫頭(ひょうごのかみ)頼政が大内裏を警護しています。
(『源平盛衰記・山門御輿振りの事』)

京極寺は応仁の乱の兵火で、上御霊神社の西に移り、
大正12年、烏丸通の拡張で、現在地(北区小山下総町28−7)へ移転しました。



高さ約1,5㍍の青みを帯びた石です。

弁慶石の由来は諸説あり、義経を守って奥州衣川で立往生の最期を遂げた
弁慶が愛した石とも、
弁慶が死後、この石になったとも伝えられます。
その石がある時、大声で三条京極に往かんと言い出しました。
その頃、高館地方では熱病が流行したので、
人々は弁慶の祟りと恐れ、
生まれ故郷の京都へ送ったという。なんとも荒唐無稽な話です。

そしてこの石は室町時代の享徳3年(1454)、京極寺に移されました。

また、鞍馬口にあった弁慶石が大洪水で当町へ流れ着いたとか、
この町に住んでいた東京の弁慶橋を造った大工の棟梁
弁慶仁左衛門の庭先にあったともいわれています。

弁慶石の説明プレートには、次のように記されています。
「この石は弁慶が熱愛したと謂はれ、弁慶は幼少の頃三条京極に住み、
死後この石は奥州高館の辺にありましたが 発声鳴動して
『三条京極に往かむ』といひ その在所には熱病が蔓延したので
土地の人が恐怖し 享徳三年(約五百年前)三条京極寺に移し以来当町を
弁慶町と称するに至りました。 その後、市内誓願寺方丈の庭に移りましたが
明治二十六年三月町内有志者により当町へ引取られ、昭和四年七月十二日
この場所に建立されたものであります。 
美秀書 平成八年四月 京都市中京区三条通リ弁慶石町」

武蔵坊弁慶
武蔵坊弁慶の出自、経歴には伝説的要素が大きく、あまりに超人的な
活躍ぶりに実在が疑われていますが、『吾妻鏡』や『平家物語』に
名前が記載されているので、実在したことは確かです。
『吾妻鏡』文治元年11月3日条は、大物浦から九州へ脱出を図った際、
義経に従った人々として源有綱、堀景光、佐藤忠信、伊勢義盛、
片岡広経、弁慶法師の名をあげています。

この時、暴風雨に襲われ200騎ほどあった義経の軍勢は散り散りとなり、
源有綱、堀弥太郎景光、武蔵坊弁慶と静御前の4人だけとなり、
この夜は天王寺辺に宿泊し、そこから義経主従は姿を消しました。
(『吾妻鏡』同年同月6日条)

『平家物語』では、一ノ谷合戦・屋島合戦の義経軍に弁慶の名が見えます。
丹波路から鵯越えに向かう途中、義経は道がよくわからず困り果てていましたが、
弁慶はこの辺りの地理に詳しい老猟師を連れてくるなど、
機転の利くところを見せています。義経はその息子鷲尾義久に
一ノ谷背後の切り立った崖に道案内させ、奇襲を成功させます。(『平家物語・巻9』)

屋島合戦では、弁慶の武勇伝は語られず義経の身辺を守る従者の一人として、
伊勢義盛、佐藤継信、佐藤忠信、源八広綱、江田源三、熊井太郎、
武蔵坊弁慶の順に記されているだけです。(『平家物語・巻11』)

源平合戦では、弁慶は目立った手柄を立てていませんが、平氏滅亡後、
頼朝が義経を討つために刺客として京都堀河の義経の宿所に遣わした土佐房昌俊を
捕えて義経のもとに連行し、その勇猛ぶりを発揮しています。
(延慶本『平家物語・巻12』)

室町時代に入ると、弁慶の人物像は大きく膨らまされて『義経記』
『弁慶物語』などに登場し、その伝承は日本各地に数多く残されています。
京都市内にも、弁慶石の他に弁慶ゆかりの石があります。
八瀬天満宮社の鳥居右手にある石を、比叡山で修行していた弁慶が
背比べをしたという「弁慶背くらべ石」と名づけ、大徳寺の南にある
長谷川米穀店(北区紫野下築山町59)の裏庭の大石は、
「弁慶腰掛石」と呼ばれています。
また、金閣寺から鷹峯に行く途中の山上に「弁慶岩」と呼ぶ岩があります。
牛若丸・弁慶像(五条大橋)  
『アクセス』
「弁慶石」京都市中京区三条通麩屋町(ふやちょう)東入ル弁慶石町

市バス「三条河原町」下車約7分、地下鉄「烏丸御池」下車約10分
『参考資料』
石田孝喜「京都史跡事典」新人物往来社、2001年 
京都新聞社編「京都伝説散歩」河出書房新社、昭和59年 
上横手雅敬編著「源義経流浪の勇者」文英堂、2004年 
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年 
冨倉徳次郎「平家物語全注釈(上)」角川書店、昭和62年

現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年 
「完訳源平盛衰記(1)」勉誠出版、2005年
「義経ハンドブック」京都新聞出版センター、2005年

 

 

 

 

 

 

 



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